禁断CLOSER#18 第1部 解錠code-Dial Key-

5.施錠 -2-


 有吏塾の敷地内には、迎賓(げいひん)のためにやたらと大きい洋風の邸宅がある。その中で女の子のためにあるようなアメリカンカントリー調の一室に入ると、那桜は持ってきた花を出窓に置いた。外を眺めると、建物の周りを彩っている花が目に入る。一月という真冬でもここは色鮮やかだ。
 有吏塾というのは、この邸宅のほか、敷地内に武道館や寄宿舎があって、一族の男たちが年から年中、学力から体力までいろんなことを学ぶ場所であることからその呼び名がついている。和惟はもちろんのこと、拓斗が護身術に()けているのもここで(きた)えられてきたからだ。
 明日、三日は親族が一堂に会する日で、今日はその準備のために、本家である有吏家を筆頭にして近しい親類のほか、偉いらしい伯叔父(おじ)たちが有吏塾に集まった。偉いらしい、というのは那桜には関係とか立場がよくわからないのだ。
 戒斗に云わせると、世間で俗に云う“親戚”は有吏リミテッドカンパニーに籍を置く親族と衛守家のみで、ほかの親族は遠い血縁で裏分家と呼ぶそうだ。那桜にとってみれば、ここに集まるのはみんな同じ親族だし、違いがあると云う戒斗もまた、誰もと同等に接している。それを見て那桜はますます混乱するのだ。
 この一族の恒例行事は、春の年度替わり、夏休みの初め、そして新年を迎えての三日と、年に三回ある。遠くの親族を迎えるのに、前日は朝から有吏塾の敷地内にある邸宅に詰めなければならない。いまは宿泊できるように、那桜もいろいろと手伝っているというわけだ。
 といっても日頃からだれかが手入れしているようでほとんどすることはなく、午後からは休憩と称してお茶会が始まり、雑談に花が咲く。

 那桜は敷地内を一面見渡したあと、くすんだ空を見上げた。ここ数日は、今日みたいな冬っぽくどんよりと雲に覆われた天気が続いている。反面して那桜はうきうきした気分だ。いつもはうんざりした気分でやる手伝いが、今日は鼻歌すら出て(はかど)った。
 このところずっと那桜の中にある晴れやかさは、やっぱり拓斗がやさしいと感じるからだろう。

 あのクリスマスから一週間が過ぎて年も明けて、勉強は初日みたいに、那桜が勉強をやっている傍らで拓斗は自分のことをやるという状況で続いている。那桜がつまずいていると、素っ気なくではあっても、質問するまえに拓斗が口を挟んでヒントを与える。見ていないようで見ていてくれているらしい。
 毎日、午後から夕食までほぼ一緒にいるなか、たまに夕方になると惟均(ただひと)が邪魔しに来る。正しく云えば、邪魔しているのは那桜だ。
 なぜかというと、惟均は明らかに仕事の話で来ているからだ。たぶん、会社帰りに寄っているのだろう。報告と相談と、長いときは一時間くらい話しこんでいく。
 端々に出てくる用語で、投資と融資の違いはわからず、廃業だの買収だのという、ちょっと物騒な言葉も飛びだす。数字に至れば、少なくても何千万単位が飛び交っていて、それが億単位になれば感覚が麻痺して、那桜には価値がよくわからなくなる。
 それはともかく、その間、那桜は“蚊帳(かや)の外”で勉強しているわけだ。そっちのけにされても出ていけと云われないぶん、ずっとましだと思っている。

 惟均がこんなふうに拓斗の部屋を訪ねることなんていままであまりなかったけれど、それがいまは頻繁(ひんぱん)にある。理由は明白だ。拓斗が会社に行かず、家にいるからということに限る。
 その理由の理由を考えた。
 奥までは推察できなくて、ただ表面上で単純に答えを出すなら、那桜に付き合うためだろう。拓斗も戒斗も、学校が長期休暇に入ったところで、少なくとも平日に家にいることはそうそうなかった。
 那桜の探し当てた答えが合っているとして、家庭教師なんて夜でも充分できることであり、拓斗がなんのためにそうしているのかはわからない。いまのところ、那桜はそれを楽しんでいるばかりで、そこからさきを考えるという無駄は省いている。

