禁断CLOSER#42 第2部 破砕の扉-open-

4.惑溺-wakudeki- -1-


 夏期休講が終わって一週間、十月に入って気温はずいぶんと落ち着いている。
 お昼時になって、那桜は各キャンパスからほぼ均等の位置にある大学の食堂に向かった。歩道に沿う街路樹の葉は、強い日差しが緩くなって、心なしか緑がかすかに色褪せて見える。
「那桜」
 慣れ親しんだ、けれど最近はめったに聞くことのない声に呼び止められた。
「戒兄!」
 後ろを振り向くと、ちょうど戒斗が追いついてきて那桜の頭にその手のひらが載った。那桜の笑顔を見て笑ったかと思うと、次には危ぶんだように目を細めた。
「独りか?」
「食堂行くだけだよ。こんなときまで送迎なんていらない」
 むっとして答えると、戒斗は苦笑いをする。それから背中を押されて、ふたりそろって歩きだした。
「だな。放棄したくせに習慣は抜けきれていないらしい」
「戒兄、わたしっていつになったら普通に独りで出かけられるようになるの?」
「おれも考えてるんだ。すぐにとはいかないけど、なんとかする。待ってろ」
 またごまかされるかと思いきや、意外にも戒斗からはまともな答えが返ってきた。驚いて見上げると、ニヤリとした笑みが向けられる。
「ホント?」
「ああ。けど、那桜。けっこうやりたいことやれるようになったんじゃないか? 青南祭の実行委員の件、聞いた」
「うん。それはお母さんが後押ししてくれたから。拓兄は怒ってるけど」
「怒ってる? 拓斗が?」
 まさかといった気持ちと、あと半分はおもしろがった声だ。
「そ。でも慣れたから、全然平気」
「へぇ。おれが出ていったことの唯一の収穫だな。那桜、おまえなら拓斗を変えられるかもしれない……っていうよりは、もとに戻せる、かもしれない」
「もとに戻せる、って?」
「無関心じゃいられないらしいからさ。送迎だけに終わっていないようだし。夏、衛守家の別荘に行ったんだろ。あそこはある意味……」
 戒斗は不都合なことに気づいたかのように途中で言葉を切った。
 まただ、と那桜は思う。
「小さい頃にわたし、ひまわり畑で雨に濡れて、熱があったせいで肺炎になったんだよね」
「思いだしたのか?」
 これまで知ったことを結びつけ、鎌をかけてみたのだが、思いも寄らないといった声に振り仰ぐと、戒斗はそのとおり、驚いたように目を見開いている。
「……うん」
「あのとき、おまえがいる場所を見当つけたのも、見つけたのも拓斗だった。あれから拓斗は……」
 戒斗はまた途切れさせた。那桜が覗きこむと、戒斗は肩をすくめる。それ以上に答える気はなさそうだ。
 戒斗の言葉に便乗して思いだしたふりをしてみても、引きだせたのは表面上のことだけで、肝心なところで口を噤むのはだれも同じだ。
「ずっと小さい頃、戒兄より拓兄のほうがわたしのことかまってくれたんだってお母さんは云うの。そう?」
「おれはおまえが生まれたときの記憶なんてないけど、拓斗は物心ついてただろうし、その違いじゃないか?」
 戒斗はため息紛いの笑みを漏らしながら云い、その端々にはなんとなく(とげ)が潜んでいるように感じる。
「……もしかして、そう云われるの、おもしろくない?」
「あたりまえだ。おれが妹のためにどんだけ時間を犠牲にしてきたと思ってるんだ」
 その口調はけっして恨み言じゃない。ひがみっぽくて、戒斗の中では、そう云いたくなるほど那桜は大事に扱われていたのだ。那桜はうれしさとからかいの入り混じった笑い声を立てた。
「でもわたし、戒兄には絶対お返しはしてるよ。だって、バンドやってる。やりたいこと見つけたんだよね」
「まあな。だから、“拓斗が怒ってる”この際だ。とことん拓斗も振り回してやれ。それで拓斗の目が醒めるなら、那桜の行動制限も早く解除できるかもしれない」
「うん、わかった。っていうかそのつもりだった」
 那桜が付け加えると、戒斗は笑いだした。

「戒斗!」
 前方から不意に怒鳴るような声が割りこんできた。戒斗と同時に正面に目をやると、表情がはっきりつかめない距離のなか、その声の印象どおり、体格がよくてごつい感じの男の人が片手を上げた。
「バンド組んでる奴だ」
 戒斗もまた手を上げて応じながら那桜に説明した。
「今度、青南祭で一緒にやる?」
「ああ」
「あの“ユーマ”が歌ってくれるんだよね? 実行委員長の立矢先輩が驚いてたよ」
「まだヴォーカルとギタリストは探してる途中だからな。ユーマが買って出てくれた」

