禁断CLOSER#60 第2部 破砕の扉-open-
5.迸出-Gush- -12-
ずっと――あの別荘で還った拓斗の気持ちの中に、そんな言葉が紛れこんでいるとしたら。
仮定してみるだけでうれしくなるのに伴い、だれにも譲りたくない欲深な非望が現れる。
わたしじゃないだれかがわたしみたいに拓兄の躰に収まるなんて。
理解、なんてできない。
那桜は内心でつぶやいた。一歩も進めないような気持ちが心底に痞える。
それなら、拓斗の本心なんて知らないほうがいいのかもしれない。
「でも、さっき立矢先輩は、有沙さんがわたしの本命は和惟だって思ってるようなこと云わなかった?」
「それが本当ならいい。けど、違うだろう?」
それがどういう意味なのか、立矢の眼差しはますます警告を増した。那桜はごまかすように首をかしげる。
ふざけてブラコンだと云っているうちはいい。何が怖いかというと、実情が知れて拓斗とのことを壊されてしまうことだ。
「わたしと拓兄は兄妹だから」
「おれと姉さんの間にあったことをいま聞いたはずだ。兄妹というのは姉さんにとって除外理由にはならない。おれにとってもね」
那桜をさえぎり、挙句に付け加えられた言葉は、立矢の告白が那桜と拓斗の超えてしまった関係を前提として打ち明けられたのだと裏づけた。
「……そうでも、有沙さんが思いこんでるなら大丈夫じゃない?」
「それがどれだけ危うい思いこみかわかってないね。那桜ちゃん、衛守さんと飯田さんの関係は何?」
「……え?」
「ケータイ写真の日付は十月三日。姉さんが飯田さんに目をつけた日だ」
「目をつけた?」
「迎えが一緒になって、そのとき飯田さんもいたんだろう? 隆大から飯田さんがだれなのか聞きだしたらしい。那桜ちゃんの情報を得ようとしてる姉さんはともかく、飯田さんがどういうつもりで姉さんと接触を続けているのかまったくわからない。後期が始まってすぐ、那桜ちゃんから飯田さんを紹介されたとき、ふざけ半分だったけどおれは那桜ちゃんを狙ってるって云った。少なくとも飯田さんは、おれが那桜ちゃんを気に入ってると思ってるはずだ。それでも姉さんと連絡を取り合っている。姉さんに那桜ちゃんへの好意がないとわかっていながら、だ」
「拓兄と有沙さんが付き合ってたってことも知ってて、だから、わたしが有沙さんを好きじゃないことも知ってる」
那桜は心許なく口を挟み、立矢はそれを受けてうなずいた。
「飯田さんは、姉さんがおれに話すことはないと思ってるのか、ちょっと神経を疑わざるを得ない。確かなのは、飯田さんが衛守さんとなんらかの関係があるとするなら、そのうえで飯田さんの意図が働くなら、それを知らない姉さんの思いこみは覆ることもあるということだ」
「……果歩は和惟のことをなんて云ったの?」
「何も云わないから、那桜ちゃんなら知ってるかもしれないと思って訊いたんだ」
那桜は横に首を振った。探るように那桜を見ていた立矢は短いため息をつく。
「果歩が和惟のことを好きなのは知ってる。ずっとまえ……高校のときだけど、果歩の気持ちを無視してわたしが和惟との間を壊しちゃったの。和惟も立矢先輩と同じで本気にならないから、守ろうとしたつもり」
立矢は眉を跳ねあげ、しばし考えこむようにしたあと、ゆっくり首をひねった。
「飯田さんにしたら出しゃばりってことになるだろうな」
「わかってる。翔流くんにも云われた。果歩とはしばらくうまくいってなかったし」
「だろうね。けど……那桜ちゃんは飯田さんを守ろうとしたのかな」
何か見極めようとするかのような眼差しが那桜に注がれる。
「……え?」
