禁断CLOSER#61 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -13-


 那桜に続いて車に乗ったあと、拓斗はシフトレバーに手をかけただけで、すぐにはギアチェンジをせず留まった。ほんの十秒くらいのことで、やがて車はブレーキが解除されて発進した。
 席の真ん中にあるアームレストを倒してそこに拓斗が左腕を置くと、那桜は腕を組むようにしながら手を絡ませた。拓斗の目がちらりと重ねた腕におり、那桜の顔を経由して正面を向いた。
 言葉がないぶん、触れて、それが拒絶されないと安心する。――違う。妹だからこそ、言葉よりも触れていられることのほうが格段に心強い。
 拓斗の中で那桜がどんな位置にいるのか、それはわからない。ただ、切る意思があっても断ちきれないくらい拓斗の中に那桜が(あざな)っていて(ほど)けないでいる。そう漠然と信じていたことに立矢が()りどころをくれた。
 妹で、それなのにその枠に括れない繋がりを結い、そしてそんな気持ちが確かに拓斗にあるのなら、ふたりの躰の間も想うことの間も、真の意味ではだれも(つんざ)くことはできない。
 何重にもなった扉を抉じ開けてきて、ひょっとすれば最後の扉はすぐそこにあって、その解錠コードが手に入れられるのももう少しのような気がする。ダイヤルを回すのはあと一回ですむのかもしれない。
 けれど、ここにきて怖気づいた。
 どうせ行き止まりなら、心底(しんてい)を知るよりも、知りたいと願っているまでのほうがいい。そうしないと、離れなければならないということが理解できなくなる。

「なんだ?」
 不意に声がかかって那桜はハッと拓斗を見上げた。
「え……」
 びっくり眼の那桜を向いた拓斗の目が絡んだ腕におりた。見ると、指先が皮膚に喰いこんでいるんじゃないかと思うほど、拓斗の腕を強く握りしめていた。
「あ……」
 慌てて緩めると拓斗の目がまた那桜に留まる。それから前を向くと、ちょうど赤だった信号機が青に変わった。
 車が動きだし、ふと外を気にかけて見れば、いつもの帰途と変わらない風景が流れている。あと五分もすれば家に着く。緩めていた手にまた力がこもり、爪がシャツの上から拓斗の腕を引っ掻いた。
「拓兄! 酷い。デートしてくれるって――」
「どこでもいいって云ったのはおまえだ。家に帰るわけじゃない。近くというだけだ」
 抗議をさえぎり、拓斗は痛い素振りも見せずにただ那桜の思いこみを打ち消した。直後、交差点に入った車は家とは逆の方向に折れた。
「近く? どこ?」
 短い質問を重ねて答えを待つうちに車のスピードが落ちていく。交差点を曲がる手前にあった交通標識は行き止まりを表示していたが、そのとおり道路は途切れた。まっすぐ向こうにはなんらかの敷地を示す門柱があり、その間を抜けた先には駐車スペースが見えた。
 通りがてら、那桜は門柱に刻まれていた文字を読む。“水辺公園”とあった。敷地内に入って様子を窺えば、水辺というイメージからくる水源は見えないけれど、公園という見当は外れていない。