「那桜、どこに置く?」
 聞き慣れた、けれど最近はめったに聞けない声が那桜を呼んだ。久しぶりに顔を出した戒斗だ。
「あ、ここに三つ並べる」
 追加で来た鉢植えの花を受け取って、花瓶からちょっと離して両脇に置いた。
「拓斗とはうまくやれてるらしいな」
 戒斗は出窓の天板に手をついて、ちらりと外を覗いたあと、顔だけ横向けて那桜を見た。

 戒斗が家を出てからもうすぐ半年になる。生活はどうやっているのか訊いたら、パチンコ屋に住みこみで働いていて、夜は夜でバーテンダーをやってると教えてくれた。戒斗のバイタリティな精神力には敬服するしかない。
 今日は宿泊する親族の相手をするのに帰ってきてはいるものの、明日の懇親会には顔を出さないで夜中のうちに戻るという。

「戒兄がいなくなれば、わたしには拓兄しかいないよ」
「悪かった」
 那桜が口を尖らせて文句を云うと、戒斗は謝罪と裏腹に笑った。那桜が本心から怒っているわけじゃないというのがわかっている証拠だ。
「最初のうちはホントに怒ってたんだからね」
「わかってる。拓斗があんなんじゃな。けど、やっぱ兄妹だ。拓斗が付きっきりで勉強教えてるって母さんから聞いた」
「うん。拓兄って融通きかないって思ってたけど反対だった」
「反対?」
「そ。無愛想なのは変わらないけど、頼めばね、きいてくれるの。ケーキ食べに連れてってくれたり、買い物に付き合ってくれたり、家庭教師もそう」
「へぇ」
 戒斗は首をひねりながら、おもしろがった表情で相づちを打った。
「戒兄は叶多ちゃんに会っていかないの? あ、それより会いにいった?」
 そう訊ねると、戒斗の口もとに笑みが浮かぶ。それはいかにもプラスティックだ。
「そのうち、な。とにかく、おまえのことは安心した。母さんがもうすぐお茶会するってさ」
 戒斗は躰を起こして、那桜の質問には曖昧にしか答えず、客室を出ていった。

 那桜は独り首をかしげる。
 あんなに仲のよかった戒斗と叶多はどうして離れてしまったんだろう。叶多からすれば、那桜と同じで置いていかれたと思っているはずだ。叶多のがっかりした――それどころか泣きそうな顔が浮かんだ。
 秘密は徹底的に隠蔽(いんぺい)され、意思は取りあげられるという、いつも男だけに決定権があって勝手。それとも、有吏の男たちが特殊すぎるのか。

 那桜はため息をついて、見栄えがいいように花鉢の位置を整えると二歩さがって眺めた。白いクリスマスローズの両横にピンクのシクラメンが並んで優雅な雰囲気だ。
 満足してうなずいたそのとき、開けっ放しだった部屋のドアが閉まる音がした。
 振り向きながら、だれかを認識するまえに那桜は一歩さがる。わざわざ閉める、ということをするのは一人しかいないと本能が結論づけたとおり、そこには和惟がいた。
 かすかに笑みを浮かべてちょっと首をひねるしぐさは、まるで悪魔が玩弄(がんろう)する獲物を発見したかのように見える。

