禁断CLOSER#65 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -17-


 拓斗の最後の一言が締め括りになったようで、まもなく背後では和惟と翔流が経済の話をしだした。まったく堅苦しい。漫才をされても――どっちがツッコミだろうとか、ふたりのそんな場面を想像しただけでも笑えそうなのに、いまの那桜はおもしろがる気力を持ち合わせていない。
 拓斗の不機嫌さに少し治まりをつけられても、果歩のことがあってモヤモヤは残る。
 それに、那桜の口添えはなんにもならなくて、拓斗と和惟は相変わらず立矢を問題視している。翔流も含めれば三人だ。そこで意気投合ということになったんだろう。ただ、拓斗があからさまに(なじ)るほど神経質になっているのは確かで、翔流とは少し温度差がある。
 那桜にとっては、拓斗と和惟が秘密裡に包囲網を固めるほど、目隠しされたみたいに不安になるのに。
「那桜、じゃあ明日な」
 駐車場の手前で翔流が呼び止めた。
「うん、明日」
 翔流はうなずき、拓斗と和惟を交互に見たあと軽く一礼した。
「失礼します」
 勇基たちと合流するのだろう、翔流は駐車場沿いの道を正門とは反対にあるメイン会場のほうに向かった。
 別れ際、翔流に手を振った拍子に那桜から自由になった拓斗は独り車に向かう。機嫌は直っていなくて、那桜は、足早な拓斗とは真逆にとぼとぼした足取りで車まで行った。拓斗は助手席に回り、和惟が那桜のために後部座席のドアを開ける。

「那桜」
 何も考えず名を呼ばれたことに反応して顔を上げた。その瞬間、和惟の片手が後頭部をがっしりとつかむ。
「和――」
 抗議しかけた声は和惟のくちびるがさえぎった。いつもの熱っぽいキスじゃなく、ただ咬みつくように押しつける。
 んんっ。
 呻きながら手を上げて和惟の胸を押しやろうとすると、ずるりと擦りつけるようにして無理やりのキスは終わった。
 和惟はよろけた那桜の肘をつかんで支えながら、反対の手の甲で自分のくちびるを拭う。礼儀を欠く行為だと云っていたくせに見せつけるようだ。
「似合わない」
 和惟は腹立ち紛れのような一言を吐いた。
 臆しながら拓斗を見やると車の天井越しに目が合う。ここでもまた明け透けな様で拓斗が目を逸らす。
 これから何があるのか覚悟を強いられた気がした。
「乗って」
 那桜はくちびるを咬みしめて和惟に従った。
 帰途についた車の中は、さっきのキスを忘れたように和惟だけがいつもどおりだ。和惟から前夜祭のことを訊かれるままに那桜が答える。そんな会話だけで、助手席に座った拓斗は何ら口をきかない。そのこともキスを止めに入らなかったことも、拓斗の不愉快さの度合いを示している。
 ただ、“また”と那桜が覚悟したことは起こらなかった。
 和惟は門先に車を止め、那桜たちが敷地内に入って門が閉まるのを確認するとそのまま帰っていった。

 拓斗は一目も那桜を見ることなく、玄関に着くと戸を開けた。家の中では繋いだ手も離さざるを得ない。那桜がそうしたとたん、拓斗は靴を脱いでさっさとリビングに入っていった。
「ただいま」
「おかえり。どうだった?」
 テレビを見ていた詩乃が振り向いた。隣には隼斗がいて、拓斗はその向かいに座る。それは、ふたりになりたくない――要するに、何も聞きたくないという意思表示に違いない。
「うん、楽しかった」
 答えた声は自分でも気持ちがこもっていないと思う。詩乃はほんの少し目を見開いて那桜の顔に目を留め、次には首をかしげた。
「あら、昼と違うわね? またやってもらったの?」
 会話はとうとつに話題を変えられた。気づかれないのはさみしいけれど、いまは気づいてくれなくてもよかったのにと思う。
「……うん、いろんなパターンをちゃんと習いたかったから」
 拓斗に向けた云い訳も、当の本人は馬の耳に風だ。見向きもしない。かわりに詩乃が立ちあがって近づいてくる。
「ほんと、うまいわね。リップ取れてるけど」
「あ……たぶん食べたりしたせい。お母さん来るのは明日?」
 良くも悪くも的を射まくってくる詩乃をさすがだと思いつつ、早く切りあげようと那桜もまたとうとつに青南祭の話に戻した。
「明日は祝日だし、多いでしょ? 咲子さんと金曜日にしようかしらって云ってるの」
 詩乃はダイニングに向かいながら答えた。拓斗のぶんだろう、コーヒーメーカーの保温ポットに手をかける。そして、ため息をついてさきを続けた。
「戒斗を見たかったし、だから土曜日に行きたいと思ってたんだけど」
「岩手には無理に行かなくていい」
「そういうわけにはいかないわ。貴方のおばあさまのお祝いでしょう。嫌がってるわけじゃなくて、残念だってだけ」
 詩乃は隼斗の配意を心外だとばかりの口調で退けた。
 今度の土曜日は、岩手に住んでいる隼斗の母方の祖母――那桜にとっての曾祖母が米寿を迎え、その祝賀会がある。隼斗はそれを機会に東北地方の分家と親睦の会を設け、逸早く明日から岩手へと向かう。本来、家族そろって訪問するところだが、ちょうど青南祭と重なったために同行はかなわず、詩乃は当日の早朝に東北へと向かい、那桜たちは日を改めて訪ねる予定だ。
「那桜、明日もたいへんなんじゃない? 早くお風呂に入って休んだら?」
「うん、そうする」
 リビングを出るまえ、ちらりと見た拓斗は隼斗と話していて、いつもなら重なり合う瞳がいまはまったく眼中から那桜を除外している。

