禁断CLOSER#47 第2部 破砕の扉-open-

4.惑溺-wakudeki- -6-


 口もとに笑みを残したまま、那桜は横へと目を向けた。みんなより下がったぶんだけ和惟との距離が近くなっている。目が合うと、警告するような眼差しが那桜を見つめ返す。
 以前と似たシチュエーションが甦った。違うのは、翔流のときは那桜の故意であったこと。
 那桜の目は和惟を離れ、テーブルを挟んで反対側にいる拓斗へと移った。
 拓斗は議論に集中していたはずで、那桜にしろ、声は抑制していたにも拘らず、ここでもまた目が合う。手を離したのは拓斗のほうなのに、変化の見られない表情でも不快なんだろうとは想像がつく。
 それと相俟って証明されたこと。拓斗は、それがどんな意であれ、那桜を無視できない。ちょっと自信が復活した。違う、かなり、だ。
 あとは繰り返すだけ。

「拓斗さんから那桜ちゃんを奪うのはたいへんそうだ」
「え……奪うって?」
 立矢を振り向き、那桜は首を斜め向けて覗きこむ。
「那桜ちゃんのこと、狙ってるつもりだけど」
 狙っていると立矢が云ったのは二度目だ。繰り返したことで、果歩が指摘したこと、那桜が薄ら感じていたことを立矢は裏付けた。けれど、なんとなく立矢の本心は謎めいている。もしくは軽薄に聞こえなくもない。
 立矢はふざけたように眉を吊りあげると、困って顔をしかめた那桜を差し置いて続けた。
「那桜ちゃんと拓斗さん、ふたりの年になっても手を繋いでる兄妹ってそういない。だから、強敵だなって思ってさ」
 云われるまでもなく、不自然だということはわかっている。だから離そうとしたのに、拓斗が止めたのだ。
 立矢は流してくれたんだと都合よく解釈していた那桜は、急いで云い訳を考えた。が、思い浮かばない。果歩のときと同じで、ごまかすよりも認めておくほうが無難だろう。
 那桜はますます首を傾けて、思いがけないというように目を見開いた。
「そう? わたし、普通ってあんまりわかってないかも。翔流くんにも云われたことある。普通にやらないことを平気でやるって」
「翔流くんて、このまえ食堂に行く途中、一緒にいた?」
「うん。高二で同じクラスになって、それ以来の友だち」
「普通にやらないことって?」
「んー……っと、抱きついたり、間接キスしたりとか。女の子同士でするようなこと、男の子とやっても全然抵抗ないの」
 肩をすくめて大げさに答えると、今度は立矢のほうが笑いだした。笑い声は落としているものの、思わず那桜は顔を上げた。拓斗はやっぱりこっちを見ている。
「立矢先輩、念のために警告ですけど。拓兄のこと、怒らせないほうがいいかも」
「かも、じゃなくて、確実なんだろう。けど、受けて立ちたいね」
 立矢はおもしろがっていて、発言は冗談とも本気ともつかない。
「本気ですか?」
「たぶん」
 肝心なところを曖昧に答えるというのはなんだろう。こういうとき、翔流なら道破する。
 けれど、その曖昧さは那桜の気をらくにさせた。立矢を守るということに対して、那桜も本気ならなくてすむ。

「わたしは本気にはなれない」
「断定するね」
 立矢はめげることなく、可笑しそうに首をひねった。
「じゃあ、触ってみて」
 那桜は立矢の腕をつかむと、その手の中に自分の手首を押しこむ。手のひらを閉じるように促して、しばらくそのままでいた。
「どう? わたし、ドキドキしてる?」
「なるほど、こういうことだな。翔流くんが指摘するのは」
 立矢は那桜の質問には答えず手を離した。それから那桜の手をつかんで同じようにさせた。問うように立矢が首を傾ける。
「待って」
 指先に集中すると、ピクピクした脈が中指に触れるのがわかった。
「どう?」
「早いような気もするけど?」
「驚いたり怖かったり、運動でも脈拍数は上昇するけど、呼吸だけでも脈拍は違ってくる。気づいていないだけで」
「呼吸で? ホントに?」
「ああ。息を吸うと脈は速くなるし、息を吐くと遅くなる。やってみるよ。微妙だけどわかるはずだ」
 那桜がうなずくと、立矢はかすかに音を立てながら大きく息を吸いこむ。吐きだし始めたところでわずかだが早くなったのを感じる。そしてまた息を吸いだす頃にゆっくりに戻った。
「ホント!」
 那桜は手を離しながら、立矢を見つめた。
「つまり、脈拍で気持ちを量るってのは当てにならない」
 純粋に驚きに満ちた那桜に向かい、立矢はにやりと笑った。那桜がリードしていたはずが、いつの間にか立矢のペースに戻されている。那桜が受けている印象とは違って、押しが強いのかもしれない。

