禁断CLOSER#43 第2部 破砕の扉-open-
4.惑溺-wakudeki- -2-
食堂に行くと、天気が心地いいせいだろう、テラス席はすでにいっぱいだった。那桜たちは入り口寄りの隅っこに空席を見つけ、二人用のテーブルを三つ繋いで席を取った。
戒斗たちはどこにいるんだろうと見渡すと、奥の席にいて、那桜に気づくなり軽く手を上げた。那桜も手を振り返し、それから果歩たちとビュッフェ台に向かった。翔流だけが定食を選んでいる。
青南のうちでもここの学食は人気がある。和洋中そろっていてメニューは季節ごとに変わるし、飽きることもない。それぞれに好きなものを取って席に着いた。
「今日も委員会あるのか?」
一斉に食べだして、空いたおなかが落ち着いた頃、目の前に座った翔流が問いかけた。
「うん」
「ね。戒斗さんのバンドってまだヴォーカルいないんでしょ。演奏だけ?」
「ううん。助っ人いるんだって。観たほうがいいかも」
「どういう意味よ」
「目の保養もそうだけど、耳の保養にもなりそうってこと」
果歩はお箸を持った手を止めて、隣にいる那桜の顔を見つめた。理由を考えているようで、果歩は黙りこみ、その向こうから郁美が上半身を乗りだした。
「那桜、もしかしてだれか来るの?」
「だから、ヴォーカリスト兼ギタリスト。それ以上は云えないよ。ここだけの話、お勧めってことだけ教えておく」
「わお。期待しちゃお。何時だっけ? 当番、外しておかなきゃ」
「午後一だよ」
「オッケー」
郁美ははしゃいだ返事をした。その正面に座った勇基が、妙なものでも見るように那桜に目を向けてきた。
「有吏、実行委員て面倒くさくないか?」
「そんなことないよ」
「へぇ。なんか有吏ももの好きだよな」
「那桜は普段が何もしてないし、だからなんでも楽しいんだよ」
「何もしてないんじゃなくて、できない、んだよ」
那桜は即座に果歩の言葉を訂正した。云ってしまってから、そこにある刺に気づかれなかったかと少し後悔した。ともに自己嫌悪に陥る。
和惟のことで気まずくなって、もとに戻れるのは無理かもしれないと思っていたのに突然、果歩のほうから折れてきた。そのときに感じた不信はだれに対してだったのか。
それまで果歩がどんなことを指摘しようと気にならなくて、むしろ納得できて安心したり、自分のことを理解してくれているとうれしかったりした。それなのに、いまは――あれから、表面上はまえと変わらないようにしていても、些細なことが引っかかって果歩の言葉を素直に聞けていない。
戒斗が見逃さなかったとおり、果歩は変わったのかもしれない。それとも、果歩の言葉を意地悪な気持ちで解釈するようになった那桜のほうが変わったんだろうか。
「だな。那桜は受け身に見えて、実は絶対に行動派だっておれは思ってる」
翔流がからかうように同調してくれてホッとした。
「翔流くん、ヘンなこと思いだしてる?」
「てか、那桜が好きだー! って思ったときを思いだしてる」
「わぁ。相変わらず積極的。那桜、女の子としてサイコーじゃない? 早くお兄さんたちを説得すべき」
那桜が顔を引いて驚いている間に、果歩は無責任に助言した。それこそ余計なことだ。
「だめだよ。那桜にはお兄さんとの愛を貫いてもらわなくちゃ」
郁美までもが余計なことを云い、那桜は思わず翔流を見つめた。郁美にとってはいつものおふざけだろうが、翔流との間では笑い飛ばせない冗談だ。翔流の表情に何かが横切り、あの非常識なシーンを思い起こしていることが見て取れた。
「郁美、妄想のしすぎじゃない?」
果歩は呆れたように失笑を漏らした。
「公共の場でそういうこと云うなよ。おれらは冗談ですむけど、ほかの奴はマジに取りかねないからな。ただでさえ那桜はお頭が痛いってヘンジン扱いされてるし」
「酷い!」
翔流のあまりな言葉を詰りながらも、那桜は片方でからかわれたことに安心する。
あの停学処分を受けた日、『またな』と翔流がかけた言葉は単なる社交辞令だと思った。けれど、一週間後に出てきた翔流は蟠りを感じさせず、それまでどおりに那桜に接してきた。翔流の普通すぎる態度に戸惑ったのは最初の三日だけで、深く考えることもなくいまに至っている。
