禁断CLOSER#27 第2部 破砕の扉-open-

1.メビウスの帯 -1-


――たくにぃ。
 おれの名を呼ぶ間延びした声と、朦朧(もうろう)と甘く(かお)る息が、温かくくちびるに触れる。
 夏の終わりのむせるようなあの一刻が、脳内から躰の隅々まで広がって甦った。


 丸くなって横たわる小さな躰。
 違うっ。
 口走った。(のぞ)みが自分を叱り飛ばす。
 抱き起こした躰は反応なく、下側になっていた左半身は泥に(まみ)れている。
 自分の心臓の音があまりに大きすぎて、抱いた躰の息も鼓動も感じ取れない。
 長たる者こそ、神色自若(しんしょくじじゃく)であれ。
 沁みついた言葉が、かろうじて理性を繋ぎとめる。
 額に置いた手は焼けるように熱く感じる。
 間近で確かめなければならないほど息はかぼそく、その手がひたすらに握りしめている、雨に濡れた日輪草(ひまわり)の匂いなのか、触れそうなくちびるから薫りが漏れる。熱を帯びて囁く息がおれのくちびるを淡く濡らす。
 途切れることを怖れ、甘ったるい薫りを含み、呼吸を重ねた――。



「拓にー、那桜は行っちゃダメなの?」
 夏休みもあと十日となった三日まえ、山奥にある衛守家の別荘に来て以来、何度目の質問になるのか。那桜が眠っている早朝のうちに出発しようという目論見(もくろみ)は、那桜の直感によって見事におじゃんにされた。こういう勘が働くところは有吏の血ならではなのかもしれない。
 那桜は近寄ってきて拓斗を覗きこんだ。
 先月、誕生日を迎えて六才になったばかりの那桜は、標準よりちょっと躰が小さい。五年生になってグンと背が伸びた拓斗からすれば、那桜はだんだんと小さくなっているんじゃないかとさえ思う。
「那桜には無理だ」
 その一言に那桜が睨み返す。
「おにーちゃんたちだけ、いろんなとこ行って、いつもずるい」
 口を尖らせた那桜は、これから拓斗たちがどういう状況に置かれるかを全然わかっていない。
 今日から一週間、弟の戒斗、そして衛守家をはじめとする表分家の従兄弟たち八人で、ここよりもっと高い山の上に登り、キャンプをしなければならない。それはけっして自主的にやっているわけではないものの、サバイバル精神を鍛える研修の一端であり、毎夏、恒例のことでもう苦にはなっていない。むしろ、どんなイレギュラーなことがあるのか、それが楽しみになっているかもしれない。
 天気に左右されるのは必至で、原始的とまではいかないが、現代の便利さからすれば不自由で不快な生活だ。それを知らない那桜は能天気に拗ねてしまう。はっきりと自我が目覚めた那桜は、去年も行きたいと云って駄々をこねたのだ。
「那桜にとっては、深智(みち)たちと遊んでるほうが楽しいんだ。虫はいるし、もしかしたら熊だって出てくる」
「那桜はおにーちゃんたちとのほうがうれしーと思うの!」
 拓斗が云い聞かせても、那桜は絶対の自己主張をする。
「拓にーと戒にーいれば、虫も熊も心配ないない!」
 おまけに、拓斗と戒斗がいれば大丈夫よ、という那桜に対する母親の口癖と、別荘の管理人、東堂(とうどう)の云い方を真似て、そして頑固な眼差しが見上げてくる。去年より手強い、と拓斗は密かにため息をつきながら、どう説得しようかと素早く考え巡った。那桜が泣きだすとうるさくてかなわないのだ。
 拓斗はキーワード連想をしたすえ、その問題を解決させた。那桜の笑顔、それから東堂とくれば説得理由は一つに限られる。
「那桜、帰ってきたら、那桜がまた行きたいって云ったひまわり畑に連れていってやる」
「深智ちゃんたちも?」
 その質問は不満そうに聞こえた。
 深智とその妹、美咲はよく拓斗や戒斗について回る。すると那桜は横取りされたと感じる。つまり、一人前に嫉妬しているらしい。
「おれと那桜、ふたりの約束だ」
 那桜の瞳が不機嫌な様から一気に嬉々として輝いた。
「ホント?!」
「ああ。だから、ちゃんとここで待ってろ」
「うん!」
 母親たちの横で笑って手を振る那桜に見送られながら、ダンベルのように重い荷物を背負って父親たちと山の奥へと向かった。

