禁断CLOSER#40 第2部 破砕の扉-open-

3.クラインの壺 -5-


 午後から始まった打ち合わせは三時間を過ぎた。
 五時になっても熱心に続いていて、詩乃が、夕食を食べていったら、と無用なことを云いだした。いったん思いついたら強引な詩乃のことだ。那桜の渋面に気づいているだろうに、隆大たちの辞退も取り合わず勝手に決めた。
 そうなると女性としてはお約束だろう。那桜でも読める。お手本どおりである有沙の、手伝いましょうか、には辟易(へきえき)したけれど、詩乃があっさりと、お手伝いさん呼ぶから、と退けたときは溜飲が下がった気分でほっとした。
 一時間もかからず、買い物袋を提げた鳥井がやって来て、詩乃とふたりで料理に取りかかった。有沙どころか、那桜でさえ用なしだ。情けなくも、かえって那桜がいれば邪魔になりかねない。
 夕食までに、詩乃が云うミスターパーフェクトも帰ってきた。来客がいることを知らされていたのか、隼斗は驚きもしない。学生たちと挨拶を交わす声はいかにも外交的で柔らかい。隼斗の指定席であるソファは陣取られていて、一通り挨拶が終わったあとは意外にも書斎に引っこむことはなく、ダイニングテーブルに向かった。隼斗は椅子に座ると、今朝読んだはずの新聞をゆったりと広げた。
 まったくおもしろみがない。加えて、家族を含めた一族に対する態度と違い、物腰の柔らかさにはずるいと思ってしまう。詩乃が云ったとおり、ミスターパーフェクトは傍にすると堅苦しいだけで、ウィットに欠けていれば、何より普通が欠けている。パーフェクトという言葉は剥奪すべきだ。

 そして小一時間、鳥井と詩乃はさすがに手際がよくて、七時には会食が始まった。
 リビングとダイニングを合わせれば充分に席は足りるものの、離れてしまうのもどうかということで立食形式という計らいだ。席に着くと(かしこ)まってしまう雰囲気が、立食になると話し相手を変えやすく、気さくで楽しい時間に感じる。
 但し。
「那桜ちゃんはカレシっていたことない?」
 この有沙さえ寄ってこなければ、の話だ。
 有沙はヒールを履いていなくても那桜より確実に背が高い。上からの視線が見下されているようだ。
「……たぶん、いないです」
 (しゃく)に触って拓斗だと云いそうになったところを思い止まった。大人げなくて、そしてまた、ただのブラコンという墓穴を掘ることになったら堪らない。
 有沙は那桜の返事を都合よく解釈したようで、知ったかぶりの顔つきだ。
「拓斗みたいな男がお兄ちゃんじゃあ、ほかの子、見劣りしちゃうよね」
「……拓兄みたいなって?」
「見かけは云うまでもないし、何やらせても平気そうに(こな)してるし」
 有沙という他人からすれば、拓斗もまたパーフェクトな人間らしい。
 一族じゃないだれかと接しているという拓斗は、今日はじめて目にしたけれど、確かに隼斗と一緒でツンケンしているということはない。那桜にとっては気難しくて扱いにくくて、いちばん大切なところが抜けてる欠陥人間なのにやっぱりずるい。
「でも……」
 有沙はそう続けて、ためらったように口を閉じた。
「でも?」
「んー、云っていいのかな」
 それはためらいじゃなくて“思わせぶり”に違いない。
 じゃあ、最初から云わなきゃいいのに。そう云いたいのを堪えた。だれだってそう云いたくなるだろうし、できれば無視して離れたいところだ。そうできないのは拓斗のことだからで、聞きたいに決まっている。
「いいのかなって?」
「拓斗のプライド壊しちゃいそうだし」
「……そういうの、わたしにとっては、願ったり叶ったり、ですから」
「ああ、なるほど。弱味、つかみたいわけだ。じゃあ……内緒ね。拓斗って、女の子を扱うにはちょっと不器用かなってときあった。すぐに慣れたっていうか、うまくなったっていうか、やっぱり器用なんだろうけど。あ、でも克服しちゃってるってことは弱味にはならないか。役に立たないよね」
 有沙は肩をすくめて笑った。
 “扱う”という意味がわからないほど鈍感じゃない。それを宣言したかったに違いなく、言葉にも口調にも、明らかにほのめかしがある。那桜に対する挑発、あるいは挑戦以外の何ものでもない。
 那桜も有沙を見習って肩をすくめた。
「そうかも。だって、そういうことだったら、わたしにはたぶんもっと不器用。云ってくれればいいのに、いつもいきなりだから」
 目を丸くした有沙は、一瞬後にはどう解釈したのか可笑しそうに吹きだした。
「那桜ちゃんて可愛いわね。拓斗に扱き使われてるの? あ、それよりは大切にされてるのかな。でも、ほかに目を向けてもいいかも。箱入り娘のままでいて、将来、苦労しちゃうのは那桜ちゃん自身だし」