「那桜、見限られなかったみたいだな?」
 軽々しい口調はどこに真意があるのか、那桜にはわからない。ただ、一つのニュアンスはつかんだ。
「……わざとなの?」
「だとしたら? てっきり拓斗から見放されると思ってたけど誤算だった」
 和惟は薄く笑って那桜に怖さを抱かせる。じりじりと近寄ってこられると足がすくんでしまい、隙はあるはずが逃げられない。やっとのことで後ずさりできたと思ったのに、たった一歩で出窓の縁がお尻に当たって追い詰められる。
 和惟は両脇の縁に手をかけて那桜の退路を断った。
「……どうして?」
「那桜がおれを認めないからだよ」
「認めるって何……?」
 和惟の顔が迫ってきて顔を伏せた。にも拘らず、和惟は身をかがめて覗きこむようにしながら那桜のくちびるをふさいだ。
 呻きながら那桜は和惟の肩に手を当てた。押しのけようと力を込めてもビクともしない。キスは怒りを含んでいるかのように痛いほど押しつけられるばかりだ。そのせいかいつもと違って(のぼ)せることはなく、頭は冷静なまま息苦しくなった。
「那桜、お茶会だって……」
 ドアが開くと同時に、声をかけながら入ってきた足音がピタリと止まった。
「兄さん、何やってんだ」
 険しい声が諌めるように飛んできた。那桜が精一杯で和惟を押しやろうとすると、和惟自身がくちびるを離してやっと自由になった。
「見てわかるだろ?」
 和惟は悪びれることもなく、顔だけ後ろを向いて笑みさえ漏らした。
「惟均くん、助けて――!」
「惟均、出ていけ」
 和惟の据えた一言が那桜の声を掻き消す。和惟の手の間から抜けようとしたときはすでに惟均は背中を向けていた。

 惟均もまた有吏の男らしく、いつも傍観者のように冷静でいる。兄弟同士、体格はあまり変わらないけれど、顔は和惟と対照的にすっとして甘さがない。
 拓斗と戒斗が兄弟とはいえ互角に付き合っているのに比べ、惟均には和惟に対する敬した態度が見える。その和惟に命令されたとあれば、見なかったことにするつもりだろうか。
 那桜のことを嫌っているはずないのに。むしろ、会えば戒斗みたいに楽しく付き合ってくれたのに。

「惟均くん!」
 追いかけようとした那桜の腕を和惟の手が捕える。ぐいっと引っ張って、空いたほうの手は後ろから那桜の首をつかみ動けなくさせた。
「あいつも迷惑してる」
「何もしてない!」
「わかってないな。那桜はわがままだ。自分に焦点が合っていないと向こう見ずなことをやって人を(おとしい)れる。人を()めていざ自分中心に回りだすと、今度は自分が嵌まったことに気づかない」
「云ってることがわからないよ。わたしはもう嫌なの! 違うって思ったの」
「何が?」
「わからない。探してる」
「嘘だ。やり過ごそうとしてるだけだろ。わがままなお嬢さまの単純思考だ。この“おれ”から、逃げればすむと思ってたら大間違いだ。それとも」
 和惟は不自然なところで言葉を切った。
「何?」
 訊かないほうがいい。そう思ったのに那桜は訊いてしまった。
「那桜、自分のかわりにだれかを差しだすか?」
「――。まさか果歩と……」
 含みを見逃さずつぶやくと、目を見開いた那桜を見下ろして和惟が(わら)う。
「那桜を愛してる。けど――」
 そのときドアが開いて、和惟の言葉を途切れさせた。

「和惟、出ていけ」
 拓斗の抑制した声が冷たく部屋に響く。果たして、抑制、なのか、無、なのか。
「拓斗、いくらおまえでも、妹はやっぱり違うのか?」
 和惟の嘲った問いかけに拓斗は応じない。何が可笑しいのか、数分の沈黙のあと、和惟は声に出して笑った。
 たった二点をつかむだけで躰を縛っていた和惟の手が離れ、那桜は拓斗に駆け寄った。拓斗の左腕を両手でつかんで斜め後ろに立った。無意識に向けた視線の先で、和惟が那桜の手の位置に下りて目を細める。
「那桜、拓斗は那桜からおれを遠ざけようとしている。拓斗が会社に出てこなくなったのは、自分がいない間に何かあったら(たま)らないってことだ。そうだろ?」
 和惟は拓斗に肯定を求め、那桜が見上げると、拓斗はどっちの意を示したのか、かすかに首をひねった。
 理由はそれ? わたしを和惟から守るため?
「那桜、けど、それは那桜のためじゃない。一族のためだ」
 和惟は呆気なく那桜の期待を断ちきって不信を植えつけようとする。一方で拓斗は、挑発には乗らず顎をわずかにしゃくってドア方向を差した。
「那桜には当分近づくな」
「当分、でいいのか?」
 からかうように口を歪めた和惟は、拓斗からゆっくりと那桜に視線を移し、その瞳に不穏さを映す。拓斗の腕をつかむ手がきつくなった。
「拓斗、弁解させてもらえば。始めたのはおれじゃない。高々(たかだか)中学生のガキに嵌められた。誘惑に乗ったおれをバカだと思うんなら、おまえも気をつけることだな。まあ、兄妹じゃありえないか?」
 おもしろがった声音で吐き、和惟はわざと那桜の側をすり抜けていく。すれ違いざま、那桜の首もとに和惟の腕が絡みつき、躰をかがめてお決まりのセリフ――愛してる、を聞こえよがしに云い残していった。

