禁断CLOSER#36 第2部 破砕の扉-open-
3.クラインの壺 -1-
車のエンジン音はほとんど聞こえない。高級車というハイクオリティのせいじゃなく、車内に充満する艶やかな、彼女――那桜の声がほかの一切の音を掻き消している。
だんだんと声は抑制を失っていく。今度で四回目。内心でつぶやき、和惟は無意識でカウントしていた自分を嗤う。
あっ、ぅんっ、あぁあああぁ――っ。
振り絞った声が和惟の耳を劈く。
愛している。
その言葉は手遅れで、いまはもう、那桜には通じない。
それでいい。
もしも、那桜がそれを認め、望むのなら、そのうえで敷かれたレールがあり、脱線できないとすれば、那桜の行く末に待っているのは不信という孤独、それに、心と躰を裂かれる痛みだけだ。
おれが“那桜”にできることはない。那桜の躰を愛でながら、愛してる、と、つぶやくことしか。おれの愛は完璧じゃない。
それなら、おれが“那桜のため”にできることはあるのか?
あるのは“可能性”のみ。
それまであたりまえのように存在していた、あの安穏とした幸。
大人であるだれにとっても娘であり、息子であるだれにとっても妹であった那桜。慈しむいくつもの視線のなかで那桜は無邪気に笑い、ただ“一対のまなざし”がそれを増長させるように甘やかす。
それはたった六年間のこと。幸が破綻した“日輪草の夏”。
二〇年まえ、“あった事”は伏せられた。そして七年後、皮肉にも那桜によって、あのひとの痛みは抉じ開けられた。
有吏本家は一族に何も明かすことがなく、もちろん、父、惟臣が知っていたとしても和惟に話すはずもなく、親たちの間で交わされた結論。当時は、なぜ急に本家から出ることになったのか、和惟は当事者の一人であるのに理解できていない。
一度たりとも口にはするな。
惟臣に厳命され、心底にある刻印を自分の中からも消そうという意識が働いたのかもしれない。その刻印を封じこめていなかったら、すぐに理由は見当がつけられたはずだ。
あのひとは和惟の前で困惑した表情を宿す。それに気づいたのは、那桜が中等部に進級して送迎についたときだ。和惟の刻印は甦り、辻も褄も合った。
おれにできることはない。
自分の無力さに、いまになっても歯咬みするほどの苛立ちと絶望を覚える。
当たらず触らずで平穏にすごしてきたことは表面上で成り立っていただけのこと。和惟の心底と同じように脆弱さを含んでいた。
那桜が生死をさまよう間、“兄”のだれもが祈るように集った。峠を越すまで、一対のまなざし――拓斗は引き離すことが困難なくらい、喰い入るように見守っていた。
その裏で、おそらく大人たちの間では悲劇が繰り広げられていたのだろう。
那桜が退院したその夜、拓斗は那桜と一緒に行方不明になった。幸は還るはずと思っていた。たった一夜の間に何があったのか。
那桜の肺炎はぶり返し、再び入院した。
一方で、那桜を連れて戻ってきた拓斗は何も語らず、まさに何も語ることのないCLOSERに変わった。
一対のまなざしは突如として那桜から離れた。
悲劇はまた隠蔽され、そして那桜の行く末は決まった。拓斗もまた。
日輪草の下に見た蘇生法は透き影のように和惟の中に現れる。単に蘇生させるためではなく、そこに拓斗がなんらかを抱えていたということに気づいたのは二年まえ、戒斗が家を出てからだ。
拓斗は戒斗のあとを継いで、那桜の送迎をやりだした。
――那桜の送迎はおれがやっていい。もともとおれの役目だ。
拓斗も大学が始まり――もう卒業を控えて頻繁に通うわけでもないが、スケジュール的に厳しくなった十月、そう申しでた和惟に、拓斗は即答しなかった。しばらくして返ってきたのは、当面はいい、という、それまでの態度を考えると意外すぎる返事だった。
そこに、可能性を見いだした。
あの幸に彩られた光景が那桜に戻るなら、それでいい。
もっとも、もしかしたらそれは綺麗事だ。
愛している。嘘じゃない。だからこそ。
那桜が放れようとしたときから、それがあたりまえであるように、それが痛みにならないように孤独を教えてきた。
だが、その比重は自分に偏り、那桜のためだと正面を切っては云えない。いまですら。
子供っぽいやきもちを焼いた那桜の悪戯なキスに妙味を知り、好奇心そのままに欲求を素直にぶつけてくる那桜を拒まなかった。エスカレートしていった行為は那桜を夢中にさせ、和惟も、と手を伸ばして那桜はおれの躰を簡単に反応させた。
そのうち、那桜はただの子供っぽさを脱して貪欲さを抑制し始めた。結局、夢中にさせられたのは和惟だろう。その那桜のわがままを和惟は許さなかった。
おれしかいない。
啼くまでに躰を犯し、泣くまでに無慈悲を浴びせ、植えつけた。
結局、和惟が那桜の心と躰を引き裂いている。