 拓斗は駐車場のいちばん奥に進んで車を停めた。
 那桜は早々と車を降りて、ドアを開けたまま一回り見渡した。駐車場のがら空き具合が表しているように、よくいえば風情のある、悪くいえば(しな)びた公園だ。
「わからないか?」
 車を回ってきて那桜の前に立った拓斗が出し抜けに問いかけた。
 拓斗がめったになく話しかけてきたうえ、その質問の意味自体がわからないで那桜は首をかしげた。
「なんのこと?」
 その答えはいつまでも返ってこない。
 ただ、拓斗の瞳は那桜の瞳を貫くかのようにまっすぐだ。捕えられると放せなくなる。そんな眼差しに合うのは、もしかしたら那桜だけだろうか。そう思ってしまうほど、いまの拓斗の瞳は強く、密かな心中を映してみえた。
「行くぞ」
 ふたりともが微動だにせず静止したような時のなか、拓斗は交わる視線を無理やり剥がすようにして躰の向きを変えた。独りさっさと歩きだした拓斗に反応できないでいるうちに、ふと拳をつくった手が目に入る。
 那桜は車の中を見やって少し迷ったすえ、バッグはそのまま置いてドアを閉めた。
 小走りで拓斗に駆け寄ると、那桜は拓斗の左手に触れた。車のキーを持った右手ならともかく、何も手にしていないのに思いのほか強く握りしめられていて、いつものように簡単には手が潜らせられない。
「拓兄、どうかした?」
 那桜は両手で拳を包んで覗きこんだ。拓斗の足が止まり、伴って左手は緩んだ。
「どうもしない」
 その言葉を態度で表すように、不手際なく拓斗は後ろを振り返って車のドアをロックした。そして、左の手のひらに重ねた右の手のひらがすっぽりと包まれた。
 拓斗が先に一歩を踏みだし、ワンテンポ遅れて引かれるように那桜も歩きだす。

 駐車場と公園の敷地は、低いレンガの花壇で仕切られていて、砂利ふうのアスファルトが奥へと導く。歩道はしばしばひびが入って雑草が生えている。背の低い木が一定の並びで配置されているが木を取り囲む芝生は枯れかかっていて、そのかわりに雑草が活き活きと緑を発色し、瑞々しさがかろうじて感じられる。
 それらはどう見ても萎びているのに、なんだろう。風情というよりはノスタルジックという心地が那桜の中をいっぱいにする。
 カーブを繰り返す歩道に沿い、奥へと入っていくと、たまにある背の高い木が邪魔していたのか、突然で一際大きな銀杏の木が目についた。
 那桜は思わず立ち止まった。
 知っている。何かを考えているわけでもないのにそんな言葉が浮かんできた。脳裡では、目に映っている光景とは違う映像が再生される。

 銀杏の葉が揺れる。白んだ空。澄んだ緑。光る水滴――落ちる。息苦しく開けた口の中を滴が潜り、蒸発した熱が昂がる。繋いだ呼吸。その呼吸が囁く。
 耳に届くスペルは――忘れろ。
 ――おれが覚えてるから。全部忘れろ。おれは……さない……。

「那桜」
 拓斗の声が頭の中の声をさえぎった。びくっと躰を揺らしたとたんにすべてのイメージが消えてしまう。振り仰いだ拓斗の目は心なしか探っているように見えた。
「拓兄……ここ、一緒に来たことある?」
「おまえが覚えていないという頃はよく来ていた」
 あっさりとした返事とは裏腹に、那桜の手はきつく縛られる。
「ふたりで?」
「子供だけのときもあれば母さんたちがいたこともある」
 ついさっき、脳裡にあったのはふたりだけというイメージだった。いまの声とは違うけれど男の子は声がわりする。だから、拓斗だろうかと思ったのに、拓斗自身の返事で曖昧になった。
「おまえの好きな池はもうちょっと先に行けば見える」
 拓斗は強引なほどに那桜の手を引っ張った。まるで、那桜の思考を中断するかのようだ。
 仕方なく、さらに歩いてみると、銀杏の木よりかなり手前に広々と柵で囲まれた人工池が開けた。少し低地になっているようで、歩道は緩やかな下り坂に変わる。
 拓斗はその途中にある階段をおりて近道をした。そして階段の脇にある自動販売機の前で立ち止まる。
「どれだ?」
「えっと……グレープフルーツ」
 ちょっと迷ったすえ指差すと、拓斗は那桜の手を離してコインを投入した。
 手渡された太っちょの缶を持って那桜は、独りでに池を目指した。背後ではまたゴトゴトと音がして、拓斗が何かを買ったんだとわかったけれど、止まることなく歩いた。なんとなく足が急く。
 こういう自然ぽい場所に来るのは久しい。夏の別荘を除けば覚えがないくらいだ。拓斗が知っているようにもともと水流が感じられるのは好きで、家のリビング前に庭園があるのだが、そこに水路が設けられたのは那桜のためといっても過言ではない。
 足が(はや)るのと並行してわくわくした気分も表れる。その気持ちのままにかすかに笑みを浮かべて辺りを眺め回した。
 銀杏の木から池を挟んで反対側には、高めの木が点々とするなかに小振りのフィールドアスレチックがある。池の周囲に沿って四分の一くらいのスペースを占めている。子供たちの影が見え、時折あがる甲高い歓声はこの公園内で唯一の音といっていい。

