禁断CLOSER#41 第2部 破砕の扉-open-

3.クラインの壺 -6-


 廊下に出た那桜は、音を立てないよう気をつけながら後ろ手に部屋のドアを閉めた。耳を澄ますと、一階からも、一つ空っぽの部屋を置いた向こうの部屋からも、物音は何一つ聞こえない。
 まずは廊下の薄暗い非常用照明を消した。階段の下にある非常用照明と住み慣れた勘を当てにしつつ、軋む場所はなかったはず、と那桜は忍び足で拓斗の部屋に向かった。
 拓斗がどうやって音を立てないように歩くのか、断然、那桜のほうが体重は軽いのに、自分の足音はどうやっても消えきっていない。
 拓斗の部屋まで到達するとドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。手が汗ばみ、回しきってしまう間に呼吸が(まま)ならなくて息苦しくなる。ほんの少しだけ開けてみた。明かりが廊下に漏れてくることはなく、拓斗がベッドに入っているのは確かなようだ。
 ちゃんと眠ってますように。
 内心で祈るように手を合わせた。躰が余裕で通れるところまでドアを開けて、そっと中に入る。ドアの咬み合う音がしないよう、ドアノブを最大に回して閉じるとゆっくりと離した。拓斗の部屋は遮光カーテンだから、照明がないと真っ暗だ。部屋のスタイルは知り尽くしているはずが、二歩だけ進んでみて、あまりの頼りなさに目が闇に慣れるまで待つことにした。
 その場で那桜はパジャマのボタンに手をかける。いざ脱ぎだすと衣擦れの音がやけに響いて、息が思うようにできないうえ、ドキドキした鼓動のせいで余計に苦しい。脚は震えていて、下半身のパジャマと下着を脱ぎ捨てるときは、片足で立ったとたん倒れそうになって何度かやり直した。
 その間に、かすかには部屋の中を捉えられるようになった。薄ら寒い気温のせいか緊張のせいか、震える息を吐いたあと、那桜は意を決して床に貼りついたような足を踏みだした。
 一歩、二歩と抜き足差し足でゆっくり進んで三歩目。突然、口をふさがれた。同時に腕ごと腰もとを(やく)される。
 どの方向から現れたのかもわからない。あまりの恐怖に、それまでの酸素不足が相俟って、悲鳴どころか呻くことさえなく気絶しそうになった。膝はカクンと折れて、そのかわりにウエストを締めつけた腕が那桜の躰を支えた。
「落ち着いたら自分で立て。そしたら手を離す。いいな」
 鼓動音を掻き分けてくる声が拓斗のものだとわかっても震えは治まらず、那桜は混濁した意識のままわずかにうなずいた。
 静寂の暗闇は那桜と拓斗、ふたりの呼吸と、外に聞こえているはずのない鼓動の音だけに占められている。
 弛緩していた躰は背中からの熱を伴って徐々にしっかりした感触が戻ってきた。右腕のほうは肘から先が自由に動くと気づいて、那桜は腰に巻きついた拓斗の右腕をつかんだ。

「出ていけ」
 耳もとで低く抑制した声が響き、同時に那桜を縛りつけていた腕が緩んで、口を覆った手も離れた。まだ少し足もとが覚束ないながらも、那桜はくるりと後ろを向いた。
 拓斗の影がわかるだけで、表情はまったくわからない。見えるとしても何もないことはわかっている。
「いや。いまは命令なんてきかない」
「出ていけ」
 那桜は小さく、けれどはっきりとそれとわかるように笑った。
「馬鹿の一つ覚え」
 暗闇のなか、見上げた目が光を放ったように感じたのは気のせいか。拓斗は微動だにしない。
「出ていけと云ってる」
 拓斗の口をふさぐ、最高の方法が一つだけ思い浮かぶ。那桜の背の低ささえなければ実現するのに、爪先立っても届くのは拓斗の顎が精々で、トライするまえにあきらめるしかない。
「イヤって云ってる」
 那桜の中にあった、拓斗に対する遠慮した気持ち――恥ずかしいとか、積極的になれないとか、そんなものがいまはまったくない。
 那桜は拓斗の顔へと手を伸ばし、首に巻きついた。こんなふうに自分から抱きつくのははじめてのような気がする。精々届く鎖骨のちょっと上の首筋に緩く咬みついた。舌が拓斗の脈に触れる。
「那桜」
 引き止めようとする声音とは反対に、押し退けることもなく、那桜の下腹部にある拓斗の躰の一部は露骨に反応している。
「拓兄、有沙さんともこんなふうにすぐ感じた?」
 その質問は気に障ったのか、拓斗の手は自分の首に纏いつく腕を強制的に解いた。
「意味ない」
「有沙さんとははじめてだった?」
「意味ない」
「拓兄がセックスしたのは有沙さんがはじめてだった?」
 素気なく退けられても、めげることなく那桜は喰い下がった。
「だったらなんだ」
 拓斗は、那桜がしつこく追求するつもりであることを悟ったようだ。返事のしかたは肯定に違いなくて、那桜の中に、その痕跡を拓斗の中から消し去りたいという気持ちが強烈に湧きだす。
「知りたいから」
 拓斗の下腹部に手を当てた。下へと滑らせる間もなく、その手首を拓斗が素早くつかむ。
「出ていけ」
「拓兄、いま出てったらわたし、絶対に戻ってこないから。それでいいんだね? 和惟はいつだってどこでだって受け入れてくれるよ。だって、わたしと和惟は一心同体だって。別荘で、拓兄はわたしを和惟にあげたんだよね? それに、拓兄はわたしを犯したんだから。わたしが和惟と何したって、まえみたいに責められる理由なんて――」
「黙れ」
 唸るような声が部屋に響いた。その余韻が家の中の静けさを強調して、もしかしたら下にいる両親を起こしたんじゃないかと息を呑んだ。しばらく耳を立てていたけれど、なんの変化もない。
「黙らない」
「おれの云うことをきいていればいいと云ったはずだ」
「拓兄には云っても黙っててもかわらないってわかったから。わたしが何やっても、何もやらなくてもかわんないよ。拓兄はいつも勝手で、もうそういうのイヤ……あっ」

