禁断CLOSER#32 第2部 破砕の扉-open-

2.アフガンの帯 -2-


 しばらくうっ蒼とした気分でいたけれど、壁と床に石を使用するという、せっかく温泉地っぽくした浴室で、不安に纏いつかれているばかりでは疲れてもったいない。のんびりしようと那桜が負の思考を追い払ったとき、和惟が浴室にやって来て洗濯機を使い始めた。
 風呂場の戸を開けられたときは、何かちょっかいを出すんだろうかと木の浴槽の縁をつかんで身構えたけれど、すでに着替えていた和惟は那桜の着替えを持ってきたことを告げ、あと五分だ、と云い残してすぐに出ていった。
 また顎まで浸かって、五分たっただろうと思える頃には汗が噴くくらいに温まった。風呂場を出て脱衣所を見回すと、和惟が持ってきてくれたTシャツが棚に置いてある。着てみたら、和惟のものか惟均のものか、那桜にはぶかぶかだ。下着がなくて心許ないものの、とりあえずは膝上まですっぽりと隠れている。乾燥するまでは仕方がない。
 つい先週、衛守家はこの別荘に滞在したらしいから、とりあえず咲子の持ち物が何か残っていないか見てみよう。そう考えながら那桜は浴室を出た。

 キッチンの横を通る途中で、拓斗が電話中であることに気づいた。和惟は窓際にいて、窓枠のところに腰を引っかけて外を眺めている。ふたりとも適当に服があったらしく、Tシャツと膝丈のハーフパンツという姿だ。
「和惟、おばさんの服ない?」
 キッチンを通りすぎてリビングまで来ると、ソファに座った拓斗の目が那桜を向いた。和惟も振り返る。
「寒い?」
「そんなことないけど、下に着ておくの、何かないかと思って」
 和惟の目が下へと流れた。那桜を居心地悪くさせるようにゆっくりとしている。
「那桜」
 電話中の拓斗が不意に割りこんだ。呼びかけたあと電話の相手に、那桜とかわる、と云ってから、拓斗は促すように少し顎を上げて携帯電話を差しだした。
「何?」
「母さんだ」
 那桜はなんだろうと訝しく首をかしげながら、拓斗から携帯電話を受け取った。
「もしもし?」
『那桜、雨に濡れたって聞いたけど大丈夫なの?』
 那桜の応答に被せ、詩乃が心配しているときによくある、若干(なじ)るような声が届いた。
「平気。お風呂入って温まったから大丈夫だよ」
『そう? 拓斗と和惟くんがいるから心配いらないと思うけど気をつけてちょうだい。拓斗にかわって』
 雨に打たれただけのことを案じるには、詩乃の云い方はどこか大げさで、那桜は不思議に思いつつ拓斗に携帯電話を戻した。何を話しているのか、拓斗は「ああ」と「わかってる」という短い相づちを繰り返し打つばかりで電話は終わった。

「どうかした?」
「今日はここに泊まる」
「え?」
 テーブルに携帯電話を置いた拓斗は、和惟とは逆に那桜の足もとからゆっくりと視線を上げてきた。やっぱりTシャツだけというのは心細い。裸なんていくらだって見られているのに、拓斗の視線は那桜を気まずく戸惑わせる。
(ふもと)はここよりも雨が酷いらしい。冠水した場所があって麓へおりる道が通行止めになっている」
 那桜の疑問に答えたのは和惟だ。和惟の向こうを見ると、酷くはないが、また雨粒が大きくなっているのはわかる。那桜は窓に寄って空を見上げた。
「大丈夫?」
「明日にならないとわからない。まあ、ここは大丈夫だ。別荘はメンテナンスしてるし、非常用食糧の備蓄もある。ここが地滑りってことになれば話は別だけどな」
 和惟は心配になるようなことを付け加えたけれど、その実、詩乃と一緒で、那桜にはそういうことでの心配な気持ちは少しも湧かない。拓斗が、ましてや和惟が一緒で、何があっても切り抜けられるというふたりがそろっているのだ。そこはただ信頼している。
 実績があるわけでもない、その根拠のない安心感とともに、無意識に那桜の頭の中に言葉が浮かんだ。
「心配ないない!」
 口から飛びだした言葉に那桜は自ら笑う。すると、肯定的に応じたのは息を吐くように笑った和惟だけで、拓斗はめずらしく険しいというような表情を顕わにした。
「懐かしいな」
 和惟がつぶやき、那桜は横を向いて見上げる。
「懐かしい? なんとなく云いたくなったの。わたしの口癖だった?」
「いや、東堂さんの口癖だな」
 那桜は記憶を呼び起こそうと首をかしげた。面識のある人のなかには見当たらず、那桜にとって東堂といえば、この別荘地帯の出入りをチェックしていた人しか思いつかない。別荘の入口に家を構えていて、季節かまわずここに滞在して終始管理しているそうだ。
「東堂さんて、ここの入口で管理してた人のこと?」
「あの人は息子で、口癖の本人はとっくに引退してる。東堂家は衛守家に代々仕えている一家だ。夕食は東堂に頼めるだろう」
 この辺りは衛守家の所有地で、ひまわり畑もそうだ。今日来たとき、車に乗ったまま和惟が管理人と話している間に、拓斗から、管理人の父親なる人がひまわり好きで栽培していると聞かされた。その人の口癖を知っているのなら、自分は東堂家と面識があるんだろう。
「拓兄、拓兄もずっと小さい頃からここに来てた?」
 拓斗は返事のかわりに肩をそびやかした。首をひねるんじゃなく、そうしたことは肯定に違いない。拓斗にかわって和惟が話しだした。
「昔は――衛守家が有吏家に同居していた頃は、夏にここに滞在するのは恒例の行事だった。男は三才を過ぎると、キャンプだって云われて父親たちに山の奥に連れていかれる。幼いうちは楽しいだけだったけど、それが鍛錬になるとうんざりだったな」
 うんざり、というのが和惟らしい。拓斗なら、任務だ、とか、あっさりとやっていそうだ。いずれにしろ、ふたりとも挫けることなく立ち向かったに違いなく、(おろそ)かにしたはずはない。

