禁断CLOSER#45 第2部 破砕の扉-open-

4.惑溺-wakudeki- -4-


 和惟の手のひらの中で那桜は横に視線を流した。
 歩道の伸びる方向に対して躰が斜め向いた那桜は、すぐ視界に果歩を捉えることができた。ゆっくりと遠ざかる背中は呼びとめてと云っているみたいだ。
 和惟に目を戻すと、那桜の視線に釣られてか、もしくは自らの意思で果歩を追ってか、その瞳は那桜と同じ方向にある。それがゆっくりと正面に直った。
「おれが何をするにしても、根底は何を見ているか。那桜はわかっているはずだ」
「そんなの知らない」
「愛してる。その意味に限定すれば、おれが那桜に対して疚しいと思うことは何一つない」
「嘘はいらない」
「嘘は吐かない。黙っていることはあっても」
 那桜にとっては黙っていることが問題だと知っているのに、和惟は空嘯(そらうそぶ)いた。
 それに、限定すれば、って何?
「和惟、“愛してる”のほかにわたしに対して何があるの?」
 和惟はすぐに答えることなく、薄暗いなか、その瞳がいっそう深遠さを増して暗く濁ったように見える。
一端(いっぱし)の質問をするようになったな」
 和惟は可笑しそうに息を吐いた。それから投げつけるように一言を付け足す。
「云い尽くせない」
 那桜はまた果歩を探した。車が動かないことに気づいたのか、果歩は立ち止まっている。この時季は日が暮れ始めると暗くなるのが早い。そのせいで、それが果歩だとはわかっても顔は見分けられなくて、ただ、こっちを窺っているように見える。
「それを見せて」
 那桜が挑むと、和惟の顔が横を向く。
 和惟は、果歩を見るにはほとんど振り向く位置にいて、那桜から露骨に視線を逸らすことになる。和惟の首の筋が浮き立った。戻ってきた瞳はやっぱり動じていなくて、むしろ、おもしろがったようにきらりと光って見えた。
「拓斗がいるというのに欲張りだな」
 からかった声とともに、和惟の顔がおりてくる。
 拓斗の名が出たとたん、那桜は正気に返り、自分が馬鹿げたやきもちを抱いていたと知った。まったく愚かなのは変わりない。
 和惟はかまわず顔を近づけてくる。頬が固定されていて逃れようがなく、触れる寸前、那桜はとっさにふたりのくちびるの間に両手を潜らせた。
 キスは成立するまえに静止して、手の甲に息がかかる。和惟は引き離すように顔を上げると口を歪めて笑う。
 果歩は見た? そうだったら何を思っている?
 そんな怖さは那桜だけなのか、和惟は、果歩に目をやるなどという、気にした素振りも見せない。
 疑惑は邪推にすぎない? それとも和惟だからこそできる仕打ち?
 キスはかろうじて阻止できたものの、那桜には後悔という後味の悪さが残る。

「拓斗のまえで、おれに弄られてあんなに淫らに感じたくせに、今更で(みさお)を立てるって? しかも、おれにやらせたのは拓斗だっていうのに、か」
 ペナルティ。和惟はあのときそう云った。どっちが優位だったかはわからない。薄らとは察していながらあえて訊かなかったのに、優位かどうかは関係なく、拓斗がやらせた、と確定されると挫けそうになる。
 でも……違う。
 那桜はすぐに自分の気持ちを打ち消した。
 クローザーである拓斗の心底には、例えば火山みたいなもので、表面はなんの変化も見られなくて、山の中の洞窟に踏みこめば凍りそうな冷たさがあるのに、さらにずっと深層には熱いというのを遥かに超したマグマ溜まりがあるんだと思っている。
 首を絞めつけたあのときはちょっとした噴火だったかもしれない。その延長上にあの別荘の夜がある。それなら何も滅入ることはない。もしかしたら大噴火の前兆かもしれないけれど、それがすべて那桜に向かってくるのなら逆に怖くない。
 那桜は屹度(きっと)なって和惟を見上げた。
「でも、その間ずっと拓兄はわたしを捕まえてた」
「だから?」
「それがどういうことか、たぶんわたしはわかってるの」
 和惟の瞳が那桜の瞳に重なる。心の中まで覗きこむかのようで、不自然なくらい長く見つめていた。やがて、和惟の嘲笑が異様な時間を終わりにした。目を逸らしながらそうした和惟は、那桜ではなく自分を嘲笑っているのではないかと思った。
「乗って。晒し者だ」
 和惟の手が離れて周囲を見渡すと、人通りは多くないものの、恥も外聞もないふたりの品行ぶりが通りすがりの目を引いていることは否めない。せめて薄明の中で救われている。今度は素直に従い、那桜は助手席に乗りこんだ。
 車はすぐ発進し、那桜はちょっと身を乗りだしてドアミラーを覗いてみた。果歩の姿は捉えられなかった。
 明日、どうなるんだろう。
 自分で自分の憂うつを生産してしまうことにげんなりして、那桜はため息をついた。

