禁断CLOSER#66 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -18-


 那桜が気づいたのは青南祭一日目の夜だった。

 その二十四時間まえ、前夜祭の夜は、いつもの習慣が(おろそ)かになるくらい拓斗のことに気を取られていたのだろう。それは自分にとって拓斗がどれだけ重要かという証明であり、那桜はそれがうれしいと感じる。
 無理やりの体内への侵入は引き裂かれるような痛みしかなかった。裸で拓斗の布団のなかに入ったのは那桜で、酷いと一方的に責めるには説得力がない。
 それに、伸しかかるように押しつけられたくちびるの下、心地よくなっていった。拓斗が無視するのではなくて繋がることを選んだから。くちびると躰の中心が交わったまま固まったように動くことはなく、それは余計に繋がっていることを意識させられた。
 出ていけ。そう云いながらも拓斗は躰を繋いでいた。
 そのとき、那桜のなかで大嫌いだった言葉が形を変えた。まるで反対の意味に聞こえたのだ。
 夜が明けないうちに起こされて、結局はセックスとしての行為はなくて躰を離した。まさに一体化したみたいで、離れるときはきつくて、離れてしまったあとは躰の一部を失ったように切なくなった。反面、快楽の果てに行かなくても満ち足りた気分でいられることを知って幸せだとも思えた。
 部屋に戻って二度寝した那桜は寝坊しそうになり、それを起こしにきた拓斗はまだ機嫌が直ったわけじゃなさそうだったけれど。
 それをわかるようになった那桜が拓斗を熟知できたのか、拓斗が曝してくれるようになったのか、どっちだろう。
 とにかく、そんなことを思う一日は、青南祭が始まったこともあって浮かれて終わるはずだった。

 それが――。

 寝るまえになってバッグから手帳を取りだしたとたん、那桜は違和を感じた。ハッと見た手帳のブックバンドは那桜の物なのに、手帳を触った感覚が違った。
 嫌な直感が走り、時間が静止したかのように手を止め、そして迷ったすえにバンドを解いた。
『いつものホテルで待ち合わせ』
 そのページは角が三角に折られていて開きやすくなっていた。いや、おそらくは開きやすくされていた。
 日付は八月二十七日日曜日、時間は十一時半。ひまわりの別荘に行った日だ。
『ご指名受けて都内まで戻った』
 和惟の言葉を思いだした。
 あれはやっぱり……果歩のこと?
『ユイと』
 付け加えられたように書いてある文字は、那桜がブログで和惟を称した名と一緒だ。
 “いつもの”なんて……。
 クリスマスプレゼントのスケジュール帳は、偶然にも同じ物を交換した年以来、翌年から郁美も加わって三人でおそろいにしている。これが郁美の物じゃないことは確かだ。
 すり替わったとしたらあの時しかない。
 なんのため? そう疑問に思うと同時に、自分の手帳はどうなったんだろうと慄いた。
 ほんの一カ月まえまでの手帳なら、ペンネームじゃないとしてもだれに見られようが問題なかった。
 けれど、あの公園に行った日、那桜は拓斗とのことを残しておきたいと思った。知られてはいけないことだからこそ、確かな時間として現実と繋いでいたかったから。
 いま、手帳には拓斗との関係も那桜の気持ちも赤裸に記されている。果歩にとってはペンネームだろうとなんの隠し立てにもならない。それだけは確かだ。

 *

 青南祭最終日の朝早く、和惟と惟均が有吏家を訪れた。
 拓斗が惟均を伴い、駅へと詩乃を送っていき、そこから岩手までは惟均が詩乃に付き添う。よって那桜を送るのは昨日までと同じく今日も和惟だ。
「那桜、出かける時間でしょう。和惟くん、来てるわよ」
 詩乃が階下から急かしてきた。
「すぐ行く!」
 返事をしたものの、そうするまでにはちょっとした時間を要した。青南祭という楽しみは半減して、那桜の気分はずっとぐずっている。机に置いた手帳をつかみながらため息を吐きだしてバッグに突っこんだ。
 階段をおりて廊下に出ると、声が漏れるリビングに入った。
 家を出るのは那桜たちのほうがさきで、いまから約一時間後に出る拓斗と惟均はソファに座っている。和惟はその脇に立ったままだ。