「キャンプなんて経験したことないからやってみたい。学校の行事であったのに、お母さんにダメって云われてできなかったし」
「あの日も那桜は拓斗にそう云ってたな」
「あの日?」
「本当に覚えてないんだな? まあ、たしかに重体だったし、いまだに思いだせないってのも無理ないか」
「重体ってわたしのこと?」
「ああ。重症の肺炎起こしてた」
「和惟」
 その拓斗の声はぴしゃりと鋭くて、和惟をさえぎったように聞こえた。
 和惟は拓斗に目を向けて問うように首をひねったあと、何かを読み取ったようで眉間にしわを寄せた。
「どういうことだ?」
「余計なことはいい」
 拓斗は明らかに口止めをしている。それだけは那桜にもわかって不満を覚えた。
「ちょっとだけなら覚えてる」
 わずかに口を尖らせて主張すると、拓斗が和惟から那桜に視線を移した。その眼差しは追求しようという気持ちがありありに見える。
「何を」
「ん……入院してたこと? 点滴みたいなのをしてたような気がする」
「肺炎だった。それだけのことだ」
「どうして? 小さい頃はわたしって躰が弱かった?」
「熱があるのに雨に濡れた。今日みたいに」
 聞きだすきっかけになるならと思って主張したのに、拓斗は畳みかけるように続けて端的な説明で終わらせた。
 以前――あの最悪のクリスマスの日、詩乃と同じ話をしたことがある。詩乃が話を打ちきったような印象を受けていたのは気のせいじゃなかったと確かになった。たったそれだけのことを口止めする理由がわからない。
 那桜と拓斗の不機嫌がリビングに充満していく。それを払うように和惟が那桜に呼びかけた。
「那桜、母さんの服を探してくればいい。階段をあがった正面の部屋だ」
 すぐに行動する気になれないでいると、不意にお尻をつかまれた。下着をつけていないせいで、Tシャツ越しでもそれが意味ないくらいに直につかまれた感触だ。
 那桜が小さく悲鳴をあげて見上げると、和惟は何喰わぬ顔で笑い返す。もっとやられたいか、という脅迫が見えなくもない。那桜は和惟を軽く睨みつけてから階段に向かった。

 不満を知らせるべく、あえて拓斗のほうは見なかったが、階段の踊り場でちらりとリビングを見下ろすと、拓斗の視線と合い、次いで移した先で和惟とも合った。お尻でも見えているんだろうかと気になったものの、そういうことに煽動(せんどう)されるほど飢えているとは思えないし、まずあのふたりの無情な目を見れば、何か別のことを考えているだろうことは察しがついた。
 そこで、もしかしたら、と思った。意識的に足音を響かせながら階段をあがった――というのは“ふり”で、那桜は下から見えなくなった位置で立ち止まった。階段に腰をおろし、そうしていれば見つからないかのように膝頭に顔がつくくらい丸まって身を潜めた。

「拓斗、あれはなんだったんだ?」
 和惟が少し声を落として拓斗に問いかけている。
「なんのことだ」
「おまえがしたこと、だ」
 拓兄がしたこと?
 いつの話なんだろう。
「何もしてない」
「あのあと何かあったのか? 何があった?」
 拓斗のあっさりした返事にまた和惟が問い詰める。リビングは沈黙してしまい、那桜は息を呑んでそのさきを待った。息苦しくなるほど待っても、ふたりともうんともすんとも云わない。

