禁断CLOSER#30 第2部 破砕の扉-open-

1.メビウスの帯 -4-


 拓斗がシャワーにかかるのを終わると、那桜はまた抱きあげられて、浴室から部屋に戻った。
 拓斗はいつも素っ気なくて、抱こうとするときも抱いているときも容赦ないくせに、抱いたあとは、言葉は変わらず淡々としたままでも驚くくらい甘やかした扱いをする。そして、那桜はつい大事にされていると勘違いする。

 ベッドの上におろされたあと、拓斗はベッド脇から丸まった服を拾って那桜に渡した。那桜が下着を身に着けている間に、拓斗はジーンズとTシャツまで着終わって、それからエアコンを切って窓とカーテンを閉めた。部屋が薄暗くなる。
「拓兄、すぐ帰るの?」
 那桜はベッドからおりて、膝下丈のデニムレギンスを穿きながら焦って訊ねた。拓斗は振り向いて首をひねる。
「ひまわり畑に行ってからだろ」
「よかった。気が変わったのかと思った」
「もう二階にあがってくることはない」
 拓斗は考えてみれば当然のことを答え、窓際から近づいてきた。丈がお尻のすぐ下までというカラシ色のチュニックを頭から被ると、髪が乱れているのか、拓斗の手が伸びてきて軽く()いた。
 那桜もまた、拓斗の髪に手を伸ばした。どちらかというと短めの髪はセットしやすいように、くせ毛のように緩くウエーブがかかっている。仕事のときは、後ろに向かって軽く撫でつけている髪が、いまは少しだけ無造作に額に落ちていて、それをもっと多くしてみた。ちょっと少年ぽくなって好きだ。それなのに、手を離したとたんに拓斗は前髪をかき上げてしまってがっかりした。
「おりるぞ」
 那桜のため息には無頓着で、拓斗はさっさとドアに向かう。那桜は追いかけてドアを閉めると、階段をおりる寸前で拓斗の左手に手を滑りこませた。力を抜いてすぐ、やっぱり条件反射で握り返されて那桜はこっそり笑う。

 階段の途中にある踊り場からはおりる方向が変わり、その先にリビングが広がった。一階は階段下の風呂場とお手洗い以外に仕切りがなく、広々と団らんの場が設けられている。リビングをざっと見渡したとき、左手のキッチン側に和惟の姿を認めて、那桜は足を止めた。
 和惟はソファの背もたれにのけ反るようにしている。朝見たスーツ姿ではなく、拓斗と似たような格好に着替えている。耳を澄まさないと聞こえないくらいの音量に気づき、和惟はテレビ画面に見入っているとわかった。
 那桜と拓斗をここに連れてきたのは和惟だ。和惟はスーツを着ていたし、送ってきたあとはすぐに出ていって仕事だと思っていた。てっきり夕方、帰る頃になってから戻ってくるんだろうと解釈していたのに。
 和惟はいつからここにいたの?
 那桜は慄きながら内心でつぶやいた。
 気づかないで、と思ったときにかぎって逆の思念が伝わるのか、果たして和惟の目がこっちに向く。那桜は無意識に拓斗の手から自分の手を抜こうとした。が、拓斗の手はそれを許さず、足を止めた那桜をちらりと振り向いたあと、拓斗は強引に手を引きながら階段をおりた。

「おれはさきに食べた。おりてこないし」
 和惟は、ソファの前にある木製のテーブルに置いた食料品を指差した。『おりてこない』という言葉をわざわざ云ったように思うのは、那桜の勘繰りすぎだろうか。
「かまわない」
 拓斗は落ち着き払っていて、ソファまで行ったところで那桜の手を離した。拓斗が座るのと入れ替わりに和惟が立ちあがり、テーブルの平たい箱を取りあげた。
「那桜、(ふもと)で那桜が好きなピザを買ってきてる。温めなおしたほうがいいだろ」
「……うん」
 和惟の声は至って普通だ。那桜の生返事にも頓着することなく、和惟はピザの箱を持って対面式のキッチンに入っていった。

