禁断CLOSER#54 第2部 破砕の扉-open-
5.迸出-Gush- -6-
「……挑発なんてしてない」
どういうことだろう。かすかに眉をひそめながら那桜は否定した。
「してないって? なら、さっきのはなんだって云うんだ?」
「……追い払ってるだけ。だってあの人、“夜中に一匹の蚊”みたいな人だから。煩くて眠れないし、血を吸われて痒くなったらますます眠れなくなる。だからそのまえに退治してる」
和惟は力なく、息を吐きだすように笑う。
「変わらないな。あの蓮っ葉な女優の卵を追っ払ったときみたいだ」
和惟の一言に、まったく納得のいかない発言を思いだした。
那桜の周りを囲う壁は不透明でさきが見えなくて、身動きすることすら許さないといわんばかりにすぐ近くに張り廻らされている。目のまえにあることしか考えられなくて、自分の立ち位置を確保するためにそれは必然のことだと思うのに。
「さっきの撤回して! わたしは子供じゃない。子供っぽく扱われてるだけ。みんなから!」
「確かに甘やかしすぎてきたな」
「甘やかす? わたしは閉じこめられてるの。子供みたいに」
「閉じこめる、というのは違う。守っているだけだ。子供扱いしてるつもりはない。大人の遊びを教えてやっただろう?」
那桜を抱きこんだ和惟の手がつと、ふくらみをすくうように這いあがった。
「離して」
胸を覆いそうになる手をつかみながら那桜が躰を捩ると、和惟はあっさりと身を引いた。
「教えて“やった”って、まるでわたしが頼んだみたいな云い方。わがままな子供扱いしてる証拠じゃない。和惟だって――」
「そうだ。おれは那桜を抱くのが好きだし、那桜にやられるのも気に入ってる」
那桜の云いぶんを聞いてしまわないうちに和惟は認めた。
「拓兄に取られても平気な程度に?」
愛してる。その言葉が信じられないのは、たったいま口にしたことも一因だ。この二年足らず、その疑問はずっと那桜の中にある。
十月の初めの恥辱的な行為のあと、いくら那桜の中にあきらめや挑戦に似た覚悟があったとはいえ、平気ではいられないのに、和惟は別荘での出来事のあとと同じく平気でいつもどおりに戻った。だから、なんでもないことのように振る舞わざるを得なくて、そうしているうちに和惟のことが一層わからなくなった。
暗い中に足音だけが響く沈黙が続いて、那桜は隣を見上げた。タイミングを合わせたように和惟は笑う。それは、笑うというしぐさの意味する感情からはかけ離れた空笑いだ。
「取られたわけでも、やったわけでもない」
「それなら何?」
「なんだろうな」
和惟がつぶやくように答えたのと同時に、駐車場に止めた車まで到着した。曖昧にしたまま打ちきられた――と思った矢先。
「託した、のかもしれない。乗って」
助手席のドアを開けながら、和惟は答えを継いだ。
託した?
