禁断CLOSER#59 第2部 破砕の扉-open-
5.迸出-Gush- -11-
期待に満ちた那桜の眼差しを受けて立矢は苦笑する。
「姉さん主観の話だったら知ってるよ」
「知りたいんだけど」
「だろうね」
立矢は那桜の意を酌みながらも、そこで言葉を切ってしまった。
「立矢先輩?」
「けっこう露骨な話になってしまうんだよな。那桜ちゃんがいくら妹でも、プライド絡みのプライヴェートな話になる」
立矢は消極的な様子で、那桜から翔流へと視線を移した。
「“ここだけの話”にしかならないよ。ね、翔流くん?」
同意を求めると翔流は肩をそびやかした。
立矢は那桜に目を戻すと、いい? とパフを持った手を上げて、あからさまに話を逸らした。
那桜は肩を落として目をうつむける。了解と受け取った立矢が、さっきとは反対側の頬にパフを置いた。塗り方の説明を受けている最中、パフが一通り顔を巡ると、次はパール入りのパウダーだと云ってブラシが載せられる。
「ベースはオーケー。ポイントメイクは目からいくよ。そのまま軽く閉じてて。ちょっとだけ顎を上げて」
見たい気持ちはやまやまだがまだファンデーションだけだし、仕上がってからの楽しみにして、那桜は云われるままにツンと顎を反らす。まもなく左の瞼がひんやりとした。
「まずは姉さんのことから」
那桜の瞼にクリームみたいなものを塗りこみながら、立矢はとうとつに語りだした。
「教えてもらえる?」
「予防線になるなら」
「予防線?」
「気をつけてほしいってこと」
立矢はまえと同じことを口にした。
「どうやったら気をつけることになるのかわからないけど努力する」
そう返事すると立矢が息を漏らす。たぶん笑ったのだろう。
「商売柄なんだろうな、香堂にとって姉さんは自慢の娘だ。学生時代はフレビューのCMモデルをやってたこともある。評判は上々だったのに、姉さんとしてはモデルとして“働く”ということには無関心だった。だから、客観的にみれば無名の素人モデルとかわらないし、一部株主から公私混同だという苦言があって中止になったけどね。姉さんは本気にならないって云ったよね。親からさえチヤホヤされて、やりたい放題の自分が一番な人だから、人を好きになるとしても自分の次でのめることはない。逆に自分にのめらせて捨てる。男がダメになることで自分の価値を向上させるんだ。そのためには、相手がそれなりでなければならない。その点、青南には箔付きの奴が多いから物色には事欠かない。特に“新入生”は格好の物色場になる」
「……その一人が拓兄?」
「そう。拓斗さんはあのとおり見栄えはダントツいいし、有吏家っていうお墨付きもある。姉さんが見逃すはずはない。誘ったら、ホイホイってわけじゃないけど、姉さん流に云えば満更じゃなく応じたらしい」
那桜は目を閉じたまま顔をしかめた。
「最悪の趣味だな。いくら鏡の王妃だからって、なんでそういうことしなきゃいけないんだ?」
翔流までもがしかめた声で口を挟んだ。
左の瞼から右側へと移っていた立矢の指が離れ、那桜は目を開けた。
「たぶん、おれのせいだ」
そう云った立矢の声音にも口もとにも、やるせない笑みが混じっている。
「立矢先輩のせい? 何があったんですか?」
「何かあったっていうよりは、おれが生まれてしまったこと自体が問題だったみたいだ」
「どういうこと?」
「姉さんが生まれて五年、あきらめたすえに後継ぎが生まれたから、さ。しかも、姉さんに負けず劣らず、可憐、だった」
立矢はおどけて可憐という言葉を口にしたけれど、なんとなく想像できなくもない。有沙はどうかと考えれば、いまを見るかぎりではピンとこない。
「立矢先輩もチヤホヤされたの?」
「そりゃあね。姉さんには両親ともそれまでと同じように接してたと思うけど、ある種、ショックだったんだろう。実質、姉さんに向かう目は独り占めから半分に減った。おれは事あるごとに、おまえがいるからフレビューも安泰だな、って云われてたから、もしくは半分以下だと思ったかもしれない」
