禁断CLOSER#37 第2部 破砕の扉-open-

3.クラインの壺 -2-


 九月の最後の日曜日、暇でどうしようもなかった夏期休講も今日でやっと終わる。大学に行くのをこれだけ楽しみにしているのは自分だけじゃないだろうかと那桜は思う。
 果歩と郁美がたまに遊びにきてくれるけれど、それはほんのひと時のことで百パーセントに近く独りでいる。母といても独りでいるのと大してかわらないのだ。
 拓斗にしろ、相手をしてくれるのはセックスのときだけ。あと、ちょっとした買い物に付き合ってくれるくらいだ。今日も日曜日というのに拓斗は出かけている。
 補足すれば、セックスタイムを嫌っているわけではなくて、拓斗が少なくとも那桜の躰に反応しているのははっきりわかるし、それはセックスのときだけは那桜だけを見ているということ。つまり、ささやかに満ち足りた気持ちになれる時間なのだ。

 でも、それもいまは……。

 机の上に置いた鏡に映る自分がため息をついている。明るくもない顔がますます陰気くさくなった。つけたファンデーションが頬の薄らとした赤みも消して、のっぺらぼうみたいにしているから余計だ。
 那桜はオレンジ系のチークを使って頬にブラシをかけた。リップブラシには不必要なくらいたっぷりとオレンジピンクの色を絡ませ、くちびるに載せた。ぽってりぎみのくちびるがますますふくらむ。
 食べたいって思われたら最高だけど……無理。
 自分でわくわくを打ち消した。きれいにメイクしてもだれに見られることもない。誉めてくれるのが母親なんてつまらないし、たぶん、いちばん反応してもらいたい拓斗は当然ノーリアクションで通用しない。
 大学の始まりを楽しみにしているのはきっと憂うつを晴らしたいせいでもある。暇でやることがないから余計に溜まっていく。かといって、したいこともなく、それを探そうという気すらない。

 唯一、楽しみになったことは一つあって、それは郁美が教えてくれたブログだ。九月の初め、退屈だとばかり愚痴っていた那桜は、郁美から『那桜にいいのを見つけたんだ』と、そのブログを見るように勧められた。
 郁美は、『それだけ暇だったらやればいいのに』と日頃からブログとかネットのお遊びに誘うけれどまったく興味がなかった。もしかしたら、あまりに自分とかけ離れた自由を見たくないせいかも、と那桜なりに分析もしている。
 そんな那桜に、郁美が強行して()したブログのタイトルは“妹の恋”だった。“妹”に限定される理由を素早く察しながら覗いてみたら、案の定、兄と恋を()う妹のブログだった。
 郁美はいまだに那桜と拓斗のことをブラコンだのシスコンだのと云う。
 その実、兄妹コンプレックスを遥かに通り越した、法律で結婚を許されないような忌み嫌われる関係にあることを思うと、那桜は郁美のからかいを陳腐にさえ感じている。
 もっとも、大学になっても送迎ということを考えればそう捉えられても仕方がないし、郁美にしても、本気で云っているというよりはドラマの主人公になった気分で自分が描く筋書きに浸っているのだ。あのブログを紹介したのもその延長上のことだろう。
 郁美のお勧めは、そのお気楽な性格もあっていつも適当にあしらっている那桜だったが、今回は、郁美が教えてくれたんだからという義理的な気持ちよりは好奇心に負けた。
 “妹の恋”は毎日更新されているわけではないけれど、普通の恋みたいに浮き浮きした文章が並んでいる。

『お兄ちゃんとデートしたよ。外じゃあ、だれも兄妹なんてこと知らないし。しあわせ』

『遅く帰ってきたお兄ちゃんとお風呂場でばったり。裸、見られた。酔っぱらってるからって遠慮しないでジロジロ見られたら恥ずかしいし、だから抱きついてやった。ふざけんなって云われたけど。お兄ちゃん……反応してなかった?』

『普通の恋人と違うのは、一緒の家に帰れること、かな。ご飯ついであげるときなんか、気分は“奥さん”だよ』

 文章の所々にある絵文字が賑やかで、うれしいんだという気持ちが見える。
 那桜からすれば違和感がなくもない。うれしいというのはわかるけれど、同じ大学生みたいなのに、この子からは苦しさも疾しさもまったく見えない。
 子供みたいに単純なうれしいことばかり。そんな気持ちでいられることが恋している証拠なんだろうかと考えてしまった。
 それなら、那桜の“好き”は恋じゃない。

