禁断CLOSER#38 第2部 破砕の扉-open-

3.クラインの壺 -3-


 抱いてくれるのが毎日じゃなくなって不安だった半年まえ。間隔が空いただけのことで、そのぶん激しくて、だから不安は消えた。
 いまはもう一カ月。長すぎて、拓斗の中に、那桜の首に痕を残すほどの何かがあるとわかったぶんだけ、不安よりも酷い怖さに変わっている。
 部屋に押しかけても、那桜がいようが完全に無視されて、話すにしても那桜からの一方通行だ。
 捨てられたくない。もし、放りだす気なら全部めちゃくちゃにしてもいい。
 どうしていいかわからなくて、那桜にそんな衝動を生んでいる。
 そんな自分も怖い。

『怖くないの?』
 先週の初め、那桜の一言コメントから、その“妹”、アユミとブログ上でやり取りするようになった。
『同じ?』
 返ってきたのもたった一言。
『たぶん』
『曖昧だね』
『わからないから』
『最初の質問、意味ないよ。だって。怖くないことなんてあるの?』
 そのとおりだ。怖いと思うこと自体に意味がない。
『アユミ、ありがと。わたし、さくら』
『さくら、よろしく』
 それからアユミにやり方を教わって、那桜もブログを開設してみた。
 不特定多数の人に見られるにはためらいがあって、ましてや郁美から教えてもらった以上、郁美がたどってこないとも限らない。そんな危険回避のために全部が鍵付きの記事で閉鎖的だけれど、那桜としてはそれでいいのだ。
 すべて監視下にある那桜にとって、ブログは唯一だれにも制限されることのない解放された場所になった。

 それでも現実は現実で逃れられない。
 気分転換の一つであるメイクを終わってみても、鏡の中の顔はやっぱり冴えない。
 那桜は鏡を伏せて立ちあがった。
 それが静けさを破る合図であったかのように下から声が聞こえてきた。この家にはめずらしいくらいどよめいていて、明らかに詩乃ではなく、それに何人かいそうだ。
 部屋を出るとさらに賑やかな声が届き、那桜は階段をおりる。廊下に出て玄関のほうを見るとすでにだれの姿もなく、それでも声は聞こえるからリビングに入ったのだろう。
 だれのお客?
 詩乃から来客があるとは聞かされていないし、そもそも詩乃はもとより、この家に来客というのはごく(まれ)のことだ。今日は隼斗も出かけている。那桜は首をかしげたあとリビングに向かった。
 あと二歩で入口というとき、戸がリビングの中側から開けられた。廊下に踏みだした足先が見えたとたん拓斗だとわかる。
 帰っているとは思わなかった。びっくりした那桜を見て拓斗は首をひねり、視線で促すようにリビングの中に目を向けてからまたすぐ戻した。
「母さんを手伝ってくれ」
「お客さん? だれ?」
「大学の後輩だ」
 意外なことに那桜は目を開く。かつて、拓斗が大学の後輩とか連れてきたことがあっただろうか。友だちという人だって見たことがないのに。
 露骨な那桜の驚きに反応することもなく、ただ拓斗は何かほかに云いたそうに見えて、那桜はちょっと待ってみた。
「拓斗?」
 詩乃の声だ。
「ああ。もう来てる」
 那桜のことを云っているのだろう。拓斗は結局何も云わずに道を空けた。

 中に入ると、リビングソファのところに何人かの頭が寄っている。数えてみると、男四人女三人の全部で七人だ。そのなかの一人の女性が那桜の視線を感じたように顔を上げた。那桜の足が止まる。
 見覚えのある顔は不意打ち以外の何ものでもなく、驚いた那桜に比べ、彼女はしたり顔で微笑んだ。それだけで那桜の不快指数の針は振りきれてしまう。
 ついさっき、拓斗が云いたげにしていたのはこのことだったのだ。
 立ちあがるしぐさが優美であれば近づいてくる足取りも軽やかで、彼女――香堂有沙(こうどうありさ)は那桜の五〇センチ手前で立ち止まった。
「こんにちは」
 その声は表情と同じで余裕たっぷりだ。
 あのとき平凡だったストレートの長い髪は、いまは肩よりちょっと長い程度で那桜と大差ない。有沙は変わらずストレートで、つまりは那桜と同じ髪型なのに、加えて薄化粧なのにどうしてこうも華やかなんだろう。
 雑誌を参考にしながら最近はそれなりにうまくなったと自画自賛していたメイクも、有沙を前にしてはかすんでしまう。顔の造りが違うという基本的なことはともかく、鏡の中の冴えない自分の顔を思いだして(いや)になった。
 那桜は精一杯でうんざりした気分を抑制して笑みを浮かべた。