 あの海辺で和惟が云った、『終わりだ』という言葉はいまだに意味がわからない。もしくは、自分自身に対する宣言だったかのように和惟はおとなしくなった。
 ふたりきりになったときも、皮肉を云うことも那桜に手を出す素振りも見せない。ちょっと触れることはあるけれど、単なるからかいのようで、そんなところはおそらく和惟の(さが)であり、止むことはないのだろう。
 ただ、見られているのはわかる。見るというよりは深い、“見つめる”。その瞳は、那桜が拓斗に抱かれ、そのあとをついて来ていたときに曝していたものと同じだ。『愛してる』とくちびるが形つくったあとは、ずっとその瞳がそう語っていた。
 それから、三人だけに通じる秘密を抱えたなか、当初は困惑するだけの那桜だったが、拓斗に同行して和惟が迎えにくるということに始まって、元来、面倒な物事や考えは逃避する傾向にある那桜のこと、だんだんと和惟がいても平気でいられるようになってきた。
 そしていま、逃避したぶんだけ寄り戻って、那桜はまた困惑している。
 困惑という表現では足りなくて、血の気さえ引くくらいに気後れした。いくら和惟が那桜と拓斗の関係を知っているとしても、都合よく考えて認めているとしても、それと見られることとは違う。いや、この場合は“聞かれる”だ。ただ、その違いは問題じゃない。問題は気持ちだ。
 どうしてこんなふうに惨めにならなくちゃならないの?
 拓兄は和惟がいることを知ってた?
 和惟はわたしの声を聞いた?
 平然としているふたりの気持ちはまったくわからない。

「那桜、拓斗にやって」
 あれ以来、拓斗の忠臣に徹した和惟が那桜を呼ぶ。振り向くと、冷蔵庫から取りだしたお茶のペットボトルがカウンターの上に置かれた。那桜がカウンターに行くと、和惟はもう一本手にして掲げた。
「オレンジでいいな?」
「うん」
 右手でお茶を取って、左手で和惟が差しだしたオレンジジュースをつかんだ。が、手を引こうとしても、和惟はオレンジジュースを離さないでいる。
「那桜、気にすることはない」
 顔をしかめて聞かないといけないくらいに、和惟は声を落とした。
 どういうこと?
 表情を和らげるのに口角を薄らと上げていた和惟は、無言の疑問に応えてはっきり微笑に変える。
「おれは気にしないわけにはいかないけど」
 和惟はちらりと那桜の背後に目を向けてから、からかうように云い添えた。気が立った那桜を救ったのはオーブンの電子音だ。
「行って。ピザはおれが持っていくから」
 那桜はペットボトルを持って、拓斗のほうを振り向いた。すると拓斗の目とまともに合い、見られていたことを知ってますます落ち着かなくなる。

 いまは何も悪いことはしていないのに、なぜ後ろめたい気持ちにさせられるんだろう。
 もしここで、那桜と和惟が近づくことを気に入らないというのなら、最初からふたりでくればよかったはず。衛守家の別荘とはいえ、衛守主宰は鍵なんて快く貸してくれるはずだ。和惟を同行させる必要なんてない。
 それとも、那桜とふたりきりではない、という体裁?
 拓斗はまるっきり自分勝手だ。ここに出かけてくるのだって、詩乃たちへの口実は、那桜の“ひまわりが見たい”というわがままにされている。本来は、那桜を好きにしようという拓斗のわがままのせいなのに。
 内心で文句を云っているうちに、それまでの怯んだ気持ちに取ってかわり理不尽さがふくらんで、那桜の中に拗ねた気持ちが芽生えた。