 厳密にいえば、那桜には苦しさや疾しさよりも怖さが付き纏っている。最初から。

 一カ月まえ、失神する直前に無配慮で口走った『好き』は拓斗に聞こえたのか聞こえなかったのか。
 なんの反応もなくて、もしかしたら快楽の中にどっぷりと堕ちていたせいで、告白は那桜の幻想にすぎないのかもしれない。
 あまつさえ、『好き』が那桜にとってどんな意味を持っているのか、自分でもあやふやだ。
 別荘地を出たあと気を失うまでどれくらいだったのだろう、目覚めたのは家に到着する十五分まえだった。

   *

 那桜は徐々に眠りから覚めた。かすかな振動と滑らかな起伏の中に包まれている。身動ぎしたとたん、躰を中心から固定されていて喘いだ。刺激を呼び覚まされて意識が完全に戻り、別荘から帰る途中であることを思いだした。体内にはまだ禁忌の杭が突き刺さったままだ。

「もう家に着く」
 拓斗にもたれた躰を起こす最中に冷めた声が那桜に伝えた。その口調には大事にしているというキスの欠片も残っていない。ただ、目覚めるまで拓斗が那桜を離さなかったことがせめてものなぐさめになる。
 那桜はうなずいて躰をゆっくりと上げていくと、融合した体液が零れだす感触を覚えた。
「拓兄、出ちゃいそう!」
 小さく叫ぶと那桜の背後から、ほら、と云う声が短い笑い声を伴って聞こえた。忘れたいと思っていた状況に嫌でも直面させられ、躰が一気に冷たくなった気さえする。
 脇からティッシュケースが差しだされて拓斗が受け取った。
 ティッシュを持った拓斗の手がすくうようにして、お尻を上げていく那桜の中心を覆った。和惟の声に躰が委縮したことと、拓斗の杭が折れない程度の強度を保っていることが相俟ってきつく感じ、離れてしまうまで那桜は呻いていた。
 膝立ちした那桜の脚の間に手を添えていた拓斗は、何度かそこを拭いて顔を上げた。
「いいか」
「うん、たぶん」
 那桜は拓斗の上から隣に移って、ショーツとレギンスを身に着けた。身動きしている間にまたちょっと零れたものの無視する。その間に、那桜より早く、拓斗は身なりを整え終わっていた。

 ルームミラーを見ないようにして座席に落ち着くと、何気なく那桜は窓の外に目を向ける。車は都市の中心部を走っていて、並行する車もすれ違う車も多い。和惟の車はスモークフィルムが貼られていて外から見えることはないだろうけれど、那桜をいきなり現実に返らせた。
 別荘の出来事は遠いことのように思え、かすかに漂う(おす)の匂いが鼻について、那桜はただ場所を弁えない自分をはしたなく感じる。那桜から迫ったわけではなく、自ら躰を開いたことを加えても、拓斗のほうが嫌らしいはず。なのに、拓斗を見れば悪びれたふうでもなく、経済のことだか政治のことだか、いつものつまらない話題を取りあげて和惟と話しだした。
 和惟もまた何もなかったようにしていて、那桜はやっぱり夢中遊行症かと自分を疑ってしまう。
 やがて家に着くと、和惟は門先ではなく、車用の門からそのまま敷地内に入って車を止めた。

 ドアを開けた和惟を見上げると、なぐさめもなければ篤くもなく、毒気を含みつつからかうような目で見下ろされ、那桜は身構えた。
「那桜の節操のなさは最高だ」
 声を潜めもせずに、それは拓斗にも届いたはず。和惟は指先で那桜のくちびるに触れてきて、逃れるように拓斗のほうを見ると目が合った。和惟の指先はしつこく追ってきて、擦りつけるように上下のくちびるを強くなぞる。拓斗は和惟を咎めるわけでもなく、屈辱に感じている那桜をかばうことさえしないでさきに車を降りた。
 和惟は薄く笑い、那桜のショックに追い打ちをかける。顔をそむけて車を降りると、和惟の手が背中を押して歩くように促した。
 拓斗と和惟に前後を挟まれて、石を敷いた小道を家の玄関へと向かいながら、那桜は自分の中の不信と無力感と闘う。和惟の手が背中になければ進めなかったかもしれない。

