禁断CLOSER#53 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -5-


 その日――昨日は、翔流から忠告されたことを拓斗には云わなかった。
 このところ、拓斗が決めたとおり迎えは和惟がしていたけれど、昨日は拓斗が来た。最初は無謀に振る舞う那桜から逃げるためかと思いきや、昨日、拓斗が来たことで意図もわかったつもりだ。巡って、那桜の暴走を止めるためであるといえなくもないけれど。
 那桜が助手席に収まるとすぐ、拓斗から“なんだ”と訊かれた。那桜のことをそれほど拓斗が感知できているということなのか。
 ブログのことにしろ、立矢のことにしろ、話すにはためらわれる。立矢のことに限れば、云ったとたん、それが事実かどうかもわからないまま、即刻、実行委員は辞めさせられる。ブログにしたって、アドレスとかパスワードとか、いくら那桜が教えなかったところで、拓斗はどうやっても突き止めそうだ。

『CLOSERの指先もキスも、ユイよりはずっと不器用なのに、うれしいかもしれない』

『CLOSERのキスはわたしのもの。わたしの躰の奥に注がれるキスがCLOSERのものであるように。そこだけは穢れていないって胸を張って云えるの』

『昨日、ユイに無理やりされた。覚えていないくらい、たぶん何度も……。……CLOSERが見ている前で、CLOSERの命令で。CLOSERは自分をユイに重ねていた? ユイを通してCLOSERに抱かれていた気がするの。願望? ううん。もしかしたらわたしたちは波動を同調させていたのかもしれない。途切れかけた意識の中で、何か思いだしかけてたのに思いだせなくて。でも、そのかわりに温かい中にいたから』

 “好き”と云うことよりも丸裸になった気がするから、見られたくなんかない。
 いっそのこと全部を削除しようかと思ったけれど、鍵付きの記事は“アユミ”以外に覗かれることはなく、そのアユミはすでに見ているわけだから意味がない。
 それに、消してしまえば那桜が知っているとばれるだろう。いまは知っていることを知られたくない。
 もともとアユミでさえ、大したことのない拓斗との日常を綴った一部の記事しか読めないのだ。
 果歩はどういうつもりで那桜を欺いたまま続けていたのだろう。
 アユミの更新頻度が低いのは、書くことがないというわけではなく、ただ本当のことじゃないから書けなかったというだけのことだ。
 密かな楽しみは泡沫で、腹が立つとか、果歩個人に対して負の感情を抱くよりも、那桜は漠然と嫌になった。
 果歩と素直に付き合えなくなっていることに、自分でも自分が嫌になっていた。どうやってももとには戻れない。今度のことで、やっぱり、という、不信を包んだいろんな気持ちが決定づけられた気がする。
 ただ、果歩の言葉を考えれば、拓斗との関係を否定しているわけでも嫌悪を表しているわけでもない。
 それなら、どういう意味?
 家に帰って真っ先に確認したのは、“ユイ”として和惟が登場するブログの記事だ。拓斗との“兄妹にあり得ない関係”は赤裸(せきら)にしているなか、幸いにして、アユミの目に触れる記事のなかに危うい内容はなかった。
 一方で、自分が考えるまでもなく、それを確かめた理由にも直面した。すると、果歩の云った意味も(おの)ずからわかる。
 果歩の気持ちは少しも消えていない。
 それと同時に明確になったのは疑惑だ。
 今日は何度、果歩に訊ねたいと思ったかわからない。

