禁断CLOSER#64 第2部 破砕の扉-open-
5.迸出-Gush- -16-
実行委員会はそれぞれに分散して完了チェックに走った。いくつかを残したが、前夜祭が始まる五時までには準備完了を確認できて、集まった委員は一様に胸を撫でおろして和んだ。
前夜祭は基本的に青南応援隊――いわゆる応援団と吹奏楽団、そしてチアリーダーで構成された組織の主催になっていて、実行委員会としては純粋にくつろいですごせる。
五時十分、委員会が解散されると、那桜は翔流と待ち合わせたあと果歩たちと合流して、露店を巡りつつ肝試しやらフォークダンスやらを楽しんだ。寒さも熱気に緩和されて、どうかすると逸れてしまいそうなくらい、メイン会場の中央キャンパスは賑わっている。
八時を過ぎると、応援隊による長丁場の演舞演奏が始まって前夜祭も終盤だ。
立矢からの呼びだしももうそろそろだろう。この喧噪のなかでは着信音も聞こえないと思い、那桜は斜めがけの小振りのバッグから携帯電話を取りだした。すると、なんらかの着信を知らせる光が点滅していて、見ればすでに立矢からメールが入っていた。
「果歩、郁美、立矢先輩から連絡入ったの。わたし、これで切りあげるね」
彼女たちの背中に向かって那桜は声を張りあげた。勇基を含め、先を行く三人が一斉に振り向く。
「帰りは?」
「時間がはっきりしないし、わたしのことは気にしないで。どうせ迎えくる――」
「おれがついて行くからいい」
翔流が隣から口を挟んだ。最初の日に立矢のことを害がないと判断したのか、二回目、翔流は歓迎する感じではなかったもののついて来ることはなかったのに。那桜は首を傾けて翔流を見上げた。
「翔流くん、大丈夫だよ。このまえだって――」
「演劇の連中がいるんならいいけど、今日はいねぇだろ。ふたりっきりにさせるかっつーんだ」
郁美が笑う横で果歩が皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「広末くん、実は邪魔してるのかもっては思わない?」
「どういうことだよ」
「だから、ホントは襲われたくて行くんじゃないかってこと」
果歩はおもしろがって見えるけれど、那桜にとっては笑い飛ばすにも難しい冗談だ。単純に受け取った勇基が笑ってあしらう一方、様子がおかしいと思っている郁美と翔流は那桜の心中に近いようで、顔をしかめる一歩手前の奇妙な表情になった。
「……なんだよ、それ」
「そのまま取らないでよ。大学内だったら那桜もお兄さんたちから逃れてのびのびできるじゃない? 広末くんが監視するんだったら、そういうチャンスを奪ってることにならないかなって云いたいだけ」
果歩の云いぶんはますます意味を不明瞭にした。昼間は拓斗とのことを認めさせたがっているみたいだったのに、いまのは逆に解釈すべきだったような云い様だ。
「果歩、わりといまは窮屈だって思ってないんだよ」
それは弁解でもなんでもなく、かつて不平不満だったことを思うと現金だが本当のことだ。
違いは、行動制限を担っている拓斗が那桜にとってどういう存在で、どういう関係にあるかということ。拓斗に見張られているのは、怖れることがなくて心地いい。
「そうだよね。好きな人から束縛されるんだから嫌っていうよりはうれしいんだ」
果歩の口もとは笑っているけれど、瞳は淡々としている。那桜は偽物に見えないように笑顔をつくった。
「かもね」
「それが兄貴ってどうかと思うけど」
「勇基、それはノープロブレム。それより前夜祭、もうすぐ終わっちゃうんだし、そのまえに“はし巻き”食べなくちゃ! 果歩も食べたいって云ってたよね。早く行こ!」
郁美は真ん中から勇基と果歩の腕を取って後ろを振り返った。
「じゃあ那桜、ばっちり夜メイク習って今度わたしに教えてよね」
「わかった」
那桜の返事を聞いたのかどうか、郁美は強引にふたりを先導していった。おそらくはこれ以上の迷走を避けようと気を利かせたんだろう。
那桜はなんとなく気まずく翔流を見上げた。
「……どうなってんだ」
どちらからともなく方向を変えて歩きだすと翔流がつぶやくように漏らした。
郁美が気づいている以上、翔流が気づいていないとは思っていなかった。口にしなかっただけなのだ。