 池の柵までもう少しというところで那桜は後ろを向いた。
 すると、てっきり後ろを来ていると思っていた拓斗は自動販売機から一歩も進んでいなかった。しばらく待ってみたけれど、佇んだまま来る気配がない。
 ちょっと首をかしげ、それから那桜は駆けだした。
「拓兄、どうかした?」
 二度目。何がそう那桜に云わせるんだろう。拓斗の目の前に立ち止まり、那桜はわずかに息を切らしながら同じセリフを吐いた。
 拓斗は首をひねっただけで、それからとうとつに歩きだした。那桜も倣って拓斗の横に並び、腕に手をかけた。
「拓兄、ありがとう」
「なんのことだ」
「薄くても少しくらい記憶があってもいいと思わない? だから、覚えてないこと教えてくれてうれしいって思って」
 拓斗の腕がピクリと反応した。
「……覚えているからといってなんになる」
 微妙なしぐさはなんだったのか、一歩踏みだして斜め前から見上げると至って素っ気なく返された。返事を復唱するかぎり、那桜のもったいない発言を受けてのことではなく、ただの気まぐれらしい。
 那桜はそっと、内心では大きく、ため息をついた。
「拓兄は覚えてるからわからないんだよ。もともとが拓兄はわたしのこと、わたしより知ってるよね。拓兄、わたしが生まれたとき、どう思った?」
 すると――まただ。手のひらの下で腕が微妙に反応した。
「覚えてない」
「五才くらいのことって忘れるもの?」
「よっぽどのことじゃないかぎり覚えていられない」
「……酷い」
 拗ねて手を離すと、ちょうど池のほとりへとおりる短い階段に差しかかった。拓斗はさっさと先に進み、柵を背にして設置されたベンチの一つに座った。那桜はあとに続いたものの、癪に障ってベンチには行かず奥の池へと近づいた。

 池の水は濁っているかと思いきや、意外にも循環しているようで澄んでいる。池というよりは小さな子でも水遊びができそうな浅い水溜まりだ。噴水や、向こう岸に渡るために大きな石をごろごろ置いた場所も設けられている。
 周りを見渡すと、池の周辺にもアスレチック場にも、子供たちの親だろうか、ちらほらと大人の姿が見えた。一組だけ若いカップルがいる。当然だけれど仲がよさそうだ。
 わたしと拓兄はどう見えるんだろう。そんなことを思った直後、つい今し方の妹軽視発言を思い起こし、那桜はがっかりした気分で口を尖らせた。せっかくのデートなのに。
 那桜は短くため息をついて引き返す。ちょっとした苛立ちのまま拓斗の上にのっかろうかと思ったけれど、“近所”ということもあって思い止まった。そのかわり、明らかにへんだとわかっていながらベンチの隅っこで拓斗に背を向けて座った。
 せっかくでも自己主張は譲れない。さっきみたいに拓斗から話しかけてくれたら許してもいい。
 ジュースを飲みながらぼんやりと子供たちを眺めていると、仲よさそうな女の子たちが目に入る。もしかしたら姉妹かもしれないけれど那桜は勝手に友だちと位置づけ、それとともに今日、立矢と話したことが脳裡で表面化した。