「これで終わろう。次回は金曜日。それまでに担当先の進捗(しんちょく)状況を把握してきてほしい。じゃ、お疲れ」
 立矢に応えて、お疲れさま、といくつも飛びだすなか、那桜はハッとして(なら)った。
「お疲れさまでした」
 入口の戸の上にある時計を見ると、委員会は二時間近くかかったようで、そろそろ八時になるところだ。
「那桜ちゃん、今日は心ここにあらずだ。いつもは熱心なのにどうかした?」
 椅子から立ちあがると同時に目の前に来た顔は、翔流の云うとおり、人当たりのいい雰囲気しかない。この顔の裏に隠した顔があるとは信じられない。
 もっとも、自分に人を見る目があるとは思っていない。
 果歩のこともわからないし、甘やかし上手な従兄だと思っていた和惟は、裏に殺生なしつこさを隠していた。
「ごめんなさい。いちおう、聞いてましたから。舞台の進み具合、金曜日までにチェックしておきます」
「いちおう、か」
 那桜の言葉尻を捉えて、立矢はひょいと眉を上げた。那桜はごまかすように滑稽(こっけい)な様で首をすくめた。そこへ、立矢が身をかがめて那桜の耳もとに顔を近づけてくる。
「どう? 今週の土曜日、約束を果たせたらって思ってるけど」
「メイク?」
「ああ。どうかな」
「授業があるんだけど終わってからでいい? 授業に出ないと監視システムが異常を知らせるらしいから」
 中野教授の家で立矢がしたように、那桜は自分のこめかみを右の人差し指で突いた。立矢がおもしろがって笑い声を漏らす。
「オーケー、何時に終わる?」
「えっと、二時間目までだから十二時十五分。拓兄には舞台の稽古に立ち会うって云っておく」
「じゃあ、ついでだ。稽古場で待ち合わせしよう。昼ご飯は適当に仕入れておくよ」
「ありがとう」
「なんならボディガードを連れてきてもいいよ」
「え?」
「昨日の昼休みのこと。翔流くん、おれのこと不審者かどうかチェックしてたみたいだ」
 さすがなのか、長い付き合いである那桜を差し置いて、立矢は翔流の意思を見切っていたらしい。おどけた立矢に合わせて、那桜はカラカラと笑った。
「翔流くんはわたしのいちばんの親友だから」
「あれ? よく一緒にいる飯田さんがいちばんかと思ってたけどな。幼稚舎からの付き合いって云ってたよね」
「うん。ホントに仲良くなったのは中等部からだけど。でも、翔流くんと果歩ではちょっと親友の意味が違うかも」
 那桜が口もとだけで笑うと、立矢はほんのわずか静止したような表情のあと、何か含んだような笑みを浮かべた。
「那桜ちゃんは世間のことに(うと)そうだけど、ぼんやりしているわけでもない。むしろ自然体であるぶん、動物的勘が働くのかな」
「……どういう意味?」
「気をつけてってこと。じゃ、とりあえずは金曜日に」
 立矢は手を軽く上げてさっさと背中を向けた。それ以上を追究されたくないかのようだ。

 なんだろう。翔流が気をつけろという立矢自体から気をつけろと云われるなんて。
 どういうこと?
 那桜が突っ立っていると、物資局委員が集まった輪を抜けだして隆大がやって来た。
「那桜さん、送るよ」
「大丈夫。和惟に出口まで来てもらうから。委員会が週二になったぶん、打ち合わせることがあるだろうし」
「けど」
「隆大さんが電話してくれてもいいよ。わたしが信用できないなら」
 何を聞かされているのか、ただ単にやるべきことに対して責任感が強いだけなのか、隆大は渋っていたけれど、最後に付け加えた那桜の一言には苦笑いで応えた。
「わかったよ。そのかわり、和惟さんが来てから出ていくこと。それまでここにいるんだよ。僕をクビにしたくないなら」
 仕返しだとばかりに隆大は脅迫を云い添え、那桜を笑わせた。そして、那桜がうなずいて了承するのを見届けたあと、物資局の集まりに戻っていった。

