禁断CLOSER#62 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -14-


 呼吸が繋がる寸前に見えたためらいは跡形もなく、那桜の口の中でキスと呼べるキスがもつれる。
 首筋から頭をすくうようにした手はしっかりと那桜を包んでビクともしない。かといって痛みはなく、手のひらは、綿菓子みたいに繊細なものを抱いていそうな気持ちを伝えてくる。
 躰から感覚がはぐれて漂っている――そんな錯覚のせいかもしれない。
 激しさをぶつけるようだった侵略はなだめるように纏いつき、それから離れがたいように静止した。
 ゆっくりとくちびるが離れる。そして、口もとにかかる息が確かに感じ取れるほどすぐ近くに止まる。
「大丈夫」
 那桜のくちびるが喘ぐようにしながらその言葉を象った。
 息はままならないけれど、いまはその息苦しさが気持ちいい。
 呼吸を確認しているんだろうと思ったとおり、那桜が吐息と紛うようなつぶやきを漏らしたあと、拓斗は徐々に離れていく。
 首筋から雪崩のように手が落ち、胸を掠めた。と思うと、ふくらみの真上で留まる。目を丸くして拓斗を見上げたすぐあと、伏せがちの眼差しが上向く。
「今日は……体調悪いの。終わりかけだけど」
 口早に云うと、わかってる、という返事がきた。
 確かに火曜日、もうすぐ始まるとは云ったけれど、始まったなんて一言も云っていない。わかっているなんて、そんな周期まで把握しているんだろうか。
 それとも単純に、いや、強かに、妊娠していないかということを確認するためにそうしているのか。けれど、いまは純粋にその気持ちが那桜のためだと思っていたい。
「食べたくなった?」
「なんのことだ」
「わたしのこと」
 本気半分でからかってみると呆れたのか、拓斗は視線をどうでもいい方向へと向け、また那桜に戻した。
「おれは依存症じゃない」
 皮肉なのか拓斗流のからかいなのか、判別はつかない。
「でも……」
 訂正しかけたそのとき、拓斗の携帯電話から音が流れてきた。

 那桜の胸を離れた手が、自分のシャツの胸ポケットから携帯電話を取りだす。拓斗が話し始めると、口調から相手が惟均らしいことがわかる。拓斗は、聞くなといったふうに那桜に背中を向けたものの、そうした必要はあったのかと思うくらい、電話は手短に終わった。
 携帯電話を閉じながら拓斗が振り向く。
「わかってる」
 拓斗からデート終了の宣言をされるまえに、那桜は自らで先導した。
 いつもなら不機嫌になるところだが、ポケットにしまわれる携帯電話が目に入って那桜の顔は自然と綻ぶ。
 二年まえのクリスマスは完全にいい思い出にはなり得ないけれど、拓斗に贈ったプレゼントは、携帯電話が換えられたいまもぶら下がっている。
「なんだ」
「ストラップ。大事にしてくれてうれしいなって思って」
「してないって騒がれるのは面倒だ」
 ほぼ予想したとおりの受け答えに那桜はまた笑う。
 拓斗はかすかに首を傾けてからベンチに戻った。缶を二つ取って、まだ飲みきっていないグレープフルーツジュースの缶を那桜へと差しだす。
 那桜は一口飲んで、先を行く拓斗を追った。
「今日の恥曝しは拓兄だから」
「望んだのはおれじゃない」
 拓斗にしては卑怯な云い訳だ。
「そ。わたしのせい。だって、拓兄は妹依存症だから」
 腕を組みながら那桜が見上げると、拓斗の目が見下ろす。気に喰わないと云いたそうに見えたけれど、結局、拓斗は何も抗議しなかった。