「だから『価値』を確かめてるの?」
立矢の返事は首をひねるだけに終わった。
「それくらいのこと、ざらにある話だろ」
翔流は馬鹿馬鹿しいといった様だ。
「それでも、認められない人間はいる、ということだろ? 翔流くん、ここからさきは極々プライヴェートなことになる。席、外してもらえないかな。那桜ちゃんは理解できると思うけど、男兄弟しかいないきみには通じないと思うから」
立矢の頼みを受け、翔流は那桜へと案じた視線を向けた。
「わたしは聞いておきたい」
那桜が主張すると、つかの間、思案するようだった翔流は立ちあがった。
「下手なことすんじゃねぇぞ、っていちおう警告しておきます。那桜」
「了解。助けてーって叫ぶから」
翔流が云わんとする矛先を制して那桜がふざけると、立矢は苦々しく笑った。翔流は立矢を一瞥してから出ていく。ドアが閉まるまで見送り、那桜は立矢と向き合った。
「那桜ちゃんの周りは徹底して忠実な人が多いな」
「似たようなこと、果歩にも云われたことある。それには立矢先輩も含まれてたけど。果歩の見込み違い?」
立矢はどっちともつかない笑みを浮かべた。
「そうありたいから話すんだよ」
「じゃあ、お願いします」
「気分のいい話じゃないし、おれにとっては恥曝しになる」
いい? と問うような眼差しに那桜はうなずいた。
「姉弟関係は悪いというほど悪くはないけど、けっして良いともいえなかった。いまも、だけど。小さい頃から避けられてるっていうのはなんとなく感じてたから、おれは媚びてたかもしれない。その気持ちの延長上なんだろうな。高一のとき、おれは姉さんを犯しかけた」
「え……」
一瞬、那桜は自分たちのことを思い浮かべた。驚いた顔を見て、その意味を単純に解釈したらしい立矢は口もとに自嘲を形づくった。
「それまでおれは姉さんのことを清純な人だと思っていた」
有沙と清純という言葉が結びつかず、那桜はまた目を見開いた。
「おれだけじゃない。両親だってそうだ。清純とはいかないまでも、わがままをそのまま云える無邪気な娘だって認識してる」
「それまでって、どうしてそうじゃないってわかっ……思ったの?」
云い直した那桜を見て立矢は笑った。
「姉さんのことでおれに気を遣う必要はないよ。おれは逆に、姉さんのことが嫌いなのにおれとは普通に付き合える那桜ちゃんがすごいって思ってるから」
「そう?」
「ああ。ほんとに清純なのは那桜ちゃんだ」
一瞬、目を丸くして、それから那桜は吹きだした。
「わたしは幻滅させるって云ったでしょ? 立矢先輩って女の人を見る目ない」
「そうかもしれない。まともに女と付き合ったことはないから」
「ほんとに?」
疑い深く問いかけると立矢はわずかに首を傾けた。見た目からすると本当に意外な告白だ。
「まえに云ったとおり、その気になれなかったし、それはたぶん姉さんを追ってたからだ。那桜ちゃんは従姉妹のことを人形みたいだって云ってたけど、身内はみんな姉さんのことをそう扱ってる。可愛くて壊れやすいってね。姉さんの悪趣味はいまだに知られていない。姉さんは強かだ。相手はプライドが傷つくし、箔付きだからこそ余計に吹聴は御法度だ。おれが知ったのは、高等部上がってすぐだった。その頃、姉さんが目をつけた男はめずらしくなびかなかった。もしかしたらはじめて姉さんの力が無効だった男かもしれない。その男が――大学生だったけど、おれのとこに来た」
「何しに?」
「いいかげんにしろってさ。公にはならなくても内輪では通じてることもある。そいつの親友はかつての被害者だったらしい。ご丁寧に一から十まで教えてくれた。ストーカーに色情狂呼ばわりだ。信じられなかったし、姉さんに訊いた」
「そしたら?」
「だから何って平然と嗤った。おれは逆上した」
「それで有沙さんを?」
「ああ。裏切られたって気持ちよりは、嘘でも違うって云ってほしいという望みのほうが大きかったと思う。押し倒しても、姉さんは抵抗することも泣くこともないし、逆に嗤った。“どんなに可愛い後継者でも私には敵わないでしょ”――過ちを犯す寸前、姉さんの云ったことがおれを止めた。けど」