聞けたところで、託すということにどんな真意があるのか微々としたこともわからない。
車のフロントを回る和惟を追う。その間も和惟が少しも油断していなくて、あちこちにアンテナを向けているのがわかる。
「和惟、家じゃなくって拓兄のとこ――会社に連れてって」
運転席乗りこんだ和惟は、やや訝るように那桜を見やった。やっぱりここでも監視システムが働いている。
「何しに?」
「拓兄と一緒に帰ろうと思って。仕事の邪魔なんてしない。それとも行ったら都合の悪いことでもある?」
「都合の悪いことってなんだ? それよりは、いるだけで邪魔になるって云ったら?」
「いま云ったのは和惟」
和惟は鼻で笑う。
「それならリップ、直したほうがいいんじゃないか。剥がれてる」
その言葉は、生々しく領域を侵犯したキスを那桜の中に甦らせた。
「だれのせい? もう拓兄がいないところで触らないで」
「応えていたくせに」
「そういうことじゃない! 嫌な気持ちになるの」
「拓斗はキス以上のことをおれにさせてるのに律儀だな」
自分では納得していても、人の口から、特に和惟の口から嘲弄されると堪らない気持ちになる。たぶん、和惟のせいじゃない。行為を受けるだけなら、まだ自分を許す余地がある。けれど、浅はかにも那桜の躰は和惟に応える。
そこまで穢れていても拓斗は那桜を抱く。自発的じゃなくなっても、いったん箍が外れれば、果てが感じられないほど攻める。だから那桜を忌み嫌っていることはないのだ。
那桜はどうにか抜け口を探して自分に折り合いをつけた。
「そのこととさっきのことは違うの。だから、きれいにしてもらうの。拓兄のところに連れてって」
那桜はバッグを探りながら云い、ミラーとリップに合わせてティッシュも取りだす。
その間に、和惟の顔に歪な笑みが浮かんだことに気づかなかった。
「きれいに?」
「拓兄はわたしを神聖な気分にさせてくれるから」
気づいたときは、右手で顎を痛いほどに挟まれ、ぐいっと持っていかれて和惟と向き合わされた。
「和惟、痛いっ」
「那桜、勘違いをするんじゃない。託した、かもしれない。けど、おれたちが一心同体であることに変わりはない。おれが“平気”と思うな」
すぐ目の前にある瞳はプラスティックスマイルもなく、ただ蛇みたいに那桜に絡みつく。やっぱりわからない。
「放してっ。痣になっちゃう!」
和惟は目を細め、那桜を射抜くように見つめたあと手を緩めた。
残った圧迫感を和らげようと那桜は両手で顎を包む。
直後にエンジンが始動して、ゆっくりと車が動きだした。運転の邪魔をするように、那桜はティッシュを一組引きだして和惟の目の前に差しだした。
「道路上でこういうことするなよ。事故を起こす」
忠告しながらもティッシュは受け取られ、さっきの険悪さはどう処理されたのか、からかった瞳が那桜を向く。
「キスしたあとにその女の前でリップを拭き取るって、礼儀を欠く行為だ」
「そのわたしのため、だから、遠慮なんていらない」
和惟はくちびるを拭きながら笑いだす。
「子供なら、そういう云い返しはできないな」
「でも」
「なんだ」
「拭き取らなくってもべつにいいのかも」
リップブラシでピンクオレンジの色を伸ばしながらつぶやいてみた。和惟の反応はなく、仕上げにくちびるの上下を軽く擦り合わせたあと、那桜は運転席を見上げた。
「何を考えてる?」
ちらりと向いた眼差しは探るようで、声音も用心深い。
「何も。閉じてるドアを開けてもらいたいだけ」
「……拓斗を狂わせるなよ」
「和惟はまえにもそう云ったけど、和惟だってわざと拓兄を怒らせたことあった。それに、狂ってるのはわたしかも。わからないことばっかりで……」
中途半端に口を閉ざすと、しばらくして和惟は促すように、那桜? と呼びかけた。
「和惟、昨日のお昼、どこにいた?」
「昨日?」
「一時過ぎ、どこにいたの?」
「仕事で移動中だ。どこって限定はできない。決まってるだろ。なんでそんなことを訊く? 拓斗のことばっかりで、おれの行動に関心があるとは思えないけどな」
そう答えた和惟になんら異変は見られない。追及するための取っかかりさえ漏らさなかった。
「どこからどこに? お客はだれ?」