「高等部のときと同じこと繰り返してる。……たぶんね」
「……衛守さん?」
那桜は肩をすくめた。翔流がため息をつく。
「よくわかんねぇけど。とにかく飯田っておかしくないか。こういう照明が落ちたとこじゃ、パッと見た目はどっちがどっちかわかんねぇかもな」
果歩と会ったとき『髪、切ったのかよ』としか云わなかった翔流だが、突飛に感じたのは一緒だったらしい。
「びっくりしてる」
「気分のいいもんじゃねぇな。おれとしても」
翔流の声は険しい。顔を見ると声と同じく、思わしくない表情だ。
「髪型のこと?」
単純じゃない意味のような気がして訊ねてみたけれど、翔流は肩をそびやかすだけで答えなかった。
*
「前夜祭、楽しかった?」
ピンクベージュを載せた那桜の瞼にボルドーのアイシャドウを重ねながら立矢が訊ねた。
「想像以上に」
目を閉じているからはっきりしないけれど、那桜の力のこもった答えを聞いた立矢は吹きだしたようだ。
「フィナーレは感動するかも。実行委員だし、達成感のレベルが違うと思う。おれも主催者側としてははじめてだけど」
「期待してる」
「おれもだ。那桜ちゃん、変わったことない?」
笑みを含んだ声のあと、立矢は硬い口調に変えた。
「んー……そのまんまかも――」
「あるだろ」
壁にもたれて立ち、那桜たちを――正確にいえば立矢を見張っていた翔流が横やりを入れた。立矢の手は止まり、那桜は目を開いた。
「翔流くん、何があるんだ?」
「那桜のコピーがいますよ」
「コピー?」
立矢が翔流の言葉を繰り返すのと同時に那桜はため息をついた。
「果歩がわたしと同じ髪型にしてた」
鏡面のすぐ下にある備え付けの棚板に手を伸ばし、那桜はバッグから携帯電話を取りだす。送られてきた画像を開いて立矢に見せた。
受け取った立矢は画面に見入って、それから考えこむように眉をひそめる。その間、那桜はふと湧いた疑問を翔流にぶつけた。
「果歩のこと、どうして立矢先輩に関係があると思うの?」
「勘」
まったくもって無責任な頼りどころだが、自分が和惟に『直感』と云ったときのことを当てはめてみると、もしかしたら翔流は勘などではなく事実として果歩と有沙の繋がりを知っているのかもしれないと思った。
「いい勘してるよ」
立矢はため息混じりで冗談めかして翔流に応じると、那桜に向き直った。
「続きだ。いま……というか、もうすぐデリケートな時期?」
立矢は自分が振った話題をとうとつに打ちきった。
「あ、そうかも。どうしてわかるんですか」
「水分のバランスが崩れるから巡り巡って肌が荒れがちになる。酷いと吹き出物ができたり。その点、那桜ちゃんは問題ないけど、やっぱりまえにやったときとは違うかな」
説明にはなるほどと納得したものの、那桜は自分の鈍感さにも気づく。
「そうなんだ。なんだか、いまになってメイクしてもらうのが恥ずかしいって思ったかも。すごくアップで見られてるし」
立矢は吹くように笑い声を漏らした。そして、手にしたアイライナーを目の高さまで持ちあげて、始めるよ、というように那桜に見せた。
「目を瞑って」
夜は目もとを強調、パール感を加えるのが基本――そんなことを説明しながら立矢は那桜の顔を塗り替えていった。
とはいっても、仕上がりを見ると厚化粧ではない。瞼は赤めのボルドーからベージュピンクへのグラデーション、アイラインは昼間のブラウンの上に黒が載っていて、陰影がくっきりして目が活きている感じだ。薄紅色のくちびるはグロスと照明によってプルプルと輝いている。大人っぽいと一括りにするよりは可愛さが残っていてフェミニンな印象だ。
「すごい。いい感じ」
「もっとクールにしたいんなら、ボルドーを紫に近い色に変えるといい」
「そっか。色だけで変われるんだ。翔流くん、どう?」
「どんなんでも那桜は那桜だ」
立矢はがっかりした那桜を見て笑い、それから翔流をからかうように見やった。
「そこで、似合ってるとか、ますます惚れたとか云えばきみの株も上がるのにな」
「おれがそう思ってるって那桜にはわかりきったことですから。だろ?」
「……でも……」
翔流に振られた那桜はなんとも答えようがなく、首をかしげながら肩をすくめる。尻切れトンボになった那桜のあとは立矢が継いだ。
