禁断CLOSER#44 第2部 破砕の扉-open-

4.惑溺-wakudeki- -3-


 五時限目の英語の授業が終わると、那桜はふっと肩を落としながら息を吐いた。
 大学の授業スタイルにはもう慣れたけれど、高等部の頃に比べると一科目に対して授業時間は倍だし、丸一日受けるとなると学校にいる時間も二時間近く長くて、うんざりしなくもない。もう六時で、外は紫紺の色へと変化しつつある。
「那桜」
 テキストをしまっていると隣に座った果歩が呼びかけた。
「何?」
「ほら、お迎え」
 果歩は教室前方の出入り口を指差す。
 顔を上げて果歩の指先を追うと、立矢の目と合った。立矢が軽く手を上げて、奥にいる那桜たちのところへゆっくりとした足取りでやって来る。
「那桜にくっつく男って忠臣化するよね」
「くっつくって――」
「那桜はだれを選ぶわけでもなくて、来る男たち全員を(はべ)らせてる」
 それはどこか皮肉に聞こえた。
 昼休みのときみたいに、抑制できないで刺を含んでしまう。そんな那桜の云い方は、果歩からすればこんなふうに聞こえているのかもしれない。果歩だっていまに始まったことじゃなく、時折こんな口調になることがあって、那桜の弁明としては果歩がそうだからと主張したいところだ。
「そんなつもりじゃないよ」
 那桜は笑顔をつくっておもしろがったふうに努めた。
「それが、那桜のわがままなところだよ。まえに云ったよね」
「友だちとか、先輩とか、そういう関係なだけだよ? 男と女って枠にはめなくってもいいと思う」
「友だちになりたいとか、後輩と仲良くしたいとか、そういう気持ちで男が女に近づいたりっていうのは――その逆も、あり得なくない? グループで始まって、それからそういう友だち感情とか発生することはあるとしても、ね。翔流くんの場合は全然違うし、香堂先輩にしたって実行委員に誘ったわけでしょ? 中途なんて異例だし、優遇されてるし、どう考えても口実じゃない。那桜だけ直々にお迎えなんて露骨なんだよね。どこかの皇女(おうじょ)さま扱い」
 果歩は遠慮なく指摘した。
 先週、果歩と立矢を紹介する機会があって、そのとき立矢は那桜を狙っているようなことを冗談めかして云った。果歩はそのことを本気と取っているようだ。
 翔流にしろ、立矢にしろ、その本気度がどうかということを脇に置けば、果歩の云う意で那桜に近づいてきたというのはそのとおりだ。
 翔流には応えられないことを伝えている。立矢からははっきり云われたわけでもないから、こっちからまえもって付き合えないとか云えば、自信過剰も(はなは)だしいとおかしなことになるし、それ以上、那桜にどうしろというのだろう。
「わたしはわざとそう仕向けてるんじゃないし、気をつけられないことだよ?」
 那桜が云い返すと、果歩は可笑しくもないのに笑っているという表情をした。
「わかってる。責めてるわけじゃなくて、うらやましいなって思ったんだよ。那桜はお兄さんに集中してればいいのにってね」
 果歩の言葉を受け、ペンケースをバッグに入れかけた状態で那桜の動作は中途半端に静止した。
「……どういうこと?」
「ぷ。何、真剣な顔してるの? 郁美がいつも云ってることじゃない。わたしが云うと違うように聞こえる?」
 果歩は吹きだしたあと、テキストをそろえてバッグにしまいこんだ。
「……そうじゃなくて、果歩がそういう冗談に乗るとは思わなかったから」
 那桜は努めてさり気なさを装い、取り繕った。果歩は気にもしていないふうにバッグを覗いていて、すぐに帰る支度を終えた。そこへ立矢が合流して、ほっとしたのか不安になったのか、那桜の中にどっちつかずの悶々とした気分が居残った。