 那桜の手が力を失い、拓斗の腕から離れた。
 和惟が云ったことは間違いじゃない。始めたのは否定しようもなく那桜だ。拓斗へのおふざけ――あの指先越しのキスは和惟の弁解を裏付けたようなものだ。拓斗は覚えているだろうか。覚えているとしたらどう思ったんだろう。
 拓斗は無言で(きびす)を返した。そのまま出ていくんだろうとくちびるをかんだ矢先。
「那桜」
「……うん」
「ここにいる間、独りになるな。いいな?」
 それは予想しなかった言葉だ。
「はい」
「下行くぞ」
「うん」
 それが那桜のためでなくても、いまはほっとした。



 冬休みが終わって学校が始まると、送りはいままでどおり拓斗一人と変化はないけれど、帰りの迎えまで拓斗一人になった。
 このまま和惟を避けるというのも限界がある。だからこそあのとき、当分、と拓斗は云ったに違いない。拓斗はどうするつもりなのかまったく教えてくれないし、那桜は自分で考えたところで(らち)が明かない。
 衝動に弱く、いまが安泰であれば、と解決を後回しにしてしまう自分の性格は災いのもとだ。そう身に沁みていても、いまは拓斗といて落ち着いていられることのほうが大事で考えないことにしている。

「那桜、やっぱ寄り道だめなのか?」
 校舎を出ると、一緒にいることが多くなった翔流が訊ねた。不満ではなく、ただ納得がいかないという声音だ。クリスマスからメールのやり取りをしたり、電話で話したりして、翔流の『那桜』という呼び方も板についてきている。
 逆もしかり。かといって、まだ“カレとカノジョ”という段階までは進んでいない。
 いい加減な、あるいは曖昧な気持ちで男と“付き合う”結果、どんなことになるか那桜は学んだつもりだ。
「うん。いまはダメ」
「いまは、って?」
 那桜の微妙な口調に翔流はすかさず気づいた。
「拓兄に勉強教えてもらってるから」
「那桜って成績悪かったか?」
「たぶん、普通の普通。でも、二学期の忘れ物が響いて評価が下がっちゃったの。それで、そのぶん倍返しで成績上げるって宣言しちゃったから」
 那桜が肩をすくめると、翔流は吹くように笑った。
「無謀だな」
「那桜は意地っ張りだから。ヘンな子だよね」
「果歩、失礼!」
「おれはそういうヘンなとこ気に入ってる」
「わぁ。ふたりには電力会社も必要なさそう」
 果歩は訳のわからないことを云ってからかった。
「なんだ、それ」
「熱気むんむん。自家発電で暖房きいてそうじゃない?」
 果歩が答えると、翔流は呆れたように肩をそびやかした。
 その隣で那桜は独り考えこむ。
 果歩の『ふたり』って何?
「なんかさぁ、まえと変わんないな」
 翔流はため息混じりにつぶやいて、那桜は覗きこむように見上げた。
「え?」
「デートとか、普通に付き合いたいって思ってるのにさ、那桜は出かけらんねぇし。おれ、またおまえんち行っていいか? そうでもしないと会えないからさ。ま、そうしてるうちに信用してもらえるだろ」
 ……もしかして翔流は勘違いしてる?
 那桜はオーケーの返事とか勘違いさせるようなことを云ったんだろうかと急いで思い返したけれど、あの日のことはよく覚えていない。子供じみた嫉妬と、そのあとにあった強烈な出来事であやふやになっている。
「あ、しょっちゅうとか、無理させるつもりじゃない。徐々に、でいいんだ」
 那桜が返事に詰まっているのを見て、翔流が付け足した。
「あ……うん」
 那桜は曖昧に首をかしげた。