 拓斗にお茶を渡してオレンジジュースをテーブルに置くと、次いでピザが置かれ、それを持ってきた和惟は拓斗の左側に腰を下ろした。伴って香ばしいピザの匂いが立ちこめ、空腹感が一気に甦る。
 那桜はふたりの正面で床に座りこんだとたんに手を伸ばした。ピザを一切れ取ったものの、熱くてまたすぐ戻した。那桜が火傷しそうになった指を舐めるのを見て、和惟は笑いながらピザに手を伸ばした。皮の厚さが違うのか、皮膚の触覚が鈍感なのか、和惟は平気でピザを持ちあげた。身を乗りだして那桜の目の前にピザをかざす。
 和惟がどういうつもりか知らないけれど、那桜はそれに食いつくほど愚かじゃなくて子供でもない――はずが、ちょっとした不機嫌さと空腹が相俟って那桜を無謀な気にさせる。
 それに、ずっと以前にやってしまった、和惟の指を舐めるという失態とは違う。
 拓斗は見ないようにして、尖ったほうのピザの先に咬みついた。やっぱり熱くて、くちびるが焼けた感覚がする。手がそうなのだから口の中でも熱いことには変わりない。できるなら吐きだしたいところでも、それでは行儀が悪すぎる。那桜は上向き、鯉みたいに口をパクパクさせて、ピザの切れ端を口の中で転がしながら熱さを紛らせた。
「那桜」
 どうにかピザを呑みこんで拓斗を見やった。拓斗の手からフタの開いたペットボトルを受け取り、那桜は急いで飲んだ。
「和惟のせいで口の中、火傷した」
「自分で食べないからだ」
 拓斗のすました声が咎め、和惟は那桜の云い掛かりにおどけたように笑った。
 正確にいえば、拓斗の口調は咎めているようには聞こえない。ただ、こんな小さなことで口を出すことが、拓斗が快く思っていないことを示している。
「そうする」
 拓斗の法則を考えたすえ、那桜はそう答えた。

 拓斗はそうしようと思い立ったら容赦なく抱くけれど、那桜のペースを無視しているわけではない。それがたまに、気遣いがまったくないときがある。痛みに近いつらさを訴えても聞く耳持たずで、侵すのじゃなく犯す。それでも、そうしたあとはやっぱり甘やかして扱われるから、那桜としては心地よく終われている。
 拓斗の中にどんな法則があるんだろうと、それまでのことを振り返ってみたらわかった。気に喰わないことを那桜が云ったりやったりすると、そんな目に遭うという単純な法則。
 考えてみれば、始まりがすでにそうだった。翔流が理不尽な停学処分を受けて、それを問い詰めたときも。あのときは犯さなかったけれど、たぶん、那桜がまだ体内への侵入に慣れていなかったから、少しは気を遣ったのかもしれない。拓斗が扇動されること自体はめったにない。ただ、いざそうなったとき、体内に侵入するしないは関係なく、とことん那桜を追い詰める。
 いちばん酷かったのは、今年の二月の半ば、自習時間をエスケープして郁美と服を買いにいったときだ。堅実な果歩と違い、郁美は何かにつけて楽観的であり、那桜の事情をものともしない。
 卒業を間近に控えた三年生はほとんどが青南大への持ちあがりで、二月の授業は緩くなる。そんななか、郁美の能天気さが伝染したのだろう、自習時間だから家に連絡が行くこともないと、那桜も楽観視したすえ、GPSのことをすっかり忘れていた。
 その日の夜、自由じゃないことを那桜の躰に刻みつけるように手足を拘束された。拘束はきつくも苦痛でもないのに、どうやっても逃れられない。拓斗の攻略は執拗に続いた。家の中であり、声が出せないことに加え、動けないことで快楽の加減も調節できないまま、果ては呼吸まで覚束(おぼつか)なくなって拓斗から息継ぎをされた気がする。そんな記憶が定かでないほど、那桜は溶けてしまいそうな恐怖に襲われて後悔させられた。
 反面、それは拓斗が曝す唯一の感情だと思うと、那桜はときめきじみた感情を覚え、その挙句に挑発したくなるという自分にうんざりする。いまに至っては、拘束されなくても怖いくらいで、だからこそ、那桜のその衝動は抑制されていて、ちょうどいいのかもしれない。