「立矢先輩、こんにちは」
 立矢たちが家に来た日以来、青南祭について拓斗に手を借りることはもうなくて、いまのところ那桜は有沙と会うこともない。それでも姉弟を混同することは避けたくて、立矢を勝手に下の名で呼んでいる。
 立矢は取り立てて拒絶反応することなく、委員会のなかでは気をつけて“委員長”と呼んでいるから問題はないはずが、つい今し方の会話のせいで果歩の手前、少し気にしてしまう。立矢のほうは初対面の日から“那桜ちゃん”と呼んでいて、実情として実行委員会はみんなが気さくに互いを呼び合っているから、果歩みたいに神経質にならなくていいはずだ。那桜は自分で自分をなぐさめた。
 立矢はおどけたように首をひねって那桜に応え、それから果歩に向かった。
「飯田さん、こんにちは」
「こんにちは、香堂先輩。今日もお迎えですか。毎回、律儀ですね」
「拓斗さんを不快にさせてるから、せめて粗相がないようにしないと」
 肩をすくめた立矢を果歩が怪訝そうに見上げる。
「不快?」
「那桜ちゃんは自分のことをブラコンだって云ったけど、拓斗さんもシスコンらしいからね」
 嫌な話題だ。せっかく果歩の気が逸れたかもしれなかったのにまた戻った。
「ふうん。那桜はともかく、拓斗さんはそんなふうには見えないのに。戒斗さんはしっくりくるんだけど」
 “那桜はともかく”ということは、さっきの果歩の発言は、自分で冗談めかしたくせに実は本気だったことを示しているんじゃないかと疑った。
 普通に考えれば軽く流すような話題なのに、果歩は首をかしげながら何かを思い起こしているふうだ。夏休みまえまで、まったく郁美のからかいには取り合わなかった果歩が、なぜいま気にかけているのだろう。
「那桜ちゃんが戒斗さんといるところは見たことないからなんとも云えないけど、少なくとも拓斗さんはそうだと思う。このまえ家にお邪魔したけど、クールに接しているようでいて、実はってところが見えるんだよね」
「わぁ。じゃあ今度、じっくり観察してみよっかな」
 果歩が笑いながら那桜を覗きこむ。いまは嫌味が見えなくて純粋におもしろがっているようだ。
「観察するほど会うことないでしょ? でも、実はってところが見えたら教えて。拓兄の弱点知りたいし」
「弱点知ってどうするの?」
「自由行動と引き換えに脅迫する」
 那桜が至って真面目に宣言すると、果歩は笑いだした。その反応を見るかぎり、わざと煽ってみて正解だった。否定するよりも、認めるほうが嘘に見えることもある。
「さすが、那桜らしいね」
「だね。那桜ちゃんは窮屈そうでいて枠にはまってない」
 立矢は果歩に同調してからかい、それから徐に那桜の横に回ってきて空いた椅子に座った。

「委員会、すぐ行くんじゃないんですか?」
「いや、中野教授が急な出張で午後から出かけてるんだ。八時に家に来いって云われてる」
「そうなんですか。じゃあ、わたし聞けないんだ」
「中野教授って日本古典の?」
「そ。果歩はおもしろい先生だって云ってたよね。頼朝の主観的エピソード聞いてみたかったのに」
 那桜はため息をついた。
 今回の青南祭実行委員会の一押しイベントである舞台、“ザ・源頼朝”の最終打ち合わせとして、今日はそれを引き受けた大学の演劇サークル、“エンターテイメント工房”の代表をはじめ、重立ったメンバーと一緒に中野教授の意見を聞くことになっていたのだ。
 舞台裏で関わるにつれて、苦手な歴史ながらも那桜は興味を持つようになり、楽しみにしていたことの一つだった。
 果歩は文学部の国文学科に所属していて中野とは面識がある。
「おもしろいけど変わってるのよね。夏休み中なのに講義だって学生集めるんだから」
「らしいね。おれの友だちも去年はブーブー云ってたな」
「そうなんですよねぇ」
 果歩が相づちを打っている間に、那桜は携帯電話を取りだした。
「拓斗さん?」
「そう」
 立矢の問いに答えながら通話ボタンを押した。那桜が真ん中にいるせいか、果歩も立矢も黙って見守っている。三回目のコールの途中で通じた。