立矢は中途半端に切った。
那桜はそのさきを待つ間、香堂姉弟と自分たちのことをつい比べてしまった。要素は違っていても過程は似通っている。
「立矢先輩、抵抗してほしかった? そしたら自分からやめてた?」
「救いの余地があるだろ? 後悔とか反省とか。もしくは、からかわれただけだと思える。いや、正直に云えばそう思いたかったんだ。まあ頭に血が上ってたし、抵抗されたからって自分でやめられたかどうか、いまとなってはなんともいえない」
拓斗もまた、冷酷な表情の裏で確かに逆上していた。抵抗しても拓斗はやめなかった。もしかしたら、立矢のようになんらかを那桜に望んだんだろうか。
立矢はふっと皮肉っぽい笑みを漏らして話を続けた。
「姉さんは常識を考えられる程度におれの理性を取り戻してくれたけど、それだけじゃ終わらなかった」
「どうしたの?」
「姉さんの手を汚した」
立矢は重々しく息をついた直後にそう吐いて、つと那桜から目を逸らした。
オブラートに包んだ表現は見当つけるに容易い。
けれど、それは立矢のせいではないはずだ。それなのに立矢の中には咎がある。
「そのときだけ?」
「そうでも云い訳にはならない。おれは逃げなかったから。腕力はおれのほうがずっと上で、突き飛ばそうとすればできた。おれは抗うこともしなかったし、やっぱり冷静さは欠いてた。最後まではやってないけど、姉さんから女の躰を教わった」
「そういうこと……異性に興味を持つこと、男女の兄弟にあってもめずらしいことじゃないって……有沙さんが云ってた」
火曜日、会ったときに有沙は云った。一般的なことから誇張したわけではなく、ウチも例外じゃない――と、それは自分の実体験だったのだ。妹とセックスしてるの――そう訊ねた有沙は自分たちと那桜たちを重ねただろうか。まさかという声音は、実は、あり得ると思ったすえの探りだったということだろうか。
「は……。そういうことで片づけるって? 清純とは真逆だな」
立矢は力なく笑ってつぶやいた。
「立矢先輩はずっと拘ってきたの?」
「がんじがらめだ。そのあと、姉さんに逆らえなくて最悪のことやったし」
「最悪?」
「那桜ちゃんが聞いた噂だ。だれが流したのか知らないけど、おれも自分の噂は知ってる。弁明させてもらえるなら、真実は少し違う」
「違う?」
「彼女は男の幼なじみだった。姉さんの計画がうまく運ばなかったのは、男には好きな女がいたからだ。将来を決めてたらしいけど、男のほうが一方的っぽい関係だった。その彼女を落とすのがおれの役目だ。つまみ食いというか、彼女にはそういう浮気心があったみたいで案外、簡単に落ちた。男を呼びだして、おれと彼女のセックスを見せてやった。合意のセックスだったし、しかも彼女は応えてた。けど、男に気づくとさすがに抵抗を始めた。男は呆然としていて、そのなかで無理やりやったことは事実だけどマワしてはいない。そこにいたのは、おれたち三人だけだったから」
「……それは……有沙さんの計画?」
「姉さんが立てた計画は噂どおりのことだ。ただ、姉さんとしては、要するに男が惨めになればいいだけのことだから、おれは彼女にとって必要最小限のダメージですむようにした」
「でも……」
那桜は言葉を濁して顔をしかめた。立矢はため息を漏らす。
「不快にさせて悪いと思ってる。いずれにしろ、救われない最低の話だ。望みどおり、男と彼女はうまくいかなかった。男はそれなりに地位のある奴だったし、ただ引き下がるにはプライドが許さなかったんだろうな。おれの父に脅しをかけた。父の衝撃は相当なものだった」
「有沙さんのことはバレなかったの?」