「今日は休みって云ってたくせになんだったんだ。どこまで行ってた?」
 那桜がやっと程よい温度のピザにありついたとき、拓斗が和惟に問いかけた。顔を上げると、和惟の目がちらりと那桜を向いて、また拓斗に戻った。
「急にご指名受けて都内まで戻った。わがままなお嬢さまのために動いてるってとこだ」
 和惟はまるで如何(いかが)わしい仕事をやっているかのような云い方をした。拓斗は呆れたように、かすかに首を横に振った。それもそのはずで、八時まえに家を出てここまで来るのに二時間近くかかった。都内というのもいろいろ場所はあるけれど、それを戻っていまここにいて、と考えたらとんぼ返りといっていい。
「そのわりに帰ってくるのが早くないか」
「ダラダラと付き合うような義理はない」
「仕事と義理は関係ないだろ」
 拓斗の問うような云い方に、和惟は定番の興じた笑みを漏らした。
「ゆっくりしてきたほうがよかったって?」
 那桜はピザを頬張ったまま動きを止めた。和惟は、那桜がいちばん懸念していたことを云い含んでいるとしか思えない。
「関係ない」
「らしいな。おまえが気づかないはずない」
 その会話から、二階からおりてくるまえ、拓斗はすでに和惟がいると知っていたことが明らかになった。

 いつから?
 那桜はショックを受けつつ拓斗に目をやると、拓斗は那桜に目を向けたが、素知らぬふりで手にしたペットボトルに目を落とし、お茶を飲み始める。それを見ながら、那桜の中に怪訝な気持ちが募っていく。
 わたしは何?
 このところ、その疑問はだんだんと大きくなっていく。けれど、その疑問を持つこと自体に意味がない。
 だって、そこにある答えは“妹”でしかないのだから。

「那桜、早く食べないとひまわりが見れなくなる」
 食べるのが進まなくなった那桜に、和惟が声をかけた。和惟が那桜の憂うつに気づいているのかいないのかはわからない。ただ、憂うつとはいわないまでも、気にしていることはわかるはずだ。無神経なふたりに納得がいかず、那桜は目の前からピザを押しやった。
「いらない」
「那桜のために買ってきたんだけどな」
 和惟は遠回しにわがまま扱いをした。つと、笑みを浮かべたその視線が横に流れて窓の外に向く。
「暗くなってきた。夕立が来るかもしれない。いまの時季、山の天気は変わりやすいからな」
 釣られて那桜も外に目を向けると、和惟の云うとおり、いつのまにか向こうのほうに黒い雲が蔓延(はびこ)っている。
「ひまわり」
「様子見てからだ」
 那桜がつぶやくと、拓斗は忠告するように応えた。

 それから十分もすると、黒い雲が唸るような雷を付き添えてきて、別荘の周辺も暗くなっていく。窓の前に立って外を眺めていた那桜は、ふと既視感を覚え、やだな、と無意識につぶやいた。
 いつかもこんなふうにこの場所で空を見上げていた。漠然とした記憶の下、そう思った。
 この別荘には小さい頃よく来ていたらしいけれど、那桜にはその記憶がない。ただ、今日ここに来ると懐かしい空気を感じた。ということは、聞かされているとおり、来たことがあるんだろう。そもそも、那桜の記憶力は普通よりも衰えているのか、小学校に進級する以前のことについては、はっきりした記憶がまったくないのだ。
 そしてまた十分後、雷鳴と稲魂(いなたま)と一緒に雨が落ちてきた。
「下の車庫を閉めてくる」
 粒の大きい雨が一つ一つ落ち始めると、和惟が立ちあがった。ほぼ同時に拓斗の携帯電話が鳴りだして、どこからなのか、開いた画面を見たとたん、那桜とは反対側の窓辺に寄っていく。
 いまだ。
 なんとなくそんな言葉が浮かび、拓斗が向こう端で背中を向けているのを確認すると、那桜は煽られるように玄関へ行った。
 こっそりと玄関の戸を開け、そして閉めた直後、タイミングを見計らったように雨が一斉に地を叩き始める。階段をおりた和惟が足早に右へと折れた。
 那桜は濡れるのもかまわず急いで階段をおりた。幸いにして、酷い雨音が足音を消してくれる。和惟とは反対に折れると駆けだし、林の中へと入った。雨は葉の間を縫うように落ちてきて、地面があっという間にびしょ濡れになっていく。
 那桜もすでに足もとまでずぶ濡れだ。濡れるのは嫌じゃない。さっきみたいに、雨のまえのどんよりとした空気感は気持ちがふさぐほど嫌いなのに、いざ雨が降りだすと、どこかわくわくした気分になって好きなのだ。
 林道を進む間、稲魂が幻想的に林の中を照らし、木々の隙間を狙って降ってくる雨がシャワーより強く躰を叩く。目も開けていられないくらいだ。その白く視界が濁るなかを、那桜は勘を頼りにひたすら走った。
 やっぱり同じことを繰り返している気がする。記憶よりも躰が覚えているみたいで、足に迷いがない。
 拓斗たちはもう気づいただろうか。
 怒りを買うかもしれないという不安より、那桜はくすっと笑ってしまう。さきに不快にさせたのは拓斗たちのほうだ。

