禁断CLOSER#49 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -1-


 七時を過ぎて校舎を出ると、建物内もそうだが外は照明がないと歩けないほど暗い。ちょっと肌寒いけれど、都市部でも秋特有の澄んだ空気感が気持ちいい。
「隆大さん、昨日は中野教授のとこ、何時までいたの?」
「昨日っていうより、“今日”帰ったかもしれない」
「そんなに遅くまで?」
 歩きながら那桜が目を丸くして覗きこむと、隆大は首をかしげて笑った。
「学生に囲まれるのが好きみたいだよ。だから、夏期休講中でも学生が恋しくなって無理やり講義するんじゃないのかな」
「ぷ。いい迷惑」
「だね。農芸でよかった」
「でも舞台はうまく落ち着いたみたいだし、中野教授様様、じゃない?」
「それよりは拓斗さんの“妄想”のおかげかも」
「妄想かぁ……拓兄があんなこと考えてるなんて思わなかったかも」
「んー、考えてるんじゃなくて知ってるのかも」
「え?」
 また覗きこむと隆大の口もとが笑みを形づくる。笑ったのではなく、どこか意味ありげだ。
「もしかしてただの管理人さんじゃなくて、有吏のこと知ってる?」
「そうとも云えるし、そうとも云えない」
 複雑極まりなく、それよりは“さあ”の一言のほうがよっぽどすっきりする。不服そうな那桜を見た隆大が、今度ははっきりと笑った。
「つまり、知っているというほど知らないし、知っているとしてもだれにも云えないということ」
「わたしにも――?」
「那桜、待って!」
 校舎の角を曲がろうとしたところで、果歩に違いない声が那桜を呼び止めた。
 外灯があるとはいえ、暗いなかよくわかったなと思いつつ、那桜は立ち止まって背後を振り向いた。すぐに果歩は追いつく。

「隆大さん、こんにちは。ってもう、こんばんはですね」
 果歩から挨拶されるなり、隆大は笑いだした。果歩は息切れしながら首をかしげる。
「どうしたんですか」
「果歩ちゃん、こんばんは。果歩ちゃんがいま云ったこと、このまえ、はじめて会った日に那桜さんが云ったんだよ。ほぼ同じセリフだった」
「はじめて会ったときって小さい頃から知ってるわけじゃないの? 和惟さんの家とはずっと付き合いあるのに?」
 隆大の言葉の端を鋭く捉えた果歩は、驚き混じりの声で問いかけた。
「隆大さんはこっちにいるわけじゃなくて、衛守家の別荘の管理人さんだから。小さい頃はわたしもよく行ってたらしいけど、全然覚えてないの。会ってるはずだよね?」
「そう、正確に云えば会ったのはこのまえがはじめてじゃない。昔、女の子が来てたのは覚えてるよ。三人だったかな。けど、カレー持っていったときはピンと来なかった。帰って父さんに、那桜さんてだれって訊いて一致したんだ。それまではどっちかの愛人かって思ってた」
 隆大はふざけた口調でざっくばらんに打ち明けた。明らかにからかっているのだが、自分が的確に捉えていると知ったら隆大は何を思うだろう。しかも、どっちか、じゃなく、ふたりともとそういう関係に見られても仕方がない行為があると知ったら。
 気が引けて那桜はごまかすように笑った。
「あのときの格好のせいだよね。雨に濡れたし、着替え持ってきてなかったからなの」
「八月の最後の日曜日だったね。よくある夏の嵐ってやつ。果歩ちゃん、和惟さんと拓斗さんと那桜さん、別荘に来てて足止め喰らったんだよ」
「おかげですごく美味しいもの食べられた。隆大さんちのカレー!」
「ああ、そういえば、那桜さん。あのカレー、青南祭で農芸学部の出し物になってるんだ。よかったら来てみるといい」
「ほんと? 時間見つけて絶対に行く! 果歩も行ってみて。美味しいんだよ……。……果歩?」
 那桜は途中で言葉を切り、果歩に呼びかけた。何かを考えこむようで、かすかだが果歩の眉間にはしわが寄っている。
「八月最後の日曜日? 別荘に行ったの? 三人で? 昼間?」
 果歩は立て続けに質問を並べた。

