禁断CLOSER#55 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -7-


「じゃあ、家で。わたしは息抜きになってる?」
「息抜きになってると云われてうれしいのか」
 拓斗はくだらないとばかりにかすかに首を横に振ると、那桜からファイルへと目を戻した。
 生真面目とは違う、ただ淡々となんでもかんでもやり(こな)していく拓斗は、息抜きなんていうのはくだらないことのうちに入れてしまって、必要とはしていないように見える。
 拓斗の指先が()じられた書類を数枚(めく)るのを眺めたあと、那桜はファイルを取りあげた。
 再び拓斗の顔が上向き、迷惑だと訴えるように目が細くなる。
 ファイルを取り返されないうちに、那桜はデスクにあるノートパソコンを閉じてその上に置いた。
 ずっとまえ、惟均が仕事のことで家に来ていたときを見ている限りでは、話のやり取りのなかで拓斗の反応が鈍いということはない。実行委員が押しかけて来たときも中野教授を訪ねたときもそうだ。
 けれど、那桜の思考を読み取ろうとする拓斗は、いつも次の行動を起こすまでに時間が静止したように動かない。
 そうなるのは長い時間でもなく、那桜はその隙をついて、椅子に座った拓斗の肩に手をかける。マネージメントチェアは袖があるから跨るには無理で、那桜は横向きの格好になった。その片側の袖に膝の裏をすくわれるようにしながら、お尻はすっぽりと拓斗の上に落ちてはまった。

「那桜」
「拓兄に限ってなら、息抜きって云われるのはうれしいかも」
 那桜は肩に置いた手を拓斗の頭の後ろに回してしがみつく。躰が伸びあがって自然と拓斗の顔と近づいた。
 おそらくは、那桜、とまた呼び止めるために開いた口を襲い、くちびるを被せた。舌を頬の裏側に這わせたあと、拓斗の舌を探して押し当てた。
 反応はなくて拒否されるかと思いきや、やがてスイッチが切り替わったように拓斗のほうから咬みついてきた。
 お尻の下敷きになっていた拓斗の手が抜けだして、那桜は手探りでそれをつかむ。そして、ブラウスの下から潜らせて自分の胸に持っていった。那桜が手を外してもそこから拓斗の手が離れることはなくて、逆にキャミソールの上から縋るように握りつぶされる。
 余裕でできていたキスがとたんに苦しくなって、くぐもった声を拓斗の口内に吐いた。拓斗のもう片方の手が背中を支えていなければ上半身が椅子から()みだしそうなくらいにキスは攻撃的だ。
 始めたときとは反対に、那桜の手は拓斗の肩を押し返す。すると、呆気なく解放されてバランスが崩れた。
「拓兄っ」
 溺れたみたいに手足をばたつかせ、転げ落ちそうになる寸前、拓斗の手が那桜の躰を囲むようにして背中と腰をすくった。同時に手に当たった何かががデスクから落ちた。
「邪魔だ。退け」
 拓斗は那桜を支えたまま、和惟が見込んで代弁したとおりの一言を放った。

 顔をしかめてくちびるを尖らせたその時、車のエンジン音が聞こえた。
 和惟が戻ってきたんだろう。拓斗も気づいたようで腕を緩めた。
 不満も手伝って、那桜の中にちょっとした悪戯心が湧く。
 拓斗の腕を抜けだして那桜は落ちるように床にしゃがみこむ。デスクとの間に割りこむ格好になったせいで、キャスター付きの椅子が少しだけ後退すると、そこにはマウスが逆さまになって転がっていた。
 マウスを取りあげ、デスクの端に後頭部を軽くぶつけながら拓斗に差しだした。拓斗が受け取ると、那桜はくちびるの前で人差し指を立てる。
「かくれんぼ。和惟に探してって云って」
 いつもなら子供っぽい那桜を即座に窘めそうなのに、いまの拓斗はそうすることなく、ただ視線を真正面にある玄関へと向けた。
 不思議に思いつつもデスクの下に隠れようとしたとき、那桜は玄関口の戸が開いた音を聞き取った。

