禁断CLOSER#21 第1部 解錠code-Dial Key-

5.施錠 -5-


 額にある手は温かい。
 けれど、これもやっぱり手段でしかない。
 全部が見せかけ。
 人の中でどんな感情がいちばん処理しづらいだろう。この四カ月余り、那桜は拓斗を観るたびにそう考えてきた。
 喜怒哀楽という言葉を考えれば、まず拓斗に喜ぶとか楽しむとか似合わない。テレビをお笑いの番組にしても見向きもしないし、とりあえずは聞こえていると思うのに、ほんのわずかも笑うことはないのだ。
 哀しむも論外。
 残りは、怒る。
 拓斗の場合、怒るより以前にあの冷ややかな眼差しを向けられて怯んでしまうかもしれない。ただ、笑わせるよりも泣かせるよりも簡単そう、と思った。
 那桜はその方法を何も思いつかないまま、拓斗のことをわかってきたつもりでいた。
 まるっきり馬鹿だ。それでも。
 たったいまのことは何?
 いや、たったいまというには時間が止まっているように感じるだけで、実際はずいぶんと経っているのかもしれない。それほど那桜の思考は衝撃に押し潰された。
 那桜のとった行動が、程度はわからなくても、拓斗を不快にさせたことまではわかる。それが怒りに変換されたにしろ、怒りに変わるまえに冷たさの深度が増したすえの手段にしろ、罵声(ばせい)を浴びせるのでもなく、殴るという(たぐい)の暴力でもなく。
 よりによって繋がった血の下で躰まで繋ぐなんて。
 何が起きたんだろう。那桜に――拓斗に。
 これもまた無情の果て?
 価値はない。拓斗の言葉がその無情を裏付ける。
 包まれている布団の中は温かいはずなのに、躰はひんやりとしていて、ただ奥深い一点だけがまるで断罪の印のように熱く(うず)く。
 それを意識すると温かい手が怖くなる。
 那桜は手の下から逃れようと躰ごと壁を向いて丸くなった。動くと鈍痛が鮮明になり、くちびるをかんで出そうになった呻き声を堪えた。

 那桜の身動(みじろ)ぎが合図だったかのようにベッドが揺れ、次はドアの閉まる音がする。拓斗は出ていった。
 那桜はゆっくりと起きあがってベッドから下りた。自分で脱いだ部屋着を見てボロ切れのようだと思いながら、かがんで拾う。動くたびに躰の芯は違和を訴える。それを無視して部屋を出ると、一気に冷たい空気に触れて身震いした。
 部屋着をぎゅっと抱きしめ、ドアを閉めて自分の部屋へと行きかけたところで、階段を上ってくる拓斗の姿が目に入った。
 無意識のうちに那桜は後ずさりした。
 拓斗から目が離せず、その視線に気づいたかのように“クローザー”の目が向く。那桜のかじかんだ足が後ろに下がるよりも、拓斗が近づいてくる速度のほうが速い。突き当たりの壁に行く手が(はば)まれたのと、拓斗が目の前に来たのは同時だった。
 その目が那桜の手もとに下りる。思わずその視線を追って自分の手もとを見ると、那桜は指の関節が白くなるほどしっかりと部屋着を握りしめていた。小刻みに震えているのは寒さのせいなのか、それとも。
 考えているうちに拓斗の手が視界に入り、顔まで伸びてきて那桜は身をすくめた。息苦しさを感じるなか、那桜のすぼめた肩に両方の手がそれぞれに入りこんで首もとに触れた。
「息してない」
 拓斗に云われて、息苦しさは息を止めていたせいだと気づいた。吐けばいいのか吸えばいいのか、一瞬迷ってから息を吐いてみた。顫動(せんどう)した息が落ち着いていくにつれ、肩の力も抜けていく。
「風呂に行け。お湯を溜めてる。いいな」
 那桜を(うかが)うというよりは最後通達のような云い方だ。那桜は伝わるだろうかというくらいかすかにうなずいた。
 拓斗が道を開け、那桜は階段へと向かった。背中からお尻が剥きだしという体裁の悪さと、下腹部の鈍痛が相俟(あいま)って、自分でも歩き方がたどたどしくなっているとわかる。
 階段を下りる寸前に振り向くと、拓斗の顔に何かがよぎったように見えた。なんだろう、と思って目を()らしたときにはいつものクローザーの顔に戻っていた。
 違う、よぎったんじゃない。そこにあった何らかの情を消している過程だったのだ。
 違う。
 那桜は再びすぐに否定する。楽観的に見通しをつけようとする那桜の悪い癖だ。
 拓斗にあるのは、いや、拓斗には何もない。

