禁断CLOSER#17 第1部 解錠code-Dial Key-

5.施錠 -1-


 一昨日のクリスマスの夜に出た熱は酷くなることはなく、ただ、昨日は用心のためにベッドに寝転がってすごした。今日はもうすっかり気分もいい。熱が引いたせいではなくて、きっと拓斗のおかげだ。
 あれからいつ部屋を出ていったのかわからないまま朝を迎え、即ち、本当に那桜が眠るまでいてくれたのは間違いない。
 そして、ベッドでごろごろしていた昨日、うつ伏せになって携帯電話を(いじ)っていた那桜の目の前に、突然ドサリと重たそうなものが落ちてきた。
 飛び起きると、ベッドの脇に拓斗が立っていて、暇ならやっておけ、と一言云った(のち)、部屋を出ていった。
 拓斗の背中を見送ったあとで枕もとを見てみれば、そこには教科ごとの問題集が五冊あった。家庭教師を引き受けてくれたという証拠だ。

 本当を云えば、昨日、起きたときはかなり困惑を覚えた。
 拓斗に平然と裸体を曝していたことは異様としか云えない。頭ではわかっていても感情がついていっていなかった。
 拓斗がどう思っているのか見当もつかない。
 昨日の朝、那桜が起きたのは遅かったし、昼は拓斗が出かけていて顔を合わせなくてすみ、ほっとしていたところだった。そこへいきなり登場だ。いつもの素っ気なさに加えて、那桜のわがままな要求を呑んでくれたということに、今度は心底から安堵したのだった。
 肝心の勉強については、昨日は本調子じゃなくてあまりできていないけれど、今日は朝から頑張ってみた。

 夕食が終わって風呂をすませたあと、問題集を抱えて部屋を出た。拓斗の部屋の前に立つと、那桜はドアをノックしながら呼びかける。
「拓兄、入るよ!」
 返事がないのはわかっていて、那桜は勝手にドアを開けて入った。不思議なのか当然なのか、拓斗の部屋に入るのはあの日がはじめてで、今日は二回目だ。覗いたことはある。部屋ができたばかりという、ずっとまえのことだ。
 一昨日は何も目に留める余裕がなく、那桜はドアを閉めるとゆっくり部屋を見回した。配置はおよそ那桜の部屋と同じだ。
 拓斗は振り向きもせず、那桜の部屋側の壁に据えた、幅広い机に向かっている。那桜の部屋にある、お洒落で小ぢんまりした学習机とは違い、学校の院長室にあるような重々しい机だ。手前のどっしりとした書棚には隙間なく本が並んでいて、反対側には、部屋の奥の窓際に頭のほうをつけたベッドがある。那桜の部屋と違うのは、ベッドの手前に備え付けのクロゼットがあることくらいだろうか。

 那桜は書棚の前に立ってどんな本があるかと眺めた。ぱっと見た感じでは、大学のテキストから政治や経済に関する本ばかりでまったくおもしろみがない。
 例えば、えっちな本が並んでいないかと期待したけれど、そもそもそういうのがあったら隠すだろう。いや、拓斗のことだから、持っていれば堂々と置くかもしれない。
 いずれにしろ、残念だけれど――という表現はおかしいのか、ともかくえっちな本は書棚になくて、次は趣味がないんだろうかと探ってみた。
 戒斗の部屋には、いったいどこが違うんだろうと疑問に思うくらい似たような、ギターやバイクの本が山積みだったけれど、拓斗については、書棚に限らず部屋の端から端までうろうろしながら目を通したところで何も見つからなかった。
 拓兄って堅物。何考えて生きてるんだろう。
 那桜は大げさにため息をついた。それはいちおう自己顕示(けんじ)であるつもりが、拓斗はまるで那桜がいないかのように微動だにしない。一段落するのを待っているというのに、これでは明日になっても那桜に気を留めることはなさそうだ。

