禁断CLOSER#58 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -10-


 郁美の独りよがりにため息をつき、那桜が何気なく果歩を向くと目が合った。いつもならありそうな呆れ顔はそこになく、(あさ)るような表情を見受けた。
 立矢は冗談とかわしても、果歩はあの写真の光景を目にしている以上、本気に取るわけがないという見方は、もはや保証されない。
 こんな取り繕った関係はいつまで続けられるんだろう。虚脱しそうなことを思いながら、果歩、と呼びかけようとした瞬間に目が逸らされた。話しかけないで、そんな意思表示に見えてしまう。

「郁美、帰るよ。香堂先輩のチャンスは、広末くんが来るまでの時間しかないんだから邪魔できないでしょ」
「チャンスって、だから那桜はだめだって――」
賄賂(わいろ)もらったくせに。ですね、香堂先輩」
「いい解釈だ」
 もう一人の当事者である那桜はそっちのけにされた。郁美は渋々とした面持ちで黙りこみ、立矢は受け合いつつも参ったなという笑い方をする。
 果歩は作ったような笑い声をあげた。
「わぁ、(いさぎよ)いですね。どうやったら那桜みたいになれるんだろうって考えるんだけど」
「飯田さんは飯田さんで、何も不自由ない感じだけどな」
「でも、背中の傷を触るなって云うんですよね。それくらい守ろうとした女の子が大事なんだろうなって思うと、ちょっと悔しいでしょ。目の前にいるわたしはなんだろうなって」
「果歩! やっぱりカレシいるんだ!」
 いきなりの爆弾発言に那桜が目を見開いた傍らで、郁美は訊ねたというよりは断定した。
 背中の傷、ってだれのこと? 果歩が想うのは和惟じゃないの?
 脅迫という言葉はますます迷宮化していく。那桜は眉間にしわを寄せた。
「果歩?」
「だから、那桜には全身全霊で向かっていく人ばっかりだからうらやましいって話」
 カレの存在はうやむやにしたまま、果歩はにっこり笑った。それがそのままの感情ならいいのに、会話は咬み合っているとはいえず、ただ、果歩が故意に何かをほのめかしていることはわかる。もやもやした(わだかま)りがぶり返す。
 果歩はそんな那桜をほったらかしにして立矢へと視線を移した。
「ということで香堂先輩、たいへんだと思うけど、いちおう頑張ってください。じゃ、ありがとうございました」
「あ、わたしももちろん、ありがとう、です。じゃあ那桜、来週ね!」
 果歩が再度お礼を口にすると、郁美もあたふたと続き、那桜におざなりの挨拶を残して帰っていった。
 好奇心いっぱいだろう郁美が、果歩を向いて(しき)りに何か話しかけている。那桜にしろ、根掘り葉掘り知りたいところだが、半分くらいは聞きたくないという自分もいる。