「拓斗、まだ仕事?」
 それは思いもかけなかった。
 和惟がそんなことを訊ねるはずはなく、ましてや疑いようもなく女性の声だ。しかも聞いたことがある、そして聞きたくもない声だった。
 驚きと疑惑を込めた目で見上げると、拓斗の瞳と合った。ちらりと見ただけで、拓斗はすぐに目線を上げた。
「いつものことだ。今日はなんの用だ?」
「いつものことよ。食事を一緒にどうかと思って。車があったから寄ってみたの」
 拓斗の言葉をそのまま返した有沙はおもしろがった声音で、反対に那桜は不快さに眉をひそめた。
 第一、今日は、とか、いつものこと、とか何? さっきは拓兄、寄り道しないって云ったくせに。
 那桜は、先週の水曜日、拓斗が家での夕食をキャンセルしたことを思いだした。そのまえの週も一度あった。
 さらに胡散臭くした那桜の眼差しに気づいたかのように拓斗が見下ろしてきた。それは一瞬のことで、また有沙に向かう。
 おふざけのかくれんぼが、いまはまるで逃げ隠れしているみたいで、軽く扱われているようにも感じた。自分がいるんだということを主張しようかとも思ったが、ふたりの会話を聞いてみたい気持ちのほうが強い。かといって、ないがしろにされるのも気に喰わない。
 那桜は拓斗の腹部に手を伸ばしてシャツに触れた。
「あの話は断ったはずだ」
「でも、終わっていないわ。私のことは私が決めることだから。でしょう?」

 “あの話”とは“誘われている”話に違いなく、断ったはずという拓斗の言葉に安心するも、有沙はあきらめていない。
 固執――立矢の云った言葉が思い浮かんだ。有沙が拓斗を無視できなかった理由はなんだろう。
 疑問に思いながらシャツのボタンを外していると、拓斗の手が那桜の手首をつかんだ。見上げた拓斗は有沙を向いていて、彼女がいる手前、露骨に撥ね退けることもできないのだろう、那桜を完全に制するには力が不足している。おへそ辺りから下のボタンを外してしまい、スーツパンツからシャツとアンダーシャツを引きだした。

「終わる? おれには始まりもない」
 手のひらを当てた腹部は拓斗が喋るたびに起伏を繰り返す。顔を寄せておへそのすぐ横にくちびるをつけると、すっと息を呑む微音とともに、でこぼこしたおなかが一瞬だけ深く引っこんだ。
「だから、あれは悪かったわ。傷つけるつもりなんてなかった」
 あれって何? 傷つける? 拓兄を?
 那桜は拓斗のおなかで戯れていたくちびるを止めた。
 有沙の、ともすれば薄っぺらにも聞こえる軽快な声が続いた。
「本気じゃなくて、もとをいえば拓斗の反応が鈍いせいでもあったんだけど? もう大人だし、まえのようなことはないわよ」
「入ってこないでくれ。そこからこっちは仕事の領域だ。職種は知ってるだろ。部外者は立ち入り禁止だ」
 絨毯の上でこもったヒールの音がした矢先、拓斗が素早く制した。たぶん、理由は職種のせいばかりじゃない。
 那桜の密かな笑みと、有沙のため息混じりの軽やかな笑い声が重なった。
 それから、那桜はまた滑らかな肌を這いだす。
「じゃあ、外に出ない? こんな距離で話すの?」
「あれ以下も以上もない実情の関係そのものだろ。過去のことをどう解釈しようが、それは有沙さんの勝手だ。けど、おれにそれを押しつけるのはやめてくれ」

 拓斗の口調は平然といつものとおりだが、おなかはピクピクと反応していてけっして平気じゃないはずだ。『有沙』と、拓斗の口からはじめてその名を耳にしたことが癪に障ったのもあって、思いきりよく那桜はベルトに手をかけた。
 すると、那桜の行為をしばらく放置していた拓斗だったが、また止めにかかった。肩をつかまれたものの、生憎とくちびるは肌から引き離されても手は自由なままだ。那桜はベルトを解き、ボタンを外してジッパーを下ろしていく。