「まぁ、ふたりは広末くんの云うとおり、地道な努力に限るよね。ね、那桜、衛守さんはどうしたの? 最近、お兄さんばっかりでお迎えないよね?」
「うん、ちょっと忙しいみたい」
「そう? 衛守さん、このまえはいつもと変わらないって云ってたけど」
 さり気ない果歩の発言は思ってもいなかったもので、正門を目の前にして那桜はとうとつに立ち止まった。
「果歩、このまえ、って?」
「あー、ごめん……衛守さんからやっぱり聞いてないんだ」
 果歩の困ったような、それでいてうれしそうな顔を見て、那桜は躰からすっと血の気が引いた。聞きたくないと思いながらも放っておくわけにもいかない。
「……何?」
「ん。あのクリスマス会のとき、衛守さんにケータイの番号教えたの」
「いつの間にそういうことやったんだ?」
「広末くんが切符買ってる間」
「へぇ、やるじゃん」
「いつも那桜がいるし、チャンスがなかったから。でもすぐにはかかってこなくて、だめかなって思ってたら、三学期が始まるまえの日にかかってきたの」
「果歩、まえに勘違いしないでって……」
「あのときはそう云わないと恥ずかしいじゃない。衛守さんは那桜が好きなんだって思ってたし」
「和惟はやめたほうがいいって云ったよね? わたしは本気で云ったんだよ」
「それはわたしが決めること。でしょ? いまから見極めていけばいいんだし。那桜も広末くんとうまくいってるし――」
「わたしは……!」
 果歩をさえぎったものの、一言だけで途切れた。翔流を目の前にして云えるわけがない。混乱しているいまは傷つけて、関係をめちゃくちゃにしそうだ。
「何?」
「なんでもない」
「那桜、怒らないでよ。衛守さんが大人だってことはわかってる。それにまだカノジョにしてもらったわけじゃないから」
 怒っているのは果歩に対してじゃない。どうしたらいいんだろう。
「まあ、飯田の云うとおり、おれらが口を出すことじゃないな。那桜、しばらく……」
「那桜」
 翔流がもっともらしいことを云っている最中、拓斗の声が割りこんだ。遅いと判断したのか、車を降りてきたようだ。
「こんにちは」
 翔流が頭をかすかに下げて挨拶をすると、拓斗はわずかに目を留め、それから小さくうなずいただけでまた那桜に目を戻す。
「じゃ、果歩、翔流くん、また月曜日ね」
「那桜、帰ったら電話するよ! バイバイ」
 急いで口走った果歩を振り向いて手を振ると、那桜はすでに背を向けた拓斗のあとを追った。

 正門を左に折れて定位置に止まった車まで行くと、拓斗が開けてくれた助手席に乗りこむ。
 後部座席を開けて待っている拓斗に、こっちだよ、と助手席を指差しているうちに、いつの間にか、云わなくてもすむようになった。拓斗の中でも那桜の指定席は助手席になっているらしい。
 助手席であれば後部座席と違って、お喋りをしていなくても居心地がよくて好きだ。
 けれど、今日はそれを楽しむよりも気がふさぐ。翔流のことも、果歩のことも、そしてふたりのことよりは和惟のことを考えて滅入(めい)った。

「那桜」
 めずらしいことに運転中、不意に拓斗から呼びかけた。
「うん?」
 なんだろうと問いかけたつもりが拓斗はそれ以上何も云わない。それで、さっきの『那桜』が問いかける『那桜?』だったことに気づく。
 那桜の憂うつさが伝わったんだろうか。
 それとも気づいてくれた?
「眠たいだけ」
 那桜はそう云って拓斗のほうに頭を傾けた。肩までは届かず、腕に頭を預けて目を閉じる。
 拓斗は帰り着くまで那桜を払わなかった。

BACKNEXTDOOR