「和惟、わたしのペナルティ、まだ有効?」
「何を科すつもりだ?」
「ひまわり畑のこと、何があったか教えてほしいの」
 和惟は運転しながらもちらりと那桜を見やり、すぐ正面に向き直った。
「キャンプやらされてたって云っただろ。那桜は自分も行きたいって駄々こねて、拓斗はなだめるのにひまわり畑に連れていくって約束してたらしい。帰ってきたら那桜が行方不明になっていた。もともと那桜は風邪ひいてたんだ。外出禁止ってされてそれを突破した。熱出てたのに濡れたから……生きるか死ぬかっていうくらい酷くなった」
 和惟は前を向いたまま肩をすくめた。
 その口から出たことは、当たり障りのない、那桜がこれまで聞きかじったことを繋ぎ合わせた想像とほぼ一致する説明でしかない。いまは後遺症もなく元気でいるのに、なぜだれもが口を噤むのだろう。
「それだけのことをどうして拓兄が口止めするの」
「“それだけ”のことの中に、拓斗にとって“それだけ”に納まらない何かがあるから、だろう」
 那桜の言葉をアレンジしただけの答えが返ってくる。
「じゃあ、それから何があったの? 和惟は拓兄に云ってたよね。あのあと何かあったのかって」
「何があったのか――おれにはわからない。おれが知っているのは結論だけだ」
「結論て?」
「結論が結果になるとは限らない。そういう曖昧なことを那桜に云うつもりはない。嘘は吐きたくないから」
 那桜が云ったことを逆手に取り、和惟は口を閉ざした。結局はペナルティはなんにもならなくて、那桜はむっつりと黙りこんだ。

 家に着くと、いつものとおり、和惟は律儀に玄関まで那桜を送り届けた。
 車用、人用ともに、門扉を開けるセンサーの所持者は限られている。家の中には、門が開いた時点で出入りのあったことが通じていて、玄関の戸を開けると詩乃がちょうど上がり口で立ち止まった。早く帰ったことも、連れ帰ったのが和惟であることにも驚かないということは、拓斗が連絡していたんだろう。
「ただいま」
「おかえりなさい。和惟くん、家にはすぐ帰るのかしら?」
「仕事に戻りますが……何かありましたか?」
 どうしようという詩乃の困った表情に気づいた和惟は気を回して訊ねた。
「咲子さんにケーキを届けてほしいんだけど」
「ああ……そうでした。いつもありがとうございます。大丈夫ですよ、寄っていきます」
 詩乃に云われて和惟がピンときたように、那桜も、今日が咲子の誕生日であることを思いだした。
 男たちってどうしてあんなに無神経なのかしら――ずっとまえ、詩乃は咲子から、誕生日だというのにだれも気にかけていなくて自分でケーキを作ったり買ったりするという愚痴を聞かされたらしい。それ以来、詩乃が毎年バースデイケーキを作ってプレゼントするというのが習慣化した。
 またいま忘れていた和惟を見つめて、呆れ半分、詩乃はからかうように首をかしげた。
「男ばっかりってなると、どうしてそうなのかしらね」
「まったくです。父に花束でも買ってくるように連絡しておきますよ」
 和惟は情けないと云ったふうにいい、詩乃はくすくす笑いながら、ちょっと待っててね、とリビングに向かった。

 その間に靴を脱いで玄関口に上がった那桜は和惟へと向いた。段差があっても見上げる立場にいる那桜は、詩乃の後ろ姿を追う和惟を見上げたとたん、つい三〇分まえにあった光景が甦った。
 いまになって、和惟が何を見ていたのか、そして、和惟の『愛してる』を信じられなかった理由がわかった。
「和惟」
 和惟の焦点が那桜に移った。
「なんだ?」
「わたし、お母さんに似てる?」
「母娘だし、似てないわけないだろう。かよわく見えて、方向はずれてても我を通そうとするあたりはそのままだな」
「和惟はわたしを通して、お母さんを見てる」
 和惟が云い終わらないうちに重ねるように口にした。那桜を見る和惟の目が訝るように狭まった。
「何が云いたい?」
「和惟の『愛してる』はわたしにじゃない。和惟はわたしを見てない。ずっとおかしいって思ってた。いま、わかったの」
「……『いま』? 違うな」
 量るように那桜を見ていた和惟は、首を軽く横に振りながらため息のように笑う。
「違わない。お母さんがいると、わたしは見上げるたびに和惟の横顔を見てた」
 睨むように見つめていると、和惟の手が張りつめた気配を断ちきるように動く。それが触れてくるまえに、那桜はくるりと身を翻した。
「那桜」
 和惟の呼びかけを無視して廊下を進むと、詩乃が出てきた。詩乃は何も気に留めず、ケーキの載ったお皿を持って玄関へと行く。
 那桜は立ち止まって、ふたりの常套句のような短い会話を眺めやった。