 そういえば別荘に行ったことはだれにも話していなかった、と那桜はいまさら気づく。あれからしばらくは嫌な出来事でしかなかったからだ。
 それをいま、果歩からこんなふうに訊かれると批難されているように感じる。何があったか、そもそもどういう関係でいるのか、果歩が知っているわけはないのに。
 やっぱりあの別荘のことは話題にすべきじゃない。那桜は封印リストに付け加えた。

「……うん。暇だったし……ひまわり畑がすごいの」
 那桜は肩をすくめて軽く流したつもりが、果たして果歩は聞いたのかどうか、しかめ面のままだ。待ちかねて、果歩、と名を呼びながら首をかしげた。果歩はやっと那桜に焦点を合わせ、鏡みたいに同じ方向に首を傾けた。
「不思議よね」
「なんのこと?」
「和惟さんが、那桜と拓斗さんについていくのって仕事?」
「……和惟は……仕事っては云わないと思う。従兄だし」
「従兄だから不思議なんだよね。主従関係があるというか……そのくせ、主人に媚びてるわけでもない。仕事中でもそうじゃなくても、那桜のことになると優先してるみたいだし? 那桜の気まぐれも聞いてる。そういう気持ちってなんなのかな」
 昨日のことでは、果歩から何を追究されるだろうと覚悟していたのに、呆気ないほど今日の果歩はいつものとおりだった。暗がりで、あのシーンはよく見えていなかった、もしくは最初から見ていなかったのかもしれないと勝手に安堵していた。
 それが、いまの果歩の口調は(ふう)しているように思える。
「……わたしに聞かれても答えられないよ。和惟の考えてることってよくわからないし」
「絆、だろうな」
 那桜をフォローしたのは隆大にほかならない。その言葉に反応したのは果歩よりも那桜のような気がする。
「え?」
「切っても切れない、もしくは切ったところでまた繋がる、とか。昨日、見ててそういう印象を受けた。和惟さんは冗談ぽく偵察って云ってたけど、実際それ以上のことを視てた気がするよ。やっぱり、従兄妹同士だから、かな。単なるボディガードとは違う」
「それじゃあ、和惟さん、カノジョとか、結婚もできないじゃない? 那桜にはその気ないみたいだし」
「お互いに切る意思が成立していなければ難しいだろうな。けど果歩ちゃん、それ以前に、カノジョとか結婚とか、和惟さんにとって那桜さんはそういうのとはちょっと違う気がするんだよな」
 隆大は肩をすくめた。ちらりと見た果歩の横顔は屹度(きっと)なって見え、納得しているふうではない。那桜は那桜で、隆大の発言に考えこんでしまった。
 切る意思って何?
 その疑問をさえぎるように隆大が前方を指差した。
「那桜さん、行こうか。拓斗さんが待ってるんだろう?」

 隆大の言葉を合図に、那桜を真ん中にして三人そろって歩きだし、すぐそこの角を曲がって駐車場へと向かった。
 隆大がうまく話を切りあげてくれたことにはほっとした。なんとなく果歩のことは昨日から引っかかっているのだ。ほぼ二年まえ、和惟のことで(こじ)れただけに、果歩の前で歓迎できる話題じゃない。これまでだってなるべく避けてきたのだ。
「拓兄、あと五分もしたら何やってるんだって迎えにきそう」
 拓斗から到着のメールが来たあと委員会室を出たから、かれこれ十分近く経つ。
「はっ。そういう意味じゃ、拓斗さんと那桜さんの関係も切っても切れない感じだね」
「兄妹だから!」
 せっかく離れたのにまた話題が戻りそうになって那桜は単純明快に云いきった。
「それはそうだ」
 隆大は続けて笑う。果歩を窺うと、微笑んではいるけれどどこか浮かない顔で上の空に見えた。
 植樹された銀杏の木が途切れると駐車場が現れる。数台しか止まっていなくて、拓斗の車はすぐに探しだせた。
 すると、急ぐ必要も、拓斗が迎えにくると危惧する必要もなかったとわかる。無意識のうちに拒否を示して、那桜の足が止まった。
「あれ……拓斗さんといるのって有沙さん?」
「……そうみたい」
「立矢を迎えにきたのかな」
 隆大も那桜に合わせて立ち止まると、独り言のようにつぶやいた。