 かき立てられるように走り続けていると、ふいに林が途切れ、ここが夕立の境目だったかのように雨が小降りになった。雨を避けるのに伏せていた視線を上げた直後、那桜は思わず立ち止まる。少し高台になった場所から、視界を占めた景色に目を(みは)った。
 普段、運動不足のうえ、こんなに走ることはなく、息切れして酸素吸入もままならない。そのせいで幻覚なんだろうかと疑うほど、辺り一面、緑の上に黄色が乗っかっているという、曇り空が気にならないほどの鮮やかな色彩が広がった。遠く向こうには色の違った場所がある。
 緩やかな斜面をおりていきながら、雨の匂いに混じって、蜜のような甘みを風の中に感じた。近づいていくと、いちばん手前には五〇センチくらいの小さいひまわりがあって、ぐるりとひまわり畑を取り囲んでいるようだ。それが所々途切れた場所があって、そこから人幅くらいの道が中へと続いている。那桜はひまわり畑に踏みこんだ。中は碁盤目のように道があって、適当に方向を選びながら進んだ。奥へ行くにつれてひまわりの背は高くなっていき、那桜の躰はすっぽりと隠れてしまった。
 花びらのふさふさしたひまわりや、クリーム色のひまわりと、いろんなひまわりがあって、那桜は状況を忘れるくらい夢中になった。そのうち蜜の風味が濃厚になると、ちょっと先に黒っぽいひまわりが見えた。
「こんな色のひまわりあるんだ」
 独り言が出るくらい強烈な色だ。近くに行って見上げると、曇り空ながらもその明るさを受けてか、黒は真紅に変わる。もうちょっと先にはピンクっぽい色と、そして、クリーム色に赤の混じった可愛い色のひまわりが咲いている。

 記念に持って帰りたいけど……。
 那桜はそう思ってふと我に返る。後ろを向いても横を向いてもひまわりだらけで、迷路みたいになっている。ひまわりに惹かれて気ままに歩いてきて、いざ帰るといっても、自分がどの方向から来たのか、およそも見当がつかない。
 この年で迷子になるなんて。
 那桜はため息を吐いて、頬にくっついた髪を後ろに払う。べっとりと躰に貼りついた服も不快になってきた。自分の格好を見下ろすと、サンダルが泥まみれになっていて、そこでも子供っぽさに気づいてうんざりした。
「とにかく帰らなくちゃ」
 再びため息を吐いて顔を上げたとたん、ぽつんと頭の天辺に水滴が落ちてきた。もしかして、と空を仰ぐと、今度は目に水滴が入った。また雨が降りだす。高原ということもあり、さっきの雨で少し温度が下がっている。夏とはいえ、風邪をひくかもしれないと良識が戻った。

