禁断CLOSER#63 第2部 破砕の扉-open-
5.迸出-Gush- -15-
青南祭の前日、本番を控えて大学全体がそわそわと高揚感に包まれている。
初体験するその雰囲気に呑まれつつ、那桜はお昼過ぎまでクラスのみんなと準備に勤しんだ。
こういうとき発揮されるクラスの編成は、入学式のとき学部ごとに割り当てられている。交流をモットーに掲げて、授業ではなくイベントを主目的とした括りのクラス制度だ。
那桜と郁美は同じEクラスだが、郁美と同じ国文学科の果歩はAクラスと離れている。おまけに果歩たちのクラスは経済学部と連携しての出し物で、文学部とは別の校舎にある多目的聴講室で準備中だ。
観点を変えれば、こういうクラス制度があるから違う学部とも手を組みやすいといえる。
那桜たちのクラスは今年のテーマ『和しょく』をそのまま表現することになって、茶屋という空間を再現する。茶色いポンポンで藁葺き屋根になぞらえ、コンテナボックスを並べた上に緋毛氈を被せて床几に見せた。壁には山中を思わせる絵を貼っていき、教室全体がずっと昔の風情に変わっていく過程はわくわくした。できあがってみると、まさに『和』という場所にタイムスリップしたようで、だれもが満足げだ。
午後からはサークルやほかの企画へとそれぞれに分かれる。
そのまえにジャージ姿のまま、那桜は郁美と一緒に教室で菓子パンを食べた。まともに食べる時間がないかもしれないと思って持参してきたものだ。ほかの子もお弁当持参だったりと、教室内はさながらピクニックだ。
「終わったぁ。あとは前夜祭を待つのみ」
もうすぐ二時という遅い昼食に無言でありついていた郁美は、食べ終わるとのびのびした声で云った。
那桜はこれから実行委員の仕事があるというのに、クラスのみでしか参加しない郁美はお気楽にエンジョイしている。とはいえ、実行委員を楽しんでいる那桜にとってはうらやましいわけでもない。踊る阿呆に見る阿呆だ。
「五時まで時間潰しはどうするの?」
「果歩と待ち合わせてる。ちょっと遅れるってメールあったけど。あっちはお化け屋敷だからわたしたちより準備がたいへんそう」
果歩の名が出ると那桜はわずかに顔を曇らせた。目敏く気づいた郁美が覗きこんできて、那桜はその場凌ぎに立ちあがった。
「那桜、果歩と何かあった?」
「何かって?」
「なぁんかヘン。露骨じゃないけど、果歩はツンとしてるし、那桜は遠慮してるっぽい。ていうか避けてる?」
那桜に倣って立ちあがった郁美は鋭く突いてきた。
そのとおり、おはようとか、簡単な挨拶までぎくしゃくしていて、そんな那桜を果歩は冷たくあしらうようになった。那桜から問い詰めることがなければ、果歩から打ち明けられることもない。はっきり訊けない那桜のほうが愚かしいのだろう。
いま、拓斗との関係は、躰を繋ぐことは少なくなっていても悪くない。変わらず素っ気なくて無視しているかのように見えるけれど、ふと拓斗を見ればやっぱり目が合う。悪くないというのはすごく控え目な云い方で、これ以上を望まないと決めたぶん、むしろうまくいき始めている気がする。
それなのに、拓斗と有沙をセットにしたくない気持ちと同じくらい、和惟と果歩をセットで考えたくない。
その感情は自分でも苛立つほど不可解だったけれど、拓斗に素直に気持ちをぶつけられるようになって、拓斗がそれを拒否しないことに確かな自信がついて、そんないまになって気づかされた。
おまえにとって和惟はなんだ――その答えにもなる。
和惟は那桜から目を逸らすことがない。
けっして手に入らない拓斗。それなら、という逃げ場所をたぶん和惟に求めている。