「立矢先輩ってカノジョいないんですか」
「二股以上なんてやる気ないよ。おれはなかなか本気になれないんだよね」
 口調と同じく、意味深げな瞳が那桜に向く。それが本当なら『たぶん』というさっきの答えは、ある意味、正直ともいえる。
「有沙さんは? 付き合ってる人いる?」
「姉さん? あー、おれのことよりそこが聞きたかったわけだ」
「そうかも」
 一週間まえ、直に本人に訊ねたときは、那桜のドジによって答えが聞けなかった。是非にも知りたいところで、那桜があっさりと、尚且つ心底から肯定すると、立矢は興じて一度首をひねった。
「拓斗さんから奪うまえに那桜ちゃんを奪うべきみたいだ」
「わたし、男女という意味ではなかなか好きって気持ちになれないから」
 立矢の云い方を使い回すと、立矢は息を吐くように笑う。
「やるね。那桜ちゃんておとなしそうに見えてそうじゃない。頼りないってこともない」
「……はぐらかしてる?」
 立矢はふと目を逸らし、拓斗がいる方向へと視線を滑らせた。
 もしかしたら拓斗ではなく、有沙のほうかもしれない。ちょうど有沙の目がこっちを向いた。立矢から那桜、そしてまた立矢へと戻り、そのくちびるにかすかに笑みらしきものが形づくられる。
 拓斗までもが那桜たちに――正しくは那桜を見ていて、互いに兄弟姉妹同士が対角にあり、奇妙な構図だ。
「いや。忠告込めて教えておくよ」
 立矢の声がだんだんと那桜の耳に近づいた。那桜も合わせて立矢を振り向く。
「忠告?」
「姉さんもおれと同じで、なかなか本気にならない。本気にならなくても気に入るってことはある。気に入ってるうちはいいけど、そういうのは飽きがくる。けど、拓斗さんはそれ以前の問題みたいだ」
「どういうこと?」
「それが簡単じゃないとしたら、無視するか固執するか、二つに一つだってこと。姉さんはどうすると思う?」
 立矢は明確に云うことなくほのめかした。

 那桜は再び有沙を見やる。問われるまでもなく有沙にはその気がありありだ。
 “それ以前の問題”という拓斗を見ると、その目は那桜から逸れて、明らかに和惟のほうをちらりと向く。それが合図だったかのように目の端で和惟が動く気配を捉えた。
「拓斗、そろそろ帰らないか。明日は客のとこ、直行だろ」
「ああ、そうだな」
 自分が云わせたにも拘らず、拓斗はいま気づいたかのような返事をして那桜を向いた。
「那桜」
「わかってる」
 テレビの上にある時計は十時まえを指している。那桜が腰を浮かせると同時に立矢も立ちあがりかけた。
「じゃ、おれたちも――」
「香堂くん、きみたち学生は残りなさい。寝るには早いだろう? たまには家が賑やかなのもいい」
 中野教授の勧め、もしくは命令を無視するわけにはいかず、立矢は苦笑しながら、わかりました、と答えた。
 そして、和惟が中野教授に声をかけ、先に出ていく。その間に、立矢は拓斗の前に行き、握手を求めた。
「拓斗さん、今日は忙しいのにありがとうございました。参考にさせてもらいます」
「転ばないようにすることだ」
 どういう意味なんだろう。拓斗は握手に応じながらも、歯牙にもかけないといったふうだ。一方で立矢は気にしているようでもなく、肩をすくめた。
「ご心配なく。どう転んでもいいように体力は鍛えてますから」
 拓斗はわずかに眉を上げて反応を見せたが、それ以上は何も云うことなく、中野教授と挨拶を交わした。那桜も続いてお礼を伝え、そろって躰の向きを変えた。その先にはありがた迷惑にも有沙が待ち構えていた。
「私が下まで送っていくわ」
 断る隙を与えないためだろう、云った直後に有沙は身を翻し、先立ってリビングを出ていった。
「行くぞ」
「……うん。じゃあ、おさきに失礼します」
 那桜はみんなに向かって一礼すると、拓斗のあとを追った。