 道中、父親たちから再度、知識と経験を聞かされ、非常時に対する心構え――つまりは慢心を捨て、柔軟な思考回路がいかに重要かということを説かれつつ、キャンプ地まで登っていった。
「ここで一週間だ。やれるな」
 不可能という答えは聞きたくないとばかりに云い渡された。その対象者である八人ともがためらうこともなく、はい、と即座にうなずいた。父であり、一族の次期首領という立場にある隼斗は、その返事に満足げでもなく、ただあたりまえだといわんばかりにうなずき返した。
「何が起きるとしても、最終決断は拓斗にある」
 隼斗の言葉は一見、拓斗を除く七人に向けられたものだが、その実、拓斗へのプレッシャーに違いない。それだけ下を従わせられるほどのリーダーシップがあるかという、試しの場でもある。
「拓斗、一週間後、下で待っている」
 目の前に立つ隼斗とは、急速に目の高さが近づいている。拓斗は怯むことなく見返して、大丈夫です、と隼斗たちを見送った。
 山の奥はうっそうと木が茂り、すぐに隼斗たちの姿を隠し、傍にある沢の音が足音をもかき消した。
 それを確認したあと、拓斗は行動を開始した。
「まずはテントを張る。沢から一定の距離を置くぞ」
「昨日も雨が降ってる。テントの周りは溝を掘っておくべきだ」
 拓斗に答えて和惟が湿った地面を見渡した。戒斗は逆に空を見上げた。といっても、木にさえぎられ、すっきりとは見通せない。
「背の高い木の下は避けたほうがいいんだよな」
「枯れ木の下もダメだ」
 毎年、場所が違うため、一つ一つ指差し確認をやるようにチェックしながらテントの位置を決めた。それから初日は、雨避けや火床、トイレといった最低限のことを整えた。

 比較的安全な場所にいるとはいえ、何が起きるか、何が出てくるのかはわからない。夜の間もたき火の番を兼ねて警備しなければならない。気が抜けるのは昼間の一時(ひととき)のみというなか、大したことは何も起こらず、一週間が過ぎた。
 なるべく跡形のないように片づけを終えた正午まえ、朝のうちに作っておいた飯ごう炊きのおにぎりを食べ、少し休憩時間を取ってから下山した。登るときと違い、下りるほうが時間はかからない。一時間も費やすことなく別荘まで戻れるだろう。
 だが、その目算は流れた。途中で和惟が入道雲を捉え、それから天候は急激に変わっていく。
「ちょっと先に岩場があったはずだ。あそこだったら雨も雷も避けられる」
「急げ」
 拓斗に続いて、戒斗が慌てた素振りも見せずに落ち着いた声で命令する。
 岩場の下に入りこんだと同時に雷雨に見舞われた。雷が遠ざかるまで三〇分、それから雨があらかた止むまで十分。濡れて滑りやすくなっている地面に注意を払いながら山を下りていった。
 別荘に戻るまで、避難した時間のぶんだけ遅くなった。

 山道を出たところに、管理人の東堂が待ち焦がれたように立っていた。
「坊ちゃんたち、おかえりなさい」
 東堂はまとめて拓斗たちに呼びかけてから、一通り顔を見回す。そこにあからさまな疲労がないと見て取ると満足げにうなずいた。その喜びもつかの間、ふと東堂の顔が曇る。六十五才という年に沿う、目尻に寄ったしわから笑みが消えた。
 同時に異様に静かな別荘に気づく。通常なら、東堂は帰りを知らせに別荘へと向かうはずが、そうもしなければ隼斗たちが自ら出てくる気配もない。そもそも母親たちの出迎えがないということが普通じゃない。いつもは予定どおりの時間に帰っても、帰りを喜ぶ反面、遅いと(なじ)るくせに、だ。
「東堂さん、何かあったんですか」
 何かあったことは間違いなく、あったのかなかったのか、ではなく、その“何か”を暗に追求した。
「嬢ちゃんがいらっしゃらないんです」
「嬢ちゃんてだれだ」
 東堂の曖昧な報告を聞いた瞬間に拓斗は直感し、怖れを隠しきれずに乱暴な口調になった。
「那桜嬢ちゃんです」
 その答えを聞いたときにはすでに別荘へと足早に向かっていた。走らなかったのは“長”としての教育の賜物(たまもの)にほかならない。
「ご主人さまたちがすでにお探しです。心配ないない」
 その云い方は、拓斗の脳裡に一週間まえを鮮明に還らせた。
「母さん!」
 別荘の玄関口から母、詩乃を呼ぶと、出てきたのは和惟の母親、咲子だった。心配と相俟って気遣うような眼差しが向く。
「拓斗くん、おかえりなさい」
「どういうことですか?」
「那桜ちゃん、昨日からちょっと熱を出してるの。寝冷えだとは思うけど。今日もお昼まではちゃんと寝てたのよね。詩乃さんによれば、那桜ちゃんが何かぐずってたらしくて、どうにか納まってたのに、私たちがお昼を用意している間にいなくなってたの」
「それで母さんは?」
「私は留守番でいるけど、あとはみんな一緒に探してるわ。いま、深智ちゃんたちと一緒に那桜ちゃんの大好きなゼリーを作ってるの。大丈夫、きっと見つかるわよ」
 咲子は確信というよりは自分に云い聞かせているようだ。
 どこだ?
 (はや)る気持ちのなか、拓斗は自分で自分に問いかけた。
「おれも探してくる」
 拓斗はくるりと躰を回すと、後ろに控えていた戒斗たちにぶつかりながら、その間を逸早(いちはや)く抜けだした。
「おれも」
「おれも行く」
 背後からだれもが賛同した声を重ねる。
「当てはあるの?!」