「やっぱり不思議な関係だなって思ってさ。色の関係は知ってる? 光の三原色と絵具の三原色。基本の色はちょっと違うけど、三つの有彩色が重なると、光は白に絵具は黒にっていう無彩色になる。那桜ちゃんを見る目は二色あって、那桜ちゃんはそのうちの一色と混じり合う。二つの色は彩度を最大値にする“純色”を生みだす。そこに三番目の原色が混じると純色とは真逆の無彩色に変わる。つまり色は無限大。云いかえれば三色以外に必要な色はない、ってね」
「……よくわからないけど、立矢先輩は色に詳しいんですね」
「メイクは色で自在に雰囲気を変えられるよ」
立矢はからかった口調でもっともなことを云い、それから真顔に戻った。
「飯田さんを跟けたことがあって、衛守さんと合流するのを見た。今週の月曜日、食堂で会ったよね。あの昼休みもそうだ。おれが離れた直後に一人抜けだしてたから後を跟けた。ふたりが付き合ってるとしてもおかしくはない。ただ、何回か衛守さんと那桜ちゃんが一緒にいるのを見てるけど、雰囲気が違うんだよな。簡単に表現するなら、飯田さんといるときの衛守さんは素っ気ない。何も知らない他人が見たら、衛守さんのカノジョをどっちかと訊いたときに選ばれるのは百パーセント那桜ちゃんのほうだ。食い物の恨みは恐ろしいって云ったけど、恋愛の揉め事もそうだ。気持ちが係わっているぶん余計にね」
「わたしにはわからない。でも、覆ったからって、有沙さんにとってわたしはもう意味ない。拓兄には決まった相手がいる。それは、あたりまえだけど、わたしじゃないから。このことは聞かなかった? 直接、拓兄が有沙さんに伝えたの。有沙さんはそれでもあきらめてないみたいだけど」
「そのとおり、姉さんはどうにかなると思ってる。どうすると思う?」
立矢のほのめかした云い方は、すぐ那桜に思いつかせた。
「同じことを?」
立矢の眼差しが肯定を示した。
「立矢先輩はまた有沙さんに従うの?」
「那桜ちゃんを誘惑しろと云われたけど、逆らえない理由はおれの中にはない。“香堂”に関しておれが失うものは――執着するものはもう何もないんだ」
「誘惑って……」
那桜は初対面のときを思いだせるかぎりで素早く回想した。立矢の一言一言はすべて誘惑という使命のもとにあったのだろうか。
「姉さんはいつでもおれが従うと思ってるけど、そんな気持ちは香堂というステータスを捨てた時点で失くした。いまははっきり優先事項は変わってる。那桜ちゃんが那桜ちゃんじゃなかったら、おれが動くことはなかった。口出すことも」
「わたしがわたしじゃなかったら?」
「はじめて会ったとき、姉さんから聞かされてた“仲のいい”兄妹っていう先入観を除外しても、昔のおれと同じ匂いを感じたかもしれない。拓斗さんにも」
「拓兄?」
「そう。立ち尽くしている感じだ。進むことも引き返すこともできない」
それはついさっき、那桜の中に生じた敢えなさだ。そして、会社での秘め事の最中、那桜をどうすることもできなかった拓斗もまた同じ。
「立矢先輩の云うとおり。たぶん……もう行き止まりなの」
「行き止まりなら、思いきりぶつかればいいのに」
立矢はけっして安易に云っているのではない。それがわかるからこそ応えられなくて、笑みを浮かべながら那桜は首をすくめてかわした。すると、立矢も可笑しそうに口もとを歪めた。
「って、応援してどうするんだ。那桜ちゃんを手に入れるチャンスなのにな」
「わたしはだめ」
無意識といっていいほどきっぱりと飛びでた拒絶は、翔流にそうしたときから変わっていない、もしくは翔流が云ったように“絶対”になっているのかもしれない。それは、なぜか那桜を心細くさせる。
「複雑だな」
なんのことか、立矢はがっかりしたような、からかうような曖昧な声でつぶやいた。
「拓兄の決まった人に気をつけてって云わないと」
那桜がおどけたように肩を軽く上げて云うと、立矢は逆に憂えた顔つきになった。
「それってだれ?」