 迎えにきたとしても、偶然なのか、拓斗と会っていまや有沙にはそのことのほうがメインになってるはずだ。
 拓斗にしろ、遠目でも、背中を向けた拓斗が有沙の話に耳を傾けているのがわかる。
 だって振り向きもしないから。
 首を振ったり、かすかにうなずいたりとジェスチャーさえ混じっている。
 那桜は下くちびるを咬んだ。
 那桜のお喋りはほとんどが無視される。昨日みたいな“なんだ”はうれしいけれど、裏を返せばそういうときしか聞いている素振りを見せない。
 かといって話を聞いていないわけでもないらしく、ふとした拍子に返事が返ってくることはある。
 例えば、今年の誕生祝いのことがそうだ。
 那桜は七月二十四日生まれ、拓斗は八月九日生まれと誕生日が近い。家で詩乃がお祝いのディナーを用意してくれるけれどそれではつまらない。だから、今年の那桜の誕生日、ふたりのバースデー祝いを口実にしたディナーデートがしたいと提案してみた。見事に無視されて、ため息をつくだけに終わっていた。それが、いつものごとくいきなりで一週間後に、行くぞ、と誘われたのだ。
 不機嫌にしていたから機嫌取りに思えなくもない。ただ、聞いていないように見えて、拓斗の頭の中に那桜のお喋りが残っていることはたしかだ。
 それでも、ちょっとくらい、あんなふうに反応してくれればいいのに。

「隆大さん、送ってくれてありがとう。もう大丈夫だから」
「だめだよ。ちゃんと引き渡さないとね」
 委員会に出るたびになんとなく感じていたことが、隆大のその言葉ではっきりした。
「隆大さんて、和惟からわたしのこと監視するように頼まれてる?」
 隆大は苦笑いしてちょっと目を逸らすとまたすぐに戻した。
「監視ってほどじゃないよ。那桜さんの安全を確保してる」
「安全、て?」
「まあ……世の中、いい奴に見えて実はっていう裏切りが多々あるってこと」
 隆大は曖昧に濁した。
「……隆大さんもそういうこと考えるんだ」
 那桜はまじまじと隆大を見ながらそう云った。裏切りなんていう言葉とは無縁そうでも、有吏と係わっていることを考えると、那桜の勝手な見解なんだろう。
「那桜さんもそういうこと考えなさそうに見えるよ」
「それは正反対。わたしの頭の中は不信て言葉がぎゅうぎゅうに詰まってるの」
「不信?」
「そう。わたしがあの人のこと嫌いだって知ってるのに、わたしが来るって知ってるのに、拓兄はあの人と一緒にいるんだから。わたしの目に入らないようにって気遣うこともないんだよ」
 隆大はかすかに目を見開いて、那桜から拓斗たちのほうへと視線を移した。
 その隙に、那桜はくるりと方向を変えた。