 ユーマは、十九才という那桜と同い年でありながらプロとして活動しているソングアーティストで、まだデビューして二年目だというのに、若い層を中心にかなりの支持を得て人気がある。ライヴ活動のみでテレビに出ることはない人なのに、青南祭に参加するということで、実行委員会ではかなり盛りあがっている。ただし、立矢が忠告したとおり、これは口外禁止というシークレットの一つだ。
 ユーマはあくまで戒斗のバンド、“FATE”の助っ人であり、出演料もなければ宣伝もしないことになっている。プロなのになぜそこまでしてくれるかというと、FATEが生まれる――つまり、戒斗がギターからベーシストに転向してバンドを組むきっかけをくれたのがユーマらしいのだ。

「騒ぎになりそう」
「FATEは二曲オンリーだ。“似てる”で終わらせる。楽しみにしてろ」
「うん!」
「それから一つ、頼みがある」
「何?」
「叶多にはいままでどおり、何も云うな」
 戒斗は真剣すぎるほどに念を押した。
 戒斗と従妹の叶多、ふたりが離れて二年を超えた。確かにふたりが男女として付き合うには、叶多がまだ十三才だったことを考えれば未熟すぎたのかもしれない。ひたすら忠実に待っている叶多を思うと不憫だ。ただし、戒斗は好きだとかそういう気持ちを口にすることはないけれど、何度も口止めするのは、戒斗の中にそれほどまでに拘っている何かがあるという証明でもある。
「わかった」
 見上げた表情が緩む。

 戒斗を待っている彼のところまで行くと、ごつい雰囲気とは相容れないくらい顔立ちが整っていて、那桜は密かに驚いた。
「戒斗、オンナか?」
 ニヤニヤした彼は那桜のことをカノジョと思ったらしい。『オンナ』という云い方は最初の声の印象どおり雑に聞こえる。戒斗は鼻で笑った。
「いや、妹だ。おまえと同級だよ」
「ホントか?」
 疑い深い声音に、那桜は愛想笑いをつくりながらこっそりため息をつく。やっぱり妹には見えないくらい“きれい”じゃないらしい。
「有吏那桜です」
「へぇ。藍岬航(あいさきわたる)だ。なんか古風な感じで可愛いな」
 古風を云いかえればたぶん地味であり、となると可愛いというのもお世辞だ。せめてメイクをしっかり習得してきれいになろうと那桜は誓う。
「航はドラマーだ。那桜、一緒に食べるか?」
 戒斗が奥にある食堂を指差した。
「ううん。友だちと約束してて――」
「那桜?」
 斜め後ろから声がかかった。翔流だ。振り向くと、翔流はいったん足を止め、それから近づいてきた。不審そうにしていた翔流は、間近で戒斗を見るとピンときたらしく、軽く頭を下げた。
「翔流くん、戒兄と友だちの航さん。航さんはわたしたちと同級生なんだって。戒兄、広末翔流くんだよ」
 那桜の紹介を受けて、戒斗と翔流はうなずき合った。戒斗が那桜を向いて首をひねる。
「ふたり、か?」
「違うよ。果歩が来るし、あと郁美って子とそのカレシの勇基くんも一緒。いつも同じメンバーなの」
 勘ぐられたのは明らかで、多少うんざりしながら那桜は弁明した。
「余計な心配してるだけだ」
 子供の頃からの癖で、戒斗は何かというと那桜の頭に手を置く。いまは悪かったとでも云っているのか。とりあえず、なぐさめにはなった。戒斗は少なくとも那桜の行動を全面否定しているわけじゃない。

「広末って建設会社の?」
「はい、父が社長をやっています」
「広末はいろいろ丁寧にやってるって評判が高い」
「ありがとうございます」
「後を継ぐのか?」
「兄がいるのでどうなるかはわかりませんが、どっちにしろ経営にタッチできるくらいまでにはなりたいと思ってます」
 戒斗は深くうなずいた。何気に身辺調査と人格審査をやっているのがわかる。それから会話はだんだんと商売絡みになっていって、翔流は気づいているのか、受け答えにはそつがなく付き合っている。
 那桜が半ば呆れていると、ニヤニヤしだした航がほんの傍に来た。

「戒斗、オンナいねぇみてぇ――つか、興味ねぇようだけど、シスコンか? やたら面接官ぽいぜ」
 航は身をかがめ、表情そのままのニタニタした声で那桜に耳打ちした。
「違うよ。うちはちょっと変わってて、わたしにはみんなすごく過保護になるの」
「なるほど。そういや、なんか裏家業あるらしいからな」
 那桜はびっくりして思わず顔を引いた。
「聞いたの?」
「詳しくは聞いてねぇけど、ざっとしたことは」
 航はなんでもないことのように片方だけ肩をそびやかす。
 那桜からすれば複雑だ。どこまで打ち明けているのかはわからないけれど、当の有吏家にいる妹には何も知らせないくせに、友だちには大まかでも話せるなんて(わび)しい気持ちになる。それ以前に、戒斗がそういうことをだれかに――たとえ大親友でも、一族という枠からすればまったくの部外者に“裏”を明かすこと自体が考えられない。それくらい、戒斗が変わったということなんだろう。
「そうなんだ。航さん、たぶん戒兄にはすんごく好きな子がいるんだよ」
 戒斗にとって比重が大きいのは妹より友だちかと思うと癪に障るし、ちょっとした報復だと思ってバラしてやった。
「マジか?」
「戒兄が変わるくらいだから」
 それまでのこそこそ話がなんにもならないくらい航は豪快に笑った。
 戒斗の目が那桜に向いたかと思うと、自分のことが話題であることを鋭く察したらしく、警告か、はたまた不穏に見つめられる。