「けど、あえて云うべきところだ」
「はっきり云わせてもらえば、香堂先輩じゃなかったら、ってことですよ」
ずれた反論は、立矢のことをいまでも信用していないと表明している。
立矢は、だろうね、と苦笑いで答えた。
「那桜ちゃん、あとでさっきのをおれに送ってくれるかな」
「さっきの?」
「写真。万が一があったら先手を打つ」
「どういう意味ですか」
翔流が鋭く口を突っこんだ。
「だから、万が一の未然のことだよ。わかったのか聞いたのか、翔流くんもある程度のことを把握してるみたいだから云っておくけど、姉さんは利用できるものはとことん利用する人だよ」
しばらく翔流は睨みつけるように立矢を見ていたが、やがて、もう終わりだ、といわんばかりに顔をそむけて息をついた。
「那桜、帰ろう」
「もうそんな時間?」
「そのまえに」
那桜と立矢の声が重なった。
立矢は、三段になっているコスメボックスのいちばん下からリップみたいな容器を取りだした。ふたが取られると、それはリップではなくアトマイザーだった。
「那桜ちゃんぽい感じで香水つくってみた。といっても実際に調合したのはウチの調香師だけど」
「ほんとに?」
那桜が喜び勇んで確かめると立矢はうなずき、
「左手を貸して」
と云いながら自分も左手を差しだした。手を預けると、立矢は手首の内側にワンスプレーした。那桜は手首を顔の近くに持ってきて嗅いでみる。
「どう?」
「きつくないし、柑橘系でもなくて、なんとなく苺っぽい甘い感じがする」
「そう、そんなイメージだ。気に入った?」
「当然です」
こっくりと首を縦に振ると立矢も満足そうに笑んだ。
「今日は何もつけてないみたいだね?」
「はい。作業あるし、汗かいちゃったら香りがヘンになるかなって思って」
「いつもどこにつける?」
「首筋が多いかも。髪をアップにしたりして首がダメなときは胸もととか手首とか」
「そう、紫外線は気をつけないとね。香りをつけるのが好きなら今日みたいな日は足首とかいいよ。あまり体温が高くないところだから、強くは香らない場所だ。ふとしたときに香ってくるから“あれ?”っていい感じになる」
「あ、なるほど」
相づちを打ちながら那桜は思わず笑った。
「何?」
「郁美がメイクのことで似たようなことを云ったから。いつも美人よりたまに美人のほうが“あれ?”って見られてお得だって」
「郁美さん、いいとこついてるな」
立矢は可笑しそうに賛同した。そして、那桜の首もとにアトマイザーを近づけてくる。
「じゃ、首――」
と、立矢が云いかけたところを、戸の開く音とともに、ここにいるはずのない声がさえぎった。
「那桜」
はっと振り向くと、那桜が思いついた声の主そのものが衣裳部屋の入り口にいた。気まずいという後悔を覚えてしまったのは、拓斗が目に入ったときだ。和惟の後ろから現れた拓斗は、入り口の柱に背中をもたれるようにして立った。
気まずいどころじゃなく――おじゃんだ。直感的にそう思う。無表情の中に一縷だけ覗かせていた気配が見えてこない。どうして云っておかなかったんだろう。内心で答えのわかりきった疑問をつぶやき、那桜は無駄に足掻いた。
「いま帰ろうとしてたところですよ」
翔流が壁から背中を起こして沈黙を破った。那桜は弾かれたように立ちあがる。
「立矢先輩、ありがとうございました」
「いや、こっちこそやり甲斐があった。これ、持っていって。気に入ったら今度ボトルでプレゼントするよ。ただし、つけすぎに注意だ。嗅覚は鈍るから。“香害”にならないように」
立矢は鼻を摘むしぐさを見せ、那桜はアトマイザーを受け取りながらくすっと笑った。
立矢にとっては三人の敵襲に遭遇といったところだろうに窮した様子はない。それどころか、那桜を笑わせられるくらい落ち着きはらっている。
立矢はうなずいて那桜の笑顔に応え、次には拓斗に向かった。
「拓斗さん、那桜ちゃんをお借りしました。あと三日間、片づけまで入れると日曜日まで四日間になりますがよろしくお願いします」
立矢が一礼すると拓斗は一瞥しただけで那桜へと目を向け、一瞬だけ見据えたあと柱から躰を起こした。無言のまま、身を翻して出ていく。
那桜は持ってきたバッグ二つをつかんだ。