 拓斗の腕ががさつに腰もとをさらい、那桜を引きずる。バランスを崩して浮いた躰は、背中から落ちるようにベッドの上に寝かされた。暗闇なのに拓斗は見えているかのようで、無意識に起きあがろうとした那桜の両肩を正確に捕える。脚の間に入りこみながら伸しかかった拓斗が体重をかけて肩を抑えつけ、那桜の躰はふわふわした掛け布団の中に埋もれた。
「那桜、おまえがおれに逆らうことはない。嫌ならイカなければいい」
 拓斗の手が肩から胸へと滑った。片方の手は胸を通り過ぎて脚の間におりる。胸先を突かれると同時に、反対の手は繊細な神経の集まった場所に軽く触れた。ずっと放って置かれた躰は、それだけで腰をピクリとさせて応え、そこから独特の刺激が全身の隅々まで波及していく。
 拓斗は那桜の体内に熱い雫を生成し始める。それが出口へと分泌されて反応を見た指は、ただのタッチからゆっくりと擦りつけるような動きに変わった。
 那桜への不愉快さがあるとしても、拓斗の手先にはその片鱗も見えなくてやんわりとしている。
 もしくは、那桜をイカせることが罰だとでも思っているんだろうか。
 いまのわたしには、拓兄が何をやるとしても、それがわたしに向かってくるのなら全然罰にならないのに。拓兄に触れてほしくてここにいるんだから。
 んくっ。
 胸先が強く摘まれた。痛み間際の感覚はおなかの奥を突く。開いた脚の間では滑った指先が纏わりついて離れない。違う。滑っているのは那桜の躰だ。声を堪えていることが意識を朦朧とさせ、二つの場所から及んでくる快楽がその意識を分散させて混濁しだした。
 ふ、はぁっ。
 咬みしめたくちびるの間から声が息に変わって漏れる。それを合図にして、それぞれの指先が捏ねるように動いた。躰が突っ張り、息が詰まる。
 んんっ!
 外側しか触られていないのに、快楽は躰の奥で弾けた。拓斗の手に押しつけるように躰が何度も跳ねあがる。
 それが治まりきれないうちに拓斗の手が離れたかと思うと、衣擦れの音がした。直後、那桜に馴染ませることなく、拓斗は強行に躰を沈めてきた。
 はじめての日と似たようなショックが躰に走る。
 拓斗の慾はすっかり躰に沁みこんでいたはずが、覚えているよりずっときつく感じた。一週間よりもやっぱり一カ月は長い。那桜はのけ反りながら頭上へとわずかに這いあがったが、拓斗の手がすかさず腰をつかんで逃げるのを阻止した。
 うくっ……ん、はっふ……っ。
 喘ぎながら窮屈さにますます反った腰はかえって侵入を助け、拓斗はもう一つ奥深くまでずんと突き進んできた。苦しさからくる浅い呼吸が那桜の胸をありありと上下に揺らす。
 ふ、は……――っ。
 拓斗が動きだすと息が詰まった。ゆっくりした律動が拓斗の形を際立たせて、やがてきつさとは別に那桜の内部に身震いするような刺激が派生する。
 同時に、拓斗の呼吸もまた乱れているのに気づいた。律動に合わせて、かすかに呻くような声さえ聞きとれる。
 暗闇だからだ。
 およそにおいて、抱かれるときに真っ暗ということはない。目が活きているぶん耳は疎かになっているに違いなくて、だからこそいまは拓斗の呼吸も躰の感度も鮮明にしている。強いていえば、あの目隠しされたときと同じだ。躰の感覚だけが敏感になって思考は置き去りにされる。
「拓にぃ……」
 那桜は手を伸ばした。それに応えたのか偶然なのか、拓斗が膝の裏を抱えて前のめりになり、那桜は手探りで、おりてきた拓斗の顔に触れた。
 滑らかな肌をたどり、くちびるの上で指先を止めた。