 廊下に出ると、有沙はすでに玄関のドアを開けて待機している。
 ついて来なくてもいいのに。そう思っているのは那桜だけなのか、拓斗は追い払うことなく、ただ有沙のあとに従っているように見える。
 エレベーターに行くまでに、拓斗の手のひらに自分の手を重ねてみる。半歩先から振り向いて一瞥したあと、拓斗は払うようにして那桜の手を退けた。
「酷い」
 ぼそっと漏らすと、それが聞こえたのか拓斗が振り返りかけ、那桜は目が合うまえにそっぽを向いた。
 エレベーターの扉が開くとだれも乗っていなくて、有沙が先にと拓斗を促す。拓斗が奥に入るのを見計らうようにして、有沙もまた奥へと詰める。
 嫌い。内心でつぶやきながら、那桜はふたりから離れるべく、入り口近くに立った。
 扉が閉まって密室になると、有沙がつけたパーヒュームの甘い香りが広がった。気にならない程度なんだろうが、嫌いなぶんだけ、まさに鼻につく。那桜が気に入っている、拓斗のヘアスタイリング剤の匂いが台無しだ。
「那桜ちゃん、立矢と楽しそうにしてたけど、なんの話してたの?」
 有沙がわざとその話題を持ちだしたことは明らかだ。拓斗を“シスコン”から脱皮させたがっているんだろう。
 真相を知らないというのは危うい。意図した効果は逆の作用を及ぼしてしまう場合があることを、いま有沙に教えられた。生憎とその問いかけは、那桜にとって願ったりの話題なのだ。
 那桜はにっこりと笑みを返した。
「立矢先輩、大学でも人気あるんだって友だちが云ってますよ。そういう先輩に本気って云われたら、だれだって悪い気しないですよね」
「あら。立矢がそんなことを?」
 有沙は芝居じみて目を(みは)り、拓斗はかすかに頬筋(きょうきん)をひくつかせた。
 那桜は有沙を見倣って、逆に不安そうな様を演技してみる。
「冗談なんですか?」
「そんなことないと思うわ」
 那桜の不安を強く打ち消しながらも、有沙はどこか探るように那桜を見つめる。素直に“してやったり”という表情ではないように感じた。
「よかった」
 那桜が見せた笑みは、拓斗と有沙が思うところの意味とはまったくずれているけれど、効果的ではあったようだ。ただし。
「だそうよ、拓斗。妹離れしなくちゃね」
 そう云いながら、拓斗の腕に触れた有沙はやっぱり許せない。
 那桜の笑顔は引きつり、保てそうにないというときにエレベーターが止まってほっとした。

 拓斗、有沙と続いて、そのあとに那桜はエレベーターから降りた。マンションのエントランスを出て、歩道へと十段くらいの階段をおりていく。
 拓斗の三段後ろをついて行きながら、どうしようかと迷ったのは一瞬で、那桜は足を踏み外した。
「あ、拓兄っ!」
 間に合わないなんていうことはあり得ない。無謀な確信は、素早く振り返った拓斗によって保証された。片手は腋の下で、もう片方の手はウエストを支え、那桜の躰は一段降りたところで安定した。
 二段の差がふたりの視線の高さをほぼ同じにする。
「何やってる」
「ありがとう、拓兄」
 云うより早く顔を近づけた。那桜が体重を預けているせいで拓斗は避けるに避けられない。そう踏んで、上げた腕を拓斗の首の後ろに巻きつけ、那桜は顔を傾けた。
 拓斗の瞳が驚きも咎めも浮かべないうちに、那桜は目を伏せて口づける。おそらくは制しようとするためか、拓斗の口が開く。そのしぐさが、合わせたままくちびるをなぞっていた舌を口の中へと導いた。キスと呼べる、はじめてのあのキスのように拓斗に返した。無意識だろうか、触れた舌が温かく絡みつく。
 自分から深いキスをするのは和惟と(こじ)れるまえのことで、那桜は息するタイミングを忘れてしまっている。まだちょっとだけなのに息苦しく感じだした。
 んっ。
 くぐもった息を漏らし、那桜が顔を引くと、拓斗が追うように口を押しつけてくる。それは条件反射みたいなものだろう。直後、すぐにくちびるは離れた。絡み合っていたことを証拠づけるように、ふたりのくちびるの間を透明な糸が引く。那桜は再び口をつけて糸を舐め取った。
「何やってる」
 さっきと同じセリフが動揺もなく、ただ、わずかに息を荒くしながら、キスをした口から発せられた。そのとき、ちょうど歩道に沿って和惟の車が止まる。
「拓兄が手を撥ねのけるから」
 エンジン音と同じくらい静かに囁き、那桜は有沙を見やった。
 有沙は拓斗と同じ段にいるぶん、那桜のほうがわずかに見下ろせる立場だ。くすくすと笑う那桜を見返す目は冷ややかで、ますます可笑しくなった。