 那桜はバッグのポケットから携帯電話を取って和惟を呼びだした。耳に当て、音楽が二小節も終わらないうちに電話は通じた。
「和惟、いま終わったの。南館まで来てほしいんだけど」
『おれもいま駐車場に来た。すぐ行く』
「うん」
 会話の最中に電話の向こうから車のドアが閉まる音がして、早くもこっちに向かっているようだ。
『なんだ? どうした?』
 何を感づいたのか、和惟は電話を切らずにしばらく那桜の沈黙に付き合ったあと、出し抜けに問いかけた。
 那桜が微妙に発する空気に気がつくのもさることながら、かける言葉も拓斗と同じだ。ただ、聴こうとする拓斗と、入りこもうとする和惟というふうに、ニュアンスが違う。
「なんでもない。わたしも委員会室を出るから」
 電話を切って、隆大に断りを入れてから部屋を出た。
 果歩に訊くよりは和惟に訊くほうがいい。ただし、和惟が答えるかということは限りなくノーに近い。むしろ、平気で嘘を吐きそうな気がする。

 那桜はくちびるを咬んで、薄暗い廊下から出口へと続く廊下へと折れた。とたん、コツコツというヒールが床を叩く音がしだした。嫌な感じ。そう思いながら顔を上げると、正面から有沙がやって来た。
 直感どおりだ。立矢が云っていたけれど、動物さながらの勘が働いたらしい。
 有沙は、まさか刺し違える気かと紛うほど、那桜を照準に合わせてつかつかと歩み寄ってくる。那桜は仕方なく足を止め、直後に有沙が目の前にそびえた。
「有沙さん、こんばんは」
「那桜ちゃん、こんばんは」
「立矢先輩のお迎えですか」
「そう。ウチもけっこう姉弟仲がいいんだわ。拓斗と那桜ちゃんみたいに」
 有沙はこれ見よがしに口角を上げた。綺麗というには凄艶(せいえん)すぎる。
 何が云いたいかというのは、おそらく一つに限られる。あくまで兄妹という関係を押しつけたがっているのだ。
 もちろん兄妹だけれど、だれもの固定観念にある兄妹には戻れない。隆大の言葉を借りれば、互いにその意思がないかぎり。
 那桜もまたニコリと返した。
「でも、拓兄とわたしの場合は、有沙さんたちとは全然違ってますね。きっと」
「そうかしら」
 有沙の曖昧な応答に那桜は首を傾けた。笑みを引っこめた那桜のぶんを補うように、有沙はますます口もとを広げていった。
「男女の兄弟にはよくあるのよね。異性に興味を持ち始めたら、まず身近なところからその対象になるってこと。那桜ちゃんほど突飛なことをする人はそういないと思うけど、ウチも例外じゃないわ」
「突飛? じゃないですよ? 拓兄とわたしにはあたりまえのことだし、“特別なこと”だから」
「特別?」
「そう。だって有沙さんは、良くてただのセフレ。拓兄はキスしなかったでしょ? 下半身を満たしたら終わりだったみたいだけど、わたしは全部を満たされてる。拓兄もね」
 有沙のしかめていた顔がますます険しさを増した。
「……どういう意味で云ってるの?」
「有沙さんとのセックス、拓兄から教えてもらったの。そのとおりに。だから、キスしてないことも知ってる。それに、続いたのは一カ月? 二カ月? わたしは何年かな」
 那桜は考えるふりをしながら目を宙にさまよわせた。すぐにあきらめた様を装い、剣呑とした有沙に向かって肩をすくめた。
「じゃあ、失礼します」
 一礼をして少し迂回しながら有沙の横を通り抜けた。

