禁断CLOSER#52 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -4-


 那桜のショックをそっちのけで、郁美はおどけたように肩をちょっとすくめた。
「お遊びっていうよりはわたしたちの努力。夏休み、那桜が退屈って連発してたから暇つぶし見つけてあげようって、けっこう考えてみたんだよ。さっき自分で云ってたけど、興味ないと那桜はまったく知らんぷりだから。興味持てば那桜もやってみようとか思うんじゃない? 家でできることっていったら、やっぱりネットでしょ。それで、なんだったら興味湧くだろうって」
「それがブログ?」
「そう。禁断っていうのは妄想でも、那桜がブラコンなのは明らかだし、それらしいブログだったら見るくらいはするんじゃないかって。わたしは思いついただけで本当にそうするのかは決めてなかったけど、果歩が乗り気になったの。ほら、果歩も結局は暇だから。わたしはそれらしいブログを探して、あとは果歩がそれを参考にして記事を創作。それでコメントあったら、那桜じゃない? って訊くつもりだったのに。もしくはハンドルネームを見れば、那桜から見当つけてくれるかもって果歩は云ってた」
 郁美が云ったとたん、那桜の頭に浮かんだのは“迂闊”という言葉だった。
 アユミ――そのハンドルネームは果歩に間違いない。気づいて然るべきことだ。

 クリスマスのプレゼントとして恒例化しているスケジュール帳は、中等部から続けてきた。ふたりともちょっとした日記帳がわりに使っていて、交換を始めた二回目の年、落とさないようにしなくちゃ、という果歩の言葉からペンネームを作ることに発展したのだ。
 少なくとも那桜は秘密にするべきことを書いているわけでもなく、ましてや隔離状態の那桜には重大事もない。逆に、監視下にあるなか、ペンネームは秘密っぽくて那桜にとってはちょっとした楽しみだった。いまでは、楽しみから習慣化している。
 那桜の手帳の中で、果歩は“アユミ”だし、手帳の持ち主は“サクラ”だ。
 その習慣が、匿名でいいというブログにもつい出てしまった。
 アユミが果歩なら、サクラは那桜と気づいているはず。それなのに、郁美の計算は無視されて、果歩は那桜を騙した。
 どうして?
 ――那桜はお兄さんに集中してればいいのに。
 それは冗談なんかではなかった。
 知っていて――。

「郁美、そういうのヤバい」
 那桜より早く翔琉が咎めた。那桜が目を向けると、翔流もちょうどこっちを向いた。
「翔流くん、大丈夫。見てないから」
 那桜のごまかしは通じなかったのか、それとも、目の前の探るような眼差しは気のせいだろうか。
「あ、やっぱり」
 郁美は素直に那桜の返事を受け取ったらしく、ため息を吐いた。それに逸早く反応したのも翔流だった。
「やっぱり、じゃねぇだろ」
「だから、からかうんじゃなくて楽しみを見つけてもらおうって思っただけ」
「だから、じゃねぇ。善意だとしても、顔が見えないからこそ友だち同士でやることじゃない。ほかにやり方があんだろ」
 翔流はぶっきらぼうに云い放ち、それは本気で怒っていることを示している。
 翔流も勇基も言葉遣いが荒っぽいときはあるけれど、他人を(おびや)かすことはない。それだけにさすがに(こた)えたらしく、郁美はしょげた様で翔流から那桜へと顔を向けた。
「那桜、ごめん」
「有吏、ごめんな」
 郁美に続き、ため息を吐いていた勇基までもが謝る。
 こういうところは率直に郁美がうらやましいと思う。拓斗だったら、こんなフォローはしなくて、むしろ追い詰める気がする。
「いいよ。郁美が子供っぽいってことはわかってるから」
 肩をすぼめながら那桜がからかった口調で応じると、郁美はほっとしたように笑った。
「翔流くんもありがと」
 お礼を受けた翔流は那桜を見つめ、ちょっとした間を置いてから軽く息を吐くと肩をそびやかした。そして、とうとつに立ちあがった。
「那桜、こいつら置いてさき行くぞ。どうせ、グタグタといまから勇基のなぐさめが始まる」
「あ、じゃあコーヒー片づけなくちゃ」
「那桜、わたしがやっておくから。ちょっとしたお詫び」
「それじゃ足りねぇだろ」
 翔流が強面な声で突っこみ、郁美は泣きそうな顔で勇基に助けを求める。
「翔流、郁美に悪意はないって。苛めるなよ」
 郁美をかばった勇基には答えず、翔流は首をひねっただけで那桜を向くと、行こうというかわりに顎を動かして促した。
「郁美、また明日ね」
「うん、那桜、ありがと」