 玄関の戸を開けるとすでに詩乃がリビングから出てきていた。門が開いた時点で家の中には、敷地内への出入りが伝わるようになっている。
「おかえりなさい。那桜、風邪ひいてない? 大丈夫なの?」
 早速、責めるような問いかけだ。心配しているとはわかるけれど、必要以上の干渉にはうんざりする。
「ただいま。なんともないよ」
 そう答えたとき、まだ体内に溜まっていた液が不意に下ってきた。ショーツが濡れるのがわかる。あっと思ったと同時に声まで漏れそうになり、急いで顔をうつむけてくちびるを咬んだ。
「那桜?」
「なんでもない。着替えてくる」
 詩乃はわずかな変化を見逃さなかった。そんな詩乃にはいつ秘め事を悟られてもおかしくないとあらためて知る。
 那桜の鼓動は後ろめたさを伴い、拓斗の匂いが脚の間から漏れだすんじゃないかと怯えるようにビクついた。サンダルを脱いで廊下にあがると、すでに廊下に立った拓斗と詩乃の間をすり抜けた。
「……拓斗?」
「災害は麓だけで、別荘じゃ危ないことは何もなかった。那桜も心配はいらない」
 詩乃に答えた拓斗の言葉に思わず振り返った。
 ついさっきまで禁忌を破っていたくせに、昨日は那桜の息を止めようとしたくせに、拓斗は母親である詩乃を前にして平然と嘘を口にする。昨日の夜だって、那桜は怖くて堪らなかった。
 そのときの怖さが甦り、そして批難する気持ちに変化する。それを察したように拓斗の目が那桜へと向いて、詩乃もまたその拓斗の視線を追って那桜に顔を向けてきた。何かにつけ訝る詩乃にいま自分の顔を見られたら、きっと何かあったと思われる。
「では、僕はこれで失礼します」
 偶然なのか意図したものか、和惟が詩乃の注意を引き、那桜は息を呑むような異様な空気を逃れた。
「和惟くん、あがって。コーヒーでも飲んでいってちょうだい」
「いえ。仕事がありますから」
「あら。そうよね。和惟くん、ごめんなさいね、那桜がわがまま云ったせいで」
 聞き捨てならない発言だ。別荘へ行ったのが自分のせいになっていることを、那桜はすっかり忘れていた。今度は和惟の視線まで那桜を向く。が、それはつかの間で、和惟はすぐ詩乃に目を戻した。
 その刹那、那桜の中でふっと何かが動いた。なんだろう、既視感みたいなもの。それはさみしいと感じさせる。
「いいえ。久しぶりにのんびりできて楽しみました」
「ありがとう。そう云ってくれると助かるわ。惟臣さんと咲子さんによろしく伝えてね」
「はい、では失礼します」
 和惟は詩乃に一礼し、廊下の奥に立ち尽くした那桜を一瞥(いちべつ)して、それから背を向けた。
 和惟の云った『楽しみ』がわざとらしく聞こえたのは気のせいだと思いたい。那桜は再びくちびるを咬んで拓斗をちらりと見たあと、その目に捕まるまえにさっと身を翻して二階へとあがった。

 部屋に入ると、心地悪く濡れたショーツとレギンスを手早く脱いだ。上半身の服も汗を吸っているに違いなく、ついでに脱いでチェストの引き出しを開けた。
 車中での行為はクーラーが意味をなさないほど熱がこもって躰全体が汗ばんだ。ひょっとしたら、汗をかいた躰が冷えてしまわないように、拓斗は意識を失くしていた間中、那桜を抱いていたのかもしれない。そう思うと、せっかくのなぐさめになっていたしぐさも、ただの合理的な行為にすり替わってしまった。
「那桜」
 下着をつかんだ手が止まる。二年まえのクリスマス会の前日まで時間が逆行して、隠れたい気分になった。
 不満なのか怖さなのか不安なのか、那桜はいまの自分の気持ちがよくわからない。それらがそのまま顔に出ていても隠す術がなく、拓斗を見つめた。
「何?」
「飲んでおくか」
 拓斗が差しだした手には、クリスマスツリーじゃなく錠剤が二つ載っている。たぶん、緊急避妊薬(アフターピル)だ。
「いらない」
 即座に突っぱねた。機嫌が悪いから拒絶しているわけではない。拓斗もそれはわかっていて、すぐに手のひらを閉じておろした。

