禁断CLOSER#31 第2部 破砕の扉-open-

2.アフガンの帯 -1-


 雨の中、夏の気温と、ピタリとくっついたせいで余計に熱くなった躰と、締めつけられる苦しさ、それらが相俟って那桜は蒸発しそうな気がした。それくらい長く、拓斗の中にいる。
 そうなっても――時間が止まらなくてもいいからそうなればいいのに。
 那桜は祈るように思う。とたんに拓斗は腕を緩め、その願望の時間さえ(くじ)いた。拓斗が那桜のしたことを快く思っていないことは確かで、内心を見透かしたすえの意地悪ではないかと思いたくなる。
 那桜の躰を解放した拓斗は手を上げ、それが顔に迫ると、次には濡れた髪の中に潜って撫でるように首もとを這った。ついさっきのことを思いだした躰は、那桜の意思に反してたじろぐ。見上げた拓斗はそれに気づいたのかどうか、目を細めている。もしくは単に、頭から滴る雨が目に入るのを防ぐためだろうか。
 拓斗の情が――おそらくは激情が去るとともに、雨は小降りに変わっている。
 拓斗の濡れそぼった髪は皮膚に張りついていて、普段からすればずっとみっともない。ドジをやらかした男の子みたいだ。それでもきれいだと思う。

 そのきれいな顔が傾きながら不意に近づいた。焦点が合わないくらい間近な位置で止まる。
「いつになったら学ぶんだ?」
 据わった声は脅迫じみていて、目を見開いた那桜の視野はますますぼやけた。
「拓……兄……?」
「出ていけばいい」
 触れるまで一ミリくらいという至近距離で同時に漏らした声は熱く、ふたりの息を湿らせた。
 拓斗の言葉がどんな意味を持っているか――色のない声に本意はわかるはずもなく、那桜はただ表面の意味に気づくのでさえ時間がかかった。
「拓兄っ」
 違うの! ――そう云うかわりにくちびるを拓斗に押しつけた。
 けれど、その意思表示は虚しく、那桜のくちびるから押されたままに拓斗は離れ、表情なく那桜を一瞥したあと踵を返した。
 来い、とも、帰るぞ、とも云わない。
 和惟の横をすり抜けて歩いていく拓斗の背中をぼんやりと見送った。振り向くことはおろか立ち止まることもなく、拓斗はひまわりの中に隠れてしまった。
 追いかけそびれた那桜は愚かにも立ち尽くす。捨てられた猫だって追いかけるに違いないのに。

「那桜」
 和惟の声は、また拓斗が戻ってくるんじゃないかという期待を砕いた。拓斗の姿が見えなくなった場所から引き剥がすようにして那桜は和惟に目を向けた。
 和惟もまたずぶ濡れになってTシャツが躰に張りついている。拓斗より強くウエーブした髪が少し跳ねているものの、普段と比べても見劣りすることはない。
 自分はといえば、気持ちも惨めであれば、格好も無様だろう。そんなことを思いながら、那桜はどうしていいかわからずに返事さえできないでいた。
「行こう。風邪をひく」
 和惟は何事もなかったような口調だ。和惟が云う、行く場所はいまは一つしかない。それでも拓斗が云ったことを考えれば、その場所は那桜にとって不確かになっている。那桜が動ききれないうちに、三メートルくらい離れた位置から和惟のほうが近づいてきた。
 人の意思を待たないのは拓斗も和惟も一緒だ。
 目の前に立った和惟は顔に手を伸ばしてきて、すくうように那桜の顎を持ちあげる。そして首もとを覗きこむように頭を傾けた。
「無茶をする」
 だれに対してか、和惟が囁くと、那桜は顎を支える指から逃れるように一歩後退した。
「おいで」
 促しているように聞こえてもそれは命令にほかならない。従わないでいると、いまの那桜の気分とはおよそ不釣り合いに和惟は可笑しそうに息を漏らした。
「歩けないならしょうがないな。それとも」
 和惟は不自然に言葉を切り、躰をかがめた次の瞬間に那桜の躰が宙に浮いた。
「和惟っ」
 抗議した自分の声は掠れていて頼りなく聞こえた。
「なぐさめてほしいって? それなら、那桜は抱いてやるのがいちばんだな」
 背中のほうからふざけた声が聞こえる。逆らおうと和惟の肩を突っぱねた。が、那桜の力では到底敵わない。あきらめたとき、不意に和惟の腕から力が抜けた。落ちそうになって、小さく悲鳴をあげながら和惟の首にしがみついたとたん、その腕がまたしっかりと那桜を支える。不安定さがなくなって、落ちようもない位置に横向きで躰が納まってみると、和惟がわざとそうしたのだと気づいた。那桜が拓斗から手を繋いでもらおうとするときにやる手段と一緒だ。
 和惟は歩きだした。
「相変わらず軽いな。拓斗のことでも考えてろ。あの時、おれを見てたように」
 耳を当てた和惟の首もとから、からかうのでも皮肉でもない声が響いてきた。
「見てない」
「それならそれでいい」
「見てない」

