禁断CLOSER#33 第2部 破砕の扉-open-

2.アフガンの帯 -3-


 リビングに戻ると、テレビからの話し声だけで、それぞれにソファを陣取ったふたりは喋りもせずに違うことをしていた。拓斗は雑誌を見ていて、和惟はソファの向きを少し変え、寝そべってテレビに見入っている。
 絶えず何か負っているから、こういう普通にだらけたふたりを見るのはめずらしい。泊まる予定じゃなかっただけに、何もやるべきことを備えてこなかったんだろう。那桜にしろ、携帯電話一つ持ってきただけであり、このふたりでは話し相手にもならなくて何もやることがない。
 二階から戻ってすぐ浴びせられた視線は那桜がいることを確認するためであって、ふたりとも那桜の格好が変わっていないことについては特段気に留める様子もない。
 さっきの拓斗は煽動されたのじゃなくいつものように気まぐれだっただけで、那桜は、衝動に負ければ自分が馬鹿を見るだけだという結論に至った。

「東堂から夕食は持ってくるって電話が入った」
 和惟が寝転がっていた躰を起こして立ちあがった。
「手伝いに行っちゃダメかな」
「だめだ」
「その格好で?」
 思いついたままを口にした一瞬後には、ソファにいる拓斗、キッチンに向かう和惟と、那桜の前後からともに却下された。
「だって暇だし」
 那桜も自分の格好はわかっていて、あんまり本気で云ったわけでもないのに、こうも即座に制止されるとは自分はどこかおかしいんだろうかと思ってしまう。例えば、夢中遊行症で実はいま眠っていての行動だとか。明日の朝になったらこの記憶は消えているのかもしれない。
 こんな不安を抱えさせるなんて絶対に間違っている。
 那桜はこれ見よがしにため息をついて、拓斗の向かい側でテーブルのすぐ傍にペタリと座りこんだ。下着をつけていないことは頭になく、那桜はお尻が床に着いたとたん、ひんやりして小さく声をあげた。
「なんだ?」
 後ろから来た和惟が那桜の前にオレンジジュースを置きながら訊ねた。
「なんでもない」
 那桜はもぞもぞと正座し直してジュースを取った。入浴後であることと色沙汰のせいで喉はざらついている。五回くらい連続してジュースが喉を通るとやっとすっきりした。
「トランプとか、UNOとか、テレビ台の中に入ってる」
 那桜の後ろにあったソファの向きをまともに変え、和惟が腰をおろしながら勧めた。
「独りでやれない」
「いるだろ、三人」
 その言葉を受けて拓斗が顔を上げた。なんでおれが、と云っているみたいだ。けれど、すぐに拓斗はあきらめたように首をひねった。
 拓斗のほうが立場を鑑みても主導権を握っているのはともかくとして、日頃から、和惟の誘導もまた不思議と拓斗には有効だ。
「じゃ、トランプ」
「いちばん下だ」
 和惟がテレビ台を指差した。