果歩や郁美と同じように友だちとして在るのは那桜のほうだけで、翔流のほうは、好きだという意思表示を封印していただけなんだろうか。そう思うのは、那桜のただの自意識過剰か。翔流のさっきの云い方は、ありのままを捉えれば冗談だった。
そうであってほしい。
はっきり打ち明けたこともなければ訊かれたこともないけれど、翔流は、那桜と拓斗の間に普通じゃない繋がりがあることを知っている。もしくは推測している。和惟の脅しから、有吏家が非道の一族であることも薄々とはいえ知っている。それでも那桜を厭わず、遠ざけることもない。
そんな翔流は、嘘や偽物や秘め事ばかりの裏道を進むしかない那桜にとって、本道へと繋がる唯一の正しい場所みたいなものになっている。
だから停学のような面倒に巻きこみたくなくて、かといって離れてほしくもない。那桜の中で、翔流は果歩や郁美以上の“友だち”であり、勝手だけれど、翔流にとってもそうだと願っている。
翔流といても拓斗が放っておくのは、情けでも余裕でも無関心でもなく、そんな那桜の本心が通じているからのはずだ。
「でも、秘密の恋って好きの密度が高そうじゃない?」
「秘密かぁ。んー、そう云われればそうかもねぇ」
果歩はどこか遠くを見ているふうで、その横顔はさっき気づかされた変化を裏付けているように思える。那桜は果歩の顔を覗きこんだ。
「果歩、もしかしてそういう人いるの?」
「いるように見える?」
果歩ははぐらかした。そのこと自体がはっきりさせた気がする。果歩の向こうから郁美が顔を覗かせ、那桜と目が合うと郁美も同じように感じたらしく、そうなの? と問うように目を見開いた。
「まさか不倫とかじゃないよね」
郁美はストレートに訊ね、果歩は笑いだした。
「不倫だとしても、最後には絶対に手に入れるよ」
「嘘! 果歩、ホントにそうなの!?」
「郁美、早とちり。『だとしても』って云ったよ。本当に好きなら、そういう気持ちになれるかなって憧れ」
果歩は可笑しそうに肩をすくめた。郁美は気が抜けたように椅子の背にもたれる。
「なあんだ」
「がっかりすること?」
「やっぱり秘密の恋ってワクワクしちゃうじゃない。マンネリとは無縁でいられそうだし」
「おまえたち、マンネリなのか?」
果歩と郁美の会話に反応した翔流がおもしろがって勇基を見やった。
「そのマンネリがいいんだよ」
「そ。わたしと勇基はそれがいいの。“他人の不幸は蜜の味”みたいな感覚だよ」
郁美はあっけらかんとしてその思考の奔放ぶりを発揮した。
「郁美、その発言、いちおう無責任で偏見だって云っておく」
怒る気にはなれないけれど忠告はした。郁美は不思議そうに首をかしげる。
「偏見?」
「そう。秘密の恋が幸せか不幸せかっていうのは本人しかわからないよ。……きっとね」
むきになって聞こえるかもしれないと思って、那桜は最後に一言付け加えた。
「そっか。だよね」
果歩はまた見えていないものを見るような眼差しになって、独り納得している。
翔流に目をやると、何を思ったのか首をひねった。那桜がけっして他人事を云っているわけじゃないと思っているはずだ。だからこそなのか、翔流はその話題をとうとつに切った。
「那桜、かぼちゃグラタン美味しいのか? 一口味見させろよ」
「じゃあ、栗ご飯くれない?」
「オーケー」
ふたりが遠慮なく互いの器を突くと、果歩は呆れたように肩をすくめた。
郁美と勇基が真似をして、相変わらずの仲の良さを発揮しだした。たまにケンカしていることもあるけれど、概ね楽しそうにベタベタしている。
郁美たちの雰囲気には幸せという言葉がしっくりくる。
でも、わたしだって不幸じゃない。たしかに境遇は不幸だって自分でも思うけど、拓兄との秘密は不幸じゃないから。
戒斗に云われなくても、拓斗が那桜に無関心じゃいられないのはずっとまえから感じていて、一週間まえにそれは確信に変わった。拓斗は那桜を拒否しきれない。拓斗の本心は見えなくても、そのかわりに拓斗の躰が那桜に教える。
ふたりのセックスは、那桜の躰がそうであるように拓斗の躰も終わりを知らない。