 和惟は二回目の否定に応えることなく、ひまわりの中を掻き分けるようにどんどん歩いていく。和惟が一歩進むたびに互いの躰がそれぞれに揺れ、密着した胸と胸が濡れた服越しに擦れて熱くなっている気がする。
 那桜にとって温かいと安心できるのは、こんなふうに触れ合っているときだけかもしれない。
 それなのに、そうしたくてもできないでいる。和惟には触れたいときに触れていられたのに、拓斗にはわがままが通せない。
 ひまわりの中で拓斗を待つ間に、キスの間に、そして抱きしめられている間に、拓斗の仕打ちに対する拗ねた気持ちは消えてしまった。
 そのかわりに疑問が浮かぶ。
 あんなふうに突き放されるまでのことをしたとは思えないのに。
 出ていけ。
 拓斗に関するかぎり、那桜がいちばん嫌いな言葉はあっさりと本人の口から発せられた。

「和惟……わたし……」
 どうしたらいい? そんな簡単な質問さえ云い淀むと、和惟の腕が一瞬きつくなった。それを大丈夫だとなぐさめられているように感じたのは那桜の都合だったようで、和惟はすぐあと真意の見えない、おもしろがった口調で応じた。
「さすがにおれを起こした那桜だ」
「どういう意味?」
「那桜なら、拓斗も簡単だろうな。いや……那桜だから、だ。那桜が同じことをするから」
「同じことって?」
「覚えてない?」
「何を? 拓兄からもさっきそんなふうに訊かれた」
「那桜、CLOSERは最初からCLOSERだったわけじゃない」
 答えになっていないその言葉に、那桜は和惟の肩から顔を上げた。同時にひまわり畑を抜けだした和惟は那桜を地におろした。那桜は和惟を見上げて口にはせずに目で問うと、和惟の顔がおりてきて不必要なほど近づいてくる。後ずさりしようとした那桜の手首を捕え、もう片方の手は頭を後ろからつかんだ。
「CLOSERの鍵は、施錠した奴しか解錠できない」
「だれ?」
「ただし、それが内側からも施錠されているとするなら、那桜、覚悟したほうがいい」
 那桜の質問を無視した和惟はがらりと表情を変え、罪人にする宣告のように嘲笑して那桜を見据えた。
「拓斗のキスはどうだった? セックスはどうだ? 訊くまでもないか。那桜の啼き方は知ってる。まあ、おれの指よりも拓斗の“男”のほうが遥かに()さそうだけどな」
 やっぱり和惟は和惟だ。やさしいふりをして、その目は笑っていなくて、気を許した人間までも簡単に打ちのめす。
 拓斗の仕打ちで弱った気持ちに追い討ちをかけられ、嗚咽が込みあげてくる。押し殺そうとして、くちびるが震えるのが自分でもわかる。それを見て嗤った目が緩慢に那桜の頭上に逸れ、伴って和惟は背を伸ばした。
「拓斗がお待ちかねだ」
 那桜は眩暈がしそうなくらい素早く後ろを振り返った。
 林への入口に拓斗はいた。表情が窺えるほど近くはなく、ただ、ジーパンのポケットに親指を引っかけて片側に重心を置いた立ち方は、早くしろと催促しているかのように見える。
 ああ云いながらも、拓斗は五分でも一時間でもそこで待っているんだろうか。
 置いていかれたわけではないことにほっとしたと同時に気づくこともあった。和惟はひまわり畑から出た瞬間にそこに拓斗がいることを知っていたはず。
 正面に向き直り、那桜は睨むように和惟を見上げた。すると、たったいままであった無慈悲な眼差しは跡形もなくなっていて、真逆に案じた目が見下ろしている。どっちが本物だろう。那桜は惑いながら捕まれた手を引いた。
「放して」
「狂うまえに機嫌直してやるべきだ」
 和惟は警告すると、那桜をあっさり解放した。
「狂う――?」
「早く」
 和惟は那桜の躰をくるりと方向転換させて背中を押した。
 拓斗が目に入ると、和惟の発言に対するちょっとした疑問は飛び、那桜は駆けだした。
 出ていけ、という言葉は嫌い。だから、待っていてくれるだけでいい。

「拓兄――」
 拓斗の目の前に立ち止まると、呼びかけるのをさえぎるように右手が伸びてきて、手の甲がくちびるに触れた。那桜は素早くその意味を察し、両手で拓斗の右手を引き止めた。
「キスなんてしてない!」
 まっすぐに見上げて叫ぶように弁明した。云った瞬間に、ずっとまえ、疑われる相手は違っても同じことを口にしたと思いだす。
 拓斗は那桜の手ごと拳を握る。その瞳から冷ややかさは消え、ただいつもの無があるだけだ。痛いほどの力はすぐに緩み、拓斗は那桜を放して手をおろした。すかさず、那桜はまた拓斗の手の中に自分の手を滑りこませた。拓斗が繋いだ手を見下ろし、それから那桜の後方に目をやったあと、林へと方向を変えた。
 拓斗より一歩遅れて歩きだし、那桜は手が撥ね退けられなかったことに安堵した。拓斗の手の中で力を抜くといつものように握り返される。そのことに何よりほっとした。