「じゃあ立矢先輩、また明日」
「ああ。委員会にとっては総仕上げの始まりだ。風邪ひかないように」
「はい、お疲れさまでした」
立矢が返した、お疲れ、を聞いたか否かのうちに那桜は拓斗を追った。背後で、失礼します、という翔流の声が聞こえたと同時に那桜は和惟の横まで来た。
和惟を見上げると、叱責と強迫と、そして見当のつかないなんらかの意が見える。その目が立矢を向くと警告するように狭まった。
「行こう」
すぐに那桜に目を戻した和惟は、着替えの入ったほうのバッグを取りあげて、さきに行くよう顎を動かして促した。
衣裳部屋を出て廊下を進み、稽古場まで行くと、ひまわり畑のときのように拓斗が待っていると知って那桜は少し安心する。小走りで近寄った。もらったパーヒュームを手のひらにシュッと一噴きして、拓斗を見上げながらその顔に向けた。
「好き? わたしのイメージだって」
拓斗の目は無反応に那桜を退け、和惟たちが近づいたところで出口に向かう。せめて手を繋いで確かめたいところだが、翔流がいる手前、そこまでは行動に移せない。
気落ちして拓斗のあとをついて行き、那桜の三歩後ろを和惟と翔流が付き添うように続いた。
歩きながら携帯電話で時間を確認すると九時を過ぎたところだ。予定どおりに前夜祭は終わったのだろう。ここは会場から離れているせいもあって、外に出ても建物内にいたときと同じく静かだ。駐車場に向かうにつれて少しだけ余韻が漂い始める。
「広末、気をつけてほしいと“頼んだ”はずだ。すべて話した。それがきみにとってどれだけ名利になるかわかっていないらしい」
“三人”の足音だけという沈黙のなか、和惟が静けさを破った。
侮蔑のような口調もさることながら、いつの間に、と那桜はその内容に驚いた。
立ち止まって振り向くと同様にふたりも止まって、その二対の目が那桜に留まる。
批難のこもった眼差しを投げつけると、和惟は当然だろうと押しつけて受け流し、翔流は批難に値しないといったふうに肩をそびやかして撥ね返した。
翔流はその証を立てるべく、和惟に顔を向けて口を開いた。
「ありがたくないとは云いませんけど、そんなことに名誉も利益も求めてませんよ。気をつけてますから、頼まれなくても。おれは那桜の自由にさせてやりたいし、“気をつける”ほかのことに干渉するつもりはありません」
翔流は“回し者”に成り下がったわけではない。那桜はほっとする。
「自由? まったく束縛がないという自由はどんな立場であろうと皆無だ。不自由のなかで自由を得ることのほうが賢くないか」
穏やかさとどす黒さ紙一重という、和惟は独特の凄みを利かせた。
中等部のとき、和惟が連れていってくれた神社のお祭りで、ちょっとぶつかっただけで酷い罵声を浴びて肩を小突かれたことがある。いかにも柄が悪くてしつこく絡んできそうだったところを、おそらくは和惟よりも年上だったと思うのに、悪かったな、というたった一言で退散させた。いわゆる一般人なら尚更で怖じ気づくのを見てきた。
けれど、あの遊園地でもそうだったように、翔流は動じる様子もなく不屈で向かう。
「那桜の場合、必要以上に不自由ですよ」
「翔流くん、もういい――」
「広末、那桜には必要なことだ」
那桜の背後から拓斗が口を挟んだ。とっさに振り向くと、立ち止まった拓斗と目が合う。そして那桜を見据えたまま、拓斗は続けた。
「それでも足りない。おれは、あらためて云う必要はないと云ったはずだ。その意味が通じたと思っていた。それはおれの勘違いか」
「わかっているつもりです。けど、もっと普通にできると――」
「気楽だな」
拓斗は吐き捨てるようにさえぎり、踵を返して那桜の瞳を解放した。
那桜は和惟たちに向き直り、見守るようにしたふたりを順に見つめたあと拓斗を急いで追った。
拓斗の横に追いつくと、握り返してもらえないのが怖くて那桜は手を繋ぐかわりに左の手首をつかむ。正面を向いたままで那桜を見るという反応もないけれど、那桜の手は振りほどかれなかった。
それよりも那桜を安堵させたのは、翔流に向かっていた言葉はなぜか自分に向けられていたような気がして、意味はわからなくても拓斗が大事なことを曝したんじゃないか――那桜の本能がそう察したからだった。