 階段を降りてすぐ右横にある脱衣所に入ると、室内は暖められていて、寒さからくる肩の強張りがとれた。ドアの真向かいに洗濯機があって、その横に据えられた棚のところまで行った。手にしていた服を棚の下のバスケットに落とし、洗い場の戸を開けた。那桜が余裕で寝転がれるくらい広い浴室も湯気が立ちこめて暖かい。
 バスタブには半分くらいお湯が溜まっている。那桜はシャワーコックをひねり、頭からお湯の下に入った。
 うつむいて足もとを見ていると、クリーム色の床にかすかに色が散る。絵の具に染まった筆を洗っているときのように、ごく薄く赤が広がって消えた。
 (けが)れが残るのは那桜の心だけで、躰はいずれ傷みを忘れてしまうんだろう。(ひざまず)いてぬるぬるした感触をきれいに流す間もひりつくことはない。
 一通り躰を洗ってからバスタブの中に浸かり、那桜は縁にこめかみを寄せて目を閉じた。

 セックスってなんて呆気ないんだろう。
 那桜を嫌というほど快楽にさらって、それでも侵すことのなかった和惟と、那桜をただ確かめるように触れただけで、嫌と云うのに犯してしまった拓斗。まるで対照的で、まるで“二人で一人”のような代償行為だ。
 共通しているのは“嫌”ということ。
「嫌い」
 当てもなく那桜はつぶやいた。

 やがてお湯が満ちてくると、バスタブが大きすぎるせいで不安定に躰が浮いた。
 躰の中も温まったし、あと百だけ数えて上がろう。
 那桜は躰を起こして蛇口を閉め、また顎まで沈むと子供みたいに声を出して、一からゆっくり数えていった。羊を数えているわけではないのに、昨日は今日の計画を立てていたせいで眠れなかったぶん、六十くらいからぼんやりとしてきた。
 結局は計画なんてなんにもならなくて……。
「六十、四……六、十……五……六……十……ろ……く」
「那桜」
 不意に戸が開いて、声にびっくりしたあまり、那桜は溺れそうになって手足をバタつかせた。鼻まで沈んだとき、拓斗の手が那桜の手をつかんで引きあげる。
「眠たいんなら上がれ。湯が冷めて風邪をひく」
 那桜が咳きこんでいるうちに拓斗は浴室を出た。ようやく咳が治まると、すっかり目も覚めて那桜はバスタブを出た。
 せっかく落ち着きかけた気分がまたぶり返してくる。様子を見にきたんだろうか。いっそのこと、那桜が溺れていたら拓斗も自分の汚点が消えてほっとしたのかもしれない。那桜は意地悪く思った。が、それもすぐに考え直す。クローザーのことだ。汚点とすら思うことなく、ただ清々(せいせい)したかもしれない。