 青南大の南館に入り、駐車場に車を止めると窓を開けた。冷たい風が流れこんでくるが、つい今し方まで暖房をきかせていた車内にはちょうどいい。
 車の窓枠に右腕を預け、サイドミラーを見ていると、大学構内の閑散とした薄明かりのなか、彼女の姿が現れた。
 表情までは見られないが、約二年まえにあったうれしそうな雰囲気は消えてしまっている。
 わかっているだろうに、見切りがつけられないのは認めたくないせいか。
 何を?
 おれの気持ちが動かないということをか、それとも、何があっても譲れないおれの在り処を、か。
 まもなく助手席の窓がノックされた。覗いた顔に向かい、顎を少し動かして合図をすると、こもった音を立ててドアが開く。
「和惟さん、やっと会ってくれた」
 彼女は助手席に座るなり作り笑いを浮かべ、躰を斜めに倒して和惟を覗きこんだ。

 今日は十一月に入って三週目の金曜日、那桜から問い質された日以来、会うことはなくなって二十五日がたった。それまではなるべく一週間のうちに一度というペースを保ってきた。それが十分のときもあれば日中ということもある。十月の末、那桜が云ったことを拓斗から聞かされ、それから和惟はすべての連絡手段を無視してきた。
 それがどういうことか。彼女は察することができない――いや、わかろうとしない。

「会ったからって果歩ちゃんにとっては後ろ暗いだけなんじゃないか?」
「……なんのこと?」
「那桜は親友じゃないのか。それなのに陥れるようなことをしている。果歩ちゃんはそんな子だったかな」
 那桜の名を出したとたん、果歩の顔から作り笑いは欠乏した。
「だって……八月の最後の日曜日――ホテルで会った日は仕事だって云ったくせに、それは那桜の別荘行きに同行するためだったんでしょ。どっちが大事なの?」
 果歩から写真を見せられてすぐ、拓斗と隆大からの話で和惟はその際の状況を把握していた。隆大と那桜との会話のなかで、やはり果歩はあの日と結びつけていたようだ。それをいままで口にしなかったのは事実として知りたくなかったせいか。
「聞かないほうがいいだろう?」
「わたしは付き合ってるって云っていいの? それとも云ってくれるの?」
 果歩は尚も喰い下がる。
「それで、那桜のことってなんだ?」
 今日、会わざるを得なくした果歩の口実を口にした。果歩のくちびるがかすかに歪む。
「答えになってない」
「果歩ちゃんて、それが答えだとわからないほど頭悪かったかな。那桜のお喋りを聞いたかぎりじゃ、頭良いってイメージあったけど」
 歪んだ笑みを浮かべて果歩を見下すと、信じられないといった眼差しが返された。
「……和惟さんて“人”なの?」
「おれはきみが思ってるよりずっと“人”だよ。果歩ちゃんの尊厳は奪っていない。いい奴と巡りあったときに純潔を差しだすチャンスは残してるだろう? それに。二年まえ、おれのことは那桜から警告されなかった? おれは那桜に云われたからって、果歩ちゃんのことがどうでもよくないなら従わない。わかっていたはずだ。あのときは那桜と広末の関係を、すぐ近くにいる果歩ちゃんから聞きたかっただけだってね」
「いまさらどうしてそんなことを云うの」
 傷ついたような声に聞こえた。いや、”ような”はいらないだろう。和惟は非情にも首をひねって薄ら笑う。
「きみが認めないから。まあ、人のつもりだけど、それを疑われてもおかしくはない。欠陥人間だってことは否定しないよ。那桜にとっても、おれは鬼が住むか蛇が住むかっていうくらい嫌らしい生き物だから」
「嫌らしい?」
 語尾を捉え、怪訝にした果歩に向かい、和惟は形だけの笑みを浮かべた。
「それ以上は訊かないほうがいいんじゃないか」
 考えこむように眉をひそめ、直後には果歩の表情が泣き顔と見紛うほど(いびつ)になった。