「拓兄、あとで来る?」
 背を向けて座った拓斗はちらりと那桜を振り返った。
「暇がない」
 そう返事した拓斗はまたまえに向き直ると、惟均と頭を突きあわせるようにしてテーブルに置いた書類らしきものを覗きこむ。
 これまで拓斗が青南祭に顔を出すことはない。いささかとはいえ自分が係わった舞台は気にならないのだろうかと思うけれど、隼斗がいないせいでそのぶん自分が動く必要があるとかなんとかいう。
 何かを懸念しているはずなのにそれは那桜に関することではなかったのか、拓斗は様子も見にこない。それにしては常にだれかを付き添わせるという矛盾ぶりだ。
 初日は行く先々で那桜の視界に和惟が入ってきた。昨日は平日だったせいか、和惟は午前中のみで午後からはまったく見かけていない。そのぶん隆大が気にかけていた。
 そもそもが隆大は、那桜が立矢と話そうとするのに邪魔ばかりしてくる。そのことを考えれば、ただ単に立矢と親しくするなというだけの警告だろうかとも思う。
 ともかく、那桜は少なからずうんざりしている。
「わたしの自由時間のときだけでいいから――」
「行けない」
「でも……」
 来てほしいの――とは続かなくて、二度目のにべもない返事に那桜は肩を落とした。怪訝に思ったらしい惟均が、うつむけていた頭を起こして首をひねってみせた。
「拓斗、一時間くらいいいじゃない」
 キッチンから詩乃が見かねたように口を挟んだ。となると拓斗はため息をつかざるを得ない。
「行けたら行く。それでいいだろ」
 行けても行かない。そう聞こえた。なぜか、那桜の不安と比例するように拓斗の不機嫌は酷くなっている。
「来なくていい。いってきます」
 子供っぽいとわかっていながらもこれまでとまったく主張を変えて当てこすると、那桜はくるりと方向転換した。

「那桜、留守の間、気をつけてね。いってらっしゃい」
 詩乃が二日間いないということはすっかり那桜の頭から抜け落ちていた。
「あ、お母さんもいってらっしゃい。お土産は――」
「“かもめの玉子”でしょう。わかってるわ。和惟くん、お願いね、拓斗のことも」
 詩乃は那桜をさえぎるように引き継ぎ、最後は和惟に呼びかけているものの、その実、拓斗に向けていた。
 詩乃らしい警告の仕方で、単純に受け取っても子供扱いととれる。
 当の拓斗は不快に感じたとしても無視したようだ。反応がない。
「承知しています。お気をつけて」
「ありがとう」
 和惟と詩乃の会話を背中に聞きながら、那桜は玄関に向かった。すぐに和惟が追いつき、那桜が靴を履き終わるより早く戸を開けて外に出た。

「どうした?」
 那桜が玄関を出て戸を閉めたとたん和惟が訊ねた。那桜は顔を見ることすらせず、問いかけを黙殺して歩きだした。
 空いたスペースに止めてあるのは一昨日と同じで和惟個人の車だ。それに仕事着のスーツではなく、シャツに薄手のセーター、そしてスリムな綿パンツという姿から、一日中、那桜に付き纏う気だとはっきりしている。
 和惟が気をまわすまえにと那桜は足早に車まで行き、自分で後部座席のドアを開けて乗りこんだ。
 和惟が何を思っているかなんて考えたくもなく、むっつりしてうつむいているうちに車は家を出た。
 黙っていればいるで、手帳の件がいろんなことに波及する。頭のなかはぐちゃぐちゃと苛立った。

 一日目も二日目もほぼ委員会の活動中心で、あまり自由に行動できないなか果歩とは会えていないのだ。翔流とか郁美は居所を訊いて訪ねてきてくれたけれど、果歩は来なかった。
 手帳の入れ替わりに気づいて、少し考えて、それからすぐ何も感づいていないふりをしてメールしていたにもかかわらず、だ。
『果歩の手帳、わたしのバッグに入ってた。いま気づいたんだよ。明日、どこかで待ちあわせしない?』
 そのメールから丸一日たっても音沙汰なしだ。
 不機嫌な拓斗には、取り返したときに読まれたくないというためらいがあって話せなかったけれど、拓斗は那桜の気持ちを知っているし、拓斗がいると思えば心強いし、と、一日かけてやっとそう踏んぎりをつけた。それなのに、今日、解決するのに立ち会ってくれたらという希望は、話すまえにそっぽを向かれた。
 拓斗には単純に怒って、和惟には裏切られた気分で、手帳のことは不安だ。堪らなくなる。
「嫌い」
 思わずつぶやいた。すると、那桜の声を耳ざとく聞きつけたらしい和惟が口を切った。
「拓斗には拓斗の判断がある」
 そんなの知らない。反抗心が飛びだしそうになり、那桜はとっさにくちびるを結んだ。拓斗だけじゃなくて和惟自身の云い訳にも聞こえた。
 堪えているうちに和惟は来賓用の駐車場に車を進め、当然のように一角を占領して止めた。
 青南祭開催中は招待客以外の駐車は禁止になっている。いまの果歩だったら、と、そう思ったとたん『有吏ってだけで特別視されて』と以前に詰られたことが甦った。