「嫌い」
 またつぶやきながら戸を開けたとたん、目の前の洗面台に腰を引っかけた拓斗の目と向き合うことになった。洗い場から出るのをためらった。出ていけばいいのに、那桜を見る目は少しもずれることがない。
 もしかしてずっとここにいたんだろうか。ふと疑問がよぎった。
 居心地が悪いなか那桜は洗い場を出て、洗面台横の棚からバスタオルを取って躰に巻いた。頭も濡れた髪を包むようにしてタオルを巻く。
「着替えはそこに持ってきてる」
 すぐ傍に立った拓斗は、洗濯機のほうの棚を指差した。バスケットの上の段に那桜の服が置いてある。下着を手に取って振り向くと、拓斗はまだ後ろにいる。ここでも出ていくつもりはないらしく、出ていけというのも億劫(おっくう)で、那桜は内心で嘆息しながら下着と新しい部屋着を身につけた。
「髪乾かしたらリビングに来い」
 那桜が当然云うとおりにするものと思っている拓斗は、一方的に命令して脱衣所を出ていった。
 最近は命令も素直にきいていたけれど、いまは逆らいたい気持ちのほうが大きい。ただ、まだ生々しい出来事が怖さを消しきれなくて、那桜の反抗心を押しとどめた。
 髪を乾かそうと鏡に向かうと、那桜は自分の顔と向かい合う。ショックから立ち直っているつもりが、いつにない、意思の欠けたような虚ろな目と、締まりのないくちびる。風呂上がりでいま血色はいいけれど、そのまえはどう見えたんだろうか。
 笑ってみようと思って口角を上げたはずも、意思はくちびるに伝わらない。
「面倒くさい」
 拓斗と同じ言葉をつぶやいた。それはドライヤーの音がかき消して、那桜自身の耳にも届かない。かったるくてどうにでもなれといった気になる。
 拓斗がいつもこんなふうに感じながら那桜に接していたとしたら、自分は定めて愚かに見えただろう。
 那桜はうんざりして、ドライヤーを使うのもそこそこに浴室を出た。廊下と階段、どっちに行くか迷ったのはつかの間で、那桜はリビングへと行く廊下を選んだ。

「こっちだ」
 リビングに入ると、拓斗がキッチンを回ってきてダイニングテーブルの上にシチュー皿を置いた。そういえば、那桜がオムライスを食べている間、鳥井は夜用にビーフシチューを作っていた。
 鳥井さんはどこ?
 すっかり鳥井のことは頭になく、那桜は部屋を見回した。
「おれが帰ってからすぐ、鳥井さんには帰ってもらった」
 疑問は声に出したはずないのに、拓斗は那桜に回答した。
「座って食べろ。ごはんは?」
 那桜は首を横に振って、いらないことを示す。もう夕ご飯を食べるような時間なんだろうかと思いつつ部屋を廻ると、外は暗く、時計を見ると五時半を過ぎている。時間の観念がなくなるほど混乱しているのだ。
 おなかは減っていなくて食欲もないけれど、拓斗が自分のぶんを用意して食べ始めると、那桜はその行為を催促に感じる。しかたなく隣の定位置に座ってスプーンを手に取った。ビーフシチューも那桜の好物で、鳥井はわざわざそう思って作ってくれたに違いない。それがいまは、美味しくもまずくもなく、口の中にただ味が広がった。
 しんとした部屋に食器とスプーンのぶつかる音だけが響く。
 クリスマスまえの疑似デートでカフェに入ったことを除けば、ふたりきりで食事をするのははじめてだと気づいた。家の中でふたりきりだということ自体がはじめてのことだ。
 だから何? どうでもいいこと。
 内心で自問自答すると、那桜は半分食べたところでスプーンを置いて立ちあがった。

「那桜」
 リビングを出る一歩手前、拓斗が呼び止める。振り向くと、拓斗はそれ以上に口にすることはなく、やっぱり視線はまっすぐに那桜へと注がれる。
 何か云いたいんだろうけれど、昼前の出かける間際と違っていまは何を云いたいのか皆目見当がつかず、また、わかろうとも思わない。
 那桜はぷいと身を(ひるがえ)してリビングを出た。浴室の横にある洗面所に行って歯を磨き、口の中の甘酸っぱさを(ぬぐ)ってから二階に上がった。

 部屋の中は暗く、ベッドの上で青い光が小さく点滅している。入り口の照明スイッチを押し、ベッドに近寄って携帯電話を取った。開くと、着信が一回、メールが二通来ている。
 着信は拓斗だった。時間は十四時。那桜が出ないから戻ってきたんだろうか。メールを開くと、どちらも和惟からだ。
『那桜?』
 一通目は疑問符付きのたった一言。
 和惟もまたこのあとに何を云いたいのかはっきりしない。ましてや文字だけではまったく読み取れない。
『明日から出張で一週間出る。帰ったら連絡する』
 二通目は一通目の一時間後だ。拓斗が那桜と和惟を遮断している状況下にも拘らず、『帰ったら連絡する』という、つまりそれは会おうということに違いない。
 拓斗が異変に気づいたように、和惟もそうであるかのようなメッセージ。
 携帯電話を投げつけて壊したくなる。そのかわりに電源を切った。

