禁断CLOSER#34 第2部 破砕の扉-open-

2.アフガンの帯 -4-


 その瞬間、那桜を襲ったのは、見えないことの恐怖よりも、躰の自由が奪われていることよりも、当てにしていた唯一への不信だった。
 脚の間の生温かさは那桜が起きるのを待っていたかのように、無遠慮に這い回る。躰の中でいちばん繊細であり、感覚だらけの場所だ。拒絶の気持ちを持っていても、けっして応えているわけじゃなくても、震えという自然な躰の反応は免れられない。
 それでも何も応えたくない。
 那桜は捩ることさえしないように躰を強張らせ、くちびるを咬んで声を堪えた。体性感覚の世界から気を逸らしたくて思考を転換させる。自分はどこにいるのか。
 腰もとの素肌に当たる感触と姿勢から、たぶん眠りこんだソファの上だ。ソファの背に沿ってのけ反った首をもたげようとしても、そのまえに那桜の首もとに埋まった頭がさえぎった。上腕には腕が伸しかかっている。突っぱねようと上げた腕は肘から先のみ動くだけで、那桜を押さえつける腕をつかむことしかできない。その腕は那桜の持ちあげられた脚へと伸び、それが内側から那桜の膝の裏を支えて開脚させている。お尻はソファから飛びだしているのか宙にあって、後ろからの腕の支えがなければきっとずり落ちる。
 脚もとには和惟、そして背後に拓斗。自分の置かれた状況を把握する間も柔らかく舌はそこを触れ回っている。そう意識したところで、いつの間にかまた自分が感覚の世界に戻ったと知る。そこから離れなければと思って、今度はこれがどういうことか思い巡らした。
 けれど、始まりのもともつかめず、何も順を追えないまま、ただ目隠しされていることが神経をそこに集中させていった。

 拓兄!
 叫びたくても、一度口を開けたら耐えられない気がして、そのかわりに内心が抵抗を訴えた。もちろん応える声はない。
 なぜ?
 その疑問が那桜を気弱にさせる。
 う……ふっ。
 咬みしめたくちびるの隙間から息が漏れた。連動して躰がうねり、体勢がますます不安定になったように感じて那桜は腕に縋った。その心許なさの一瞬の隙にふくらんだ襞が丸ごと口の中に含まれる。
 んあっ。
 吸いつかれたとたん、お尻が身震いして、それが足先まで伝わっていく。
 漏れだしそうな不安は久しく忘れていた感覚だ。拓斗は手で触れるけれど、こういう口で触れることをしない。くちびるに触れ合うキスさえも、今日の雨の中がはじめてだった。ただし、あれをキスと呼べるのなら、の話だ。
 “呼吸”をキスと呼べないように、那桜の希求にすぎなくて。
 和惟のような、頭の芯をぼんやりさせるようなキスじゃなかった。どうかすれば不器用なキス。それでよかった。
 干そうという気さえなければ。あの苦しさの中にそれを見たと思ったのに、その直後のひまわり畑で置いてけぼりにされたときと同じで、いまは真逆の冷え冷えとしたさみしさが溢れていく。零れる涙は目隠しした布切れが吸い尽くして、拓斗に訴えることさえ叶わない。
 いや、訴えが通じたとしても拓斗はそれを認めない。