「那桜ちゃん、何かあった?」
 那桜はふたりから目を離して、問いかけた立矢に向かった。
「え?」
 立矢はゆっくりと果歩たちのほうへと視線を向けた。それが同じ速度でまた那桜へと戻ってくる。問うまでもなく“何か”を知っていそうに、いわくありげな面持ちだと見えるのは気のせいなのか。
「那桜ちゃん、それが不審なら、自分を疑わないほうがいい」
「……立矢先輩、意味がわからないんですけど」
 那桜が首をすくめると、立矢もまた真似て笑った。
「行こう。頼朝スタッフが飢え死にしないうちに。食い物の恨みは恐ろしいらしいから。頼朝の怨念まで甦ったらたいへんだ」
 立矢が南館のほうに向かい、那桜も一瞬遅れて歩きだす。
「頼朝は暗殺とか戦で討たれたとかじゃなくて病死って説が一般的だし、怨念てほどのことなさそうなのに? 逆に頼朝のほうが、義経や幼くして死ななきゃいけなかった安徳天皇の怨念を恐れてたってあった。でも、怨念なんて生きてる人の逃げ言葉」
「逃げ言葉?」
「そう。自分に疾しいことがあるから怨念のせいにするんだって。死んだ人は仏さまになって、幸せを願うことはあっても恨むことはないっておばあちゃんは云ってた」
「へぇ。例えば……」
 中途半端に言葉を切った立矢はふと空笑いを見せた。
 なんだろう。歩きながら那桜は立矢を覗きこむように見上げた。
「例えば、何?」
「凶悪な犯罪者でもそうなのかな」
「……そういうこと考えたことなかった」
 戸惑ったすえ那桜がつぶやくと、立矢は本物の笑みを見せて小さく吹きだした。
「ほんとにお嬢さまだな」
「箱入りで守られてるから。でも、従姉妹(いとこ)が被害者になったことがあるの。誘拐されたんだけど。犯人は女の人だった。子供を亡くしてて、だからそのかわりにってことだったらしくて。従姉妹は人形みたいに可愛いから、それも理由になったのかも。従姉妹は怖い思いしたし、その人を擁護したいなんて思わない。でも、子供亡くしてなかったらそうしなかったのかなって考えると、結局は生まれたときから犯罪者って人はいないって行き着くわけだし、そしたら平等に仏さまになれるのかな。最低条件で、自分が悪人だって自覚があれば、あらためる余地があるってことにならない? だから大丈夫かも」
 考え考えしつつ那桜が意見すると、立矢はからかい混じりで感心したふうに首を横に振った。
「那桜ちゃん、開宗できそうだ」
 立矢と同じように首を振ったが、那桜の場合、その意味は否定だ。
「じゃなくて。犯罪者じゃないけど、わたしも悪人だからそう思ってたいだけ」
「悪人? 那桜ちゃんが?」
「やり直したいくらい後悔しなきゃいけないことがあるっていうのはそういうことじゃない?」
「何があるのか気になるけど」
「幻滅させるから告白なんて無理」
「おれを幻滅させたくないって、それは希望持っていいのかな」
「じゃないです。純粋に魅力的だって思ってくれる人がいたらいいなってことです」
「魅力的っていうよりは蠱惑(こわく)的だ」
「……それ、いい意味じゃないと思うけど」
 那桜は顔をしかめて首をかしげた。
「いや。めったにいないよ、那桜ちゃんみたいな子は、ってそういう意味。少なくとも、おれははじめてだ」
「変わってるってよく云われるから」
「その言葉だけじゃ終わらないだろ。あの拓斗さんまでが離さないんだから」
「“あの”って……?」
 立矢は肩をすくめる。同時に稽古場に着いて会話は半端なまま途切れさせられた。

 それから大勢で調達されたお弁当を食べたあと、翔流が来るまでの三〇分、通し稽古を見せてもらうつもりが、立矢がいるということで細部の確認という打ち合わせじみたものに変わってしまった。おまけに翔流は実行委員という立場からすると部外者であり、よって舞台稽古を覗かせるわけにはいかず、とどのつまり、観ることは叶わなくなって、那桜はちょっとがっかりした。
 ものめずらしそうに稽古場を見渡す翔流を急かしながら、三人は奥にある衣裳部屋へと移動した。
 雑然と散らかっているなか、立矢はメイクアップ用の鏡の前へと行く。折りたたみのパイプ椅子を向かい合せに置いて、その一つに那桜を座らせた。

「すげぇな」
 立矢がメイクボックスを広げている間に、室内を見回していた翔流がぼそっとつぶやいた。感心じゃなく、呆れている感じだ。
 なんのことかと見ると、翔流は嫌そうな手つきで、ハンガーにかかったプリンス衣装を摘んでいる。
 いかにも昔風といったベルベット素材のそれは、ちょっとふりふりふうに見える白いサテンカラーがついたジャケットにニッカズボンという、凝ったデザインになっている。
 翔流は容姿がいいだけに似合わなくはないと思うけれど、お金を積まれても着るとは云わないだろう。
 那桜はどうかといえば、別のハンガーラックにかかっているプリンセス衣裳なら着てみたいと思う。女の子はいつまでたってもこういう格好に憧れる。式は挙げなくても、ウエディングドレスは着たいというのはきっとその延長だ。
 那桜は漠然と自分のドレス姿をイメージしてみた。けれど、拓斗を相手に浮かべてしまった直後、那桜は現実を見てしまった。
 拓兄とは……。
 できるわけがない。想像してみようとすればするほど隣に立つ相手は考えられなくなって、自分のウエディング姿すら消えてしまう。
「那桜ちゃん、いい?」
 立矢に声をかけられ、那桜はハッとして正面に向き直った。
「はい。いいですよ」
 那桜がうなずいて二つ返事をすると、横に倒した立矢の人差し指に顎をすくわれた。