そんなふうに引き止めたがる卑怯さと、郁美をごまかしきれないと思ったことが那桜にため息をつかせた。伝染したのか、続いて郁美までもが心配そうにため息を漏らす。
「その様子じゃ、やっぱり何かあるんだ。わたしが那桜と付き合うようになったのも果歩と喧嘩したからだったよね。云っとくけど、ブログのことは喋ってないからね。でも、喋ったからって怒るのは那桜のほうだし……」
「そのことはもういいの」
那桜の口調から何を感じたのか、郁美は怪訝そうにした。
「もういい?」
「そのせいじゃないってこと」
「そう?」
郁美は首をかしげる。那桜はうなずいて再度受け合った。果歩が写真という脅迫を突きつけてきた時点で、ブログは残しておくべきじゃないと判断してすべて削除した。
いま那桜がふさいでしまう最大の理由は二つあって、果歩のカレのことと、果歩が有沙と繋がっているということだ。
「まあ、果歩がつんつんしてる理由は見当つけられなくはないけど」
「……どういうこと?」
「例の背中に傷があるっていうカレとうまくいってないんじゃない?」
「……どうしてそう思うの?」
「今月に入ってからかなぁ。お昼休み、果歩がいなくなることないじゃない? 今週に入ってからはケータイを見ることもないんだから。連絡ないって知ってるから、ってことでしょ」
「果歩は……ほんとにその人と付き合ってるって云ったの?」
「それはわたしの主観。だから、あのときは結局ごまかされたって云ったじゃない。果歩ってばしぶといんだから」
立矢から化粧品をプレゼントしてもらった日のことを思いだしたのか、郁美は呆れた素振りで大げさに肩をすくめた。
那桜は那桜で、果歩本人を通り越して郁美にしか訊けていない。
情けなく息を吐いて那桜は教室の隅に行った。そこのテーブルにはクラスの子たちの荷物がまとめて置いてある。
郁美は自分のバッグを取って手前に置き、それから同じように自分のを引き寄せた那桜をちらりと向いた。
「那桜ってばメイクうまくなったよね」
那桜はトートバッグを開きかけた手を止め、郁美に目をやった。
「ホントに? よかった。立矢先輩の時間を取った甲斐あるかな」
あれからもう一回、舞台の様子見と託けて帰る時間を遅らせ、立矢に直伝してもらった。今日も、前夜祭のまえかあとか、時間を取って夜向けのメイクをやってもらう予定だ。
「那桜は色白いからどんな感じでも似合うし、なんとなくきれいに見えちゃうタイプなんだよね」
「なんとなく、って余計」
「それがいいんだよ。“あれ?”って人に思わせちゃうとこ、特に男に関しては得だと思う。果歩みたいにどんなときでもきれいだと感動ないじゃない。美人は三日したら飽きるっていうのはそこでしょ。それに、パーマかけておとなしいってイメージは消えたし、いい感じ」
那桜が胸くらいまで伸びた髪に柔らかいウエーブをかけたのは十日まえだ。
初の体験で、那桜は仕上がり具合に浮かれたものの、美容院まで迎えにきてもらって、いのいちばんで見せた拓斗の無反応ぶりにはがっかりした。詩乃と和惟は、よく似合うというような感想を云ってくれたけれど義理にしか思えない。その点、何かにつけてずばずば云う郁美の誉め言葉は素直にうれしくなる。
「ホント?」
「ほんと。那桜に媚びたって、わたしはなんの得もない――」
「お待たせ!」
郁美が喋っている途中にいきなり果歩が現れた。バッグからコスメポーチを取りかけていた那桜の手がびくっと震える。教室は人が行ったり来たりとして終始ざわついていて、出入りを気にかけていなかった。驚いたうえ肩まで叩くというあまりの勢いで、郁美のほうは小さく悲鳴をあげた。
「もう、果歩! 子供じゃないんだから」
「郁美の真似してみたんだよ」