 わざわざ立ちあがる距離でもなく、四つ這いで行くとローボードのフラップ扉を開けた。和惟が云ったとおり、覗きこむといちばん下の奥に小さい箱が見えて、那桜は手探りでそれをつかんだ。膝立ちで戻っていると、拓斗の細めた目が那桜を射る。
「何?」
「那桜、母さんの服なかったのか?」
 和惟がかわりに答えた。いや、問い返したのだ。それは可笑しそうな声で、那桜はどういうことか察した。戻ったとき変わらない格好に何も云わなかったのは無関心じゃなく、ショートパンツでも穿いていると思っていたのか。挑発したい気分と、無闇に煽動したくない気持ちとあったわけだけれど、いまは後者が圧倒的に優位だ。
 最初はすかすかしていた頼りなさも、呆れるくらい早く、那桜は下着をつけていない爽快感に慣れていた。自分はやっぱりどこか感覚がおかしいのかもしれないと自信をなくしてしまう。
「……見えた?」
「んー、男を惑わすぎりぎりのラインだな」
 那桜がおずおずと訊ねると、和惟はチラリと拓斗に目をやりながら口を歪めた。拓斗が気に喰わないように目を瞑りながら首をひねった一方で、那桜はほっとする。和惟が真ん中に陣取っている三人掛けのソファの端っこで、那桜は床の上に正座した。
「探すの、面倒くさかったから」
「もっと自覚するべきだな」
「一人前に扱ってくれるならそうする」
「最高の扱いをしてるつもりだけどな」
「最低のペット扱い」
 那桜が横を見上げながら切り返すと和惟はおもしろがって片方の眉を吊りあげ、那桜の手からトランプを取った。
「何やる?」
「なんでも……あ、公平なのがいい!」
「トランプに不公平ってあるのか?」
「だって大富豪だったら勝てそうにないから。ババ抜きやポーカーだったら単純ていうか運だし、公平感あるじゃない?」
「なるほど。それならペナルティ付きでいいって?」
 挑戦するような和惟の目が向く。トランプをシャッフルする手はつい見惚れてしまうくらい滑らかに動いている。
「絶対ダメ」
「惜しいな。仕返しのチャンスだろ」
 和惟は拒否した那桜を焚きつけながら、思わせぶりに拓斗へと視線を流した。拓斗は和惟の発言には取りあわず、するなら早くしろと云わんばかりの関心のなさが窺える。
 それを見ていると、困らせたいと思わなくもない。それに、那桜にとっては罰なんていつも受けているようなものだ。それを考えれば罰ゲームなんて那桜に損はなく、ましてや、本気で罰を与えるほどふたりとも大人げなくはないだろう。
「なんでもきいてくれる?」
「死ねと云われて死ぬつもりはないけど、そういう無理難題じゃなければ」
 和惟は笑みを浮かべて軽く受け合った。
「拓兄は?」
「結果は見えてる」
 拓斗は一言で、しかも即座にあしらった。そこまで云いきるからには――と、那桜の中に俄然闘志が湧く。
「和惟、ババじゃなくってジジ抜き!」
 那桜は気持ちそのまま勢いこんだ。
 和惟は興じた顔つきで、オーケー、と小さくうなずいたあと手を止め、トランプの表を下に向けて扇形に広げてから那桜に差しだした。
「選んで」
 那桜は真ん中から一枚を抜いて、テーブルの下に伏せて置いた。和惟が配り始める。

 単純明快なゲームであり、どんなペナルティにしょうかと考えつつ気軽に挑むと、勝ったのは一回目が拓斗、二回目は和惟と、那桜は続けてビリッケツだった。公平なはずのジジ抜きで、なぜジジカードを連続してつかまされるのかわからない。透けているのかと疑って、思わずカードを天井の照明に向かってかざしてみると、和惟に笑われた。
「じゃ、二枚抜きでやるってのは?」
 那桜はつと考える。ジジカードが二枚とも同じカードだったら負けはないし、違うカードだとしても最下位になる可能性は低くなる。
「やる!」
 勇んで和惟の提案に乗ってみて三回目、そうなる確率がいったいどれだけのものなのか、(デュース)(ジャック)という二枚のカードが那桜の手に残った。敗北も三回目となれば那桜の眉間には険しくしわが寄る。
「絶対おかしい。わたしにやらせて!」
 那桜は和惟からトランプを奪い取った。和惟のように二つに分けて絡ませるというシャッフルは難しく、那桜はテーブルの上にカードを広げてシャッフルする。それからまた手に持って丹念にシャッフルした。
「わたしが選ぶから」
「わがままなお嬢さまだな」
 眉を吊りあげた和惟にもかまわず那桜はジジカードを一枚ひいて、またテーブルの下に置いた。高々トランプゲームに真剣勝負で臨むのもどうかと思うが、ペナルティ云々(うんぬん)よりいまは意地でも勝つつもりだ。
 和惟が拓斗に目配せしたのも気づかないまま、那桜は手持ちのカードの位置を入れ替えた。
 そして始めた四回目のゲームは滞りなく、那桜は歓声をあげながら一抜けした。それからは那桜が順調に勝ちを重ね、やっぱり何か細工していたんじゃないかと疑った。そこに目くじらを立てるほど命を懸けた闘いではないし、勝ち続けられていることで良しとした。
 拓斗と和惟がそれぞれ二勝、那桜が三勝で勝敗を勝ち抜けた七回目までになると、ジジ抜きばかりというのも飽きてくる。