「私も過去に拘ってるつもりはないわよ。あらためてってことでいいんじゃない?」
「おれには――」

 拓斗は云いかけて途切れさせた。そのかわりに、那桜の肩を痛いほど握りしめながら呻く寸前の息を漏らす。
 那桜がそうであるように、男女という違いはあってもさすがに躰の中心だけは拓斗も堪えられないようだ。ボクサーパンツの上から摩撫すると、三度往復しただけで拓斗の慾は感触を確かにした。
 那桜が強引に迫ったあの日から、また触れ合わない日が続いている。だから、拓斗の反応が早いのは、しばらく発散させていないからかもしれない。
 拓斗の顔を見ると、顎が強張ったように引き締まっている。見下ろされると同時に、那桜が示唆するようにかすかに口を綻ばせると、確かに性衝動を駆り立てられた拓斗の目が睨むように狭まった。

「拓斗?」
 有沙の怪訝な声が届いて、拓斗の顎が上向く。
「おれには決められたことがある。与えられた以上、有沙さんとの接点はどうやってもつくれない」
 決められたこと?
「決められたこと?」
 どちらが早かったのか、那桜と有沙は同じ疑問を抱いたようだ。
「有沙さんと会ったときにはすでに決まっていたことだ。おれがだれかに執着する理由はない」

 拓斗がいま濁した“だれか”が自分のことだというのを有沙が見当つけられないはずはない。“理由”と片づけること自体、そこになんの感情もないことを示している。
 でも……。
 いい気味だと思う一方で、それまでの会話の内容を引っくるめれば、拓斗が云う“決められたこと”が何をほのめかしているのか、那桜にも見当つけられなくはない。
 じゃあ……。
 いつまでも続けられることじゃない。それはわかっていて……。
 考えないようにしてきたことを、強引に認めさせられたようで那桜はくちびるを咬んだ。
 こうしていられるのはいつまで? それに……だれと?
 そんな心細さと対照的にあるのは、その瞬間がやってきてもふたりを繋ぐ枷鎖(かさ)は断ちきれないという、なんの根拠もない保証だ。
 那桜はちょっとした憤まんをぶつけるように、おへその下にくちびるをつけた。そこが大きくへこんで、手を添えた慾が布切れ越しに顎を突いてくる。抱き合ってきてまもなく二年になるというのに、飽くこともないという表れだ。それが唯一の根拠かもしれない。

「決まっていることって、あの風変わりな那桜ちゃんのことじゃないわよね?」
 しばらく沈黙した後、有沙が怪訝そうに口を開いた。
 那桜はここで自分の名が出てくるとは思わなかった。しかも、風変わりなんていう修飾語をつけられるとは心外だ。
 有沙へのかわりに拓斗のおなかに歯を立てた。なのに、拓斗の皮膚は張りすぎていてうまく咬みつけず、うっ憤は晴らせない。
「なんで那桜だ」
「どこからどうみても普通じゃないわよ。今日、大学で会ったときなんて、拓斗とセックスしてるなんて云うのよ。まさか兄妹じゃないってことがあるの? どこからか連れてきた“妹”の面倒を一生()なきゃいけないとか――」
「実の妹だ」
 拓斗にしてはめずらしく人をさえぎって断言した。
 それにしても、有沙は翔流と似たようなことを云っている。いつの間にか感覚が鈍ってあたりまえにさえなりがちだけれど、そんな理屈をつけなきゃ納得できないくらい、兄妹で躰を繋ぐことは異常なのだ。
「……実の妹とセックスしてるの?」
「那桜には虚言癖がある。わざとじゃなく空想と現実の世界を取り違えてる。特異だと云っただろ。だから外出制限がついてる」

 酷い!
 恨めしく拓斗を見上げても今度は無視だ。仕返しを思い立ったのは那桜の(さが)だろう。
 どんなにミスターパーフェクトでも主導権を奪いさえすれば、和惟がそうであったように拓斗でも躰の中心は弱点になる。拓斗との場合、那桜が主導権を持つにはいまがめったにない絶好のチャンスだ。
 ボクサーパンツをずらして拓斗の慾を曝した。拓斗の手が引き止めるまえに顔を寄せて、その先端に絡みついた。口の中でピクリとしながらそれは質量と杭のような硬さを増す。肩をつかんでいた拓斗の指が薄い肉に喰いこんできた。