「那桜さん!」
「那桜」
 隆大と果歩が同時に那桜を呼ぶ。果歩が小走りでついてきて、足早に正門のほうへと向かう那桜の隣に並んだ。
「あの人、だれ? 香堂先輩のお迎えってカノジョ?」
「違うよ。お姉さん。拓兄が高等部のときの二つ上の先輩だって。なんだかお世話になったらしいよ」
「……お世話って……?」
 普段から察しがいい果歩は勘繰った声で問いかけた。肯定もしたくなければ、答える気にもなれなくて那桜はだんまりを決める。
「那桜、戒斗さんが家を出るまでは拓斗さんのこと嫌厭(けんえん)してたのに、いまはまったく逆になってるよ。中等の頃は和惟さんにべったりで。離れてたかと思うと、また一緒にいたり。そのときの気分で態度がころころ変わるって、やっぱり那桜だね」
 どう受け取ればいいのか迷った。果歩に目をやれば、単なる呆れたような面持ちだ。穿(うが)ってみれば、批判めいた嫌味。どっちだろう。
「那桜さん、戻ら……」
「那桜」

 隆大が云い終わらないうちに背後から低い声が割りこんだ。靴を履いていても人に足音を気づかせないとはどういうことだろう。逃亡する那桜は声さえあげていないのに気づかれている。隆大と果歩が那桜を呼んだせいだろうけれど。
 無視して歩み続けると、那桜、と果歩が囁く。それでも知らぬふりをしてると拓斗が正面に回りこんできた。その躰を避けようとした那桜は素早く腕を取られて捕まってしまう。
「放して。正門で待ってる」
「なんだ」
 まったくの無表情と比例して神経の欠片もない質問だ。効果ないとわかっていながらも、那桜は睨めつけて拓斗を見上げた。
「あの人、大嫌いだってはっきり云わないとわからないの?」
 まるで見たくないとでも云いたげに、拓斗は細めた目を那桜から逸らして首をひねった。その目はすぐに帰ってくる。
「子供とかわらない。正門に行け。すぐ行く。隆大」
「わかりました」
 拓斗は名を呼ぶだけで隆大に指示を出し、身を翻した。自分が招いたとはいえ、拓斗の言動は那桜を惨め極まりなくさせる。

「那桜さん、行こう」
 なんでもなくしているようで、隆大は内心呆れているだろう。
 居心地が悪いなか、果歩からは嫌味っぽく忠告されるかと那桜は身構えた。けれど、何も嘲ることがなければ嗤うこともなく、反応のなさに那桜は果歩を見やった。そこには、那桜に対する関心は見当たらず、陰に籠った表情があった。
 昨日、戒斗と果歩の会話以来、果歩の一挙一動に敏感になりすぎているのか。果歩の何が那桜を疑心暗鬼にさせるのかはわからない。ただの杞憂だ。那桜は自分に云い聞かせた。
「果歩?」
「あ、何?」
 果歩は我に返ったように那桜を向く。
「今日はどうしてこんなに遅くまでいるの? もしかして話したいこととかあった?」
「話したいことって?」
「だから、それをわたしが訊いてるんだよ。悩んでることとか相談とかあるのかなって」
「ぷ。那桜に云って解決することなんてあるかな」
 特異な環境にいる自分が人の力になれないことは知っているし、果歩の声にも裏は見られない。那桜は気にすることなく首をすくめた。
「解決とかじゃなくて、話してすっきりってこともあるじゃない?」
 果歩はふっと笑みを漏らす。笑っているのは口もとだけで、空虚な笑い方だ。
「んー、那桜に話したらすっきりどころか余計にモヤモヤしちゃいそう」
「何それ」
 那桜はわざとむっとして答えた。果歩は首を傾けて那桜の顔を覗きこんでくる。
「今日は友だちに誘われてサークルに顔を出しただけ」
「サークル? なんの?」
「長ったらしい名前で忘れちゃった。ちょうど終わるのが那桜と一緒になったてだけ。まさか、見かけたのに知らんふりしたほうがよかったっていう気? 親友なのに」
「そんなことあるわけないよ。わかったら傷つく」
「でしょ。じゃ、わたしはさきに帰るね。隆大さん、さよなら」
 とうとつに果歩は隆大に向かって軽く一礼すると、那桜には「バイバイ」と手を振ってすぐそこの正門を左に折れていった。

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