「知らない。……というより、知りたくないかも。そんな話が家で出ることもないし、まださきのことかな。だから、当分は大丈夫じゃない? わたしは論外だし」
「那桜ちゃんて楽観的だな」
「楽観してるわけじゃないんだけど、さっき立矢さんが云ったこと――簡単なことなんてなくて複雑なことばっかり。だから、面倒なこととか嫌なことは後回しにしちゃうことがよくある。行き当たりばったりなことも多いかも」
「やっぱり本能で動いてるみたいだ。そういうふわふわして捉えどころのない感じがかまいたくさせるんだろうけど」
「そう? いつも反省してる。でも、有沙さんのことは楽観じゃない。有沙さんが暴走したって拓兄相手じゃ、どういう結果になっても無理。立矢先輩のとこに来た男の人と違って、拓兄は決められたことを貫くと思う。有沙さんは何をやっても拓兄を手に入れられない」
立矢は那桜の考えを否定するように首を振った。
「那桜ちゃん、問題はそこだ。どうにかならなかったら、姉さんは拓斗さんの弱点を突く」
「拓兄に弱点てないと思うけど」
「……。那桜ちゃんがそうだろう? 最大にして唯一の弱みだって、おれなら見る」
思ってもみなかったことを立矢は断言して那桜を驚かせた。
「……そうなんだ」
「自覚ないんだ」
「いい意味?」
「悪い意味って何?」
「行動制限されるくらい、ずっと守られてるって云ったでしょ。それって義務感ぽいし、その流れで弱点になってるのかも。わたしが危ない目に遭ったらプライド潰れるんじゃないかって。それは拓兄だけじゃないけど」
「それだけのことなら、何も家の中でまで見張っている必要はないんじゃないかな」
「……そうしてた?」
「見張ってるという言葉がズレてるくらいに」
「……そうなんだ」
ふと見れば目が合う。それはそういうことだったんだ。
那桜がまた同じ言葉を、今度はしみじみとつぶやくと立矢が笑う。
「立矢先輩、ありがと。いちばん、て自信が出てきた」
「自信じゃなくて」
「気をつけること。わかってます」
すかさず那桜があとを継ぐと、鬱結した気配も空元気ではなく晴れた。
*
「やっぱ化粧で変わるんだな」
正門の近くにある駐車場に向かいながら、横に並んだ翔流が那桜を見やった。
稽古場はまだ活動中だが、翔流がいることもあって那桜は早く帰ることにした。翔流だけ帰せばいいことだが、立矢と話したことを聞きたがっているのが見え見えで、那桜は無言でせっつかれたのだ。
「いい感じ?」
「一言でいえば元気って感じだ」
そのとおり、仕上がりを一目見て思ったのは健康的だということだ。蒼白さが消えて肌色が温かく変わった。
「うん。立矢先輩、メイクアップアーティストを目指してるって云ってたし、いまのうちに習っておく」
「は? フレビュー継ぐんじゃないのか。経済にいるんだし」
翔流は頓狂な声で那桜をまじまじと見つめた。
「フレビューに愛着はあって、卒業したら美粧スキル部門ていうとこに入る予定らしいけど、継ぐ気持ちはないみたい。噂のことで迷惑かけることも考えられるからって」
立矢は父親との関係については和解まで漕ぎつけていても、ステータスを捨てたと云ったとおり、立矢自身にその気がまったくないようだ。けじめの一つなのかもしれない。
「あの噂のこと、兄貴には話してるんだろうな」
翔流は眉をひそめ、渋い声で訊ねた。
「話してない。でもわかってるみたいだから」
那桜の返事に不満なようで、顔をしかめた翔流は、次にはため息をつく。
「あいつとは何を話したんだ?」
「いろいろ。噂は噂でしかなかった。人だからいろんな事情ある」
それは自分にも当てはまることで、もしかしたらただの云い訳にとられる。那桜と拓斗の関係について立矢は理解を示しているようだけれど、それは自分の経験があってのことで、現実は嫌厭されるのが落ちだ。翔流もまた理解はしているけれど認めているわけじゃない。人だから、と片づけるのも逃げ言葉の乱用かもしれない。