その返事を待たずして、那桜はシートベルトを緩ませて前かがみになった。ダッシュボードの下にある収納ボックスに手をかけたとたん、和惟が手を伸ばして那桜の手首をつかむ。
「トレードシークレットだ」
和惟はやっと尻尾を出した。そのままの格好で、那桜は挑むように、あるいは睨みつけるように和惟を振り返った。
「……ブラシ取ろうとしただけなのに。わたしの、入ってたよね」
那桜は云いながら自由なほうの左手で開けた。電子記録と二重チェックするための日誌が入っていて、その向こうに押しやられていた薄いピンク色のブラシを取りだした。
「ほら、あったよ。それとも、見られたらまずい日誌でも入ってる?」
「要人が多いんだ。見られてまずいのは当然だろう」
さきを見越して制したことが徒になったというのに、和惟があくまで白を切るつもりらしい。答えに淀みがなければ、声は変わらず平然としている。
「要人にとっては全然まずくないよ。だって、それから二時間くらいの日誌はきっと空白になってるんだから」
那桜の推測に応じるまで、和惟はいつになく不自然な間を置いた。
「那桜。知らないほうが――」
「――いいことがある? もううんざり。いつから? 果歩とはいつから付き合ってるの?」
果歩の名をはっきり出してしまうと、和惟は運転しているにも拘らず、那桜を向いて目を凝らした。そうしたのはおそらく一秒も経過していなかっただろうけれど、その間、時間が止まったかのようだった。
和惟は可笑しそうにして、声さえあげて笑った。
「付き合ってる? 冗談だろう。脅迫されてるだけだ」
「……脅迫? 果歩が和惟を?」
和惟への問いは自分でも疑惑丸出しに聞こえた。対して和惟はうんともすんとも語らず、運転の邪魔だと云わんばかりに口を結んでいる。
車内はむっつりとした沈黙で埋まった。
和惟と果歩がめずらしく会った日。那桜が抱いた違和感は、戒斗の指摘が頭に残っているせいだと片づけた。
けれど違う。なんでもないなら、和惟が果歩を目で追うなんてことはないはずだ。那桜を見ることと詩乃を見ることは意味が違うとはいえ、見ているということを和惟は認めた。それと同じだ。
いつから? 考えてもわからない。ただ那桜の中で、ふたりに何かあるというのは確かになった。もやもやした感覚が胸に痞える。
そのうち赤信号が見えて車の速度が落ちていくと、和惟はセンターコンソールに置いた携帯電話を手に取った。
車が止まってから携帯電話を操作していた和惟は、那桜へと画面を向けた。
「これ……」
画面には那桜と拓斗がごく親密に写っていた。
「また幼稚な癇癪を起こしたのか」
まったく仮借なしに那桜の行動は扱き下ろされた。
撮られているのは三週間まえの正門でのキスシーンだ。おそらく携帯電話で撮られたのだろう、翔流が撮った写真と同じで人物特定は難しいけれど、うまい具合に正門にあった明るい照明が当たっている。これが那桜と拓斗だと名指しされたとき、車と姿格好を照らし合わせたら突き止められる。
「だれが撮――っ」
那桜は言葉を切った。訊ねるまでもなく、さっきの話の流れからだれかは悟るべきだ。
「脅迫って……何?」
「いくら那桜でもこれが出回ったらまずいとわかるだろう? どうにかする」
和惟は素っ気なく云い、今度こそ話は打ちきられた。
文化祭の話をぽつぽつとしながら二〇分くらいすると、和惟はやがて車の速度を緩めた。
有吏リミテッドカンパニーはオフィス街からは離れて、どちらかというと住居が多い閑静な場所に広々と敷地を保有している。背の高い建物といえばマンションだけだ。
透光性のあるモダンなフェンスを載せた化粧ブロックの塀に沿いながら、和惟は左のウィンカーを点滅させると会社の敷地内に入った。手前の駐車場には、拓斗と惟均の車しかなく、和惟は玄関正面に車をつけた。
那桜が会社を訪ねることはほぼないといっていい。きっと十本の指でも足りるだろうけれど、それが何本立てられるかさえも覚えられないくらいめったに来ないのだ。車を降りると、那桜は建物の外観を確かめるように一回り眺めた。
三階建てのモダンなビルは、近代的というよりはお洒落という印象のほうが強い。暗い中でも計算された外灯が建物をエレガントに見せている。