「拓兄」
 那桜はつぶやいた。結局、沈黙を破ったのは那桜だ。冬が近づいていることを知らせる、ほんのりと冷たい風に流れて、後ろにいる拓斗には声が聞こえなかったかもしれないと思っていると。
「なんだ」
 と、那桜と同じくつぶやくような問いかけが返ってきた。
「和惟の背……」
 云いかけてすぐやめた。揺るぎない事実になったら、自分の躰が汚されたような不潔感が仮初(かりそ)めじゃなくなるだけだ。
「やっぱりいい」
「和惟がなんだ」
 拓斗は流すことなく追究してきた。はぐらかすなという声音が潜んでいるような気がした。
「……拓兄、友だちいる?」
「付き合う暇がない」
「戒兄は、拓兄と同じくらい時間がなくても暇をつくってるよ。いまのデートだって急だし、時間空けたんだよね? ってことは付き合う暇なんてつくれる」
「面倒だ」
 お馴染みの答えが返ってきた。つまらないほど端的でマイナス志向な返事なのに機嫌をよくしてくれるとは、那桜に関するかぎり拓斗は天才的な手法を持っている。
 那桜は立ちあがると拓斗の傍に行った。左側を空けてくれるのは無意識になっているのか、那桜は不必要なまでに腿をくっつけて座り、間に挟まった拓斗の左腕を持ちあげて自分の肩を抱かせる。それが解かれないように左手同士、胸もとで繋いだ。見上げると、なんだというような目が向いて、那桜はくすっと笑う。
「マフラーがわり。あったかい」
 肌寒くはあるけれど、日当たりは良好でマフラーがいるほどではない。ただ、ちょうど腋のところに頭が収まって気持ちが温かくなれる。
「和惟がなんだ。友だちの話とどう繋がる」
 眠れそうなくらいに心地よかったのに、満ち足りた時間は五分もせずに拓斗が終わらせた。
 普段なら那桜が喋らなければ知らんぷりしているくせに、和惟の名は聞き捨てならないらしい。

 ――おまえにとって和惟はなんだ。
 拓斗に閉じこめられた日の言葉が甦る。そう質問した意味は、いまは那桜にもわかっていて、それは独占欲にほかならない。そのくせ、自分の意思で和惟に触れさせる。その意味もわかる。切る意思を築くためだ。
 そうしなければならないほどに拓斗は那桜に絡んでしまう。その理由――否、もう理由なんていらない。
 那桜はその先の扉を開こうとする自分を戒めた。
 そうしながら、また一つ思いだした言葉は、あやふやに脳内によぎった男の子がつぶやく音にピタリと合う。
 ――許さない。
 なんのことだろう。

「那桜」
 また拓斗が那桜の思考をさえぎった。
「……うん。和惟と果歩のこと……覚えてる?」
 ためらいがちに那桜は口にすると、肩に載った拓斗の腕がピクリと動いた。
 覚えていないはずはない。そのことが発端で拓斗と那桜は境界線を壊して純血を交わらせた。
「……写真のことなら和惟から聞いた。ぼけてるし、合成とか、なんとでも切り抜けられる。もし曝されることになっても噂くらい我慢しろ。おまえが仕掛けたことだ。そういう目に遭いたくないと思うんなら二度とやるな」
 容赦なくてもまったく拓斗の云うとおりで那桜の責任に違いない。
「和惟もなんとかするって云ってた。でも、そんなことじゃなくて……。和惟は……カノジョだって云わなかった?」
「なんのことだ」
「だから、果歩のこと。もしかしたら和惟は果歩と付き合ってるかもって思ったの」
 那桜は固唾を呑んで返事を待った。
 拓斗は答えるよりさきにベンチに持たれていた背を起こし、同時に那桜の手から自分の手を引き抜いてマフラーの役目を降りた。
「その友だちに訊けばわかることだ」
「……そうでも、ずっと黙ってたんだとしたら……!」
「だとしたら、なんだ」
 拓斗を振り仰ぐと、那桜を見下ろした目は睨むように細くなっている。実際は表情としてあるわけじゃないのに(なじ)られているような印象を受けた。
「だって……裏切られた気分にならない?!」
「一度、(こじ)れたんだ。二度目があってもおかしくはない。裏切られたんなら付き合いをやめるという選択があるだろ」
「そういうこと簡単に平気で云えるのは、拓兄に友だちがいないから!」
「無理して付き合う必要がどこにある? 友だちは果歩って子だけじゃないはずだ。少なくとも広末はおまえを裏切らない。さっき、あいつはそう宣言したんじゃないのか」
 淡々とした説得のなかに、疑問に思っていた答えが見つかって、拓斗が考えている優先事項が見えた気がした。
「拓兄は和惟と果歩のこと知ってたの? だから翔流くんのこと認めてるの?」
「おまえが云う意味で、付き合ってるということに関しては知らない。那桜」
 拓斗はとうとつに呼びかけた。そこで区切られたことで何か思わしくないことを云われそうな気がして那桜は身構えた。
「何?」
「友だちに裏切られたことが嫌なのか、それとも――和惟に裏切られたことが嫌なのか、どっちだ」
 全然言葉は違うのにどこか似た質問をほんの数時間まえにされた気がする。息が詰まるようなもやもやした気持ちになった。
「……どうしてそんなこと訊くの?」
「和惟はだれと付き合おうが、那桜、おまえを見棄てることはない」
 和惟についてではなく、聞きたくない拓斗の本音をほのめかされたように感じた。