 那桜は聞き耳を立てていたあまり、まったく気づかなかった。
「ん、ぃやっ」
 脚の間を縦に沿って触れられた瞬間に奇声を漏らしながら顔を上げ、躰を跳ねたせいで階段からお尻がずり落ちそうになった。そこを救ったのは拓斗の手だ。那桜は目を丸くして、かがみこんだ拓斗を見上げた。
 拓斗が足音を立てないことは知っていたのに、加えてリビングの様子に集中していたことが、階段を上ってくるわずかな振動を見逃すことになっていた。ハの字にした脚の間は、下から見上げる拓斗からすれば丸見えだったに違いなく、ましてや盗み聞きしていたことが知られて、那桜はばつが悪くくちびるを咬んだ。
「何してる」
 意地悪く訊いてきた拓斗の目はすべてお見通しだと云っている。
「わたしのことなのに教えてくれないから知りたいって思っただけ」
「教えた」
「違う!」
「何を知りたい」
「それがわからないから訊いてるの!」
「何もない」
 拓斗はうそぶいた一言で那桜の疑問を切り捨てた。
「もういい」
 そっぽを向いて那桜が立ちあがろうとした瞬間、拓斗が右肩を押さえつけてそれを阻止した。目を戻すと間近まで拓斗の顔が迫っていて、視界の外で布の擦れるような音がした。何をしているのかと思っているうちに、那桜のくちびるのほんの傍で拓斗の口が開いた。
「咥えろ」
 命令を吐くと同時に、躰を起こした拓斗が目の前に慾を向けた。その様は拓斗の不愉快さの度合いを示しているように見えた。
「拓兄――っ」

 抗議しようと叫びかけた那桜は拓斗の慾にさえぎられた。いきなり奥深くまで突かれて嘔吐(えず)きそうになり、その反動で慾は那桜の口から押しやられた。それを拓斗がまた突いてくる。頭をつかむ手に固定されながらも、那桜は条件反射で舌を使って押しだした。
 その繰り返しのなか、次第に速度が増していく。押し退けようとしていたはずが、動きが速くなるにつれて抜けだしてしまいそうな気配に那桜は吸いついてしまう。それがもっとという気持ちに変換されて、那桜の喉からくぐもった声が立った。
 まもなく口の中で慾が跳ね、伴って拓斗が頭上で低く唸った。脈動しながら拓斗の慾が那桜の体内へと蹂躙を広げる。仰向いてそれを受け入れながら拓斗のしかめかげんの顔を見つめた。心底から希求されているみたいな表情が向く。その顔は好きだと思う。
 いまみたいに無理やり始められるのは好きじゃない。嫌だ、と思う。それがいつの間にか反対の気持ちにすり替えられている。イってもらいたいとさえ願ってしまっている。それはたぶん、どんなに偉ぶっていても、男のいちばん無防備な姿を見られるからだ。きっと、それだからこそ拓斗はいつも那桜に触れさせない。
 拓斗は離れようとはせず、唾液が零れそうになって那桜がそれを呑むたびに慾が反応する。やがて拓斗は那桜の口内に擦りつけるようにしながら慾を引きずりだした。こんな行為はめったにないことで顎が軋む感じがして、那桜は手を口もとに持っていった。拓斗は目の前で慾を服に収める。
(あざむ)いた報いだ。おれの云うことをきいていればいい。それが那桜、おまえのすべてだ」
 せっかくの満ち足りていた気持ちは所詮虚構で、それでもよかったのに、拓斗の宣告によってすべておじゃんにされた。
「拓兄のほうがよっぽど余計なこと云ってる! 云ってほしいことは全然云わないくせに!」
 拓斗の手が伸びてきて那桜は思わず首をすくめた。それにかまうことなく拓斗の手のひらは首筋を這い、だからなんだ、という視線を向けたあと、拓斗は躰を反転させて階段をおりていった。

 背中を追ったとたん、その向こうの踊り場にいる和惟が目に入った。いつからいたのか、鳥肌が立つような感覚がした。以前とは逆の立場だ。ただ、和惟は“無粋”じゃなかった。けれど、止められることよりそのほうがずっと醜悪な気分にさせられるとわかった。拓斗は平然と和惟の前を通り抜け、方向を変えて下へと行く。そのかわりに和惟が上ってきた。
「挑発してくれるな」
 目の前に来た和惟は薄く笑い、手を伸ばすと、強張った那桜の膝をそれぞれにつかんで脚を閉じる。同じ高さにある和惟の顔が近づいた。
「足音、多かったんじゃないか? 那桜らしいけど」
 和惟は鼻で笑ってすぐ階段をおりていった。
 さっきの行為の最中、拓斗が間に入ったせいで脚を開いていたことはまったく意識していなかった。すぐに拓斗を追うくらいなら知らないふりをして立ち去っておけばいいものを、わざわざいることを見せつけ、そのうえ那桜の痴態を指摘して、和惟は人のプライドを散々に砕く。

 惨憺(さんたん)たる気分にさせられてしばらく動けない間、下からは何も会話が聞こえなかった。
 ようやく階段を上り、正面の部屋に入ったものの、消沈した気持ちと納得できない気持ちが入り混じって咲子の服を探す気にもなれない。放心していると、そのうち反発するように仕返ししたい気持ちが芽を出した。
 気持ちも躰も振り回されてばかりで、それなのに後悔させられる。理不尽だ。
 那桜はさっきの和惟の言葉を思いだす。
 挑発。
 もしかしたら、さっきの拓斗は那桜の格好に挑発されたんだろうか。
 だったら。……だめ。また愚かに曝されてしまうのは自分だけだ。
 しばらく佇み、結局、那桜はそのまま部屋を出た。
 探すのも考えるのも面倒くさい。

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