禁断CLOSER#46 第2部 破砕の扉-open-

4.惑溺-wakudeki- -5-


 拓斗が呆れるくらい早く食事を終えた八時すぎ、和惟の車で中野教授のマンションに向かった。
 一時間まえに突きとめた和惟の秘密は、那桜の中にまだ生々しい事実としてある。
 出かけるのにまさか和惟を使うとは思わなくて、拓斗が連絡を取っているときはよっぽど行くのをやめると云いそうになった。自分から手を挙げた委員会の仕事だという面目が、どうにか那桜を思い止まらせたのだ。
 迎えにきた和惟は夕方のことを気にしているふうでもなく、呆気ないくらい平然としていた。拓斗の前で持ちだされたくないだろうし、当然といえば当然の態度ではある。いちいち、内心を露骨にする和惟でもない。

 送るだけかと思いきや、和惟は駐車場に車を止めた。
「帰れって云いたそうだな」
 那桜が座った運転席の後ろのドアを開けながら、和惟がからかった。無視して降りると、ドアを閉めた和惟の手が背中に添う。
「触らないで」
「なんだ」
 先に行きかけていた拓斗が那桜たちを振り返った。
 駐車場は静かで、周りを囲むコンクリートの壁が声を反射する。囁いたつもりの声も拓斗に届いたようだ。
 那桜は車を回って拓斗に駆け寄った。拓斗の手のひらに自分の手を滑りこませる。拓斗は合わせた手を見下ろし、那桜の顔、それから目線を上げて背後の和惟へと向いた。
「わがままなお嬢さまはご機嫌斜めらしい」
 和惟は肩をすくめ、那桜のせいにした。また拓斗の目が戻ってくる。
 和惟だけではなく、那桜にしたって“わかったこと”を口にするにはためらいがある。
「早く行かなきゃ」
 拓斗の手を引いて那桜は強引に歩きだした。中野教授の家はどっちの方向かと訊くまえに、駐車場を出たところで順番が入れ替わり、拓斗が那桜の手を引いていく。
 背後から和惟がついて来ていることは、振り向かなくてもかすかな足音が明らかにしている。
「拓兄、もう一人連れてくるとか云ってないけど――」
「悪いけど那桜、仕事は終わってるし、何度も往復するのはごめんだ」
 那桜のあからさまな追っ払い作戦を、和惟は忠臣らしからぬ発言でさえぎった。
「講義を聴く学生が一人や二人増えようが、教授というのは気にしない」
 何を思っているのか、何も考えていないのか、拓斗までもが整然と那桜の云いぶんを突っぱねる。
「それに、ガードとしては那桜の交遊を知っておく必要がある」
 歩きながら後ろを振り返ると、和惟は同意を求めるように――いや、忠告するように首を傾けた。
 “それに”じゃなくて、それが、拓斗の意思も含めた目的なのだ。
 このところまた三人でいることが居心地悪くなっていて、けれど、そう感じているのは那桜だけだ。
 あの別荘の夜もその翌日の車の中でのことも、拓斗と和惟にとってはなんでもない。そう思うと、自分はなんだろう、やっぱり(もろ)さが鮮明になる。
 かろうじて自信を繋いでいるのは、那桜を離さない拓斗の手だ。

 五分くらい歩いて角を曲がるとマンションが視界に入った。そのエントランスから続く階段をおりたところには、メールで知らせていた立矢と、それに付き添って隆大が迎えに出ていた。那桜たちを確認するなり、ふたりは何やら話を交わしている。おそらく予定外でいる和惟のことだ。
「拓斗さん、こんばんは。和惟さん、いらっしゃったんですね」
 隆大は突然の訪問にそう驚くでもなく、口調には歓迎の意が込められている。
「ああ。那桜の周辺が変わったらしいから偵察兼ねて」
 和惟は冗談を装いながら本音で隆大に答え、それから立矢に向かった。
「香堂立矢くん? 衛守和惟だ。拓斗と那桜の従兄になる。いきなりだけど、お邪魔させてもらっていいかな」
「はじめまして、香堂立矢です。飛び入りはかまいませんよ。僕の家ではありませんが、中野教授は賑やかなのがお好きなようです。ご存知ですか?」
「いや、君と一緒で経済だったから、中野教授とは縁がなかったな」
「そうなんですね。教授には失礼になりますけど、なかなかおもしろい方ですよ」
 そう云いながら、ふと立矢の目が那桜と拓斗の繋いだ手におりた。
 それに気づいたと同時に、那桜は離すべきだと思って手を緩めた。それなのに、拓斗の手が余計に強く握り返してくる。引き止めるためなのか、いつもの癖なのか。判断しかねた那桜が見上げるのと拓斗が見下ろすのが一緒になって、目と目が重なる。
「行きましょうか」
 拓斗の眼差しから何かを気取る間もなく、立矢が促した。もっとも、時間を与えられたところで何か得られるかといえば少しも読み取れないと賭けたほうがいい。