「いつもこんな感じの色だね?」
 リムーバーのついたコットンパフでオレンジピンク色のリップを落としながら、立矢が訊ねた。
「この曖昧な色が好きなの。わたしっぽいから」
「曖昧だって?」
 立矢はおもしろがった声で問い返しながら、油取り紙を那桜に渡した。それを鼻に押し当てて那桜はうなずく。
「そう。すごくルーズなの」
「きちんとしてるよりおもしろいかも。けど、今日はその曖昧さをなくしてオレンジで纏めるってのはどうかな」
「似合うかな」
 立矢はちょっと首をひねってファンデーションを手にした。
「そうできるかどうかはおれの腕次第だ。オレンジは夏もいいけど、あったかい色だからこの時期でもいける。柑橘系は美味しそうだし」
「じゃあ、それで」
「どういう意味だよ」
 那桜の合意と翔流のぼそっとしたつぶやきが重なった。
 横を向くと、翔流は鏡と反対側の壁際に折りたたみ椅子を置いている。どっかりと座りこんで、ふてぶてしく腕と脚を組んだ。
 那桜がちょっと目を見開いて見せると、翔流は気をつけろといったふうにクイッと顎を上げた。
「那桜ちゃん、こっち向いて」
「くっつきすぎですよ」
 那桜へと立矢が前のめりになったとたん、翔流が警告するような声音で口を挟んだ。本気で拓斗や和惟のかわりを務める気でいるらしい。もっとも、拓斗たちが翔流みたいにストレートに口にするかといえばそうはせず、おそらく回りくどく脅かすということになりそうだ。それとも、あとでじっくり仕返しか。

「ははっ。さすが、ボディガードだ。二号? 三号?」
「なんのことですか」
「さっき、郁美さんがお兄さん一号って云ってたから、それに(なら)ったまで。ボディガード一号は衛守さんだろうし、二号と三号は翔流くんと隆大。順番からいったら二号が翔流くんかな。だろ?」
「隆大さんはボディガードっていうよりは監視役っぽいけど。立矢先輩がそう気づいてるって思わなかった」
 立矢は、目を閉じてて、と那桜の頬にファンデーションを載せながら薄く笑う。
「隆大からはおれも監視されてる。翔流くんからもね」
「監視されてる? 立矢さんが?」
 思わず目を開けると、立矢は手を止めて一時間まえと同じ空笑いを見せた。
「そう。那桜ちゃんと係わったことで、できれば忘れたい事が浮上してるみたいだ」
「忘れたい?」
「那桜ちゃんは悪人かもしれないけど、“後悔しなきゃいけない”という意味で悪人になるなら、すべての人間が悪人だ。けど、おれは悪人という以上にれっきとした犯罪者だ。気持ちとしては、忘れたいというよりは人生から抹消したいといったほうが適っている」
 驚くような告白を受け、那桜が翔流を向くと、表情を険しくした顔が立矢から那桜へと移ってきた。どちらからともなくアイコンタクトを取る。その後、那桜は立矢に向き直った。
「立矢先輩、それはどういうこと?」
「翔流くんが知ってることで間違いないと思うよ」
 立矢はちらりと翔流に目をやり、それから、目を丸くした那桜を見て促すように首を傾けた。
「触ってほしくない?」
「え?」
「メイクするならどうしても触れなきゃいけないだろ。汚い手だから許可を得ないと」
 立矢はパフとファンデーションを持ったまま、肩の横辺りでホールドアップした。
「そう思うんなら最初から約束しなきゃいい。那桜、帰ろ――」
「翔流くん、待って」
 那桜は、組んだ脚を解いて立ちあがろうとする翔流をさえぎった。
「立矢先輩、抹消したいって、それほど後悔してるってことでしょ?」
「どうだろう」
 立矢は口もとだけで笑みを見せ、ぞんざいに答えた。それが、なぜか那桜には誠実に見える。
「そういう曖昧なところ、しっくりくるっていうのはヘンだと思うけど、環境のせいかな。わたしの曖昧さって、きっとその環境のせいなんだ。いまわかったかも」
 那桜は肩をすくめて笑う。
「有吏家は経済界じゃ名の知れたコンサル会社だし、青南でも存在感は抜群なのに曖昧だって?」
「他人から見たら曖昧じゃないかもしれないけど、わたしからすればわからないことだらけ。隠し事ばっかり。今時、わたしみたいに行動範囲を制限されてるってめずらしくない?」
「虚言癖があるって聞いたけど」
「……。姉弟仲いいんですね」
 閉口したあと那桜がうんざりした声でつぶやくと、立矢は何か思いついたような表情をよぎらせながら可笑しくもなさそうに笑った。