 咲子の声が届くも、答える時間は不要だと判断した。そのかわり、その疑問の答えを自分に求める――那桜はどこだ。
 別荘の階段を下りたとたん、足早に近づいてくる詩乃が目に入った。レインコートを着ていて、長靴は泥まみれだ。
「母さん、那桜は?」
 その質問は虚しい。那桜を連れていないことがすでに答えだ。拓斗が事情を知っていると見た詩乃は首を横に振った。恐怖のためか詩乃は震えるくちびるを咬み、それから口を開いた。
「まだ見つからないの。雨が降ったから、どこかの別荘とか雨宿りできる場所を探したんだけどいなくって。那桜は水遊びが好きだったから、お父さんたちは沢辺りを探してるけど駄目。増水してるし――」
 詩乃はいったん言葉を切り、最悪なその先は想像もしたくないとばかりにプルッと身を震わせた。平常心は失っていないが、拓斗に向かった詩乃の口調は()くように口早で、心配のあまり、雨に濡れた顔は暗くかげった表情が目につく。詩乃は拓斗たちを見回した。
「あなたたちが帰ってるだろうと思って戻ってきたんだけど、那桜の居場所、どこか見当つかない?」
「那桜がぐずってたって聞いた」
「ええ。明日の朝、帰るって話をしてたのね。那桜が今日お昼から出かけてもいいかって訊くから、熱があるから駄目って云ったの。それから機嫌が悪くなってしまって。どこに行きたいのって訊いても教えてくれなかったの」
 拓斗は一瞬にして、場所を見当つけた。
「母さん、ひまわり畑だ。父さんたちに伝えて。おれは先に行ってる」

 拓斗を先頭にして、帰ってきたばかりの従兄弟たちは疲れも見せず、詩乃が来た方向とは逆へと一斉に駆けだした。
 精一杯速く走って十五分くらいすると、林の向こうにいきなりひまわり畑が広がった。東堂が長年、手掛けてきたひまわり畑だ。大輪から小振り、黄色だけではなく赤っぽいものや形の違うものまで、とにかくいろんな種類のひまわりが、見渡すかぎりに咲き誇っている。隼斗の背の高さをもってしても見通せないだろう。

「那桜!」
 声の出るかぎりで叫んだあと、応答を待つ。耳に聞こえるのは林にいる(せみ)の声とひまわりが風に揺れる音のみ。感覚として聞こえるのはじりじりと音を立てていそうな暑さ、そして雨のあとの蒸発する水の音。
 希む声は拓斗の耳に届かない。
 それでもこの場所であることを確信した。行きたい場所を秘密にした那桜。深智たちに邪魔されたくなかったからだ。それくらい、ふたりでここに来ることを楽しみにしていた。駄目と云われた那桜は、おそらくはここで拓斗を待っている。

「拓斗」
「手分けして探せ。おれは向こうの端から入る」
 戒斗の呼びかけをさえぎり、命令を下した。従兄たちがうなずくのも確認せずに、ひまわり畑の中に入った。背高のっぽのひまわりは、むっとした空気を地上1.5メートル内に閉じこめている。
 だれかが、那桜、と叫ぶたびにしんとして耳を澄ました。聞こえるのはひまわりを掻きわけるさわさわとした音のみでほかの反応はない。

 拓斗は一時も立ち止まらずにぬかるんだ土を踏みしめながら、奥へ奥へと進んでココアヒマワリを目指す。ココアの香りがすると云って、那桜が気に入っていた、赤っぽいひまわり。
 その甘い香りが風に乗って拓斗を導き、やがて赤混じりのクリーム色をしたひまわりが見えだした。とたん。

「違うっ」
 返事がないということ。それがどういうことか。半ば予想していた姿が目に飛びこんできて、拓斗は力が入るあまり、かすれた声で叫んだ。
 滑りこむように膝をつき、無我夢中でびしょ濡れの躰を抱き起こす。
 熱い。途切れそうな息。感じ取れない鼓動。
 止めてはだめだ!
「那桜っ」
 叫びながら仰いだ天。ひまわりの隙間から、夕立のあとの、眩しいほどの青が拓斗の目を刺し、理性を突き破った。
 泥に汚れた左の頬を手で拭い、ふさいだくちびるに気吹(いぶき)を託す。

 近づいてくる足音にも気づかない。
「拓斗、那桜は見つかったのか……!」
 拓斗の声を聞きつけ、やって来た和惟の言葉は近づいてくるにつれ、語尾がすぼんでいった。顔を上げると、ほんの傍に立った和惟が拓斗を見下ろしている。
「父さんに知らせてくれ」
「わかった」
 和惟の奇妙な表情は怖れだったのか驚きだったのか、その返事とともに普段の表情に戻り、和惟はひまわりを掻きわけて走っていった。

「那桜、大丈夫だ」
 再び祈るように天を仰いだあと、拓斗は那桜を抱えて立ちあがった。

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* メビウスの帯 … 長方形の帯を180度ひねって両端を貼り合わせた図形
  たとえば、プリンタのエンドレスインクリボンに利用されています。