 和惟が那桜の側にきてドアを開ける。車を降りてドアが閉められているすきに、那桜は和惟の背後にまわった。
「那桜」
 問うような呼びかけが発せられると同時に、那桜はアンダーシャツから丸ごと服を押しあげて和惟の背中を剥きだした。
「じっとしてて!」
 肩甲骨から下へと探しながら叫んだ直後――。
 あった。
 那桜がそうであるように見つけようと思って見なければ気づかない程度だ。けれど、はっきり傷痕だ。脇腹近くに縦五センチくらいある皮膚は、ケロイドのように少し盛りあがって白っぽくなっている。
「何やってる」
「この背中の傷って何?」
 和惟は躰をひねりながら那桜から逃れ、正面を向いてきた。服を直しながら目を狭めて那桜を見下ろす。
「ガキの頃、フリーランニング中に切った」
「嘘! それとも……果歩に云ったことが嘘?」
 いつも器用に切り返してくる和惟がめずらしく黙りこむ。それで答えは出た。
「おれが果歩ちゃんに何を云ったって?」
 しばらくして口を開いた和惟はいつもの嗤った声音だ。
「信じられない。和惟の愛してるって何? 一心同体って何? わたしは果歩を抱きたいとか思ったことないっ」
 那桜は身をひるがえして集合場所に向かった。すかさず和惟が来て那桜の腕をつかんだ。放っておくはずがなく、わかっていても逃げたい。
 そこで那桜の思考がつと停止する。
 どうして自分が逃げなくちゃいけないんだろう。またわがまま?
「汚い手で触らないでって云ったのに!」
 云いながら振りほどくように腕を動かすと、思いの外、簡単に和惟から逃れられた。
「おれも果歩ちゃんを抱きたいなんて思ったことはない」
 那桜を見据える和惟の瞳には紛れがない。それが嘘ではないと――。
「信じてたのに」
 信じていたかったのに。内心でそんな弱気な言葉に変えながら那桜はバッグを開いた。
「やっぱり嘘ばっかり。わたし、拓兄のこといっぱい書いたの。すり替えられてた!」
 取りだした手帳を和惟に投げつけ、それが胸に当たって地面に落ちるのを見届けるまえに那桜は踵を返した。

 *

 実行委員が一堂に会して今日のスケジュー再確認したあと、委員会室を出てそれぞれに持ち場へと向かった。
「那桜ちゃん、どうかした? 初日と違って昨日からあんまり楽しそうじゃないな」
 巡回がおよそ終わったところで、立矢が心配した声で訊ねた。
 果歩のことについては、翔流では近すぎるし、現時点では立矢へがいちばん打ち明けやすいのに話したくても話せない状況だ。拓斗の機嫌をこれ以上に損ねたくなくて、おそらく監視されているだろうから電話やメールもできない。
「だね。委員会という立場じゃ、浮かれてるばかりじゃいられないし」
 果たしてすっかりお目付け役化した隆大が口を挟む。しかも云いぶんは、聞きわけのない子供について語っているようで、那桜はまさしく子供のようにふくれ面をしそうになった。

「青南祭は楽しんでる。でも、ほかのことで楽しくないことがいろいろあるから」
 それも子供っぽい発言だが嫌味は通じたようだ。自分に向かってつんと顎を上げた那桜を見下ろし、隆大が苦笑いした。
「……もしかしてその原因ておれかな?」
「も含む」
 那桜は云いながら横目を使った。そのさきには、模擬店の背後にある建物のところで壁にもたれた和惟がいる。
 手帳を投げつけてからも黙ってついてきていたし、そのあとも付かず離れずいることは知っている。那桜は顔を向けることなく無視に徹しているが。
 視線を戻すと、那桜の事情を丸わかりしている立矢がため息をついて笑った。そして、次の瞬間には生真面目な顔つきに変えた。
「けど那桜ちゃん、当面は見張られているべきだ。間違っても突破しないように」
 生真面目というよりは(うれ)うような表情と声音だ。
「立矢先輩、どうかし――?」
「ちょっと那桜を借りるよ」
 つかつかと近寄ってきていることも気づかないうちに、和惟がいきなりで那桜たちの会話を打ちきった。那桜の腕を取った和惟は立矢に向かい、いいな、と、問うというよりは押しつけるような素振りで首をわずかに傾けた。
「あとは僕たちだけでもまにあいます」
 立矢はうなずきながら和惟に答え、それから那桜を向いた。
「那桜ちゃん、夕方からはクラスの当番だろう? 委員会のほうは二時半開演の“頼朝”を偵察かねて観てくれればいい。あとはフィナーレのまえに南館正面に集合だ。メールするよ」
「でも――」
 那桜の主張をさえぎるように和惟がかわりにうなずき返して、その場から強引に那桜を連れ去った。

「和惟っ」
 腕を引こうとしても今度はしっかり捕まれていてずらすことも敵わない。
「那桜、おれが果歩ちゃんを傷つけるのと、果歩ちゃんがおれを取りあげるのとどっちが嫌なんだ」
 和惟の質問は那桜に抵抗を忘れさせた。言葉は違っても、公園で拓斗から問いかけられたことと同じだった。和惟は歩きながら続ける。
「那桜にとって飯田果歩が大事なら、そうでいられるようにする。そうしてきたつもりだ。けど、どうでもよくなっているのならすぐにでも」
 和惟は中途半端に途切れさせた。那桜の答えを待っているのがわかる。
「……偶然じゃなかった。だれかがぶつかってきたんじゃなくて……果歩がわざとすり替えてたの。そう……わかってる」
 つぶやいた声は囁く程度にしかならず雑踏に紛れたと思ったのに。
 和惟の手が一瞬だけ那桜の腕を強く握りしめた。
「はっきりさせてやる」

BACKNEXTDOOR

* フリーランニング … フランス発祥の運動(パルクール)熟すと忍者になれます。