 那桜はベッドに上がると、布団の中に潜った。まだ寝るには早い。かといって何かをする気力もない。
 目を閉じたら閉じたで、今度は消し去れない場面が頭の中で繰り返し再生される。
 手首を押さえつける、ビクともしない手。躰を撫でたずさんな手。防壁をものともせず、力づくで支配下に置こうと、(とりで)に打ちつけられた禁忌の(くい)
『那桜』と、そう呼んだ声は問いかけているように聞こえた。その瞬間に、拓斗はどんな顔でどんなことを思っていたのだろう。
 これもどうでもいいこと?
 曖昧な自分への問いかけは、千切れた糸に(すが)ろうとしている愚かさの証明だ。
「嫌い」
 またつぶやいた。

   *

「那桜」
 静けさの中で突如として名前を呼ばれ、那桜はぱっと目を開けた。
 ベッドの脇に詩乃がそびえている。
 いつの間にか夢も覚えないほど眠っていたらしい。
「大丈夫なの?」
「……うん」
「こんなに早く寝るなんて、よっぽど悪かったのね」
「何時?」
「八時半よ。拓斗が帰ったのは正解だったわ。戒斗に負けず劣らず妹思いなんて見直すべきかしら」
 詩乃の言葉に、ぼやけている頭の中の記憶が鮮明に迫った。
 詩乃はまったく都合のいい解釈をしている。その実を知ったら、詩乃はどうするんだろう。
 那桜は動じることもなく極めて平然とそう考えた。和惟のことで隠し事をしてきた那桜にとって、なんでもないふりをするのは造作もない。夢中になっているときは後ろめたさもなかった。
 それがいま、和惟とのときにはなかった苦しさがある。
「明日は日曜日だし、このところ勉強ばっかりだったから休めばいいのよ」
「うん……ゆっくりするよ」
「そうしなさい。起こして悪かったわ。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 詩乃は安心したように微笑んで部屋を出ていった。

 勉強なんてただの口実で、どんなに那桜が愚かでも拓斗に許容されていることを確かめたかっただけなのに。
 見るともなく目に入る天井は、ピンク色の花にグリーンの茎と葉という淡い色が、オフホワイトの中に散っている。チューリップとほかに名のわからない花は、子供が描いたように単純で無邪気だ。那桜も落書きをしたくなる。
 手を伸ばしても届かないとわかっているから伸ばすことさえないけれど、そのことがすべて那桜を表しているのかもしれない。
 嫌い。
 囁きにもならず、ただくちびるが動いただけの言葉はどこに向かっているのか、天井がぼやけていく。そのとき、ドアの閉まった音がした。視線を動かすまでもなく、視界に拓斗が入ってきた。
 手が下りてきて反射的に那桜は目をつむる。こめかみを生温い粒が伝うのと、拓斗の手の甲がそれをすくうのとが同時になった。それから額に移った手のひらは一瞬で離れ、拓斗が動く気配がした。

 出ていくかとドアの閉まる音を待っていると、かすかに何か(きし)む音がした。キーボードを打つ音がしだして、那桜は目を開けて頭を巡らした。拓斗の背中がすぐ目につく。背中にさえぎられて見えないけれど、拓斗は那桜の机についてパソコンを(いじ)っているようだ。那桜はパソコンもネットにもあまり興味がなく、リビングにある詩乃のパソコンを共有していて部屋には持っていない。
 いつの間に持ってきたんだろう。左側には分厚い本が三冊積み重ねられている。那桜の机が小さいせいで拓斗は窮屈そうに見えた。
 ぼんやりと背中を眺めているうちに那桜は目を閉じた。キーボードは流れるように音を立てるかと思えば、ふと途切れ、そしてまた軽やかに続く。一定しないリズムがかえって心地よく、那桜は微睡(まどろ)みの中に入った。