 那桜はバッグをつかむと、先を行く翔流を追おうと歩き始めたところで、ふと云っておくべきことがあると気づいた。
「郁美」
 那桜が振り返ると、背後では早速なぐさめが始まっていたようで顔と顔がくっつく寸前だった。
 呆れたのは一瞬で、自分も似たようなことはしていると、那桜はちょっと反省じみた。とはいえ、郁美たちみたいにベタベタするためじゃなくて――そう思い直して反省はすぐに撤回した。
「ごめん。何、那桜?」
 そのままふたりの顔がこっち向いて照れ笑いが見え、郁美は無意味に謝った。
「果歩にはわたしが知ってるってこと云わないでくれない?」
「え?」
「結局はわたしが見てなくて、なんの役にも立ってないわけだし、だから謝られるのは苦手」
 那桜が努めて軽い口調で頼んでみると、郁美は案のごとく単純に納得したようで、わかった、とうなずいた。
「じゃ、バイバイ」
 背中で郁美の応じた声を聞きながら、急ぎ足で待っていた翔流に追いついた。

「大丈夫なのか」
 横に並ぶなり、翔流が案じるように訊ねた。
「え?」
「兄貴のことだ」
 一瞬だけ息が詰まった。
 翔流はやっぱり気にしていなかったわけではなく、触れなかったというだけのことだ。
 那桜は目を伏せ、そして歩きながら隣を見上げると、一呼吸置いてから翔流が見下ろしてきた。
「……大丈夫って……?」
「おれ、那桜を自由にしてやりたい、ってまえに云ったよな。その気持ちは変わってない。けど、あのとき――遊園地でのことだけどさ。衛守さんが来て、兄貴が待ってるってわかったとたん、那桜はたぶん考えるよりさきに反応してた。そのとき、だめだ、って思ったんだ」
「だめって?」
「とっさに帰らなきゃって思う気持ちが、極端にいえば虐待とかで怯えているせいなら、おれはあきらめなかった。けど、どう見てもそんな感じじゃない。簡単に云えば、那桜は兄貴が好きなんだな、ってさ。那桜は頼ってるって云ってたけど、それよりは“絶対”って人なんだって思った」
「絶対?」
「あのケーキ屋でのときもそうだった。迷わず那桜は兄貴を選んだ。二度もそういうことがあればな」
 那桜の心底にあるのは何か、翔流は核心をついている。
 ただ、翔流は別物と考えているらしいけれど、絶対と怯えは相伴うことだ。違うのは“怯え”が翔流の考えているものとは次元が違うこと。
 自分のことに関して疑問を持つ怖さは、きっとそうである人にしかわからないだろう。
「翔流くんは……どう……考えてるの?」
「あの車の中であったことか? あれが那桜たちの普通なら、おれが普通に考える兄妹関係を逸脱してる」
「翔流くんが普通なのはわかってる」
「ああ。那桜……云い難いけど」
 翔流は迷った面持ちで言葉を切った。
「何? 云い難くてもわたしは云ってもらったほうがうれしい。拓兄も和惟も何も教えてくれないから、だから翔流くんだけはちゃんと話して。わたしのことなら」
「子供ってわけでもねぇよな」
 翔流は自分に云い聞かせるように前置きをして一時黙ったあと、那桜がまるで見当をつけられそうにない突拍子もないことを口にした。
「もしかしたら、那桜と兄貴はほんとの兄妹じゃない、ってことがあるのか?」
 那桜は目を丸くして思わず立ち止まった。翔流も合わせて足を止めると、少しも冗談じゃないと云った眼差しで那桜を見下ろしてくる。
「なんでそんなこと考えるの? だんだん違ってきたけど、お母さんとわたしの小さい頃の写真はそっくりだし、あり得ないよ。拓兄だって、小さいときの写真はそんな感じだから。いまは翔流くんがそう思うくらい、見た目は雲泥の差ができてるけど」
 云っているうちに可笑しくなって那桜は笑った。翔流は折り合いが悪そうにして肩をそびやかす。
「おまえんち、なんていうか……閉鎖的だしさ。例えば、最初から兄貴と結婚するために引き取られた、とかさ」
 那桜は呆気にとられ、笑顔のまま表情が固まった。翔流はさらに決まりが悪くなったのだろう、顔をしかめた。
「……翔流くんて想像力すごい。郁美、顔負けかも」
「想像じゃなくて考えてんだよ。今時、あり得ない箱入り娘だしさ。おまえんちが……もしくは有吏家一族が普通じゃないことはたしかだ」
 翔流の発言が那桜に遊園地でのことを思い起こさせた。
「思いだした。翔流くん、それって和惟が云ってたことだよね。建設業界の話? どういうことがあったの?」