 十一時になっても十二時に近くなっても拓斗の部屋のドアは開くことがない。
 その間にいろんなことを考えて、それなりに結論が出た。
 和惟にキス以上を触れさせなかったことは、拓斗の中で“切る意思”が消えかけているのかもしれない。キスだって、もしかしたら和惟と同じ気持ちだったからかもしれない。だから、おじゃんになったとしてもけっして振りだしに戻ったわけじゃない。那桜の中にまだ自信は残っている。
 不安から回復できるとベッドの上で丸くなり、拓斗の腕に抱かれたいくつもの記憶を呼び起こす。その中に潜りこむように目を閉じた。

 部屋のドアを開け、照明のスイッチを入れた。
 すぐさま拓斗は薫ってくる気配を察し、通常とは違った様にも気づく。
 こうしているだろうことを考えなかったわけではない。ベッドに近寄って、半ば布団に埋もれた横顔を見下ろした。
 めったになく、いや、めったにないのは二年まえまでのことで、この夏からは終始ある、一言簡潔に表せば“苛立ち”――それが喉もとまで込みあげる。
 布団を剥いだ。丸まった裸体が現れ、寒いのか那桜はかすかに身動ぎをした。
 躰が疼く。
 同じように躰を武器にするあの女とどう違う。
 それは、嗤いたくなるほど無駄に足掻いた疑問だ。
 まるで無様なあの頃と変わりない。その、不意を衝かれた日もまた鮮明に憶えている。
 兄と妹、男と女。その違いが漠然とわかり始めた頃、突如として(みなぎ)った劣情。そのわがままを消化しきれなかった。
 那桜の成長は、妹という意味がわからないままに六才という時で止まってしまっていた。もしくは拓斗のほうがそこで固着したのかもしれない。
 那桜が十才だった一月の末――両親が毎年恒例の祖父母を訪ねる沖縄旅行に立った日。
 それまで、学校を休んで同行していた那桜が、はじめて留守番に加わった。初等部の四年という上級生として扱われるようになって、少し大人びた気分でいたのだろう。
 その夜、留守番のさらにお守り役として和惟がいたのだが、那桜の強い主張によって夜更かしが許可された。夜更かしといっても十一時までという許可で、通常が九時に寝ている那桜にとっては夜更かしになるだろうが、拓斗たちにとってはむしろ早い。
 那桜がテレビドラマに夢中になっている間、男三人は那桜の後ろにある紫檀(したん)の座卓で、それぞれに宿題やら有吏の業やらに取り組んでいた。畳の部屋という、あの頃はまだ昭和時代の佇まいをそっくり残した屋敷だった。