 デートと称したあの日、こんなふうに触れたとき、警告はしても引き剥がすことはなかった。もしかしたら、那桜が勝手に触れちゃいけないと思いこんでいただけで、本当は触れてよかったのかもしれない。
 いま那桜の手が撥ね退けられることはなく、手のひらとくちびるが、拓斗の腰の動きに合わせて少し離れたり強く接したりと、まるでキスのように繰り返された。
 熱い息が指先を濡らしていくのと同時に、那桜の内部は拓斗の慾を滑らせていく。
 苦しさは消え、最奥の到達場所から痺れるような感覚が脳にまで達した。拓斗のくちびるから顎、そして喉もとを伝い、鎖骨におりて、那桜の指先はパジャマがわりのTシャツにかかった。が、拓斗の心中に触れるまでもう少しというところで力尽きた。
 自分のことなのに、拓斗が止めてくれないかぎり引き返すことのできない感覚の空間に浮遊する。
 ふっぁ、ぅ、はあっ――。
 時間が停止したような硬直のあと、躰の中心から神経が通る末端まで、一気に収縮の波動が伝わっていく。堪えきれずに、かすれた悲鳴が小さく漏れた。
 拓斗は抱きかかえていた那桜の脚を離すと、スピードを上げて収縮の中を出入りする。那桜にはどうにもできない痙攣に喘ぐ最中、拓斗は短く呻き声をあげて体内からズルッと抜けだした。
 胸からおなかにかけて、拓斗の欲情した証が散った。
 那桜は布団に沈んだまま、拓斗はその脚の間で、互いの荒い息遣いはリズムを刻むように闇に広がり、そしてだんだんと穏やかに変わっていった。

 拓斗が床におりるとベッドが揺らいだ。デスクライトの灯りがつき、戻ってきた拓斗は那桜の躰をきれいにしたあと、何かを使い果たしたかのように体重をかけてベッドに座った。その振動で那桜の躰が小さく跳ねた。
 拓斗は横顔を見せ、どこか一点から目を離すことなく、それは久しく見ることのなかった姿だ。
 はじめての日と同じ。
 後悔? 迷い?
 まだ腰は重たく、時折ピクッとする余韻がありながらも那桜は躰を起こした。
「和惟に逆らえなかったおまえがおれに逆らえるわけない」
 拓斗はすぐ傍にペタリと座った那桜を見下ろした。
 責められているのかなんなのか、真意のよくわからない淡々とした云い方だ。薄暗さが手伝って拓斗の表情をさらに曖昧にしている。
「逆らうために来たんじゃないから」
 那桜は手を上げて拓斗のくちびるに触れた。
「有沙さんとキスはした?」
「いまおれが答えてどうなる」
「わたしのはじめては拓兄だよ」
 那桜は膝立ちして、拓斗の前に回りこみながらその腿の上に跨った。
 Tシャツの下に手を入れて、デコボコと隆起した腹部から胸へと這いあがる。形を確かめるようにゆっくりと撫でている間、拓斗は止めることもない。拓斗の上で膝立ちすると、わずかに那桜の目線が高くなる。顔を傾けながらくちびるを合わせてみた。反応はなくて、それでもかまわず手は胸筋に、舌はくちびるに這わせた。
 ちょっと顔を離して見下ろした拓斗は平然として、表情にはなんの変化も見られない。けれど、胸の起伏はわずかに荒くなっている。
 ためらいがなくはない。ただ、止められなかったことに力を得て、また拓斗の上に座りながら下腹部へと手をおろした。
 拓斗は少しも衰えていない。手の中にしたとたんにさらに硬度を増している。
「こんなふうにされた? 何回も?」
 答えが返ってくるとは思っていない。那桜はボクサーパンツの中に手を忍ばせた。目の前の拓斗の顔が少し歪んだように見えた。
「はじめてのとき、いまみたいにすぐにイッたの? もっと早かった? どこで? 手の中? 口の中? 有沙さんの中? 拓兄、教えて」
「そしてどうする」
「そのとおりにする。わたしに拓兄のはじめてを教えて」

 拒否されると思った。
 けれど、拓斗はそうしなかった。
 拓斗はすぐ間近で那桜の目を射抜いて離さない。もしかしたら、いま捕えているのは那桜のほうかもしれない。
 拓斗は自分をつかむ那桜の手を包むようにして上下させる。教えてくれたんだとわかった。
 それから夜更けまで、那桜は拓斗のはじめてをたどった。

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