 そう思ったことが那桜を無力にして、抵抗との間を行ったり来たりし始めた。その波を知っているかのように、和惟の器用なキスが那桜の弱点を襲ってくる。抵抗を始めると強く擦り、無力になったとたん、柔らかくタッチを変化させる。
 抵抗と無力の境目がわからなくなっていく。それを紛らそうと雨に濡れたひまわりを思い浮かべる。が、すぐにその映像は(ねじ)れて消えた。躰は和惟の触れ方を覚えていて、そこから引きだされる反応も覚えていた。体内からその証が零れだす。
「あ、いやっ」
 引き止めようとしても証を止めることはできなかった。お尻の間へと流れ広がる。
「拓に……止め……てっ……あっ、やっ」
 那桜が怖れていたとおり、いったん声を出してしまうと口を閉じられなくなった。反応の軽減も難しくなっていく。
 拓斗も和惟も一言も発せず、那桜の啼き声だけが音を立てている。いや、(すす)るようなキスの音も鮮明に聞こえている。視界だけじゃなくて声も閉ざされていたほうがよかった。
 汚らわしいのは自分の声かキスの音か、どっちだろう。
「やだっ、あふっ……出ちゃ……う、くっ」
 息が詰まり、かろうじて動く腰もとを反らし、つかんだ腕に指が喰いこむほど那桜の躰が硬直した。
「拓に……いっ、ゃぁぁあああーっ」
 閉ざされた視界は暗闇を映しているはずが、光が炸裂したような閃光が走る。体内が収縮するのに合わせて跳ねる躰は、一組の腕と一点のくちびるで押さえつけられた。快楽が躰の中に閉じこもる。そこに容赦なく、次が襲いかかかってきた。指が体内に侵入して引っ掻くような動作をする。
 あ、あ、あ……。
 那桜の中の蠢動にあわせて襞が擦られた。収縮が持続して、息するのもままならない。くちびるもまたうごめいて、もう一つ空いた手が上半身を這うように上ってくる。捲れたTシャツの下に潜り、右側の胸をつかまれ、そして先が捕えられて摩擦が加わった。
 那桜の全感覚が躰を投げだしたくなるほどの快楽に満ちる。
 だめ。そう意識したと同時に、胸先とおなかの奥が連動して二回目の閃光が走った。それでも尚、休むことなくくちびると指先は躰を嬲る。那桜を縛っていた腕は緩み、それなのに逃げられるまでの体力が集められなくて、ただその腕の下で感覚に反応する躰が無意識にしなう。

 拓斗にすべて預けたはずが、なぜ和惟に応えてしまうんだろう。
 あの時と一緒だ。海岸で拓斗に助けを求めても和惟から逃れられなかった。本当は逃げたい気持ちなんてなくて、そのさきを求めていたのかもしれない。
 自分が真に求めるのはなんだろう。そんな曖昧さと不安に追い立てられ、快楽とは違う嗚咽が込みあげた。
 自分とは違う呼吸が熱を伴い、耳もとから那桜の躰の奥へと響いてくる。そのせいか、自分の荒い息づかいと重なっている泣き声は、どこか違うところで自分じゃない小さな女の子が泣いているように聞こえた。
「拓に……助け……て」
 途切れ途切れの呼びかけに応えたのは首もとを這うくちびるだった。キスのように那桜をなだめる。
 まるで場違いなキス。浅はかな躰にやさしいキスは似合わない。それを自分自身が証明する。キスは手と指先に連なって、那桜の躰を鳥肌が立つような快楽に落とした。

 水をかき回す音がする。窓の外の雨音じゃない、那桜が立てる酷い水の音。雨の中を駆けていたときの足が泥濘(ぬかるみ)(はま)る音だ。
 熱を帯びた皮膚と濡れそぼつ目、そしておなかの奥は泉のようで――乾いていくのは心だけで、外の雨のように一晩中、それらは那桜の全身から滴るのだろうか。
 躰は境界線を失い、意識もおそらくは途切れることと目覚めることを繰り返している。
 すべての観念が壊れ、二度と動けないような怖れを抱き、震えの止まらないなかでその怖れさえ朦朧(もうろう)としていく。どこか遠くに聞こえていた自分の声も途絶えた。

 首もとから頭が離れる。
「もういい」
 その声に従い、躰の中心から生温かさが、いや、灼熱が消えた。体内にあった指が抜けだすのに合わせ、どこにそんな余力があったのか那桜の躰はプルッと身震いした。
 拘束していたはずの腕は、いつの間にか那桜の躰を支える役目に変わっていて、だらりとした躰はふわりと抱きあげられる。だれかの手のひらが濡れた頬を包むように撫でた。
 それから一定の感覚で、那桜の頭が腕にぶつかって揺れる。ぼんやりと、歩いているんだろうと思う。浮いている躰と一緒で思考力もふわふわしている。
 まもなくどこかにおろされ、躰を支えられたままTシャツが頭から剥ぎ取られた。横たえられると、頭の片隅で、ベッドの上にいるんだ、と思った。汗ばんだ躰が布の摩擦を受ける。記憶が還る。身に覚えのある行為だ。