「香堂先輩の姉貴は?」
「も一緒。わたしはやっぱり好きじゃないから受け入れたくない事情だけど。拓兄たちがきっと考えてるよ」
必要に迫られているという和惟の言葉がそれを保証している。有沙のことが気に入らない気持ちは変わらないけれど、立矢との話の中で争うに値しないことを教えてもらった。
「……大丈夫なのかよ」
「立矢先輩は大丈夫だよ。わたしの目が節穴じゃないなら」
「その返事、全然大丈夫じゃねぇ」
投げやりな口調に那桜は笑った。
「有沙さんに気をつけてっては云われたけど。翔流くん……友だちに裏切られたことある?」
正面を向いていた翔流が怪訝な面持ちで那桜を見下ろした。
「なんだよ、いきなり」
「わたしってこんなだから、友だち付き合いがヘタっていうか、どこかずれてるのかなって思って……あー友だちに限らないことだけど」
翔流の表情がだんだん険しくなっていって、那桜は取ってつけたようなことを云い加えた。
「んなもん、決まった付き合い方なんてないだろ。裏切られたってなんだよ」
「あ、それは極端に例えただけ。人と付き合うのに境界線がわかってないなって不安になってる」
「ふーん。境界線わかってないってのは云えてるな。けど、ヘタっていうよりは遠慮がないっていうか、こっちとしては那桜にはかまえなくていい」
「それは翔流くんだから?」
「他人のことはわかんねぇよ」
それもそうだ。自分のこともよくわかっていないのに。
「あ!」
ふと顔を上げた瞬間、那桜は小さく叫んだ。
「どうした……」
那桜の視線を追っていた翔流の言葉は尻切れに終わった。
「兄貴か。那桜、おまえって露骨にうれしそうな顔するよな」
「いまは自信ついてるからかも」
「自信?」
「そう。じゃ、翔流くん――」
「挨拶くらいする。久しぶりだし」
「立矢先輩と会ったこと内緒だから」
「だろうな」
翔流は呆れたように相づちを打ち、それからふたりは心持ち急ぎ足で駐車場に向かった。
拓斗はかすかも動くことなく、運転席のドアの傍に立って那桜たちが近づくのを眺めている。その立ち姿はなんとなく不穏さを感じさせる。
「こんにちは。お久しぶりです」
翔流が軽く一礼すると拓斗はうなずいて応じ、那桜を垣間見てから口を開いた。
「面倒かけているようだな」
「ご心配なく。那桜の意思は尊重してますから」
どことなく互いのセリフに刺があると思うのは気のせいか。拓斗が首をひねるのも挑んでいるように見えた。
「なんのことだ」
「おれは信用されていると思ってるし、何があるとしても那桜のためであるかぎり裏切る気はありません。けど、間接的にしろ、那桜を痛めつけるようなことをされるとしたら約束できない。目下の問題として、簡単にいえば、信用できない奴がいるってことですよ」
「翔流くん!」
「あらためておれが何を云う必要がある?」
那桜がそのさきを止めた直後に拓斗が回答を発した。
「ですよね。期待してます。じゃ那桜、月曜日な。失礼します」
訳のわからない挑発の応酬は一方的に終止符が打たれ、翔流は会釈をするなり軽く手を上げて正門へと立ち去った。
「……拓兄?」
翔流の後ろ姿を追っていた拓斗の目が那桜を向く。
「乗れ」
那桜がついてくるものと思って拓斗は先立って助手席に回りこむ。逆らう気はなくて那桜は足早にあとを追う。助手席のドアが開けられ、その間に入ると乗るまえに拓斗を見上げた。
「拓兄、メール見た?」
もちろん、メールを見なければこのタイミングで迎えにきているはずはない。
「どこだ?」
味気ない問いかけにも拘らず、那桜の口もとに笑みが零れる。
デートしたい――その希望は、意外にも説得する必要なく叶えられた。
「どこでもいい!」