「へぇ。だから、なのかな。拓斗、あの衛守さんて人。もしかしたらそういう那桜ちゃんをいいように扱ってるんじゃない?」
「どういうことだ?」
「キスしてたのよね」
 拓斗がかすかに身動ぎ、快楽とは別に躰を強張らせたように感じた。
「いつのことだ」
「さっき大学で。那桜ちゃんからじゃなく衛守さんから。那桜ちゃんも夢中になってたみたいだし、セックスしてる相手って本当は衛守さんなのに、それを拓斗に置き換えてるのかなって」
 有沙がどういうつもりなのか、那桜にとってはフォローになっているようでなっていない。いっそのこと、フォローにならないほうがいいのか。
 くっ。
 吸いついたとたん、頭上から拓斗のくぐもった呻き声が落ちてきた。
「まさか、ショックなの?」
 拓斗は快楽を耐えるのに、しかめ面をしているのかもしれない。それを勘違いしたらしい有沙は訝しく問いかけた。
「違う」
 躰に及ぶ独特の刺激のせいだろう、拓斗は唸るようにしてどうとでも解釈を広げられそうな一言を発した。
「拓斗、実の妹なら尚更気をつけたほうがいいわ。天下の有吏家が醜聞(スキャンダル)に潰れないように」
「醜聞? なんのこと――」
「だれかと思えば香堂さんか」
 拓斗が問い詰めようとしたとき、今度こそ和惟が現れた。

 那桜は悪戯を見つかった子供みたいに身をすくめて拓斗を放した。口の中でいっぱいだった杭は出る寸前、無理やり引き離されたかのように吸着音が立ったが、和惟に応じた有沙の声に救われた。
「あら、もう那桜ちゃんを送ってここまで? てっきり……」
 有沙は最後まで云わずに思わせぶりに途切れさせた。
 有沙が訪ねてきたいちばんの目的は、拓斗に告げ口をするため――そういうことか、と那桜は合点がいく。
「てっきり? 拓斗……?」
 有沙から拓斗へと窺うような和惟の声は途中で切れた。
 何を問いかけようとしたのかは明々白々だ。拓斗と和惟の間でなんらかのアイコンタクトが交わされたに違いなく、和惟はそれ以上を口にすることなく終わって、ハラハラした那桜もホッとする。
 見つかっていいかも、という誘惑にも駆られたものの、このシーンではまるで頭がいかれていると取られかねない。有沙の風変わりという言葉を裏づけてしまうなんてことはご免だ。

「衛守さん、それ。まさか拓斗とふたりで?」
 訊ねた有沙の口調にはどことなく素っ頓狂な響きがある。和惟の笑い声がした。
 それ、ってなんだろう。
「そのとおり、まさか、に尽きる。おれも拓斗も食べないし、要するに那桜へのお土産だ。拓斗に預けに来たんだ」
「わざわざここに? 家、近くなんでしょ? 直接、持っていけばいいのに」
「んー、那桜を怒らせたからね。拓斗を通して謝罪したほうがいいかもってことだ」
「怒らせた?」
 和惟は含み笑う。
「那桜は欲張りだから、おれがいても、拓斗をだれにも渡したくないんだよ。香堂さんにも。さっき大学でおれがキスしたから台無しにしたらしい」
 和惟の云っていることは当たっている。ただし、『おれがいても』はお門違いだ。もちろん和惟が勘違いをするわけはなく、それならどういうつもりだろう。
 拓斗は、と見上げれば、和惟と有沙が話している間に服を整えていて、いつもの動じない余裕を伴って毅然たる様に戻っている。不機嫌な雰囲気も感じられず、キスしたことは和惟の発言で確かになったのに、それはどうでもいいことだろうか。
「やっぱり変わってる子。それともまだ子供なだけ?」
「甘やかされてるのは違いない」
 和惟の答えに有沙が笑う。
「自立させなくちゃ。拓斗、忠告はしたわよ。それに、私のことは私が決めるの。食事はまた今度ね。じゃ、衛守さん、また」

 絨毯に吸いこまれたヒール音が数歩遠ざかり、そしてドアの開閉音が静かに響く。
 外からエンジン音が聞こえるなか、事務所内には奇妙な沈黙が蔓延(はびこ)った。

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