 林道に入ると、小雨のせいか、背の高い木の葉が傘のかわりになって、躰にはあまり雨を感じない。無言で歩く静けさのなか、時折、水の重みで葉が跳ねるようなさわさわとした音波を感じ、次いで地面に大粒の水滴が落ちてくる。
 それが繋いだ手の上にまともに落ちると、雨とは違うずっしりとした衝撃を感じた。拓斗の大きくて、それでいてすっとした手から、預けきった手がずり落ちそうになると、すかさず拓斗が引き止める。
 こんなふうに……。
 那桜は漠然とした希みを抱きながら強く握り返すと、拓斗が半歩後方を歩く那桜を見下ろした。かすかに頭を傾けると、今度は伸びた左側の首もとに水滴が落ちてきた。
「ィタっ」
 那桜は立ち止まり、首をすくめて小さく悲鳴を漏らした。本能で上げた那桜の左手より早く、拓斗の右手がかばうように首もとを覆う。ゆっくりとそこを撫でられてやがて痛みは忘れた。
「ありがとう、拓兄」
 水滴が落ちてきたタイミングのよさがちょっと可笑しくて、かばわれることがうれしくて笑いながら云ったのに、返ってくる表情は何もなく、ただ拓斗の手は離れることなく、熱がこもるくらい摩撫(まぶ)される。
 そこへ、ゆっくりとついてきていた和惟が追いついた。拓斗の手は左側から右側に移り、名残惜しいかのように這いずり落ちて離れた。
 拓斗は和惟を一度見やってから那桜の手を引く。那桜がちらりと後ろを振り向くと、なんの意味があるのか、和惟はかすかにうなずいてみせた。
 来るときと同じ道を引き返しているのに、走った距離よりも歩くほうが長く感じた。那桜の歩調に合わせられているせいか、三〇分近くかかったんじゃないかと思う。もっとも、ひまわり畑に向かうときは無我夢中で、それだけに時間の感覚が狂っているのかもしれない。

「服を探してくる」
 別荘に入るなり和惟は濡れたTシャツを脱ぎながら、二階へと上がっていった。そのあとには道標のように足形と水滴が残っていく。
 おばさんに知れたら怒られそう、と半ばおもしろく思いながらその水跡を追っていると拓斗が那桜の手をぐいと引く。
「風呂だ」
「うん」
 拓斗はキッチンの横を通って、その裏側の浴室へと那桜を連れていった。

 洗い場に入ると、脱げ、という一言命令に従って那桜は服を脱ぎ始める。躰に張りついた服は脱ぎにくく、もたもたしているうちに拓斗は蛇口をいっぱいに捻り、浴槽にお湯を溜めだした。そして、自らも服を引き剥がすようにして裸体を曝していく。結局は那桜のほうが遅く、かがんだ拓斗からスパッツとショーツを一纏めにして剥ぎ取られた。
 両脇を抱えられて浴槽の中におろされ、拓斗がシャワーヘッドを持って続いた。背後から肩を引き寄せられ、拓斗の胸に触れた背中がひんやりとした感触を覚える。どっちの躰が冷たいのか、おそらくはふたりともそうなんだろう。プールに長時間入ったのと同じで、夏とはいえ躰は冷える。
 拓斗は重なったふたりの躰にシャワーをかけた。
 いや、違う。拓斗はただ那桜の躰を温めているだけだ。最初は冷たかった背中もすぐに拓斗の体温で温かくなって、那桜の前面はシャワーのお湯が温めていく。
「拓兄も」
 自分だけというのは悪い気がして首をのけ反らせて云ってみたのに、拓斗は取り合わない。お湯が浴槽に満ちるまで、拓斗はずっとそうしていた。
「十分は浸かっておけ」
 そう云った拓斗は浴槽から出て、手早くシャワーを浴びるとさっさと出ていった。後ろから見ても頭から足先までバランスがよく、そんな隙のない拓斗の背中を目で追いながら、那桜の中にまた疑問が浮かぶ。
 どうして?
 シャワーの間に、ウエストの位置に触れていた“拓斗”はだんだんと感触を確かにしていた。尚且つ、那桜は拓斗の気に喰わないことをした。和惟がいようがいまいが関係ないはず。当然、“犯される”ということを覚悟したのに拓斗はそうしなかった。
 何かが拓斗の中で切り替わったのかもしれない。
 こんなことで悩むなんて自虐的でしかない。けれど、いつものパターンじゃないということが那桜を不安にさせた。

BACKNEXTDOOR

* アフガンバンド … メビウスの帯を平行に切ったもの。
  センターライン、1/3ラインと、切る位置であとの図形が違ってきます。
  メビウスの帯以上にねじった帯ではまた違う図形も。折り紙などを細めに切ってトライしてみてください。
  どんな形であれ、輪っかは切っても繋がっています。お子様向けの簡単な手品に^^