 *

「これって……何やってるの?」
 那桜がまじまじとドラマシーンを見ながら訊ねた。興味もないサスペンスドラマを見やると、ちょうどベッドシーンで女が男に伸しかかっている。
 留守番としてもう一人借りだされたヘルパーの鳥井が笑ってごまかし、六年生の戒斗は照れることもなくため息をついて無視し、高等部二年の和惟は男女の行為がしっかり知識としてあって、那桜の邪気のなさに吹きだす。
「那桜ももう少ししたらわかる」
「普通のこと?」
 和惟がはぐらかそうとしたにも拘らず、振り向いた那桜は興味津々といった様で首をかしげた。
「んー、どうだろうな」
「でもキスは知ってる! 漫画で見たし、それは普通?」
 そう云いながら、那桜はすぐ傍にいる和惟の脚に手をつき、上半身を近づけた。
「那桜さん!」
 鳥井がたしなめるのと和惟が那桜の頬をつかむのは同時だった。
「那桜、小学生にはまだ早い」
「中等部に上がったらいいの?」
「そういうことじゃない」
 真正面にいる和惟は、那桜に答えながら拓斗を向いた。
 目が合ったとき、拓斗はいつになく自分が成り行きを気にしていたと(さと)らされる。
 “見ている”ことを知られたくはなかった。
 ペンシルを持った手に必要以上に力が入っていることも気づき、失態だと感じながら手もとに目を落とした。和惟の目が探るように見えたのは気のせいか。
「どういうことだったらいいの?」
 那桜の天真爛漫な声が問いかける。
「そういう時がきたら、やってみたいっていう気持ちじゃなくて、キスしたいって気持ちになれる。たぶんな。そしたら、さっきのもわかるようになるだろ」
「そういう時……?」
 そういう時……。
 納得がいかないという那桜の繰り返した言葉に、拓斗の内心のつぶやきが重なる。
「那桜もあんなにきれいになれる?」
 いかにもといった職業を示すけばけばしい女も、十才という那桜から見ればきれいに映るらしい。
「まずは“那桜も”じゃなくて“わたしも”って云えるようにならないとな」
 那桜が拗ねるとわかっていて和惟がからかう。
「拓にぃ」
 案の定、不満げな声音だ。無視していると、那桜は和惟を離れ、四つ這いになって覗きこむように(むく)れた顔を近づけてきた。
 記憶が曖昧になるまでの時日に比べれば微々たるものだが、どんなに無視していても那桜はまだ纏わりついてくる。
「拓にぃ、“わたし”もお母さんみたいにきれいになれる?」
 なんでもない質問が拓斗にとってどういうことか那桜は知らない。そのほうがいい。
「テレビ、もういいんなら寝ろ」
 目の前で那桜がくちびるを尖らせたとたん、薫りが甦った。
 心底が疼き、拓斗は図らずも思い描いてしまう。

 *

 それほど不意打ちだった。
 思い描いてしまったことで現実の時間さえ越え、那桜は拓斗の中で一気に成長した。
 拓斗と那桜、ふたりともに敷かれたレール。その上に約定という交換婚が待っている。ふと浮かべた、待っているさきで那桜に降りかかる様相。
 生まれた劣情が、許さないという気持ちをも甦らせ、拓斗をがんじがらめに締めつける。

 がらりと世界を変えられたときの拓斗と同じ年、十一才になろうという無邪気なだけの那桜。それとは正反対の女――香堂有沙が現れたのは劣情を引きずっていたときだった。利用した、とそれならまだ聞こえはいい。だが拓斗にとって、逃げたこととかわりない、疾しさにしかならない行為だった。
 それを認めたとき、拓斗の中に那桜に対するプライドが呼び覚まされた。
 手を切ろうとした矢先、知ったのは有沙の多情な本質だ。セックスだけの関係にしろ、係わりあう女の身辺に配慮すらしなかった自分の迷走ぶりが明確になって独り毒づいた。いずれにしろ、有沙の移り気は絶好の口実で、拓斗はそれに乗った。
 萎えた拓斗を傷心のせいと決めつけ、有沙はおもしろがって身を引いた。いや、あの女からすれば“捨てた”つもりだろう。その実、セックスするに当たって最初から最後まで、拓斗には気力が必要だったと知れば逆上したのか。
 あの女がどう解釈しようとそんなことはどうでもいい。
 だが、テリトリーに危害が及ぶなら叩き潰す。
 和惟から報告された調査結果が頭をよぎる。合わせて、つい一時間まえにあった電話のことも思いだす。

『拓斗、青南祭、一緒に回らない? 話したいことがあるの』
『おれにはない』
『那桜ちゃんのことなのに? 気をつけたほうがいいかもってことよ?』
『那桜のことは“風変わり”だと知ってるはずだ。云われなくても気をつけてる』
『そういう意味じゃないんだけど』
『行けるかどうかわからない。どっちにしても、このまえ云ったとおりで、おれは自由じゃないし遊ぶ時間もない。有沙さんとはどうにもならない』
『それでも会うほうが賢明よ』

 くすくすと薄気味悪く笑う声が届いたあと電話は切れた。
 はっきり突っぱねても有沙は連絡を絶やすことはない。ただの多情ではない歪んだ性癖が明らかになって、この期に及んでは犯罪が実行されるかもしれない。加えて、飯田果歩とも繋がっていた。
 拓斗の中に焦燥が走り、那桜を(えぐ)るように見下ろしながら拳を固めた。
 その一方で、無防備な姿に拓斗の躰は著しく反応する。気力など必要もなく、もしかしたら確かめたがっているのかもしれない。常に――。