「ほんとだったんだ」
「なんのこと?」
「那桜の相手がお兄さんじゃなくて和惟さんだってこと」
 かすかだが、今度は和惟が眉をひそめた。果歩の云い振りから、だれかに提供された情報だということは明らかだ。
 和惟のしかめ面は、外灯を頼るしかない暗がりのなか、おそらくは気づかれていない。極めておもしろがった口調を努める。
「そういう噂があるって?」
「あの日から和惟さんは触れてくれなくなった。別荘に行ったのはほんとに三人? お兄さんは本当にいたの?」
「別荘に行ったことは隆大から聞いたんだろう? 隆大がなぜ嘘をつかなきゃならない?」
 果歩は言葉に詰まったようにくちびるを咬んだ。そして、不意にアームレストに手をついて伸びあがると、和惟の口端にくちびるをつけてきた。
「無駄だ。触ってみるといい。どれだけ試そうが努力しようが、いつまでたってもおれは男として不能だから。云っただろう?」

 果歩の口が離れ、和惟はその左手を取って自分の股間に触れさせた。
 果歩が望み、はじめてそうさせたとき、どっちの触れ方が不器用かといえば、幼かった那桜と大して変わることはない。ただ、那桜の場合は、触れてもいないのに自ら反応した。和惟の心中は後ろめたくなるほどの劣情に侵されていた。
 那桜だから。すべてはそれに尽きる。そうわかってはじめてあの無力さに打ち克つことができたかもしれない。
 いまそこに神経を集中したところで、和惟には不快さしか生みださない。好きなようにさせていたが、またもや一向に反応しないと思い知らされ、果歩の手はやがて意思を失う。

「はっきり云ったほうがいいんだろうな。果歩ちゃんと、もう会うつもりはない」
 果歩の名を強調すると、きれいな顔立ちが歪んで崩れた。そこにあるのは悲しみか憎しみか、同情よりさきに懸念が集う。
「あの写真、ばら撒いていいの?」
「果歩ちゃん、それがきみの最大の失態だったって云ったら?」
 果歩は大きく目を開く。
「……どういうこと?」
「あの程度の写真はどうとでもできる。有吏を見縊らないことだ。幅が利くのは青南だけじゃない。たかがちょっといい会社の部長ではどうにもならないんだよ。どうにかなるのは、ひょっとしたら飯田家だ。それはともかく、多少は噂が残るだろう。人の口は()き止めきれないから。ということで、那桜をつらくさせるような奴はおれにとって下の下だ。おれ自身は例外だけど」
 声音はおどけた調子ながらも、その裏に潜む脅しに気づいたのか、果歩の表情は強張った。
「和惟さんは……希望を持っていいって……」
 果歩は力なくつぶやいた。
「希望に応えるとは云っていない。果歩ちゃんはおれを脅迫したんだ」
「そうじゃない! わたしは那桜がお兄さんを好きなんだってこと知ってほしくて、ブログでだって――!」
 果歩は云っている途中でハッとしたように言葉を切った。和惟は目を細めた。
「ブログ?」
「……兄妹同士っていう話、けっこうブログであるの。那桜ははっきりお兄さんを好きって云ってるし、それを知ったら和惟さんもあきらめられるかもって――」
 和惟はゆっくりと首を横に振りながら笑った。

「関係ない。果歩ちゃんの次元ではおれを量ることはできないよ。それに、脅迫は今回に限ったことじゃない。最初からだ。那桜を引き合いに出すかぎり、おれにとっては脅迫になる。あの日、おれが那桜のことで逼迫(ひっぱく)してたって知ってるだろう。広末の携帯番号なんて調べようと思えばたどりつける。ただ緊急で、果歩ちゃんがいちばん手っ取り早かった。それを逆手に取ったのはきみだ。脅迫に乗った理由はもう一つ、那桜がきみと拗れて落ちこんでいたから」
「……酷い」
「那桜にもよく云われる。悪いけど、いいかげんうんざりしてた。タイミングを計ってたら、きみのほうからきっかけを投げてきた」
 和惟は云いながらダッシュボードに置いた携帯電話を取りあげる。開いて動画を呼びだした。
「那桜のことはどんな手段を尽くしても収拾つけるけど、こっちは野晒しになるよ」