 たくにぃ。
 呼びかけたつもりが声にならなかった。
「那桜」
 那桜は、うん、と答えたのにやはり声にはならず、うなずくこともできない。額に手が被さる。さっき頬に触れた感触とは違った。
「那桜」
 また呼ばれた。
 返事ができないでいると口が柔らかい感触に開かれる。呼吸が触れ合った。拓斗に合わせて那桜の呼吸がだんだんと深く繋がっていく。ゆっくりと呼吸は離れた。
「那桜」
 那桜はのんびりとうなずくと、糊でくっついたようなまぶたを揺らしながらようやく目を開けた。目隠しはいつの間に外されていたんだろう。ゆっくりと目を瞬いた。
 焦点が合わないうちにベッドが少し軋んで、拓斗が立ちあがったのがわかった。布の擦れる音が、静かで薄明るい部屋に広がる。焦点が拓斗の太腿に定まり、裸体を上へと伝っていると、顔まで上げきれないうちに拓斗が隣に滑りこんだ。
「眠ればいい」
 タオルケットをふたりの躰にかけると、その中で拓斗の腕が上下から挟むようにして背中に回り、那桜の躰を横向きに引き寄せて包む。
 鼓動に額を撫でられているような感覚のなか、那桜は目を閉じた。

 *

 躰を包んでいた(まゆ)(ほど)け、薄らと目が覚める。額に何かが載った。あまりの躰の重さに起きるのをあきらめて、もうちょっと、と那桜は微睡に任せて数分後、また深い眠りに入る。
 どれくらいたったのか、くちびるに何かが触れて眠りの底から抜けだした。なんだろうとぼんやり思っているうちにそれは額におりて、だれかの手だとわかった。それが離れるとまた眠った。
 三度目、動き回るような気配と短い波の音、それから目を閉じていながらも光が差したとわかって目が覚めた。身動きしないうちに人の気配はなくなる。
 ゆっくりと目を開いたものの、明るさに慣れるまで何度か開いたり閉じたりを繰り返した。横向きになったまま、首を反らして光の方向に目をやった。ベッドヘッドの向こうにある窓の外は、太陽は見えなくても晴れていることが一目瞭然なほど明るい。
 波の音はどこから聞こえたのか、見える景色は林だ。それとともに見慣れない部屋にいることに気づいて、記憶を探りながらベッドから脚をおろした。タオルケットが引きずられる。異様な(だる)さを感じつつ、支えを肘から手に変えて上半身を起こす。立ったとたん、腰が抜けたかのように力が入らず、膝がガクンと折れて床に座りこんだ。
 同時に体内からトクッと液体がおりてきた。それが、思いだそうとするまでもなく昨夜の出来事を那桜に甦らせた。

 夢? そう思ったものの、すでに脚の間の濡れた感触が現実だと示している。セックスしている夢を見たことはある。けれどそれだけでこんなに零れてくることはない。正面の壁に掛けられたひまわりの油絵を見ながら呆然とした。
 果てしない快楽はいつもの怖れとは違った。そうするのが拓斗じゃなかったから。
 和惟にも怖れを抱かされたことはある。けれど、そのときは拓斗が“いなかった”。
 何があったの? わたしに、和惟に……拓兄に。
 頭の中が混乱した。