そして、守るべきなのは和惟のはずが、逆転して那桜が和惟を救うことになった。那桜は自分を守ろうと、戒斗に逃げ場所を見いだして和惟を遠ざけたのだ。
そうあるべきだ。自分で自分を守れ。
離れている間に冷静さと自制を取り戻しつつも目は離せず、それは幼い頃の拓斗と同じ眼差しなのかもしれなかった。戒斗がいないという環境の変化によって、すぐさま和惟は下劣な期待を抱いたことは、自分にも釈明しようがない。
その防波堤となっていた拓斗は和惟と那桜の関わりを怪訝に察し、そのことが逆にふたりを近づかせた。
可能性と慾望の間で揺れるなか、那桜のために――そうやって導く一方で、那桜にとっては以前と同じことにしか見えないであろう加虐を繰り返した。
那桜は拓斗に依存し、拓斗は兄妹の線を越えた。
おれは役目を尽くしきった。
――終わりだ。
煽り、認め、引き渡したはずが。
昨日、またもや同じことを迫られた。
那桜の姿が見えないと気づき、慌てもせず、ただ自分の目で別荘中を隈なく探し回った拓斗だったが、いないと知って外に出たとたん、時間が十三年まえに戻ったかのように行き先に迷うことなく、拓斗はがむしゃらに走りだした。
那桜の名を叫んだ拓斗がどういう心境であったのか。首筋に痕を残すほどの衝動。
和惟が呼び止めるまで、拓斗はいまの記憶を持って、確かに退行した時間の中にいた。
*
雨音に閉じこめられた夜。
「那桜を抱きたいか」
眠る那桜を横にして、缶ビールを手にした拓斗が淡々と訊ねた。いや、煽っているのか。
和惟は那桜に目をやる。
拓斗の右腕に頭を預け、反った首もとはますます痕が鮮やかになっているというのに那桜は信頼しきっている。拓斗の煽動に乗れば間違いなく那桜を不信に落とす。
そう思ったことは無意味で、拓斗の思惑どおり、和惟は単刀直入な質問に乗せられ、あるいは試されていたのだろう、那桜に視線をやった時点で拓斗は和惟の答えを結論づけていた。
那桜の頭を起こして立ちあがった拓斗は、キッチンに入って布巾がわりのさらしを持ってきた。最低限の温情措置なのか、那桜の目はさらしに巻かれた。
那桜の背後から伸しかかるようにして拓斗の腕が伸び、それぞれに那桜の膝を内側からつかむ。見守っているうちに、Tシャツ一枚しか身に着けていない那桜は和惟の正面で無防備に躰を曝けだされ、拓斗は本気であることを示した。
和惟の知らないところで何かがあったあの夜が、思いの外、拓斗を縛りつけている。そのうえ、長としてのプライドもあるはずで、それら二つのことが拓斗に歯止めをかけている。
「残酷だな」
人に云えた義理ではないが。
「ペナルティだ」
“だれ”が権限を持ち、“だれ”に対する? そんな疑問が浮かんだ。
どうする?
那桜のために――その気持ちは純粋か、と問われれば否定せざるを得ない。愛しているから。
和惟は嗤った。
「おれのやり方でいいんなら」
拓斗は無情に首をひねった。
和惟は那桜の前に行き、床に跪くと身をかがめた。
和惟が数えきれないほど踏みにじり、拓斗にも思う存分触れさせているというのに、もともと色素が薄いせいか、那桜のそこはきれいだ。卑しい気持ちのまま口をつけた。
那桜は夢現で熱のこもった吐息を漏らし、躰を潤わせて腰もとをかすかにうねらせる。
和惟の脳内に、二階から届いていた昼間の声が甦り、表現しがたい気持ちが顔を出す。這いずるように強く触れると、那桜は目を覚ました。拓斗を呼び、答えがないことに自分の置かれた状況を悟り、那桜は静かになった。
どんなに貞節を尽くそうとしても、その対象である拓斗の意思の下で行われている以上、それはなんの役にも立たない。それに増して、那桜の躰は和惟を受け入れるようにできている。
頼りない抵抗はすぐに崩れ、それから那桜は、ひっきりなしで当然のように拓斗を求めて泣き叫んだ。口に含んだ襞も、指に絡みつく襞も、和惟だとわかっているくせに。
それでいい、と思いながらも一方で、罰を与えるように那桜を追い詰めたがるという矛盾。
那桜はどんな相手にも湧くことのない劣情を和惟に起こさせる。
那桜の躰は幾度、和惟の下で飛び跳ねたのか、力尽きて反応しなくなった。顔を上げると、那桜のそこは熟れた桃のように赤くふくれていて、体内から放たれる蜜の芳香は和惟に飢餓感を催す。
再び口をつけた刹那、もういい、と拓斗が制した。
未練がましく、甘さを示すようにべたついた場所を舐めあげ、指を引き抜く。
拓斗に抱きあげられた那桜がぐったりとしているのを見ると、なだめるようにその頬に触れた。
二階へとふたりが消えた瞬間、和惟はいとも簡単にのめり込む自分を苦く嗤った。
*
昔のことから昨夜のことまで、那桜の啼き声を聞きながら脳裡に再生するなか、無視できない声が届いて和惟は現実に返された。
好き……。