 再生ボタンを押して、果歩に突きつけた。
 一瞬、なんの映像かわからない様子だったが、携帯電話から、どう? という和惟の声がしたと同時に果歩は怯えたように目を見開いた。
『どうする。やめる?』
 動画のなか、そう訊ねる和惟に、果歩は淫靡に腰を揺らして答えを訴える。あくまで答えを求める和惟に果歩は叫び返す。
『……もっと!』
 それからの動画には、舐めるように全身を撮影された女と嬌声のみが蔓延している。映った女が果歩であることは歴然だった。
 呆然としていた果歩は、和惟の手を叩いた。携帯電話はダッシュボードに当たって足もとに落ちる。
 嗤うと、悔しさよりは絶望感を漂わせた目が和惟から逸れた。
「和惟さん、気をつけて。那桜を嫌いなのはわたしだけじゃないから」
 気をつけてという意味とは反対に、小気味悪さを感じさせる声だ。果歩はドアを開け、さよならも云わずに車から遠ざかっていった。

 和惟ははっきりと顔をしかめ、次には転がった携帯電話を拾いあげた。数回ボタンを押したあと携帯電話を耳に当てた。コール音が鳴るか鳴らないかのうちに衛守セキュリティと繋がった。
『お疲れさまです』
「ああ。調べてほしいことがある。急ぎだ」
『どうぞ』
「飯田果歩の電話とネットの通信履歴をすべて調べてくれ。欲しいのは直近だが、念のため八月まで遡ってほしい」
『わかりました』
「それともう一人、香堂有沙も頼む」
 了解です、と残して電話は切られた。和惟はゆっくりと携帯電話を閉じる。
 嫌な気分だ。
 漠然とつぶやき、口の端を拭った。
 しばらく案じるように顔を険しくしていたが、当面、那桜から目を離すな、とあらためて自分に刻みつけ、それからまた携帯電話を開いて明日の仕事の打ち合わせに入った。
 那桜からの呼びだしがかかったのは三〇分たった頃だった。

『和惟、いま終わった』
「ああ、いまからそっちに向かう」
 答えながらドアを開け、校舎へと向きを変えたとたん、視界の先に那桜を捉えた。和惟が気づいたことをわかったようで、那桜は返事もしないまま電話を切った。付き添っていた隆大と会話を交わすと、那桜は独りでこっちへとやって来る。

 十月最後の土曜日、何があったのか。
 それ以来、那桜はなんらかを脱皮したように少し大人びた。
 そして、拓斗もまた微妙に気配を変えた。
 幼い頃のように、いうなれば、そこにあるのは全面的な信頼か。
 那桜から和惟へとは向かうことのない気持ちだ。いつものように、ふたりの距離が近づくにつれ、和惟を見る那桜の瞳には不審が覗く。
 拓斗と那桜は着実に和惟が切望した方向へと歩いている。反対に、和惟はもっとも近づいた地点で那桜とはすれ違うしかなくなる。
 焦燥が湧いた。が、まだすれ違うのはずっとさきだ。
 那桜、それまでは確かにおれがいちばんだと誇る。

「おかえり」
「……ただいま」
 一瞬のためらいが示すように、那桜は不自然に離れたところでいったん足を止める。
「早く帰ったほうがいい。風邪をひく」
 そう云いながら和惟がゆっくり近寄っていくと、そうするのを待っていたように那桜も歩きだした。
「前夜祭まで一週間切ったけどうだ?」
「うん。ほぼ完璧。立矢先輩、これまでの伝統を無駄にしちゃいけないって必死だから」
 しかめた顔が目についたのだろう、那桜がため息をつく。
「和惟」
「なんだ」
「立矢先輩のこと、ちゃんと調べてるんだったら心配ないってわかるはずなの。わかってないとしたら、和惟も拓兄も、情報収集力は大したことないってことだから」
 那桜はへんに断言した。違うところで和惟は疑念を抱く。
「那桜、何を知ってる?」
「直感」
 呆れた返事と同時に合流した。

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