「拓兄?」
『なんだ』
「今日の委員会、急に外であることになったの。それで……」
 全部を云いきれないうちに那桜は口を閉じた。電話の向こうは打ち合わせをやっているのか、ちょっとわさわさした雰囲気を感じる。そのなかで、拓斗がだれかに話しかけている。送話口もふさがず、声はもろに聞こえてくるけれど、那桜に向かっていないことは確かだ。相手は探るまでもなく惟均(ただひと)で、こもった声が電話越しに届いてきた。
『那桜』
「もうわかった」
 今度は那桜がさえぎった。そのまま電話が切られるまでと耳に当てたまま黙っていると、いつもと違って無機質な機械音に変わる気配がない。
『なんだ?』
 沈黙に痺れを切らしたらしく、拓斗が口を開いた。ぶっきらぼうな返事をしてしまい、怒って無視されてしまうかと思ったのに、その言葉には疑問符が付いた。まるで、話したいことがあるの、という無言の語りかけが通じたみたいだ。
「ううん。帰ってからでいい」
『十五分しないうちにそっち着く』
「うん。拓兄は何時に帰る?」
 時計でも見ているのだろうか。すぐには答えが返ってこない。
『七時半には帰る』
「わかった。じゃ、ね」

 電話を切ったあとも拓斗の声が耳の奥でリフレインしている。開きっぱなしの携帯電話を閉じて、ふと顔を上げると両脇から視線を感じて、那桜は無意識に口もとを引き締めた。そのことで那桜は自分が笑みを浮かべていたと知る。
「うれしそうだね」
「ホント。なんて云われたの? 恋人から好きだよって云われたような顔してる」
 立矢は意味深に微笑んで、果歩は大げさな比喩を云ってかすかに眉間にしわを寄せた。
「なんだ? って訊かれたんだよ」
 そのままを答えると、思ったとおり、果歩はやっていられないというように首を横に振った。
「那桜、どう見ても自由行動を狙うより、拓斗さんといるほうがいいって感じだよ」
「そうかもね」
 変更した“戦略”に従って那桜が素直に認めると、立矢は可笑しそうにした。
「拓斗さんのお迎え?」
「ううん。和惟」
「和惟?」
「あ、わたしの従兄で、お洒落に云えばボディガードみたいなもの。和惟の家は警備会社やってるの」
「へぇ。拓斗さんだったら、ついでに中野教授のとこに誘おうと思ったんだけどな。歴史に関しちゃ、拓斗さんも独特な考え持ってるし、中野教授と議論させたらおもしろそうじゃないか?」
 那桜はふと考えこむ。拓斗も一緒だったら、外出しても不満はないはずだ。
「帰ったら訊いてみる」
「そうしてほしい。二時間くらいいるだろうし、遅れてもいいから。じゃ、あとで」
 まだ決まったわけでもないのに、立矢は来るのを前提にした挨拶言葉を残して立ちあがった。
 教室を出るまでにあっちこっちから声をかけられて、立矢はまとめて手を上げて応えている。学年さえ違うのに、実行委員長という看板があるからなのか、けっこう知り合いがいて、もしくは一方的に知られているようだ。

「高等部のときの先輩に聞いた話、香堂先輩、大モテらしいよ。あのフレビューの御曹司になるわけだし」
「そうなんだ。モテそうっては思ってたけど。今度、メイクの仕方を教えてもらうつもり。立矢先輩、そういうの勉強してるって云ってた」
 果歩は脱力したようにめいっぱい息を吐きだした。
「那桜ってば、ほんっとに無頓着だよね。委員会、潰れたんなら潰れたで、連絡はメールですむことなのにわざわざ顔を出すなんて、那桜にはその気なくても香堂先輩はその気満々じゃない?」
「それよりは拓兄を誘いたかったのかも」
 那桜は軽くかわして席を立った。果歩はまたあからさまにため息をつく。
「お迎え、和惟さん?」
 とうとつに話題は変わり、しかも単語と単語の間に痞えたような間を感じた。果歩の口から和惟の名が出たのは高等部以来のような気がする。
 那桜はバッグを右の肩にかけて、脇に抱えるように持つと果歩を見下ろした。
「……そうだよ。果歩はまだ帰らないの? だれかと約束してる?」
「ううん、帰るよ。和惟さんと会うのも久しぶりだし、那桜に付き合っちゃおっかな。いい?」
「……べつにかまわないけど」
 そう返事するしかなくて那桜は首をかしげると、果歩も同じしぐさで返した。
 高校時代、果歩の髪はロングストレートだったけれど、いまは毛先が緩くカールしていて、ちょっとした動きでふわふわに揺れる。友だちとしてずっと見てきて、やっぱりきれいだと思う。