「戒斗さん!」
 那桜が首をすくめてごまかしたちょうどそのとき、果歩の浮かれた声が飛びこんできた。小走りで来た果歩は息を切らしながら、うなずくようにお辞儀をした。
「果歩ちゃん、久しぶり」
「久しぶりです。那桜から聞きましたよ。今度、青南祭でライヴやるって」
「ちょっとだけだよ」
「楽しみ」
「果歩ちゃん、なんか雰囲気変わったな?」
 戒斗が首を傾けた。那桜からすると思いがけない指摘で、つい果歩の横顔をじっと見つめた。果歩はどことなくうれしそうで、その反面、憂いのような曖昧さもある。
「そうですか? 自分ではわからないけど、化粧してるし、たぶん高等部の頃よりは年取ってるし、だから、かも」
「もしくはカレシのせい?」
「そうならいいんですけど」
 戒斗がそれとなくあとを継ぐと、果歩はうまくあしらってくすくすと笑いだした。

 なんだろう。ずっと近くにいるとちょっとした変化は見逃しがちだ。穿(うが)った見方をすると、果歩のいまの笑い方は何かを含んでいるようにも思える。
 もしかしてだれかいる? ううん、そんなはずない。
 那桜は自分の中ですぐに打ち消した。
 和惟のことで果歩を怒らせて、そのあと仲直りして、それ以来、果歩から男の人の名を聞いたことはない。もし付き合っているような人がいれば隠す必要はないし、教えてくれるはずだ。

「カレシ、いないって?」
「戒斗さんこそ、カノジョは?」
「おれ? いまはそんな暇ないな」
「いんや。那桜ちゃんが戒斗には意中のカノジョいるらしいって云ってるぜ」
「航さん!」
 慌てて釘を刺すも時はすでに遅く、戒斗の目がジロリと那桜を見据えた。
 何か仕返しを被りそうな雰囲気だけれど、またしばらくは会わないだろうし、わざわざそのために家に寄ることはないだろう。戒斗が家を出ていてよかったと思いながら、那桜は首をかしげて取り繕った。
「わぁ。ホントですか。戒斗さんが好きになる人ってどんな人なんだろう。会ってみたい」
 戒斗は肩をすくめてそれには触れなかった。否定しないということは、那桜の推測が当たっているということだ。
 それから話は逸れ、果歩と翔流が一頻りバンドのことを訊ねている間に郁美たちが合流した。また紹介から始まって挨拶言葉が飛び交ったあと、戒斗と航はさきに食堂へと向かった。

「高一のときに何回も見かけたことあったんだけど、お兄さん二号も相変わらず、っていうよりますますカッコいいよね。那桜がうらやましい」
 勇基がいるというのに気を遣う様子もなく、郁美は心底そう思っているようにため息をついた。
「一号と違って気さくだよな。男から見ても嫌味ねぇし、マジ、カッコいい」
 そう云った勇基は郁美の発言をまったく気にしていないようだ。こういうのを信頼というんだろうか。
 自分だったら、拓斗が有沙を見ているだけで気になる。きれいだな、とか、自分の目の前で云われるとしたら間違いなく我慢できない。気にしていないふりしても、本心ではいちいち気になる。そういう気持ちは異常なんだろうか。
「那桜、あの兄貴って一年、休学したんだよな?」
「うん。いろいろ考えることがあったみたい」
「へぇ。上の兄貴みてぇにまっすぐ優等生じゃないぶん、人間らしいっていうか。有吏家は有名だし、おれも高等部んとき見かけたことはあるけど、話したことはなかったからさ。思ってたのと違っててちょっと驚いた」
 翔流は感心したふうだ。

 そう云われればそうかと思いつつ、戒斗たちの後ろ姿を追うと、つと航が手を上げた。その向こうに男の人と女の人が一人ずついる。男の人はおそらくもう一人のメンバーというピアニストだ。女の人はどちらかのカノジョだろうか。四人は一緒に食堂の中へと消えた。
 拓斗と同じで、戒斗もまた、あの変わった夏以前は孤高の人だった。
 独りでいることが多かったのに、いまの戒斗には家の秘密さえ話せる友だちがいる。人に与える印象も段違いだ。近づきやすくなっていて、戒斗はだれも拒絶しない。
 拓斗の完璧を阻んでいる感情欠乏症も戒斗にはなくて、きっと戒斗こそ真にミスターパーフェクトだ。

BACKNEXTDOOR