 どっちにいこうかと迷い、一歩を踏みだすことさえためらった刹那。
「那桜」
 拓斗の声だ。その声を合図にしたかのように雨が本降りになった。
「拓兄っ」
 声のかぎりで返した。
「そこを動くな」
 果たして那桜の声は受け取られたのか、再び叫んだ拓斗の声は雨の中というのに、すべての雑音をかき分けるように届いてくる。そこには、純粋に命令とはいえない何かが潜んで聞こえた。
 呼吸している感覚さえ薄れるほど那桜は微動だにせず、拓斗に従って立ち尽くしていると、その待っている時間がなぜだかすごく貴重な気がしてきた。
 なんだろう、この気持ち。
 やがて、左側から水を跳ねる音が近づいてきた。そっちに目を向けると、ひまわりを押し分けながら走ってくる拓斗が目に入った。その目が那桜を捉えたとたん、拓斗は立ち止まる。それは一瞬で、拓斗はすぐさま足早に近づいてきた。
 目の前に立った拓斗は那桜と同じく濡れそぼっていて、見上げると、雨のせいか目を細め、そして瞳は暗くかげって見えた。
「どういうつもりだ」
 叫んだときとは違う、いつもの素っ気なさ。けれど、抑制の見える声だ。
「たぶん、ここに来たかったんだと思う」
「たぶん?」
「ひまわり畑、見ないまま帰るって云いそうだったし」
「……覚えてるのか」
 めずらしく拓斗はためらいがちだ。それが不思議すぎて那桜は首をかしげる。
「覚えてるって何を?」
 訊ね返したら、つと、拓斗の目が逸れた。那桜のすぐ頭上辺りを向き、釣られて振り仰ぐと、そこにはクリーム色に赤の混じったひまわりしかない。それを見て、那桜の中に気持ちが甦る。
「いま拓兄を待ってたときね、なんとなく、うれしかったんだよ」
 笑ったとたん、拓斗の手が伸びてきて、髪を後ろに掻くようにしながら頬を撫で落ち、那桜の首もとに添う。親指が顎の下におりた瞬間に、拓斗の手に力が込められ、那桜の首を絞めつけた。
 何?
 思いがけないことに、那桜は目を見開いた。
「拓に……」
 呼びかけようとしたけれど、苦しくて声が続かない。かといって、拓斗はそれ以上に絞めあげるわけでもない。
 何を考えてるんだろう。
 行き着くのはいつもそこ。苦しいせいで那桜の目がおかしいのか、いま見上げている拓斗の目には見たことのない、けれど確かな情がある。『動くな』と云ったときに聴き取れた、命令とは違う何か――拓斗はどんな顔をして那桜の名を叫んだのだろう。

 拓斗があと少しでも手を絞れば那桜の息の根は尽きる。その寸前で止まったような時間のなか――。
「拓斗」
 咎めるでも諭すでもなく、ただ引き止める声が侵入した。首が固定されて確認できないまでも、ここにいるのはふたりのほかに和惟しかいない。そして、拓斗の手は緩んだ。そのかわり拓斗の口が、喘ぐあまり開いた那桜の口をふさぎ、呼吸を止める。
 ぅんっ。
 これでもかというくらい拓斗のくちびるは那桜に押しつけられた。息さえ継げないほど、那桜の口の中を拓斗の舌が這いずる。ひんやりした雨の中、触れたくちびるの間だけ熱がこもり、閉じられない口から、どっちのものかわからない蜜が零れて雨と混じっていく。
 荒くて、きつくて、甘さは欠片もないキス。それでも、呼吸を合わせるためのものではなくて、いまの激しさは、キスと呼べるはじめての拓斗からのキスかもしれない。
 拓斗がようやく解放したときには、酸欠のせいか眩暈がした。揺れた那桜の躰を拓斗が抱く。支えるというだけにしては不必要なほど絞めつけられた。

 まるで抱きしめられているみたいで。
 和惟がいることも見えなくて、頭になくて、ただ、いまは、ここで。
 わたしの時間は止められてもいい。
 と、那桜は思った。

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