 ――広末建設を守りたければ余計なことはしないことだ。
 和惟はそう云った。

「磯崎組っていうのは戦前から建設業界を先導してきた会社だった。大口の発注は大抵請け負っていたし、経営状況も悪くないと云われていた。談合とか贈収賄とか事件はあったけど、最大手だけにバックにはそれなりの大物がついてる。だから深く追及されることもなければ潰れることもない。そのぶん横暴だ。いいかげん、うんざりしてた奴がいるのかもしれない。もしかしたら、そういう奴ばっかりだったのかもな。十年ちょっとまえになるけど、粉飾決算と一緒に多額の負債という実情と、不渡(ふわたり)を出すという情報が出回った。それがマスコミクラスの話ならまだいいけど、名の知れた企業トップから漏れだしたんだ。一企業だけじゃなく、あちこちからだ。経団連さえ内々で懸念を表明した。そうなれば、本格的に調査せざるを得ない。結果、不渡は回避できる状況にはあっても、粉飾決算と同時に総会屋への利益供与、落札事業は丸投げという実態が出てきた。それで磯崎組は廃業に追いこまれた。つまり、廃業を阻止できなかった大物よりもさらに上の黒幕がいるということだ」

「それがウチ?」

「衛守さんが『潰された』と知っているんなら、有吏家が裏から係わったということもあり得る。親父が云うには、古来、日本には表に出ることなく国を動かせる一族がいるらしい。総合商社を筆頭にした蘇我グループってあるだろ。あそこも史上最古から存在する一族だ。闇将軍だとかいろいろ噂があるけど、その蘇我と相対した陰の実力者だって云う。那桜んちの親父さんがやってる会社が係わったという表立った事実はない。コンサル会社だから、どこからか情報を得たっておかしくはないけどな。ただ、おれは陰の実力者イコール有吏一族と見てる」