「那桜ちゃん」
 果たして、有沙がそのまま帰すわけもなく、呼び止められて那桜は振り返った。
「スキャンダルに気をつけなさいね」
 また“気をつけろ”だ。違っているのは、有沙の口調に那桜を気遣う気持ちは更々見えないということ。それよりは薄気味悪く、何かを示唆している。
「有沙さんも、わざわざ立矢先輩を迎えにくるなんて無駄はやめたほうがいいかも。拓兄は今日みたいに委員会がある日は来ないから。避けちゃってる拓兄よりも、きっと有沙さんに似合った人、ほかにいると思うけど」
 決定打を咬ましたつもりが、那桜の意から逸れて綺麗な顔が歪んだ。思わせぶりな笑い方だ。
「あら。会う場所はここでなくてもかまわないでしょ?」
 考えもしなかった答えに、今度は那桜が眉をひそめた。
「拓兄は忙しいから――」
「それは男がよく使う口実じゃない? 九時五時で終わらない男のほうが多いのよ。例えば今日、拓斗が帰るのは何時かしら。わからないでしょ、その日その時にならないと? 那桜ちゃんは世間知らずだからわからないんだわ。拓斗ったら、本当に身動きとれなくなるまえにどうにかしなくちゃ。那桜ちゃんのためにもね。那桜ちゃんの言葉を借りるなら、那桜ちゃんに似合った人、ほかにいると思うけど」
 至当な云いぶんに不快度が増したものの、有沙はやり返すチャンスをくれた。有沙のように、どうやったらあだっぽく映るだろうと思いながら笑ってみる。
「わたしの言葉じゃなくて有沙さんの受け売りですよ? それと、残念だけど、わたしが離れたくても解放しないのは拓兄のほうなん――」
「那桜」
 再び、那桜は云い終わるまえに途切れさせられた。振り向くと、和惟が気持ち足早に近寄ってくる。

「香堂さん、こんばんは」
「衛守さん、こんばんは」
 有沙が受け応えるや否や、和惟は那桜に向かった。那桜がわずかに眉間にしわを寄らせて首をかしげると、和惟は首をひねって返した。そして、持ちまえの社交性で惑わすように有沙を見やった。
「香堂さん、那桜は思考回路が子供だから弟さんには迷惑かけてるだろうな。あと一カ月お()りよろしく、と伝えてもらえるかな」
 全面的に否定できないことは、那桜も自分のことゆえわかっているけれど侮辱的すぎる。
 しかも、有沙に云うなんて!
「いいわよ」
 有沙は和惟の発言を受けて、くすっと可笑しそうに、いや、小馬鹿にした笑みで那桜を眺めている。
「和――」
「那桜、帰るよ。香堂さん、じゃ」
 那桜の抗議はさえぎられ、和惟から出入り口に向けて背中を押された。急かすようにグイッと力が込められる。

「和惟――っ」
 無理やり歩かされながら、半歩後ろを来る和惟を振り仰いだとたん、そのくちびるで声はふさがれた。
 んんっ。
 足が止まると同時に首の根っこを抱えこまれて那桜の顔を動けなくし、和惟は舌を侵入させてきた。奇襲のように都合を無視したキスは、那桜から思考力を奪った。
 すぐに終わる気配はなくて、口の中はシロップみたいな粘液でいっぱいになっていく。状況を忘れるほど息苦しく、不意打ちのキスに微酔しながら、那桜は痞えたようにしてそれを呑みこんだ。コクッというこもった音が喉の奥に立つ。
 直後、和惟は口を少し離して、熱のこもった息を那桜のくちびるに吐きつけた。
 那桜は喘ぎながら閉じていた目を開く。潤んだ視界のすぐ傍から和惟の顔が下りてきて、那桜のくちびるを縁取るように舐めていく。
 そうしている間に、和惟の瞳が那桜からつと逸れて横に流れた。すぐにそれは戻ってきて、那桜を見下ろしながら舌を一回りさせたあと、ようやく和惟は那桜を解放した。
 支えを失い、バランスを崩した那桜の躰に手を回して、和惟は胸のすぐ下を支える。その腕に促され、迷走したような気分が修正できないまま那桜もまた歩き始めた。

「香堂姉弟を挑発するな」

 校舎を出たとたんの警告に、ぼやけた頭がはっきりしてきた。

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