 留守番の夜の劣情から始まって自分の心底を認められた拓斗は、しばらく那桜を直視できなかった。
 那桜が纏ってきても言葉を返さない。那桜は背中を向けて肩を落とす。そうしているうちに那桜は近寄らなくなった。それどころかいつも背中を向けているようになった。
 拓斗が望みながらも自らではできなかったことであり、それでよかったはずが、その間に那桜は和惟に――。
 知ったときの衝動は制御しきれず、拓斗の中に集っていった。
 許さない。銀杏の木の隙間で()せた決心の日、それまでにあった情意は心底にロックされた。変わることも邪魔されることも侵略されることもない。
 那桜を犯し、そうしたのは自分がはじめてだとわかったとき、拓斗の中に生じたのは後悔じゃない。あの決心が変化(へんげ)したわがままだろう。
 あの夜――十五才のときは気づけなかった。うかつにも、変わることはなくても巨大になることはあったのだ。
 施錠した領域を侵犯してはいけない。自身さえも。心底に押しこめる。
 それなのに那桜は向かってくる。
 拓にぃ。その無邪気だった声はいま、輪奈(わな)のように纏いつく声に変化して拓斗を捕える。
 あきらめればいいものを、と、そう那桜に委ねざるを得ない自分の意志の弱さには殴りたいほど腹が立つ。
 決められた道なら、けじめをつけられる。いや、つけなければならない。だが、そうじゃない奴が奪うのなら――その撥ね除けきれない自分の甘さに苛立つ。
 そんな感情を処理できないことも忌ま忌ましい。

 風呂に入って着替えたばかりのシャツを脱ぎ捨てた。スウェットパンツもボクサーパンツも床に放つ。
 拓斗がベッドに上がると、那桜は身震いしながら薄らと目を開けた。その躰を仰向けて開きながら、拓斗は脚の間に入って那桜の腋の横に手をつくと伸しかかった。
「出ていけ」
 そう云うことしかできない。
「ぃや」
 不明瞭な声が反射的につぶやく。そして。
「拓にぃ」
 輪奈を吐き、寝ぼけているのか、那桜の手は縋るように拓斗の首もとへと伸びてきた。
 その間に右手で那桜の中心に触れた。ピクリと腰が反応する。乾いてはいない。
 撥ね除けきれないなら引きちぎる。
 欲情の滲む杭の先を入り口に当てがい、そこに撫でつけた。そして、那桜の腕が拓斗の首もとを捕えた刹那、細い腰をつかみ、ふたりのわずかな潤滑剤のみを頼りに一気に貫いた。
 見開いた目が見えたのは一瞬で、那桜は痛みの反動で拓斗を強く引き寄せ、焦点が合わなくなる。那桜の口が開き、悲鳴が(ほとばし)る寸前、拓斗はくちびるを覆った。

 んんっくうぅ……っ。
 呻き声が拓斗の口の中に熱を放つ。
 那桜の中は潤いがまったく足りないうえにきつい。拓斗が引きつった痛みを覚えるということは、那桜はもっと強い痛みを伴っているかもしれない。
 那桜のものと云う拓斗のくちびると、拓斗のものと云う那桜の中心で絡みあう。凝集したまま微塵も動かないのに、苦しさと痛みが(かい)に紛れていく。
 どれくらいそうしているのだろう、呼吸さえ止まったかのような静寂のなか、那桜がコクッとこもった音で喉を鳴らした。拓斗はゆっくりとして糸が途切れない距離まで顔を上げる。那桜のくちびるの端から糸の欠片が涙のように零れた。
「拓兄……」
「出ていけ」
 まっすぐに見上げてくる瞳に不甲斐なさを吐く。その瞬間、那桜の眼差しの中に、あのひまわりの別荘で見せた断固とした意思が宿る。
「い、や。このままでいいから……このままでいて……ずっと」
 ずっと――叶わないとわかっていても口にするのは、拓斗が答えないと知っているからか。
 応えた時点でそれは嘘になる。
 繋がったまま向かいあわせの格好で横たわった。しばらくすると、セックスまでに至らないと知って、那桜が胸もとに顔を埋めてくる。
 首もとに縋りつく那桜の腕と腰に絡みつく自分の腕が、拓斗の心底に痛みを彫りつける。
 そんな拓斗とは正反対に、那桜は眠りにつくまで、おそらくは笑っていた。
 それはただの(ねが)いという幻想だったのか――。

BACKNEXTDOOR

* 輪奈(=罠) … ひもなどを輪にしたもの