 きれいにして、と願ったあの日、拓斗は避妊しなかった。そのまえみたいに“生理はいつだ”とも訊かなかった。
 あの日は必死で、そして翔流の停学処分や果歩との急展開があって(おろそ)かになっていたけれど、三日後にいきなり気づいたのだ。予定日を数日後に控えていたから大丈夫だろうとは思ったものの、本当は怖かった。どんなに世間知らずでも現実的な知識は持っているつもりだ。
 二日だけ予定より遅れた一週間後、無事に始まって、いつもはうっとうしいだけのまさに生理現象があんなにうれしかったことはない。
 毎日求め始めた拓斗に、つい喜んでいるのを顕わにして今日はできないと云ってしまった。拓斗は目を細めて心外であることを示し、那桜は誤解を解こうと、そのときはじめて不安だったことを口にした。
 拓斗は、気をつける、とだけ云ってその話は終わったのだけれど、自分も気をつけなくちゃ、と那桜は思ったのだ。
 ネットで調べてみたら経口避妊薬(ピル)を服用するという避妊法があった。それは生理痛も和らげるらしく、一石二鳥だと思って詩乃に云ってみると、生理中、調子が悪い那桜を知っている詩乃は疑いもせずに病院に行くことを了承した。嘘や背徳の疾しさよりもホッとした。
 けれど、そんな安易な那桜を罰するようにその手段は却下された。
 那桜の躰に合わなくて、薬に慣れてくればなくなるはずの吐き気と頭痛という副作用が治まらなかった。薬の種類を変える手段もあったけれど、具合悪くした那桜を見ていたせいか、拓斗が、おれが気をつければいいことだと止めた。
 それからは拓斗が避妊具を使うようになった。生理の直前になると、昨日や今日みたいに使わないこともある。それでも那桜の体内で()ぜることはなくなっていた。

 いま目の前に立つ拓斗の瞳は那桜の裸体を這うようにおりている。目を射るのと同じで、躰を見る眼差しもまた視線の痕を焼きつけるようだ。足先まで行くと上へと折り返し、拓斗の瞳は首もとで止まった。
 今日、何が拓斗にあったんだろう。いや、何かがあったのは昨日だ。
 不可思議に思う一方で、アフターピルを手に入れているなんて用意周到だと嫌味っぽく思った。
 避妊はけっして完璧じゃない。もし妊娠ということになったら拓斗はどうするんだろう――と考えたとたん、那桜は身震いした。同時に拓斗の手が伸びてきて首筋に沿い、再び震えた。
 本当に息を止められるかもしれない。脳裡をよぎったのはそんな結論。
 躰は拓斗の行為が深く刻まれていて、あれ以来、首に触れられるたびにすくむ。拓斗もまたそれをわかって、わざとそうしているのかもしれないと思った。撫でるようにして手は離れた。
「風邪をひく。早く服を着ろ」
 夏のこの暑さで寒いわけなんてないのに、拓斗は勘違いしたふりをしているのか、あの時と同じセリフを云い残して部屋を出ていった。

 机の脇に置いた姿見の前に行くと、何度も拓斗が摩撫した自分の首もとを鏡で見てみた。
 真ん中からずれたところにうっ血した痕がある。ちょっと顎を上げただけで、白い肌にはずいぶんと目立つ。
 もともと躰の柔らかい部分は痒いときに掻いただけでも内出血することがあって、セックスのあとでも拓斗につかまれた腿の内側に指の痕が残っていることがある。
 けれど、首の痕は不可抗力とは違う。拓斗が向う見ずだったことの立証だ。
 雨の中で抱きしめられたときは、拓斗の手でなら息を止められてもいいと思った。あのときはまだ拓斗に不信を抱いていなかったから。
 でも、いまは虚しい。
 大事にしているというキスも虚しい。拓斗はいつもと変わらなくて、それどころか和惟がくちびるに触れてもそれを許した。
 那桜の『好き』は空言のように片づけられた。
 不信と不安が『好き』を消して、それまで隠れていた、あるいは隠していた那桜の怖さを浮き彫りにした。


 その怖さが思い過ごしじゃないことを裏づけるように、それからほぼ一カ月、拓斗に抱かれていない。

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