「もういい」
「有利になったとたん終わりだって?」
「おなか減ってる。昼、あんまり食べてないし」
「勝手に拗ねるからだ」
 那桜の云い訳に拓斗が逸早く反応した。もしかしないでも、その延長で起きた不愉快な逃亡劇を拓斗に思いださせている。けっして本来の意味での“逃亡”ではない。それなのに拓斗の中ではやり過ごせないことになっているのだ。首に残る拓斗の手とくちびるに残るキスの感触とがそう裏づけている。
「だってそれは……」
「それは、なんだ?」
 云い淀むと、いつもになく関心があるかのように拓斗が促す。那桜は迷った。おれの云うことをきいていればいい――そんな言葉を吐く拓斗には何を訴えても一緒な気がする。黙っていると、いつまでたっても拓斗の視線から逃れられない。和惟は知らぬふりだ。
「拓兄がわたしのことを考えてないから」
「そう思っておけばいい」
 投げやりな那桜に対する拓斗の云いぶんには、まるでそうじゃないと云わんばかりの声音が潜んで聞こえた。
 拓斗のどこでどう那桜のことを考えているというのだろう。いや、考えてはいるんだろう。けれど那桜のためを、あるいは那桜の気持ちを考えているとはとても思えない。那桜がそういう意味で云ったことは通じているはずだ。
 やり過ごすつもりで口にしただけなら、いつもみたいに沈黙に徹すればいいものをなんのために拓斗は答えたんだろう。
 呆気にとられたのが半分、純粋に答えへの驚きが半分で那桜は拓斗を見つめた。
 すると、ふと拓斗の顔に苦みがよぎる。すぐに消えたものの、舌打ちしていそうな顔つきだった。
 下の兄、戒斗は家出してから大学を休学していたが、去年の四月から復学している。家出から少ししてギターを取りにきたことがあって、そこからどう方向性が定まったのか、いまはバンドを組んで本格的に音楽活動をやっている。そのギターにのめるきっかけをつくったのは那桜だ。中等部のときに文化祭で見たギタリストの音がカッコよくて、戒斗に弾いてほしいと頼んだわけだが、すぐには了解しなかった。戒兄にもできないことあるんだね。普段から何やらせても隙のない戒斗にそう云ったら、案の定、乗ってくれた。してやったりと那桜がにんまりしたとたん、煽られたことに気づいた戒斗は、しくじったというように舌打ちしたのだ。
 いまの拓斗はそのときの戒斗と似ている。
 ということはさっきの発言は云うべきじゃなかったという一言であって、この場合、もしかしないでもなんらかの本心?
 那桜は期待を抱いたが、ぬか喜びのつけは自分に回ってくると考え直してすぐに打ち消した。

 しばらく沈黙してしまい、それを破ったのは和惟だ。
「ペナルティはなんだ」
 和惟が身を乗りだして那桜の耳の近くで訊ねた。
「ふたりとも?」
「当然だろう」
 和惟は拓斗に目を向けた。次いで那桜が見やると、拓斗はさっきのことが教訓にでもなっているのか、文句を云うこともない。
「あとで、独りずつ」
 和惟は問うように眉を上げ、そして、どうでもいいように肩をすくめた。
 その直後に木を叩く音が二回続けて鳴った。別荘の玄関ドアがノックされた音だ。ここに着いたとき、木製のドアの外側には木の棒がぶら下がっていて、なんのためなんだろうと思って和惟に訊ねたらノック用だと教えてくれた。子供みたいにおもしろがって那桜も試してみたのだが、無機質なドアホンよりも自然でいい感じだ。
「東堂です」
 ドアの向こうから声がするのと同時に和惟が立ちあがった。ドア越しで声がこもっているからはっきりしないが、別荘の出入り口で迎えた声とは違っている気がした。
「那桜」
 那桜が立ちかけると、拓斗が名を呼んで止めた。
「お礼云ってくるだけ」
「那桜」
 再び呼ばれるも、那桜は気にかけずに和惟を追って玄関に行った。