 和惟の目が詩乃にあって、そこまではわからなくはない。詩乃に男を惹く何かがあるということは、娘の那桜が見たって理解できるから。
 でもそれなら。
 いまでこそ自然に接しているが、また那桜が和惟と接するようになったとき、詩乃が和惟と会うたびに見せていたためらいはなんだろう。那桜が気づくずっと以前も、詩乃は一線を置いて和惟と接していただろうか。
 記憶を追ってみたけれど、そんな目でふたりを観たことはなく、何も確証は引きだせない。
 ふと、和惟の目が上向く。それが那桜の瞳に合うまえに背中を向けた。

   *

 拓斗は那桜に告げた時間どおり、七時半頃に帰ってきた。ちょうど食事を終えたときで、今日の夕方、詩乃が那桜のためにそうしたように那桜も玄関まで出迎えた。
「おかえり」
 拓斗は那桜を見やっただけで、あとは無反応で革靴を脱いだ。
 大学時代は仕事をするにもラフな格好が多かったけれど、いまはすっかりビジネススーツ姿が定着している。躰にフィットしていて、スタイルの良さが否応なく見て取れる。
「なんだ」
 那桜の差しだした手を見て、拓斗は目を上げる。那桜は拓斗が持ったチョコ色のダレスバッグを指差した。
「バッグ、持っていこうかって思って。テレビで見てると、よく専業主婦がやってるの。わたしもやってみたいと思ったんだけど」
 拓斗は呆れたのか、首を横にひねった。那桜の申し出を無言という形で却下すると歩きだす。まずは部屋へと向かう拓斗のあとを追った。
 階段に差しかかると、那桜は拓斗の空いたほうの手の中に自分の手を滑らせた。ここの領域は詩乃に見られる危険性が少ない。撥ねのけられることはなくて、反対に拓斗の手は軽く閉じられた。いまとなってはほぼ条件反射になっているに違いなくて、拓斗の斜め後ろをついて行きながら那桜はこっそり笑みを浮かべた。
 部屋に入ると那桜の手を離し、拓斗はダレスバッグをデスクに置いた。ジャケットがベッドの上に放られる。

「拓兄、立矢先輩に誘われたの。……あ、委員会の話だよ」
 クローゼットへと行く拓斗が振り向いたのだが、どこか責めるような眼差しに思えて那桜は弁解した。
「日本古典の中野教授って知ってる? 舞台のことでアドバイスをもらうんだけど、大学でっていう今日の予定が狂って、中野先生の家に行くことになってる。それで立矢先輩、拓兄にも来てほしいって。両方の意見を聞き比べたいってことだと思うけど」
「暇じゃない」
「わかってる。でも、行くって約束しちゃった」
 半分は那桜の嘘で、半分は立矢の強制執行だ。
 拓斗は淡いブルーのシャツを脱ぎ、またベッドに放ると、引きだしを開けて服を取りだした。
「拓兄……」
「何時だ?」
 無理ならいい、とそう云おうとして拓斗がさえぎった。
「……いいの? 八時! でも遅れてもいいって」
「出かける用意してろ」
「うん、もうできてるから」
 黒い長袖のTシャツから顔を出すと、拓斗は那桜を一瞥した。
「それだけか」
「え?」
「帰ってからでいいって云ったことだ」
 拓斗は忘れていなくて、それどころかわざわざ訊いてきた。不安とは裏腹な、うれしい気持ちになって、ちょっとした畏れは大したことがないように思えてくる。
 それに、和惟とのシーンを果歩が誤解したとしたら、後悔することではあるけれど見方を変えればカムフラージュにはなっているのだ。
「思い過ごしかもしれないけど、果歩に疑われてるって感じがするの」
「なんのことだ」
「……拓兄とのこと」
 那桜がいようとまったくおかまいなく、拓斗はスーツパンツを脱いでカジュアルなものに穿きかえる。もっとも、それ以上の裸体は何度も見ていて慣れていいはずが、一週間も放りだされたままだし、やっぱりドキドキした気分で触れたいという衝動を駆りたてられる。
「郁美は最初から怪しいとか、そんなふうにからかってたんだけど、果歩は郁美の云うことをバカバカしいって感じで聞いてた。でも、今日はなんだか違ってて」
 拓斗はクローゼットを閉めてから那桜の前に来た。
「だれがどう思おうと……不確かなことに動揺する必要があるのか。愚の骨頂だ」
 めずらしく拓斗は云い淀み、それから那桜の不安を切り捨てた。
「うん。認めるほうが嘘っぽいかなって思ってそうした。わたし、ブラコンなんだって」
 那桜がふざけて云うと拓斗は肩をそびやかし、それから脇を通りがてら手が額に触れた。そのしぐさは、まったく那桜の取り越し苦労だとなぐさめられたようで完全に安心させられた。
「下、行くぞ。食べたら出る」
「うん」

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