「どうかな。それより、あの時、やっぱり那桜ちゃんは会社にいたんだな」
「……あの時?」
「火曜日。姉さんが拓斗さんを訪ねただろう? おれは姉さんの車で待ってた。姉さんは、あわよくば拓斗さんに持ち帰ってもらおうって気が満々で、おれは姉さんの車を“お持ち帰り”する予定だった。うまくいかなかったけどね。ああ、姉さんにとってはってことだ」
 那桜が顔をしかめたのを見て、立矢は付け加えた。
「やっぱりって、どうしてわかったの?」
「やっぱりいたんだ」
 乗せられた。はじめの『やっぱり』は断定ではなく、鎌をかけられていたらしい。こっそりついた那桜のため息は気づかれていて、立矢がふっと笑う。
「衛守さんが来たからね。あとから聞けばケーキ持ってたっていうし、姉さんはそのまま提示された理由を受け取ったみたいだけど……って、翔流くんの前で続けていいのかな」
「翔流くんは大丈夫」
「へぇ。それはそれでうらやましいな。報われなくても」
 立矢は翔流を見やりながら云った。
「余計な一言は要りませんよ」
 翔流は速攻で返した。すると、失礼、と、立矢はおもしろがって云いながら正面を向いた。

「姉さんは、那桜ちゃんと拓斗さんを引き離してしまうから気づけないでいるけど……もしくは、拓斗さん自身が離れているのかもしれないけど、おれは、那桜ちゃんと拓斗さんが普通にしてるときを知ってるから、衛守さんが本命だとは思えない。いつだったか、電話越しの大したことのない一言でうれしそうにしてた那桜ちゃんの顔も知ってる。虚言者だってことは信じてない。拓斗さんが本当にそう云ったんなら、那桜ちゃんを守ろうとしてるだけだ」
「拓兄がわたしを守る?」
「当然だろう? おれの素行も知れてるから。たぶんね」
 香堂姉弟について和惟が云ったことの辻と褄が合ってくる。立矢が証明してくれたのは、どんなに素っ気なく振る舞おうが拓斗の中には守りたがる本能が潜んでいること。手を繋ぐとき那桜が仕掛ける悪戯に返ってくる反応はきっとその現れだ。
「拓兄はわたしをかばうことが習慣になってるらしいから」
「はは。兄と妹ってそうなるんだな。姉と弟になると、虐げられるけど」
「え、そうなんですか?」
「極端にいえばってこと。姉さんは特に“鏡の王妃”だから」
「鏡の王妃って?」
「白雪姫に出てくる王妃だよ。“世界で一番美しいのはだれ?”ってやつ。そういうのに一番を求めるって単純思考そのものだろ? それに嵌められる男も単純だけどな。その点、拓斗さんは利口だったかもしれない」
 過去形で発せられたことに疑問を持ち、那桜は首を傾ける。一つ、気にかかっていたことを思いだした。

 有沙は拓斗を傷つけたと云った。
 その火曜日、抱き合ったあとに拓斗が仕事をすることはなくて、那桜がカボチャプリンを食べ終えてから一緒に帰った。それまで、拓斗は冷めたコーヒーを飲みながら、食べさせてという那桜のおふざけに従ってくれた。不必要なくらいゆっくり食べる那桜に急かすことなく付き合うという甘やかしが心地よすぎて、それを壊したくなくて訊きそびれた。
 いずれにしろ、直に拓斗に訊いて答えが返ってくるとは思わない。

「拓兄が利口? 立矢先輩は高校のときのこと、知ってるんですか?」

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