「言動は子供っぽいって云われるけど、人を驚かして喜ぶなんてことはしてないよ」
間に入った果歩を振り向きながらそう正す最中、郁美は果歩を見て首をかしげ、次にはわずかに眉をひそめた。那桜もまた場所を空けながら果歩を見やると、つと目を留めた。
「あ、気づいた」
果歩はけろりとして笑った。
そうする果歩を怖いと思ってしまったのは、不仲ともいえそうな現況のせいだろうか。
果歩は、腰に届くほどだったロングヘアを胸くらいまでと短くしていて、緩くランダムにウエーブさせている。つまり、那桜と同じ髪型に変えていた。
「ていうか、何よそれ。張り合ってるつもり?」
郁美は率直に突っこんだ。果歩はふふっと屈託なく可笑しそうにしていて、一見おふざけとも捉えられる。
「いいなって思って、那桜の真似してみただけ。嫌だった?」
そう訊かれても、いまは嫌だとかふざけてでも云えない。どうして那桜のほうが気を遣うのか、それはやっぱり自分がわがままだと思うからだろう。那桜は顔が引きつっていないだろうかと気にしながら、おもしろがった様を装って首を傾けた。
「そんなことないよ」
郁美が那桜と果歩の様子を窺いつつ、何を思ったのかあからさまにため息をついた。
「果歩、お昼は食べた?」
「人のを摘んできた。どうせ、郁美のことだから暇つぶしにデザート食べにいくつもりだろうと思って」
「さっすが。じゃあ早速、着替えてメイク直さなくちゃ」
そう云うなり。
「Eクラスの女子ぃ、着替えるんで鍵閉めますよぉ」
と、郁美は教室、それから廊下に出て声を張りあげた。
果歩は失笑しながら、持ってきたバッグから着替えを出し始める。郁美が大声で呼びかけたせいで、わたしも! という声が相次ぎ、教室は暑苦しいくらいいっぱいになった。
どやどやとした着替えのなか、その必要がない那桜は一足さきにメイクを直していく。丁寧にやって、最後の仕上げでくちびるにリップを載せていると、逸早く着替えを終えた果歩が那桜を向いた。顎を引いて上目使いにした様は、果歩のほうが背が高いゆえ、挑んでいるように見える。
「どうかした?」
「メイク、上手になったよねって思って」
「さっき郁美にも云われた」
誉め言葉と受け取ることにして笑みを浮かべると、果歩はちょっとだけ目を見開き、それから自分のバッグを開いた。
「ね、那桜、せっかく同じ髪型になったんだから写真撮らない? 双子って売りこむの」
携帯電話を出した果歩は、那桜の返事を聞くまえからカメラモードに切り替えている。
「売りこむって?」
「そこは冗談。いい?」
「いいけど……」
「わたしが撮ってあげるよ」
郁美が口を挟んで果歩の手から携帯電話を取りあげた。わさわさしたなか迷惑も顧みず、ちょっとだけ場所を空けてもらう。
「じゃあ……はい、えっち!」
郁美のとんでもない掛け声に吹きだしたとたん、シャッター音が鳴った。周囲でもくすくす笑いが発生している。
「郁美、いまの何?」
「だから、どうせ撮るなら笑顔がいいじゃない。はい、バッチリだよ」
突きだすように向けられた画面には、郁美の云うとおり、自然な感じで笑顔が並んでいる。顔のつくりが違っていて双子というには無理があっても、同じ髪型というカバー力で姉妹には見えそうだ。
「あとで那桜にもメールしとくよ」
「那桜ってば写真写りいいよね。果歩とタメ張ってる」
「郁美、もっと普通に喜べるように云えないの? そんな云い方だったら云ってくれないほうがマシだから」
少し顔を強張らせた果歩に気づき、那桜は遠回しに郁美に警告した。これでさっきの“美人三日”を持ちだされたらアウトだ。いくら郁美に悪気はないといっても、那桜と比較する以上、果歩は辛辣とも侮辱とも取りかねない。