「男もその親友も立場がある。親友のことは云わなくても、自分に対する姉さんのストーカーじみた行為はバラした。けど、おれはかばったんだ。姉さんのために独断でやったってね。自分で自分を断罪した。そうしないではいられなかった。姉さんを止められる可能性はあったのにそうしなかったから。めちゃくちゃだ。身内も知らないほど内々で示談処理されたけど、結局、おれは父からの信頼を失った。姉さんには願ったり叶ったりの結果だ。あの男だけじゃなく、おれも堕ちたから。父にとって、姉さんは恋に傷ついたヒロインだ」
有沙のことは聡明にさえ見えたけれど、内情をわかるにつれ、単純すぎるからこその賢さが浮き彫りになった気がする。傷つくなんて有沙とは程遠い感情じゃないかと思う。
そして、あまりに突拍子もない話ですっかり飛んでいたけれど、立矢が傷つくと発したことで那桜は知りたいことを思いだした。
「有沙さんは拓兄を傷つけたって云ってた」
立矢はあっさりとうなずいた。それが肯定なのか、ただ単に話題に応じるという合図なのか、那桜はつぶさに立矢の表情を見守った。
「姉さんは別の男に手を出したんだ。拓斗さんの反応が鈍いってね。他の男をチラつかせれば独占欲を引きだせるって単純思考だ。けど、拓斗さんは逆に萎えた」
「萎える? 拓兄が本気だったとは思えないし、だからそんなことで傷つくなんてことない」
「そのとおりだろう。拓斗さんのことは今回の青南祭の件があってはじめて聞かされたんだけど、独占欲は引きだせないまでも、拓斗さんが不能になったって姉さんは満足そうに云ってたな」
「不能って?」
「“男”が機能しなくなるってこと。セックスができなかったらしい。そのあと、あれだけの完璧人間でも拓斗さんが女性と付き合ってるとかいう噂はなかったから、それが証拠だってね。拓斗さんに彼女ができなかったのは偶然か、それとも何か拘りがあるのか、ともかく拓斗さんの場合、あの男と違って引き際は利口だった」
那桜は半ば呆気にとられて立矢を眺めた。
不能? ちょっとくっつけば反応する拓兄が?
「拓兄が不能だとかあり得ないんだけど」
「断言するね」
「……。あ……拓兄はそんなデリケートじゃないってこと。有沙さんに呆れたとか見切りをつけたとか、それだけのことだと思う」
立矢に不意を突かれ、那桜は内心で慌てつつもなんとか取り繕う。半分は事実で半分は願望だ。
「おれもそう思うよ。拓斗さんを知っていてそう考えないのは姉さんだけだ。何年かまえ、偶然会ったらしいね? 拓斗さんがカノジョを連れてると思って驚いたらしいけど、調べたら妹だったって」
それなら、有沙は家に来たときから知っていたということだ。那桜の反応を嫌らしく楽しみにしていたに違いない。自分がヘマをやったときのシーンまでもが甦り、那桜は不機嫌に眉をひそめた。
「趣味悪い」
「ああ。だから、余計にキスシーンはショックだったらしい」
「……え?」
ためらいがちに疑問符を投げると、立矢はジーパンのポケットから携帯電話を取りだした。しばらく弄ってから那桜に突きつける。
そうする立矢を見て和惟との似たようなシーンが甦った直後。まさか、とよぎったことはまさかではなかった。和惟から見せられた同じ画像がいま目の前に掲げられている。
「……どうして、これ立矢先輩のケータイに?」
「“そういうこと”だから気をつけてって云ってる」
立矢と果歩は繋がっている?
スキャンダルに潰れないように。有沙の言葉が浮上すると、別の考えが浮かんだ。立矢が気をつけてと云う以上、繋がっているのはもしかしたら有沙と果歩だ。驚愕といっていいほど目を丸くした那桜に立矢はうなずいてみせた。
「姉さんは二十六だ。いくら恋に傷ついたからって、それをいまだに引きずるなんてとんでもないって話になってる」
「どういうこと?」
「父は婿探しに走ってる。姉さんとしては、どうせ結婚するなら極上がいいってね」
「それが拓兄?」
「物色中に実行委員の長という役がおれに巡ってきて、姉さんは頭を働かせたってわけだ。那桜ちゃん、拓斗さんが不能で終わるまでならよかった。けど、もし、拓斗さんに那桜ちゃんが“ずっと”いたとするんなら、姉さんにとって話は違ってくる」