いま建物内は一階だけが照明されていて、ブラインドの隙間や玄関口からその明かりが漏れている。和惟に背中を押されて玄関に進むと、格子付きの高級感に溢れた框ドアを開いた。
すると、ちょうど惟均が入口のカウンターを回ってくるところだった。ビジネスバッグを手に持っているから帰るんだろう。
「あれ、那桜だ。めずらしいな」
「惟均くん、こんばんは。たまには寄り道もしたいかなって思って」
惟均は那桜の言葉を受けて可笑しそうにした。
「寄り道が会社? もうみんな帰ってるし、コーヒーも出ないけどな」
「いいの。気分転換ができれば。惟均くんは帰るの?」
「帰るっていうか、有吏塾行きだ。一汗流してくる」
惟均は片側だけ肩をすくめ、それから視線を那桜の頭上へと上らせて和惟に向いた。
「兄さん、せっかくの那桜の寄り道だし、コーヒーでもケーキでも買ってきてやったら?」
「おまえが云わなくても、そのうち那桜が思いつくだろうな」
和惟が云い終えたとき、右奥にある隼斗専用の部屋のドアが開いた。分厚いファイルを手にした拓斗が出てきて、逸早く那桜たちを捉える。不意打ちの訪問にも拘らず、驚くでもなく不都合そうでもない。拓斗らしく一瞥して終わった。
「拓斗さん、今日は道場、休みですね?」
惟均の質問を受けると拓斗が那桜を向く。ほんの短い間で、拓斗はすぐに惟均に目を戻した。
「ああ。父に伝えてくれ」
「わかりました。おさきに失礼します。那桜、ゆっくりして行けって云うのもおかしいけど、会社の書類とかPCとかを触んなきゃ、適当に遊び回っていい。じゃ、またな。兄さんもあとで」
惟均は那桜の頭に手を被せたあと横を通って出ていった。
那桜は釈然としない。
「触るなとか遊び回るとか、子供に云うことじゃないの?」
那桜が口を尖らせて云うと、頭上で和惟が笑う。
「惟均の中では、ずっと那桜は小さいまんまなのかもな」
その点、戒斗と惟均は那桜に対して似たような扱い方をする。
「惟均くんだけじゃないよ。みんながそう」
「そんなはずはない。少なくともおれと拓斗はね。子供と思っていたらできないことしてるだろ。ロリータがいいって趣味はない」
意図してなのか、和惟は婉曲な云い回しをして拓斗を挑発するようだ。
「そういうことじゃなくて――」
「何しに来た」
思ったとおり聞き流すことはできなかったのか、那桜をさえぎって冷めた声が飛んできた。
「なんとなく。それとも、わたしがここにいたら都合が悪い?」
和惟にしたのと同じ質問をすると、惚けているのか本当に何もないのか、拓斗もまた首をひねっただけで無反応だ。
「那桜、さっきから都合悪いってなんのことだ?」
「なんでもない」
和惟の質問に素っ気なく答えながら、那桜はカウンターを回って拓斗の席に向かった。
拓斗の専用デスクは、奥にもう一つ間仕切りとして設置されたカウンターの向こうにある。カウンターはそう高いわけでもなく、玄関向きに座った拓斗の顔は障害物なく見える。受付と間仕切りの二つのカウンターの間には、片側四つと二つの組み合わせで向かい合った白いデスクが並ぶ。
間仕切りカウンターを越えれば、補佐に就く惟均のデスク、そして少し隙間を置いて奥隣に拓斗のデスクがある。専務としている矢取、仁補の両家の伯叔父たちが使うデスクはその後ろだ。
拓斗の傍まで行ったとき、玄関先で戸の閉まった音がした。振り返ると和惟の姿が見えず、出ていったようだ。
「拓兄の仕事って毎日ずっと忙しいの?」
拓斗はファイルを捲る手を止めて那桜を見上げた。
「途切れることはない」
なぜそんなことを訊く? と云いたそうな感じの答えが返ってきた。
返事どおり、終わるまでには程遠いことを示すようにデスクの上は書類が山積みだ。
那桜は惟均の整然としたデスクにバッグを置いた。
「道場って?」
「有吏館だ。合気道を基軸にした武道の稽古と指導をしている」
「だれに? 毎日?」
「分家の学生たちだ。週二回くらい担当している」
なるほど、それで帰宅する時間が特別遅いという日があるはずだ。
「家にはまっすぐ帰らなくて、わたしが今日したみたいに息抜きで寄り道することとかってない?」
拓斗はわずかに眉根を寄せた。
「なんだ? 息抜きを外で必要としたことはない」
拓斗の声にごまかしは見えない。那桜はほっとして思わず笑みを零した。