「衛守さん、那桜ちゃんから聞いたんですけど、衛守さんは那桜ちゃんのボディガードをされてるんですか」
 エレベーターに乗り、立矢の質問を受けた和惟はふっと曖昧に笑う。五人ともが壁に背を向けて対面しているなか、その笑みがもったいぶったようにゆっくりと那桜へと向いてくる。
「あらゆる意味でね」
 曖昧じゃない。しぐさも発言もわざとに違いなく、いわくありげだ。ピクリと拓斗の腕が動き、そのことで那桜は自分の手に力がこもっていることに気づく。
「親戚なのに不思議な関係ですね」
「おれからすれば、血族だからこそ本家を守ろうとするのは当然の気持ちだと思うけどね」
「そんな義務感、わたしはいらない」
 なんとなくカチンときて口を挟むと、今度は拓斗が那桜の手を強く握りしめた。
「義務感? 違うな」
「違わない。少なくともわたしに対しては違わない」
「那桜」
 拓斗が窘めるべく口を出す。隆大はともかく、立矢という他人を前にして、確かに大人げない。それでも謝る気になれなくて、子供っぽく那桜はそっぽを向いた。
 気まずさは和惟の漏らした小さな笑い声のなかに消え、まもなくエレベーターが五階に到達した。
 隆大を先頭に、和惟と立矢が降りるなか、続こうとした那桜の手を拓斗が引いた。
「なんだ」
「……なんでもない」
 那桜はためらった後、ようやく聞き取れるかという声で云うと、拓斗はつかの間、目を留めたあととうとつに歩きだす。怒ったのかと思ったものの手は離れない。

 ふたりがエレベーターを出ると、右側に折れた先で、すでに中野教授の自宅と思われるドアが開けられるところだった。
 和惟がドアを支えて待っている。那桜は和惟が存在しないかのように素通りして靴を脱いだ。
 短い廊下へと上がったとたん、軽やかに転ぶような笑い声が耳を通り抜ける。内心にはただでさえザラザラした感覚があるのに、それがゴロゴロと治まりのつかない不快さに変わる。
 嫌な予感――ではなく、那桜は嫌でも確信した。しかも、いままで立矢に見られようが離さなかったくせに、その声を認識したと同時に繋いでいた手は放りだされたのだ。
 一週間でふたりの間がわずかでも改善された気がしていた。夕方もさっきも、『なんだ』はうれしかったのに、拓斗は一瞬にして那桜の自信を喪失させた。
 前にいた拓斗は振り返り、那桜の頭上越しに和惟を見やった。無言の会話が飛び交い、その目が那桜までおりて、それから拓斗は隆大が待つ部屋の入口へと向かった。
「那桜」
 和惟が背後から背中を押した。
 触れられたことで那桜の気力が少し復活する。和惟を振り仰いで睨みつけた。
「那桜は間違っている。おれを本気で求める気があるなら、那桜が望むとおりでいるおれが見えるはずだ」
 プラスティックスマイルと生真面目なイントネーションは対照的で、冗談とも本気ともとれない。
「那桜さん、どうぞ」
「あ、うん」
 隆大が声をかけると、不自然に待たせてしまっていると気づいて、那桜は足早に拓斗を追いかけた。