「こんにちは」
 有沙は那桜の後ろにいる拓斗にちらりと目を向けた。それからまた那桜に戻った眼差しはおもしろがっている。
 それとも、わたしが妹だとわかってほっとした?
「那桜ちゃん、久しぶりね」
 “ちゃん”付けはいかにも子供扱いされているようで、不愉快さが顔に出そうになる。思わず拓斗を振り仰ぐと、その目と合った。
 ここ最近の拓斗はお喋りをますます無視しているくせに、那桜に背中を向けていないかぎり、不意に目を向けるといまみたいに目が合うことが多い。
 那桜は一歩下がりながら、斜め後ろにいた拓斗の左腕に自分の腕を絡めるとピタリとくっついて並んだ。
「会ったことありました?」
 那桜は首をかしげ、それを見た有沙の眉がわずかに上がる。那桜はさらに困惑した表情を宿した。
「拓兄、大学の後輩ってこの人、わたしの先輩になるの? わたし、会ったことある?」
 自信なく云いながら、那桜は拓斗を見上げた。首をひねるまで、拓斗にしては不自然な一瞬があった。
「彼女は後輩じゃない。おれの先輩だ」
「あ、そういうこと!」
 有沙はあのときと同じ奇妙な顔で拓斗から那桜へと視線を移した。那桜はにっこり笑う。
「会ったことがあるかもしれないんですね。覚えてなくってごめんなさい。わたし、有吏那桜です」
「香堂有沙よ」
 有沙はおかしいと思っているとしてもそれを追求することなく、那桜に合わせて自らも名乗った。
「拓兄、今日は何?」
 その疑問に答えたのは有沙だった。きれいな顔を見たくなくて拓斗を頼ったのになんにもなっていない。那桜は仕方なく有沙に目を戻した。
「お兄さんには青南祭(せいなんさい)のことで相談に乗ってもらってるの。実行委員長が体調崩しちゃって入院してるのね。急きょ、副委員長だった私の弟が後を継いだんだけど、ほとんど委員長に任せっきりだったって戸惑ってて。かといって、病気療養中の委員長のところに押しかけて心配させるわけにはいかないじゃない? それで経験のあるお兄さんならって思いついたわけ。拓斗には迷惑かけちゃうけど」
 有沙は呼び捨てて艶やかな笑みを拓斗に向けた。そして、そのままの顔が那桜に向く。
「ごめんね、お兄さん取っちゃって」
 まるで優位に立った笑い方で、そのうえ那桜がブラコンみたいな云い方だ。
 ブラコンなんかじゃない。
 心の中で叫んだ。
 それじゃあ何?
 那桜はくちびるを咬む。

「那桜?」
 詩乃がやって来た。那桜の顔を見て問うような表情になり、そしてその目は拓斗の腕をつかんだ場所へとおりた。特に咎められるようなことはしていないはずが、その視線は那桜に疾しいと感じさせた。
「あ、手伝うよ」
 手を離しながら云ったとき、視界の隅にだれかが近づいてくるのを捉えた。
「那桜さん、こんにちは」
 那桜は目を丸くした。有沙に続いて、家で会うとは思っていなかった。
「隆大さん! こんにちは。どうしたの?」
「僕もいちおう実行委員会のメンバーなんだ。物資局の長をやってる。こういう成り行きになってちょっとびっくりしてる。ラッキーって思わなくもないけど」
 どういう意味なのか、隆大はニヤリとした。
「え、そういうこと? 東堂くん、おばさまのことも知ってるみたいだし、拓斗の家とは家族ぐるみの付き合いなのね?」
 有沙は那桜が見当つけられなかったことをわかったようで可笑しそうに応じている。それから隆大と拓斗をかわるがわる見つめた。
「有沙さん、そう云うにはちょっとずうずうしくなりますよ。実家は別荘の管理をやってるって云ったでしょう。雇い人が衛守さんという人で、その衛守さんと有吏さんが親戚っていう繋がりです。仕事上、付き合わせてもらっているというか……」
「隆大くん、少しもずうずうしくないわ。お世話になってるのはこっちのほうだったから。このまえのこともそうよ」
「ありがとうございます」
 詩乃が口を挟んで、隆大はそれを受けてうれしそうにしている。
「このまえって?」
「ああ、八月の終わりに拓斗さんと那桜さんが別荘にみえたんですけど、大雨で麓に下りられなくなったんです。それで夕食のお世話をしたってだけで――」
「ふたりで?」
 隆大が説明している最中、有沙は不可解そうにしてさえぎった。
「従兄が一緒だ」
「いま云った衛守家の人だよ」
 どうせなら誤解してしまえばいいのにと思う那桜の傍らで、拓斗は“明らかなる釈明”をして、それを隆大が補足した。
 拓斗にとっては“保険”が役に立って幸いだろうけれど、那桜は別荘の話題が出るたびに気がふさいで苛立つ。
「そうなんだ。雨男、もしくは雨女がいたかもね」
「那桜がひまわり見たいなんて気まぐれ起こすから」
 納得したらしい有沙に続いた詩乃の発言にはさすがにもううんざりだ。
「わたしじゃない。拓兄が見せてやるって云ったんだよ。ね、拓兄」
 那桜は挑むように拓斗を見上げた。
「そうかもしれない」
 動揺もせず、拓斗は淡々と答えた。
 詩乃が、そうなの? と眉間にほんの少ししわを寄せる横で、有沙がくすっと笑った。
「でもホント、兄妹の仲がいいんだ。男と女の兄妹って、大人になると離れていっちゃいそうなのに。那桜ちゃんの立場になるとわからなくもないけど、拓斗が妹の面倒見いいって想像つかなかった」
 またもやブラコンと云い含み、からかった口調もさることながら、『面倒見いい』などという言葉にもカチンとくる。
「あら、香堂さんは弟さんのために拓斗を頼ってきたわけでしょう? 仲良くないとそういう話にはならないと思うけど」
「あ、そうですよね。うちも姉弟仲いいんだ」