「那桜」
 不意に色のない声が那桜を呼ぶ。反応できないでいると、ひまわりの絵がさえぎられた。拓斗が目の前で腰を落としてかがみ込む。那桜は視線が合う寸前で目を伏せた。
 両手が髪の中に潜りこんで首もとに添えられると、那桜は首をすくめた。すぐに撫でるようにして手は離れていく。
 そのあと、耐えられないほどの沈黙が長引く。それでも喋りたくなかった。
「ペナルティはなんだ」
 とうとつな質問はなんのことだかわからず、那桜はつい伏せた目を上向けた。
 そこに怖れていた蔑視はなかった。ホッとして、次の瞬間にはそんなことを気にしていた自分が愚か極まりないと気づいて消えてしまいたくなる。
「ペナルティって何」
 目を逸らしたくてもやっぱり拓斗の目はそれを許してくれず、那桜は拓斗を見つめたままつっけんどんに同じ質問を返した。
「ジジ抜きしただろ」
「忘れた」
 間髪を入れず一言で云い返した。拓斗が手を上げ、敏感に反応した那桜は躰を引いた。すぐ後ろにベッドがあることは忘れていて、背中が当たったとたん逃げ場がないと気づいて今度は首を垂れて身を縮めた。
「服を着ろ。もうすぐ帰る」
 張りつめた雰囲気を感じたのは那桜だけだったのか、拓斗はいつの間にかベッドにあった那桜の服を取って脚の上に置いた。昨日びしょ濡れになった服は、仕上がって間もないようにふわふわして温かさが残っている。あらためて見た拓斗も自分の服に着替えている。
「十一時だ」
 何時だろうと思ったことをまた読んで拓斗が答える。“あれ”はいつから、どれくらい――そんな疑問が浮かんだけれど、それは読めないのか答えたくないのか、拓斗は黙りこんでいて、かわりに那桜の脚の上から下着を取り、早くしろと云わんばかりに差しだした。
「下、行ってて」
 那桜は素っ気なくも意思を込めて云い、拓斗が出ていくのを待った。それなのに、どんな考えがそこにあるのか、拓斗は立ちあがる気配さえ見せない。
 那桜は下着をひったくるように取り、拓斗を前にしてブラジャーから身に着け始めた。脚はまだ重く、引きずるように膝を立てると、足に絡んだタオルケットを拓斗が取り去る。ショーツを腿まで上げたところで、拓斗は立って那桜の脇の下に手を入れた。那桜の躰が持ちあがる。骨が溶けているんじゃないかと思うくらい脚は頼りない。拓斗はそれに気づいているのか、那桜が躰を引くしぐさをするまで支えていた。
 ショーツを穿いてしまうと那桜はベッドに腰を落とした。足もとのチュニックを取って頭から被ると今度はデニムレギンスを取りあげる。

 とたん、床の染みに気づいて那桜のくちびるが歪んでいく。とっさにくちびるを咬んで、込みあげるものを堪えた。なんのつもりか、拓斗の手が額を(かす)め、それから拓斗がベッドヘッドにあるティッシュを取って床に零れた標を拭いた。
 その行為は余計に那桜を惨めな気分にさせた。まるで暗に批難されているようで。
『もういい』と、その言葉はあれが拓斗の意思のもとであったことを示しているのに、なぜそんなふうに思うのか。
 快楽と闘いながら、那桜はずっと思っていた。
――試されてるの?
 それなら、那桜は申し開きできないほど落第に値する。
 好き、なんて気持ちはわからない。そんなのがなくてもセックスはできて、できるだけじゃなくて気持ちよくなれて。拓斗のためにきれいでいたい。そんな気持ちも快楽をまえにしてはなんの役にも立たなくて、セーヴもできなかった。
 それなら、拓斗しかいないと縋ることさえ無意味になる。
 わたしは何?
 その疑問にはすでに那桜自身が答えている。
 最低のペット。云うことをきかなくて、快楽には逆らわないペット。“お利口さん”なところなんて少しもない最低のペット。

 のろのろとレギンスを穿く間に拓斗はカーテンを閉めた。そのとき、目覚めがけの短い波の音がカーテンを開ける音だったとわかった。同時に昨日の昼間、同じようにカーテンが閉められたときは、幸せといえるくらい居心地よく感じていたことを思いだす。
 それが、階下におりたときから何かが狂ってしまった。
 また何かあるかもしれない。そんな気持ちが表れて那桜がおりたくないと思ったとき。
「行くぞ」
 と、見透かしたように意地悪な命令が下った。
 いつもと違い、拓斗が那桜の手を拾う。強引に引っ張られて那桜はのめるように歩きだした。

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