 一度、息苦しさに目が覚めた。暗闇であることから夜中なんだろうと思った。
 那桜。そう呼ぶ声と一緒に額に手が触れた。
 耳もとに呼吸を感じてそのリズムに合わせていくうちに、喘ぐような息が緩やかになっていった。

 はっきりと那桜の目が覚めたのは薄暗い時間帯だった。カーテンの隙間からはまだ明かりも見えず、暗闇でも光っているデジタル時計を見ると六時まえだ。今日は何曜日かと一瞬考えた。日曜日だとわかると、早起きはちょっともったいなく思う。
 布団の中でちょっと身動ぎをして、部屋をぐるりと見回した。パソコンと本はそのまま机の上にあっても拓斗の姿はなく、夜中のことは夢だったのか現実だったのかわからなくなる。
 ベッドの上で一時間くらいやり過ごしてから下に行くと、拓斗と両親がそろって朝食を取っているところだった。拓斗がめずらしく顔を上げたものの、那桜は気づかないふりをして目を合わせなかった。
 詩乃からは具合を訊かれ、大丈夫だと答えたとおりに、いつもと同じだけ那桜がごはんを食べると、詩乃の心配もなくなったようだ。
 朝食のあとはすぐ部屋に戻った。着替えが終わった頃に拓斗がやって来て、パソコンと本を引きあげていくかと思いきや、またそこに座って仕事なのか、パソコンを開いた。
 それから一日、ほとんどの時間、話すことはなくても拓斗は那桜の視界の中にいた。那桜が付き纏うという、常習パターンとは立場が逆転している。
 昨日は、鳥井を帰していたことを聞いて用意周到だと思ったけれど、拓斗が最初からあんな羽目に陥るつもりはなかったはずと気づいた。『触るな』と云われても追いかけたのは那桜だ。
 そこで拓斗に何が起きたのか。もしくは触発されるほどすでに何かが拓斗の中にあったのか。
 夜になっても拓斗はすぐそこにいて、那桜が眠るまで部屋にいたことだけは確かだ。



 月曜日の朝、変わらない一週間が始まった。
 拓斗とのことは解決する術もなく、那桜にはやり過ごすしかできない。
 車庫から車を出して拓斗が那桜を待っている。那桜は開けられている助手席を無視して後部座席のドアに手をかけた。
「那桜、こっちだ」
 拓斗が目を細めて那桜のむっつりした顔を見下ろす。
「後ろでいい」
 その反抗は即退(しりぞ)けられて強制されるかと思ったのに、拓斗は助手席を閉めて後部座席を開けた。
 学校に着くまで車の中ではふたりとも黙っていた。半年前の気詰まりもなく、つい最近の心地よさもなく、ただお喋りという無駄な労力を使いたくないほど億劫だ。
 定位置に車が止まり、拓斗がドアを開けるのを待って降りた。塀沿いの歩道を通って正門に入ると、果歩の姿がない。果歩のほうが遅いというのはめずらしい。正門の柱のところで怪訝に思うほど待った。
 そのうち、那桜は自分が果歩に対して何をしたのかを思いだした。自分のことに気を取られたあまりに忘れてしまっていた。
 校舎の時計はまもなく予鈴の時間を示している。それを確認しようと携帯電話を開いたとたん、電源を切っていたことも思いだす。
 遅れるというメールが入ってるかもしれない。少しほっとしながら電源を入れてみると、メールの着信は翔流からだけで果歩からはなかった。
「那桜」
 心許(こころもと)なくなったとき、背後から拓斗の声がした。振り返ると、助手席の窓が開いて車の中から拓斗が那桜を見ている。
「いってきます」
 拓斗がまだいたのかということを気にするより、さっきは云わなかった言葉を急いで口にして那桜は校舎に向かった。

 教室に入ると、覚悟していたとはいえその覚悟はついさっき築いたもので、探していた姿を見つけた刹那、那桜は怯んだ。
 果歩は自分の席にいた。隣の子と話していた果歩の目が那桜を向く。
 そして。素通りした。

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