 いちばん最後の、もっともで、尚且つ自分でもわかっている“余計なお世話”的な指摘を除けば、どれも那桜にはちぐはぐで当てはまらない。なぜなら。きれいな人から可愛いと誉め言葉をもらってもちっともうれしくない。大切にされているのでもなく、ほかから目を背けているのでもない。箱に入っているのではなくて、箱の中に閉じこめられているだけだ。

「私の弟なんてどう? 私が云うのもおかしいけど、立矢って付き合うには条件も悪くはないと思うの」

 そこが有沙の焦点なんだろう。もっと厳密には、那桜が拓斗から離れてしまえばいいのだ。高校時代に付き合っていたのかなんなのか、おそらくいまになって有沙はまたそれを復活させたがっている。
 二年まえのクリスマスのときはふたりともが久しぶりという印象だった。そこから連絡を取り合っていた可能性を考えてみた。そうだとしても、付き合っていたとは思えない。毎日いきなりで、拓斗が那桜に“不器用”なことをするなんてなかったはずだから。
 それとも同時進行でセックスできるほど、拓斗は時間を持っていて器用なんだろうか。

「拓兄が許してくれないから」
 那桜がさっき云ったことを本気に取っていない有沙は、いま云ったことも軽く見ているに違いない。
「じゃあ、立矢が頑張ればいいんじゃない?」
 有沙は目をくるっとさせておもしろがった様だ。
 もしかしたら、うれしそう?
 詩乃は、有沙のカノジョ説を完全否定して、そのうえ、あり得ないことと断言した。それでも苛立ちと不安は消えない。
「有沙さんは、ほかに目を向ける必要ないくらいのカッコいいカレシさんがいますよね?」
「いつのことかな」
「ずっとまえ、クリスマスのときに……」
 有沙はしたり顔で微笑んだ。
「思いだしてくれたんだ」
 やられた。
 自分の考えのなさに舌打ちしたい気分で、顔まで引きつりそうになる。逃げ場を探そうとさまよわせた視線は、間に二人を挟んでその向こうにいる拓斗に止まった。対向する視線は那桜より早く照準を合わせていて、訴えに反応してくれたのか、拓斗がこっちにやって来る。
「那桜、お茶だ」
 拓斗はまだ三分の一くらいお茶が残っているグラスを突きだした。
 有沙は、背後から不意に現れた拓斗に驚きつつ、那桜がグラスを受け取るよりも早く笑いだした。
「ホント、いきなりなんだ。拓斗がそういうお兄さんだって思わなかった。お茶くらい、自分で注ぎなさいよね」
「“そういう”ってなんだ」
 首をひねった拓斗は、どちらにともなく問いかけた。
「女同士の話。ね、那桜ちゃん」
「そう、かな」
 那桜はどっちつかずの返事をする。有沙はにっこりと笑った。それを見れば、次に有沙の口から出てくるのは、那桜にとって不都合なことだろうと見当がついた。自分が()いた種だ。
「那桜ちゃん、私のこと思いだしてくれたみたいよ。拓斗と違って、那桜ちゃんておもしろいわ。もちろん、いい意味で、だから」
 下心はあるだろうに媚びた声でもなく、それは有沙の自信に見えた。
 三人はそれぞれに三角形の頂点の位置に立っているわけだが、拓斗の脇の下にやっと届く那桜のアンバランスさと違って、有沙は拓斗とぴったり釣り合いが取れている。
 せめて背くらい高かったらと思いながら拓斗を見上げた。拓斗からは、はっきりしないものの、それ見たことかとうんざりさせているような雰囲気を感じる。『おもしろい』と云われるほど、頭が回らないのは自分でもわかっている。
「お茶注いでくる」
 逃げ場所にと拓斗を呼んだはずが居心地悪くて、那桜はまた逃げた。

 キッチンに入ってお茶を注ぎながらふと目を上げると、予想に反し、拓斗の眼差しは那桜にはなくて有沙の上だ。彼女の手が拓斗の腕に添えられているのが目に入り、那桜は傾けかけていたサーバーを起こして手を止めた。
 しばらく見ていると、その間、拓斗は有沙の手を払いもせずに何やらふたりで話しこんでいた。
 わたしとはあんなに喋らないくせに。
「気になる?」
 不意に目の前の情景がさえぎられた。見たくない映像のかわりに、カウンターの向こうで立矢が笑みを浮かべて立っている。拓斗ほどではないけれど、背が高いから立矢以外の人は完全にシャットアウトされた。
「気になるって?」
「拓斗さんと姉のこと」
 微笑みの混じった声はからかっているようでいて、何か試されているようにも感じる。立矢はふたりのことを知っているんだろうか。そう考えて那桜は顔をしかめた。ふたり、だなんてまとめて考えるのも嫌だ。
「わたしは……ブラコンだから、気にならないって云ったら嘘になる……かも」
「なるほど」
 どう納得したのか、立矢はおどけた顔でうなずいた。天板の上で組んだ腕を解き、いったんカウンターの下に消えた手はまたすぐに上がってきた。立矢は携帯電話を手にしている。
「番号教えてくれる?」
「実行委員の仕事、条件付きで補佐させてもらえるなら」
 不愉快さに気まぐれも手伝い、即座に那桜が応じると、立矢は眉をひょいと上げた。
「どういうこと?」
「行動範囲がいろいろと制限されてて、大学の外ってことになったら難しいと思うの」
「ああ、つまり、学内のみで活動させてもらいたいってことかな」
 素早く事情を察したらしい立矢は、那桜のかわりに条件を掲示した。人から云われると酷く身勝手な要求をしているように聞こえる。立矢の誘いはただの社交辞令だったかもしれないし、そうなると本気にした那桜は間抜けでしかない。弁明しようと慌てて口を開く。
「あ、でも無理してもらおうって思ってるわけじゃ――」
「いいよ。ぜひにもそうしてもらう。条件についてはみんなにも納得させるし、心配ない。ただし、催事については内密にしてもらうこともあるから、そのつもりで」
「もちろん――」
「那桜、まだか」
 那桜をさえぎると同時に、立矢の横から拓斗が現れた。お茶が欲しいのではなく、邪魔しにきたのだ。
「あ、うん、ちょっと待って」
 那桜は手もとに目を落としてサーバーを傾けた。