静寂になる直前、那桜の吐いたかすかな言葉が和惟に向けられたことはない。先導したのは和惟であるはずが、心底を劈いて居残り、和惟はまた自嘲して口を歪めた。
しばらくしてちらりとルームミラーを見ると、ちょうど拓斗が背もたれにのけ反らせた顔を起こして目を開けた。
「那桜をどうするつもりだ?」
拓斗はすぐには答えず、上がった息を整えるように大きく息を吐いた。
「どうもしない」
「なら、昨日のことは前向きにとっていいって?」
「なんのことだ」
「惚けるなよ。那桜を好きにしていいかって訊いてる」
「だめだ」
即座に拓斗は退けた。ルームミラーを見やると拓斗と目が合い、和惟は冷やかしを込めて眉を上げた。
「気が向いたらやらせてやる」
挑発したせいか、拓斗は非情な許可を付け加えた。それは、はじめのとっさだった返事をごまかそうと取ってつけたように聞こえなくもない。
「妹なのに、人形みたいに扱うんだな」
「妹だろうが関係ない」
「関係なくはないだろう。約定はどうする?」
「どうもしない」
那桜の告白をどう捉えたのか、その片鱗を見せるはずもなく、ただ、やはり拓斗は認めていない。
「今時どうかとは思うけど、向こうは処女を期待してるんじゃないのか」
「どうとでもごまかせる。そこに進むだけだ」
拓斗はぴしゃりと云い、戯言は打ちきりだと示唆した。
拓斗と那桜、ふたりにはそれぞれ進むさきが決まっている。“そこ”に待っているのは約定の下にある交換結婚だ。
有吏一族と同じように、史実に関わってきた一族はもう一つある。蘇我という、もともとは渡来人だ。
両一族は“上家”、つまり天皇家の下で暗に活動し、世を動かしていた協力者という関係にある。一見、良好にやってきたが、有吏が行動をともにしたのは蘇我を牽制するためでもあった。
所詮、蘇我は文明という偉大な歴史を持つ国からの渡来人であり、その性質は野心に満ちている。
“上”の憂いをよそに、遥か昔から蘇我が焚きつけた戦は数えきれず、有吏は蘇我との関係に波風を立てない程度に心身を砕きつつ、穏便に国を再生してきた。
だが、蘇我がそんな有吏に対し、不満を持っていたと察するのは容易だ。
あとになって振り返れば、一世紀ほどまえから、蘇我の横暴ぶりは目立ちだしたという。それを見逃した有吏にも、結果的に蘇我を野放しにしたという責任はある。
世界の情勢を軽視し、蘇我が嗾けた最大の戦はこの国に凄惨な様をもたらして“上”をただの“人”に貶めた。
以来、有吏は窓口を残して、蘇我、そして蘇我に躍らせられ、有吏を裏切り者と誤解した上との関係を絶った。
有吏は蘇我を知り尽くしているが、一方で蘇我は、窓口の役目を果たす二つの分家を除いて有吏の正体を――有吏という名すらも知らない。そうしてきたのは万が一のためにという、有吏の祖宗たちの優れた分別だろう。
いまや蘇我にとって名もなき一族は脅威であり、その回避策として、一世代まえから窓口を通して何度も和解の申し出があった。
有吏の全分家が本家に決断をゆだね、それを善処したのが那桜の祖父にあたる前首領で、そして、現首領の隼斗が首領就任とともに決断した。
和解の約定として、那桜は蘇我家へと娶られ、拓斗は蘇我家から迎えるという交換婚が用意された。そして、和惟にも那桜の従者として蘇我家に赴くという命が下った。
蘇我からの申し出である以上、有吏のほうが条件は有利に立っている。蘇我は本家の人間を差しだし、有吏は一族ならだれであってもいい。尚且つ、従者を携えるという要求を呑ませた。交換婚の候補を本家からとしたのは、有吏本家が長たる者として当然と考えたからだ。高貴な潔さにほかならない。
ただしそれは、一族にとって有利というだけで、那桜にとってはなんのなぐさめにもならない。
和惟に不満はない。それで償えるのなら、その役目を全うしよう、必ず。なぜなら、約定を成立させた大もとは衛守家の、厳密にいえば和惟の無力さに因るからだ。その自分のためだった気持ちが、那桜のためにと変わるきっかけがあの夏の火遊びだった。
那桜の相手が、もし蘇我の性質どおり邪険であれば、その心痛を振り払うほどに尽くす。それが自分にできる唯一だと思っていた。
それがいま、もう一つの可能性がある。
「まあ、妹だけに、向こうもそういう関係だとは思わないだろうし、愛妾としては最適かもな」
和惟は拓斗に釣られたふりを装って殺生な云い様をしてみたが、拓斗は何も取り合うことはなかった。
ただ、拓斗は躰を繋いだまま、那桜が目覚めるまでずっと抱いていた。
それが真の答えではないのか――。
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* クラインの壺 … 境界も表裏もない2次元曲面
二つのメビウスの帯をその縁に沿って貼り合わせるとできるらしいが、
壺の内側をたどると外側に出るという、頭の痛くなりそうな形