「素直に喜べばいいんじゃない。那桜は選り取り見取りで大モテだし」
果歩が云ったこともまた喜べない発言だが、穏便にすますためにはもう喜ぶしかない。
「んー、じゃあ素直に取る。メイクしたときの顔、鏡見て自分でイケテルって思うときあるし」
開き直ると、郁美が笑いだした。
「そ。そういう瞬間に魅力的って思われるんだから」
「魅力的……ふうん。那桜は、例えば、いちばんでだれにきれいに見られたいって思うの? お兄さん? それとも広末くん、香堂先輩、東堂先輩、それから……和惟さん?」
果歩はいわくありげに間を置き、和惟をいちばん最後に並べた。
どう答えても那桜には不利になりそうな気がする。どんな影響をだれに及ぼしてしまうのか見当もつかない。
「拓兄はそういうことに関心がないから」
“それとも”からさきはまったく無視して返事をした。実際、髪形についてはそうだったし、メイクにおいても拓斗は気づいているのかどうか皆目わからない。そういうことに無頓着だからこそ、立矢のメイク講座もばれずに受けていられるんだろうが。
「あーそんな感じはするよね。でも、てことはやっぱり大好きなお兄さんに認めてもらいたいわけだ」
果歩はしつこく那桜から答えを引きだそうとする。なんだろうと思いつつも、否定することは今更でもある。適当にうなずいておこうと思った矢先、郁美が割りこんだ。
「果歩、さっきから決まりきったこと訊いてるよ。那桜はお兄ちゃん一筋なんだから。選り取り見取りは周りの勝手。ね、那桜」
「……そう。いまは郁美の云うとおり」
「いまは、って限定は何よ」
「郁美の好きな、“禁断”だから、だよ」
ノリのように軽い調子で返すと、不安なんだ、と郁美も乗ってきた。からかいながらもずばり那桜の心境を突く。
「たぶんね。じゃ、わたしもう行くね」
「あ、そうだよね――」
「郁美ー! もう開けてオッケー?」
がやがやしたなか、だれかが律儀にも、着替えの号令をかけた郁美に許可を求めた。
郁美が声のしたほうに向かう一方で那桜はリップをしまい、そのコスメポーチを入れようとバッグの口を開いた。と、ちょうどそのとき、果歩が小さく悲鳴をあげてテーブルにつんのめった。果歩が手をついた拍子に肘を押されて那桜のバッグが床に落ちた。しかも勢いがよすぎて転がるようにひっくり返ってしまう。
思わず出た「あ!」という那桜の叫び声は、郁美の「着替え終わってない人云って!」という呼びかけに掻き消された。
果歩のバッグはテーブルの上で横倒しになって、ペンケースやら中身がいくつか床に零れ、那桜の散らばった持ち物と混じった。
「那桜、ごめん。背中ちょっと押されたかも」
かがんだ那桜からちょっと遅れて果歩もかがんできた。
「いいよ。わざとじゃないし。急いでた子いたから」
「うん。謝ってくれてもいいと思うんだけど……はい、これ那桜のね」
転がるアトマイザーを追っているうちに、果歩はさきに那桜のを集めてくれたのか、ほぼ後ろという位置から手が伸びてきた。
「ありがと。あと、こっちは自分でやるよ」
「わかった」
そう答えた果歩はすぐ自分の物を拾い終えたようで、さきに立ちあがった。那桜は床をぐるっと見渡して拾い忘れがないことを確認すると、立ちあがってからバッグの中を整理した。
「那桜、大丈夫そう?」
那桜のバッグを覗きこみながら果歩が気遣う。こういうときは、よく那桜のことを気にかけてくれていた高等部の頃を思いだす。
どこで歪んでしまったのかはわかっても、なぜ修正できなかったのかはわからない。那桜と果歩、どちらに非があるんだろう。
「うん。大丈夫。じゃ、あとでね」
教室の出入り口に向かう途中で、そこから戻ってきた郁美と“あとで”という約束を交わし、那桜は廊下に出た。