 有吏という一族に漠然と何かあると思っていたことは翔流の発言で裏づけられ、形になった。表と裏に分かれた分家の意味も、陰で在らなければならないというのなら符合する。常識外れな見解をすんなりと受け入れられるのも、那桜自身が生まれたときからその中に身を置いているからのはずだ。
「そうかも」
 那桜が答えると、翔流は真面目な顔を一転しておもしろがった表情になる。
「そうかも、って、ほんとにお気楽なお嬢さまだよな。まあ、そういう背景だとすれば、普通じゃないってのもわかる。さっきの“想像”の話に戻るけど、おれとしてはそっちのほうがよかった。あきらめがつくし」
「翔流くん……そのまえに、あきらめた、って云ったんじゃないの?」
「兄妹じゃないって前提で、那桜が兄貴を絶対だって思ってるんなら入る隙がない。逆に、本物の兄妹なら、常識的にも法的にも反したことだし、あきらめきれない理由になる。好きって気持ちは簡単には消えないからな」
 那桜はつと考える。そして口を開いた。
「それじゃあ、翔流くんの想像どおりだってことにしてて」
「……ひでぇ」
 一瞬言葉に詰まった翔流は、拗ねたようにつぶやいた。那桜がくすくすと笑いだすと、翔流はため息をついて、それから薄く笑った。

「わたしだっておかしいってことはわかってるの。わたし、小さい頃、熱だして死にそうになったらしいの。そのときの後遺症か、普通にそうなのか、六才からまえのことは覚えていることがなくて」
「まあ、幼稚園の頃はあんまり記憶にはないけど全然覚えてないってこともないな」
「うん。お母さんとか周りの知ってる人の話だと、その頃、拓兄はすごくわたしのこと面倒みてくれてたみたいなんだけど、わたしはそんな記憶ないし、だから、死にそうになったときに何かあったんだと思ってる。戒兄が出ていくまで、ずっと無視されてたんだよ。でも、それからはかまってくれる。無愛想だけど、無視してるわけじゃないの」
 翔流にありのままを打ち明けているうちに、”好き”という保証になるようなことが一つだけ那桜の中ではっきりした。
「拓兄が絶対だって気持ちは、たぶん、記憶のない時間の中でわたしに沁みついているんだって思う。六才のときに何かがあって壊れちゃったけど、いまは修復中かもしれない」
 翔流は体内の空気を全部出しきったんじゃないだろうかというほど深く息を吐いた。
「同じ位置に到達するのだって難しそうだな。けど、こういうのは早い者順でも時間の長さでもない。それに、兄妹にあるべきことじゃない」
「わかってる。でも、翔流くんにはっきり知ってもらうことでほっとしたかも。ありがとう」
「そういうことで安心されるってのも微妙だな」
 そう云って笑ったかと思うと、翔流はふっとまた生真面目に戻った。

「そういや」
「何?」
「おれと違って安心できない奴の話。あいつ、香堂立矢には気をつけろよ」
 意外なことに那桜は目を見開いた。
「……え?」
「昔の話だけど、他人の女を盗った挙句、仲間連中でマワしたって噂があったらしい」
「回すって?」
「いわゆる集団婦女暴行だ」
 那桜はその意味すら疑ってしまうほど、唖然として翔流を見上げた。
「……そんなことするような人に見えないけど……」
「同じ経済の先輩から聞いた。おれの友だちが――那桜のことだけど、実行委員やってるって話してたら教えてくれた。高校んときのことで、あいつの家が示談を取りつけて何もなかったってことになってるって云うんだ」
 思えばさっき立矢が来たとき、翔流は一言も喋っていない。無視していたわけでもなく、もしかしたら、疑い深く立矢を探っていたのかもしれない。
「噂、だよね?」
 翔流は肩をすくめた。それは翔流の考えが、那桜の期待とは裏腹であることを示している。

「けど何もなきゃ……盗ったってことだけならまだしも、そこまでのデマなんて流れないだろ。とりわけ、さっきの男女を問わない人当たりの良さを見れば尚更だ。よっぽど性格が変わったっていうんじゃないかぎり、公平な目で見て、悪意のある噂を流されるような恨みを買う奴とは思えない。ということは、むしろデマじゃないってこともあり得る。全面的に先輩の話を鵜呑みしてるわけじゃないけどさ、気をつけたほうがいい。実行委員会に関しちゃ、那桜には衛守さんとこの付き人がもう一人いるわけだし、陰で動く一族って話が合ってったら、おれが心配する必要もないのかもしれない。けど、兄貴には云っとけ」

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