 詩乃の突っこみに有沙は笑いだして、それから後ろを向いて、立矢(たつや)、と呼びかけた。テーブルの上で寄せ合っている頭が一つだけこっちを向く。
 有沙が呼んだ時点で見当をつけたとおり、近づいてきた顔を見て那桜は弟だと確信した。年上の女性からは可愛く見えるだろうし、年下からはカッコよく見えるんじゃないだろうか。有沙を男っぽくしていったらこんな感じだろうというくらいそっくりだ。
 すっきりした顔立ちの隆大も女性に人気ありそうだけれど、立矢のほうがずっと(あか)抜けた印象を受ける。

「立矢、拓斗の妹さん、那桜ちゃんだよ。あんたの後輩になるわね」
「はじめまして、香堂立矢です。今日はうるさいだろうけどよろしく」
 那桜を見下ろしてくる問うような眼差しは、おどけているふうでいてどこか困惑を覚えるくらいにまじまじとしている。スマートに出された手に釣られるように手を出すと、那桜のほうから触れるより早く立矢の手につかまれた。こういう上品(ノーブル)っぽい挨拶ははじめてでちょっと戸惑った。
「はじめまして、有吏那桜です」
「何年? どこの学部?」
「今年、入ったばっかり。文学部で人間科学を専攻してるの」
「残念。ちょっと離れてるね。おれは経済学部。三年だ」
 立矢は『残念』という言葉そのままの様子でため息をついた。
「立矢、こんなところでナンパしないでよね。早く打ち合わせやるべき」
「わかってるよ。とりあえず、那桜ちゃん……でいいよね。おれとしては、実行委員として参加してくれたらうれしいかもしれない。中途でも歓迎するよ」
 思いがけない誘いは那桜をびっくりさせ、どんなことにしろ、あまり誘われることがないだけにうれしくもある。ちょっと顔を引きながら笑った。
「あ、そうできたら――」
「那桜、母さんを手伝ってこい」
 那桜が、いいんだけど、と続けようとした言葉は拓斗にさえぎられた。まず、さえぎられたことに腹が立ち、ふたりきりのときのみならず、ここでも邪魔者扱いしているんであろうことにうっ蒼とした。
「立矢、やっぱナンパだよ、それ。少なくとも拓斗さんの前でってのは痛恨のミスだ」
 那桜の気分を知ってか知らずか、隆大は茶々を入れた。隆大もまた兄妹仲がいいと勘違いしている。その言葉は、那桜と拓斗にはどうにもしっくりこないというのに。
「そっか。那桜ちゃんみたいな子が妹だったらそうかもな。って、不謹慎なのはここまでにしてそろそろやるか。拓斗さん、よろしくお願いします」
「ああ」
 わたしみたいってなんだろう。
 立矢の発言が冗談か本気かも判別がつかないまま、那桜は詩乃のあとをついて、拓斗たちとは反対のキッチンに向かった。

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