拓斗のはじめてを追った日、そうわかった。
手の中で果てる瞬間、目の前にした拓斗の顔は、堪えているんだろうけれどかすかに歪んでいて、那桜は触られてもいないのに躰の芯が熱くなるくらい、すごく好きだと思った。
互いの腹部に温かい液が散って、ただキスしたくなって近づけた顔は拓斗の手のひらにさえぎられた。性欲を果たしたことで冷静に返り、気が変わってそれ以上はさせてくれないのかと思ったけれど違った。
自分が放った快楽の痕跡を拭ったあと、拓斗は那桜のきれいにした手を再び慾に絡めさせた。張りがなくなっていたそれは、那桜の手が数回上下に往復しただけで、またごつごつになっていく。
拓斗はのけ反るようにしてベッドヘッドに手を伸ばし、避妊具を取ると那桜の手を外して自分で被せた。那桜の腋に手が潜り、躰が持ちあげられる。それから膝立ちになった那桜をわずかに見上げて、やれというように顎をしゃくった。
どういうことか察して、戸惑いながらも那桜は腰を落としていく。
自分から拓斗の慾を受け入れるのははじめてのことだ。その全部がいつも体内に埋もれてしまうのに、受け身のときと自分からそうするのとでは感覚が違っていて、ある程度まで沈むと怖くなった。
拓斗を縋るように見ると、無理やりに腰をおろさせることはなく、那桜のウエストをつかんで抜けださないくらいまで持ちあげた。そして腕の力を緩める。那桜の躰が落ちた。拓斗に手伝ってもらいながら反復しているうちに、自然と降下の度合いが大きくなっていく。下まで沈むたびに最奥の接点からから震えが走って、那桜は詰まった悲鳴をあげた。
拓斗がどう感じているのか、今度は見極める余裕い。那桜を支える手がウエストから離れて躰は止まってしまう。
「自分でやれ」
「怖くて……動けない」
かすれた声で訴えた。それくらい刺激が増している。見上げた拓斗は、那桜の目が潤んでいるのかぼやけて見える。その顔が近づいてきてますます焦点は合わなくなった。
「教えてと云ったのはおまえだ。やめるか?」
ほんの傍で拓斗が囁いた。
そう。知りたがったのは那桜だ。拓斗の中に有沙なんていらない。有沙とのすべてをたどれば、拓斗の中にある有沙の比重がゼロに近づくくらい軽くなるんじゃないかと思った。
拓斗の息がくちびるにかかる。そこにこもった熱はそのまま拓斗の欲情を表しているようにも思える。
「やる。……でも、すぐイっちゃいそうなの」
拓斗は答えず、顔を離して、ただ那桜の額に触れた。
拓斗の肩に縋り、ゆっくりとお尻を持ちあげる。惜しむように襞が拓斗に纏いつく。抜けそうになったところで腰を落とした。掻き分けてくる拓斗が襞を擦る。互いの中心が密着した場所は酷く濡れていて、そうしたのは那桜に違いなく、恥ずかしいほど感度を顕わにしている。
それを繰り返して何度目か、那桜は背中を反らしながら拓斗に下腹部を押しつけた。直後、腰を回転するように揺らして跳ねあがった。お尻が飛び跳ねるたびに拓斗の慾が中で擦れ、痙攣が全身を走り抜け、果ては脱力してぐったりと躰が沈む。それでも、躰の奥はセックスでしか得られない快楽を貪っている。強い収縮のなか、頭上で息を漏らしながら拓斗もあとを追ってきた。
那桜が仮にも主導権を握っていられたのはそこまでで、あとは押し倒されて、拓斗の為すままにされた。意識が朦朧とするまで、拓斗の杭が弛むことはなかった。
「終わりだ」
拓斗がつぶやいたとき、ぼんやりと見た時計は三時を示していた。
高校のときですら過密だった拓斗のスケジュールを考えれば、有沙とのセックスが一度にこれほど長い時間あったはずはなく、那桜は勝手に、はじめてのときだけじゃなくて有沙との全部を教えてくれたんだと思っている。
拓兄、ほかにもいた? 微睡むなか、那桜はそう訊いて、暇じゃない、拓斗はそう答えた。
拓斗に曝す気があったのかどうかはわからないけれど、那桜が教わったのは単なるはじめてだけじゃない。
それに、“意味ない”――拓斗のその言葉がはじめて意味を持った。
そして、あれから今日までの一週間、また拓斗は触れてこない。
それらのすべてが那桜の宝物で、即ち、幸せ、なのだ。