 カレーの匂いが漂ってきて、その先にいたのは思ったとおり管理人の東堂ではなく、もっと若い、那桜と同年代くらいの男の人だった。なんとなく清潔な感じのする管理人と似ていることから息子だろうと察した。
 和惟にカレー鍋を渡しながら、彼の目がちらりと那桜に向く。
「こんにちは。あ、もう、こんばんは、かな」
 那桜は云いながら窓の外に目をやって暗くなってきているのを確認してから、また視線を戻した。
「こんにちは、で、いいんじゃないかな」
 玄関先に置いた炊飯ジャーを取りあげながらの返事は、すっきりした顔立ちと一緒で柔らかく屈託がない。休講中のいま、男といえば拓斗と和惟ばかりで――たまに翔流と電話で話すけれど、ほんとにたまにで、こんなふうに気取らない応対にはほっとする。
 炊飯ジャーを受け取ろうとしたとたん、あらためて那桜を見やった彼の目が顔から下へと移っていく。かすかに彼の眉間にしわが寄り、それで決まりが悪く感じた那桜は、自分が人前に出る格好じゃないと気づかされた。
「向こうへ行って食べる用意してろ」
 拓斗が口を挟みながら、那桜の前に盾になるように躰を入りこませてきた。
「あ、うん。ごはん、ありがとう」
 那桜は拓斗に答えたあと、その脇から覗くようにしてお礼を云うと、体裁の悪さが消えるくらいの気さくな笑顔が返ってきた。
「ほかの別荘にも持っていってるし、管理人の役目のうちでもあるよ。口に合うといいけど」
「美味しくないカレーって食べたことないけど。いただきます」
 那桜のやり返しにまた彼が笑ったのを確認してから奥に引き返した。
 キッチンに入ろうかとしたところですれ違いざま、和惟からお尻を叩かれた。なんの意味かと思って振り返ってみても、和惟は素知らぬふりでまた玄関に向かい、かわりに入れ違いで拓斗が炊飯ジャーを持ってきた。
 そのあとに挨拶を交わしているのが聞こえ、玄関のドアが閉まると、和惟がボウルを手にして戻ってくる。拓斗が持ってきた炊飯ジャーを開けるとご飯も炊きあがっていて、那桜は流しの反対側にある戸棚からお皿を出したりと食事の準備をした。

 まもなく、キッチンの反対側にあるカウンターに、那桜を真ん中にして座るとそろって夕食を取り始めた。
 カレーはフルーティで、尚且つスパイスが効いていてルーから手作りされたものだと見当がつく。管理人の息子の云い方は控え目すぎると思うほどその味には満足した。ボウルに入っていたコールスローサラダは、細かく角切りしたチーズが入っていて味が濃厚に感じられる。
「美味しい」
「東堂家自慢のカレーだからな。野菜は自家栽培だ」
「そうなんだ。持ってきてくれたの、息子さん?」
「ああ。東堂家の一人息子だ。いまは那桜と同じで夏休みだからここにいるけど、普段は都内にいて大学に通っている。三回生で、卒業後は家業を継ぐことになってる」
「大学って青南?」
「そうだ。けど、隆大(りゅうた)は農芸学部だからキャンパスは都心部から離れてるし、那桜とはすれ違いもないだろ」
「そうかも」
 それでなくても、那桜の外出行動はスケジュール化されているから、その外側の人と会うことなんてめったにない。高校の頃に比べたら、拓斗に申請すれば多少の融通はきくようになっているけれど、申請が必要ということ自体がおかしいことなのだ。
 夕食を終え、片づけが終わったのは七時でまだ夜は長い。雨音は絶えることがなく、明日は帰れるんだろうかと思いつつ、那桜は窓から暗くなった空を見上げた。
 和惟がコーヒーを準備しているなか、拓斗はまた雑誌を見始めて、那桜はその隣の一人掛けのソファに座った。コーヒーを飲みながら果歩たちとメールのやり取りをしたり、つけっ放しのテレビを見ているうちに満腹感が手伝って那桜は微睡んだ。

 *

 昏々(こんこん)とした中、躰が熱を帯びていく。眠りと現実が行き交い、躰の中心に触れる生温かさに、気怠(けだる)いような特有の心地よさを覚えながらやがて那桜は目を覚ました。
「拓にぃ……?」
 ぼんやりと名を呼んでも返事はなく、自分が不自然な格好をしていること、目を覚ましたはずが視界はさえぎられていることがわかって一気に意識が鮮明になる。不安が押し寄せた。同時に、その心地よさが何から派生しているのかも那桜自身の感覚に教えられた。
 那桜の呼びかけに答えたのは躰の中心を這う生温かさだ。
「んっ!」
 那桜は躰を捩って呻いた。その感触は知っている。
 けれど違う。
 いつも那桜を救う呼吸はいま、那桜の耳もとにあるのだから。

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