「果歩、合コンとか参加してるんだよね?」
「しょっちゅうじゃないけどたまに誘われて行くよ」
「ピンとくる人、いないの?」
「人を好きになるってそんなに簡単なことじゃないでしょ」
 その言葉はある可能性を示している。果歩がわざとそんな答えを云ったのか、しくじったのか、どっちだろう。果歩をチラリと見てみたが、ちょうど校舎を出たところで、紫紺の色が顔に影を落として表情を暗ましている。
「付き合ってほしいとか、告白されたことはあるよね?」
「あるよ」
「付き合ってみようかってならないの? そうしてるうちに好きになるってこともあるらしいけど」
「那桜はそうしてるうちに好きになってないんだよね?」
「……余計なお世話だって云いたいんなら、果歩だってそう」
「あー……そっか」
 果歩がおどけて首をすくめ、那桜は笑った。今日、果歩に対してはじめて素直に笑顔を見せられたかもしれない。

 それから他愛なく青南祭の話をしているうちに、和惟の仕事用の車がすっと門の前を横切った。ちょっと先で歩道脇に止まったと同時に、那桜は果歩とそろって車に向かった。
 和惟が車を降りて那桜たちのほうへと回ってくる。
「おかえり」
「ただいま。仕事中じゃなかった?」
 和惟は答えず、関係ないというように肩をそびやかす。それまで那桜に注がれていた眼差しがつと果歩へと流れた。
「和惟さん、こんにちは」
「こんにちは。元気そうだ」
「そう見えるのかな? 独りでさみしい日々って感じだけど」
 果歩は冗談ぽくしているけれど、さっきまで那桜に云っていたことと微妙に反対のことを云っているように聞こえる。
 和惟は笑って果歩をすかし、那桜に目を戻した。
「どっち?」
 和惟は前と後ろのドアをそれぞれに指差す。ほんの少しためらったすえ、那桜は助手席を指差した。
「じゃね、果歩」
「うん、また明日」
「気をつけて」
 和惟の言葉に、果歩は笑みを浮かべてうなずくとくるりと身を翻した。いつもと変わらず悠々としているのに、いま見ている果歩の背中はどこか落ち着かなく感じる。

 人を好きになるのは簡単じゃない。それは那桜も知っている。“好き”ということ自体がどういうことかわからないのはいまでもそう。ただ、拓斗に『好き』と口走って、そういう無意識に求める気持ちがそういうことなんだと思っている。
 そんな気持ちが湧くことなんてめったになくて、だからこそ逆のことが云える。
 好きになったら、そんな簡単に嫌いになれない。忘れられない。
 だったら、果歩は――。
 ふと仰向いて見えたのは、顎から耳にかけての流れるような和惟の横顔のラインだ。いつも見ていた光景が脳裡にちらついた。

「和惟」
 動じてもいない目が正面に戻って那桜を見下ろしてくる。
「乗って」
「和惟、だれを見てるの?」
 ドアを開けかけた手が止まる。車から那桜へとゆっくり焦点を合わせた和惟は、表情もまたゆっくりと笑みへと変えた。オウトツのはっきりした顔には影ができていて、プラスティックなのかどうかは判別がつかない。
「那桜を見てる」
「わたしに嘘を吐かないで」
「嘘、だって?」
 心外だと云わんばかりで、和惟は往来があるにも拘らず、ドアから放した手を上げて那桜の頬を包むようにすくった。

BACKNEXTDOOR