 入った部屋はLDKの――有吏家と比べればずいぶんと狭いリビングで、ソファに一人座っているのが中野教授だと見当をつけた。オーソドックスな白いポロシャツにグレーのスラックスという格好では、どう穿(うが)っても大学生には見えない。太い黒縁の眼鏡は年令をどっちつかずにごまかしている気がする。近寄ってみると聞いていたとおり、四〇前後だろうと思われた。
 那桜は首を傾け、拓斗が前にいるせいで死角になったところを覗きこんだ。ソファの前でテーブルを囲むように、学生たち四人が床に座っていることまで把握した。けれど、笑い声の主が見当たらない。
 那桜の確信は当て外れで、紅一点の演劇サークルに所属する女性の声だったのだろうか。とそう思った矢先、キッチン側に人の気配を捉えた。

「拓斗、来たのね。私もついさっき来たとこ」
 その姿が視界に入ったと同時に、有沙が拓斗を見つめながら首をかしげた。
 首を曲げる角度とか、どうしてあんなに完璧なんだろう。そこそこの好意もない那桜ですら、そう認めざるを得ない。
 やっぱり嫌だ。
 どんなに拓斗のはじめてをたどったところで、少なくとも那桜の中からは有沙という存在を消し去れない。
 拓斗が答えないでただ首をひねると、可笑しそうにしながらお茶を載せたトレイを(たずさ)えてキッチンから出てきた。
「何してるんだって云いたそうね。立矢が大勢で中野先生のところに押しかけるって云うじゃない? 先生は独身だし、だから、ちょっとこういうお手伝いに来たってわけ」
 有沙はトレイをテーブルに置くと、お茶を指差した。
 そんな理由でいるとは思えず、有沙は立矢から拓斗が来るだろうことを聞いたのだ。察するまでもなく、那桜は瞬時に決めつけた。
 有沙はまず中野教授にお茶を出しながら、成り行き話を続ける。
「国文にいたから、先生には大学時代、お世話になっててよく知ってるの。ね、先生」
「そう。北条政子を最大級の悪女に仕立てたり、君のレポートは(まれ)に見る斬新さがあったね」
「誉め言葉ですか」
「もちろんだ」
 中野教授は可笑しそうにした有沙に力強く受け合い、そして徐に立ちあがって拓斗に手を差しだした。拓斗もまた手を伸ばして握手に応じた。
「はじめまして、有吏拓斗です。突然に多人数で伺って申し訳ありません」
 拓斗の挨拶を受け、和惟が一歩前へ出て握手を交わす。
「衛守和惟です。ずうずうしくお邪魔させていただきました」
 そして最後に那桜が名乗ると、中野教授は眼鏡の奥から細い目を凝らし、興味津々の様子で三人を眺め回した。
「拓斗くんのみならず、有吏一族の噂はかねがね聞いているよ。こうやって知り合えたことは光栄だ。適当に座りなさい。有沙くんもな。ありがとう、気が利かなくてね。助かったよ」
「いいえ、どういたしまして。拓斗、座りましょ。那桜ちゃんも、それから衛守さんも」
 有沙は女主人みたいに仕切り、さり気なく振る舞いつつ那桜にだけ座る位置を指差して学生たちの間に追いやった。拓斗はゲストでも、那桜は実行委員として来ているわけで、場所としては適地なんだろうが苛立ちが残る。
 和惟は中野教授を囲む輪には入らず、いかにも傍観者に徹し始めた。