「拓斗さん、実行委員に那桜さんをお借りしていいですか」
 まさかここで立矢が報告するとは思わず、那桜はハッとして手を止めた。拓斗が了解するはずない。
「那桜には無理――」
「お父さん!」
 拓斗が断りかけたとき、那桜はとっさに隼斗を呼んだ。拓斗は言葉を途切れさせ、那桜に目をやる。その間に隼斗がやって来た。
「なんだ」
「あの、わたし、青南祭の実行委員会の手伝いをさせてもらおうって思ってるの。大学の中でやれることだけ。立矢さんはそれでもいいって云ってくれるし、こういう機会、わたしにはあまりないから。いいよね?」
 ちらりと見た拓斗はかすかに目を細めて那桜を射る。引き剥がすようにして隼斗に視線を戻すと、その顔はほんの少ししかめ面に変わっている。
「いいんじゃない?」
 鶴の一声ならぬ、詩乃の号令が割りこんだ。隼斗は思案しているのか黙ったあと、やがて仕方ないというふうに首を振った。
「足手まといにならないことだ」
「ありがとう、お父さん。お母さんも」
 隼斗はため息をついて身を翻し、詩乃は、よかったわね、と首をかしげてテーブルに戻っていった。

 那桜はおずおずとした気分で拓斗を見上げた。要求が通り、うれしさ混じりで安堵したのはつかの間でしかなかった。拓斗は那桜を一瞥してから、くるりと躰を反転させてカウンターを離れた。那桜を取り残された気分にさせるのは拓斗が天下一だ。
 那桜はグラスを持ってカウンターを回り、急いで拓斗を追う。
「拓兄、お茶!」
「いらない」
 冷めた声が見下したような視線を伴って那桜を退けた。那桜はかまわず拓斗の右手を取って、その手のひらにグラスを押しつけた。那桜が手を離すと、拓斗はそのまま落とすようなことはせずにグラスを持った。見上げた那桜が目を合わす間もなく、拓斗はすでに背中を向けていた。

「よかった」
 那桜の内心とは裏腹に軽快な声がすぐ隣に聞こえる。振り仰ぐと、那桜と同じ方向を見ていた立矢が見下ろしてきた。
「はい。頑張ります」
「那桜ちゃんてさ」
 立矢は中途半端なところで言葉を切った。首をかしげると小さく笑われる。姉の有沙と違って嫌な笑い方ではない。
「わたしがなんですか」
「んー、トライしたくなる顔立ちしてるよね」
「顔、ですか?」
 訳がわからず、那桜はきょとんとして問い返した。
「フレビューって知ってる?」
「お化粧品を扱ってるフレビューなら知ってますけど」
「それ、おれの親父がやってる会社」
 那桜は目を丸くして立矢を見上げた。考えてみれば青南は有名どころのご子息ご令嬢が多く通っていて、香堂家がそうであってもおかしくはない。
「え、そうなんですね。わたし、まだメイクの練習中で、どこがいいのかわからなくってシーニックってとこのを使ってるんだけど」
「最大手だね。今度、フレビューも使ってみてくれたらうれしいかな」
「そうします」
 即答すると立矢はおもしろがったように眉を跳ねあげた。


 夕食後、手短に再確認をした立矢たちは八時すぎに帰っていった。
 あれから拓斗は完全に那桜を視界から排除している。
 またふりだしに戻った気がした。
 たった文化祭の実行委員の手伝いをするだけのことで無視するなんてどうかしている。ちょっとした反抗心があったのは否定しないけれど、拓斗の行動もそんな那桜とたいして変わらない。それなのに、拓斗のほうが優位な立場にいて、後悔する気持ちがなくもない那桜だけが損をしている気にさせられる。
 どうせ後悔するのなら、当たって砕けたほうがずっとマシだ――と、そう思う。

 夜中の零時を過ぎて、那桜はそっと部屋を出た。

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