「呆れた。拓斗、何してるの? 那桜ちゃんはともかく、あなたまでおかしいんじゃない?」
「那桜が特異というだけであって、おれは付き合っているにすぎない。兄妹だから見捨てられない。それだけのことだ」
 有沙もそうであれば、拓斗は淡々として特に散々な云い方だ。せっかくの優越感は瞬く間におじゃんにされた。
「そのとおり。那桜のお守りは大変なんだ。立矢くんに忠告しておいたほうがいい」
 車から降りた和惟が追い打ちをかけた。不機嫌に睨みつけても和惟には効果なく、那桜は気味の悪い笑みを目にしてくちびるを咬む。
「那桜、乗って」
 和惟が促し、伴って拓斗が強引に那桜の腕を引き、車へと追いやる。
「拓斗、カノジョいないみたいだし、『それだけ』のことなら私の誘いを断る理由はないわよね?」
 その発言を受け、那桜は後ろにいる拓斗を振り仰いだ。同時に、拓斗は有沙を振り向いて顎のラインしか見えない。結局は答えることなく、拓斗は肩をそびやかした。
 ただ、それは有沙からすればどうとでも取れるのではないかと思えた。
 有沙の様子を確認する間はなく、後部座席のドアが開けられる。車に乗ると和惟の指図で運転席側に押しやられて、彼女の胴体しか見えなくなった。覗きこみたい気持ちはやまやまでも、那桜のプライドが、無に等しいながらも止めた。
 拓斗が助手席に乗ると、有沙と挨拶を交わしたのかも見届けられないまま車が発進した。
 機嫌を損ねられた那桜は、車中、黙りこくる。拓斗と和惟はそんな那桜を気にもかけていないようで、過去と現在を行ったり来たりしながら青南祭の話をしていた。

 家に帰りつき、敷地内に車が入って止まると、自分でドアを開けてさっさと玄関に向かう。勝手に振る舞っても、行き先が家の中であればさすがに文句もないらしい。那桜は皮肉っぽく思った。
 リビングを覗いて、詩乃たちに帰ったことを知らせると二階に向かった。着替えを用意して一階までおり、浴室に入ると投げやりに服を脱いでいく。拓斗はリビングにでも寄っているのか、すれ違うこともなかった。
 全身を洗って大きすぎるバスタブに入ると縁に頭を預け、躰を浮かせた。ついたため息はエコーがかって浴室いっぱいに広がる。
 吐き気がしそうなほど苛立つ。怒らせようと思ってしたことは形を変えて自分に跳ね返ってきたわけで、なんにもなっていない。
 兄妹だからなんだって云うくせに、兄妹という理由を持ちだして那桜を惨めにさせるなんて、拓斗の冷酷さは天下一品だ。
 短くて無理やりなキスでも、拓斗が明らかに応えたことはせめてものなぐさめだけれど。
 キスしているときはその目的さえ忘れていて、ただうれしいという気持ちで夢中になった。その刹那を何度も脳裡に繰り返しているうちに、どうにか那桜も立ち直って躰を起こした。
 目の先に見えたデジタルの時計は、間もなく十一時になる。
 明日も大学だ。そう思いだして、那桜は急いでバスタブを出た。手早く躰を拭いて、ドライヤーでざっと髪を乾かす。
 廊下に出るとほのかにコーヒーの香りがした。そそられたけれど飲めば眠れなくなる。これが昼間に飲むとなると、カフェイン成分はまったく無効になって、すやすやと簡単に昼寝ができるから不思議だ。詩乃たちは寝る直前だろうが、コーヒーを飲んでも普通に眠れるらしい。

 階段を上りきって部屋のドアを開けたとたん、もっと強くコーヒーの香りが漂ってくる。同時に、那桜のベッドに腰かけた拓斗が目に入った。
「拓兄?」
 拓斗の瞳がパジャマ姿の那桜の躰を這う。それがつと横に逸れた。と、そう気取った瞬間、那桜は背後から口をふさがれた。

BACKNEXTDOOR