 那桜はいきなり立ちあがり、突かれるように三歩進んで止まった。くるりと振り向くと、拓斗の射抜くような眼差しが那桜の瞳を捕える。もしかしたら那桜の眼差しもそうしている。
「拓兄は見棄てることがあるの?」
「和惟がいる。それでいいんじゃないのか」
 平坦すぎる声はどう捉えればいいんだろう。
「どうしてそう云うの? 拓兄のかわりなんてだれもできない。戒兄とは全然違うのに。わからないはずない! 拓兄はずっとわたしのお兄ちゃんで……」
 そこで途切れた。同じ言葉をどこかで云った。那桜はつと横を向いて銀杏の木に目をやった。そうしたとたん、だれも触れていないのに、濡れそぼつ躰に纏われているような感覚に襲われた。
「那桜」
「拓兄は……ずっと……わたしのお兄ちゃん……」
 那桜は繰り返しながら、銀杏の木から引き剥がすようにして拓斗に目を戻した。
「だけど、“お兄ちゃん”を超えても、それがあたりまえだって思えてるの。それがわたしの全部!」
 拓斗がゆっくりと腰を上げ、それから那桜のほんの目の前に立った。見下ろしてくる瞳は濁っているかのようにかげっている。
「那桜。何を思いだした?」
 那桜は銀杏の木を見る。そこには行っちゃいけない気がした。拓斗がそう望んでいるから。
「何も。でも……忘れろ、ってだれかが云ってる」
「那桜、おまえはずっとおれの云うことをきいていればいい」

 まえにも拓斗は云った。
 それがわたしのすべて。
 拓斗はそうも云った。
 それは余計なことなんかじゃない。
 その心底がわかった気がする。
 ――(こいねが)う。

 那桜はまた拓斗を見上げた。
「拓兄、そうしてるよ? これからも。だから、拓兄もわたしのことを考えていて。わたしじゃない人を抱くときも。そうしてくれたら我慢できる。拓兄がやらなきゃいけないことの邪魔なんてしないから……だから、ずっと抱いて」

 死という離別の瞬間がくるまで、ずっと。
 込めた意味はきっと通じている。
 見上げた瞳と見下ろす瞳が糾う。
 那桜は口にすることも迫ることもしないで叶うのを待った。
 互いの瞳が互いの視界を埋め尽くすほど、ほかの存在が薄れていく。

 瞳が近づく。
 間近、一瞬だけ止まる。
 目を伏せたのとどちらが早かったのか、拓斗のくちびるが、傷つきそうなほど強く、希う那桜に答えた。

BACKNEXTDOOR