「頼朝の話はもう終わったんですか」
「大方ね。あとで話してあげるよ」
 那桜がラグを敷いた床に座ったあと、その横に立矢が割りこみながら答えた。
「中野先生、続きをどうぞ」
「そうだね。要約すれば、頼朝は朝廷を牽制しつつ実権を奪った武家政権のパイオニアであり、個々の武士たちを御家人として組織にまとめあげるという、政治的交渉も人を視る目も長けていた。後に徳川家康は頼朝を手本としたと云われている。評価としては、家康よりも頼朝のほうがやり手であると高い。それでも目立って取りあげられないのは、歴史では多く、戦の功績が注目されがちで、その点、頼朝には特段の手柄がないからだろう。君らの云うとおり、歴史的に人気のある義経を弟ながらも死に追いやったという、身内に対して容赦なかったことにも因るのかもしれない」
「もしくは、頼朝に評価が値しないからかもしれない」
 拓斗が口を挟んだ。中野教授が愉快そうに視線を向ける。
「どういうことか聞きたいね」
「頼朝は朝廷の内乱に利用され、シンボルとして仕立てあげられただけかもしれない、ということです。その下で功績を築いていたのは朝廷のとある一派だったということが考えられなくもない」
「朝廷の内乱?」
「その頃は大げさに取り沙汰されるような史実はありませんが、内乱というのは幕府にしろ朝廷にしろ、日常茶飯事のことでした。当時は、揉め事が完全沈静化するまで一五〇年かかっているようですが」
「なるほど。それが建武の新政だね」
「概ね、史実としてもとにされている文献については当事者に都合よく書かれていると聞きますから、知識にはなっても真実とは限りません。今回の舞台についてもそれぞれの解釈を取り入れれば、頼朝でもおもしろくやれるはずだ」
 中野教授に向いていた拓斗は、話しながらその相手を変え、那桜を経由して立矢へと視線を移した。
「つまり、“バカ殿”でも全然かまわないわけだ」
 立矢が応えると笑い声があがり、有沙が何か思い当たったような顔をした。
「そういえば、息子自慢みたいなことして政子から窘められたって話あったわね。実は正室の北条政子のほうが一枚も二枚も上手だったりして。実際、尼将軍とまで呼ばれた人だから」
「そっか。史上のことに忠実にならなくてもいいんだよな。方向転換するのもいいかもしれない」
 演劇サークルのふたりが同意見だというようにうなずき合った。
「拓斗くんの考えはなかなか興味深い。明治の王政復古はどう考えている?」
「鎖国のなかで不要の妄想が芽生えたのかもしれません」
「どういうことだろう」
「世界を目指した」
「維新はそのためだったと?」
「世界大戦の出発点です。これもまた、自分の妄想なんでしょうが」
 拓斗の意見は、中野教授にとっては論点を投じられたようなものらしく、ソファにもたれていた背中を起こして身を乗りだした。
「その点、君の持論を聞かせてくれ」

 それから、坂本竜馬だの西郷隆盛だの、史上の有名人の名が飛びだしたまではいいが、だんだんと込み入った話になっていって、いくら興味が出てきたとはいえ一時間ともなるとさすがに那桜の集中力は途切れた。
 退屈になったのは那桜だけかもしれない。だれもが前にのめるようにして窺いつつ、時には質問が飛ぶ。特に有沙は適度に相づちを打ちながら、的確“らしい”質問を提供して議論を白熱させている。
 くっつきすぎだ。いくら部屋が狭いとはいえ、ぎゅうぎゅうなわけじゃないのに、那桜の拳が入らないくらい、ふたりの腕には隙間がない。
 わたしがそうすれば、拓兄は間違いなく不快になるくせに。
 ふたりの間に割りこんでいきたい衝動に駆られていると、ふと有沙の目が向いた。そのくちびるがかすかに笑みを形づくる。薄気味悪い印象を受けたのは嫌っているせいだろう。那桜は身震いしそうな気分で見返した。

「那桜ちゃんて……いや、和惟さん含めて三人、なんか不思議な雰囲気あるよね」
 急に立矢が身を寄せてきたと思うと、那桜の耳もとでそう囁いた。立矢は躰をずらして後ろへと下がる。那桜もそれに倣って輪を抜けだした。
「みんなそう思ってると思う」
 あっさり認めると立矢はひっそりとして笑う。那桜は首をすくめて笑い返した。
「わたしもそう思ってるし。不思議なのはきっとわたしじゃなくて、あのわがままなふたり、だから」
「わがまま、ね。確かにあのふたりにはだれも逆らえなさそうだな。ただし、那桜ちゃんは逆らえてるみたいだ」
「そんなことない。いつも押さえつけられてる」
「そう思ってるのは本人だけかも。おれからすれば那桜ちゃんのほうが意思を通しているように見えるよ。その証拠に、拓斗さんはここに来てる。しかも、ボディガードはお姫さまを守るべく、データ入力中だ」
 立矢は自分のこめかみを指先で(つつ)いた。
 まるで和惟がロボットであるかのような云い方に、那桜は声を潜めて笑いだした。

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* 拓斗が云っていることは史実ではありません。あくまで有吏一族の世界です。