「拓兄、問題集やってきたんだけど」
 ほんの傍に立ってとうとつに声をかけると、ようやく顔が上向いて、拓斗は那桜を視野に入れた。
「何ページだ?」
「えっと……五ページずつくらい」
「十ページだ」
 多めに云ってみたのに、拓斗はさらに積みあげた。
「無理」
「なら、おれも無理だ」
 やっぱり頭の回転は速い。何を無理といっているのかは云わずと知れず、どうとも文句云えない切り返しだ。
「ホントは四ページしかやってないの。だって病気だったし!」
「十ページだ。参考書を使っていいし、わからないところは抜かしていい」
 拓斗は那桜の云い訳に呆れた様子はなく、ただ最低ラインは譲らないことを示した。
「……わかった」
 那桜は渋々と了解しながら、抱いていた問題集を広い机の隅っこに置いた。拓斗の目が問題集から那桜に移る。
「椅子持ってくる!」
「那桜、自分の部屋で……」
 拓斗が云いかけているのにもかまわず、くるりと方向転換して那桜は自分の部屋に向かった。折り返しガタガタと音を立てながら椅子を引き、参考書を持って戻ると、拓斗はちらりと那桜を見ただけで何も云わない。

 無関心のなせる(わざ)なのか、拓斗は押しつけると(おおむ)ね応えてくれる。
 那桜はこっそり笑って拓斗の横を陣取り、問題集を広げた。大きい机とはいえ、ふたり並べばさすがにちょっと狭い。那桜の居場所は脚もとの引き出しが邪魔で、机に向かうには前のめりになってしまう。不格好だけれど、それでも居心地はよくてこの近さは安心する。
 半年前までは、拓斗といて居心地がいいと思うようになるなんて想像もしていなかった。必然的に一緒にいるようになって、興味を持って、ちょっとずつ冷たさとは違う何かが覗けてうれしくなった。
 なんだろう。もっと見てみたいという漠然とした欲求は重なっていく。
 家庭教師はいい思いつきだったと自分を誉めたいくらいある。学校が休みだと送迎がなくなり、拓斗といることはもちろん、見かけることさえ(まれ)になる。冬休みとなれば二週間もそういう日が続くわけで、那桜としては拓斗と会ったり話したりするための最高の口実なのだ。
 もっと、という気持ちでいえばお喋りしたいところだけれど、初日であり、これ以上に自分の評価を落とす必要もないはずだ。
 真面目にやろう。そう心掛けてから、ふたりともに息しているのかと思うほど静かにやっているなか、那桜は数学の途中で眠くなってきた。
 昨日はベッド上ですごした以上、日中もうとうとしていることが多くて、そのぶん夜がよく眠れていない。その付けが来ているんだろう。加えていまやっている数学は嫌いでもなく好きでもない。つまり退屈だ。
 時計を見ると九時半を差していて、勉強し始めてから一時間がたっていた。
 気分転換に拓斗を見やると、やたらと字が小さくて分厚い経済書とノートパソコンの画面をかわるがわる眺めている。時折、考えこんでいるようで、マウスに置いた手が微動だにしなくなる。横から覗きこんでみれば、専門的な言葉が並んでいて、文字だらけの画面を見ただけで頭が痛くなりそうだ。
 小さくため息をつくと、拓斗が那桜の手もとに目を向けた。

「約分が早い。通分したら分子の因数分解までやって、それから約分だ。初歩的ミス。集中できてない」
 おそらくは十五秒もたたないうちに、拓斗は分数式の間違いを指摘した。
「あ、そっか。なんだか簡単だったり、見たことのない答えだと思ったんだよね」
 拓斗は首をひねり、また自分の作業に戻った。
 那桜はあっけらかんとしてみたものの、ここに来てからずっと気になっていることがある。拓斗から声をかけてくれたことでちょっと勇気が出た。
「拓兄……開けていい?」
 那桜はためらいがちに切りだして、机の奥を指差した。そこにはプレゼントした赤い小箱が開封されないまま隠れたように置かれている。ほったらかしでも押しやられたふうではないことが唯一の救いかもしれない。
「おまえが買ったんだろ」
「でも、拓兄にあげたんだよ。だから……」
 那桜は言葉を濁した。二進(にっち)三進(さっち)もいかない会話だ。拓斗は手を伸ばして小箱を取ると那桜に渡した。
「開ければいい」
「拓兄のケータイ貸して?」
 シールを剥がしながら訊ねると、勝手にしろとばかりに拓斗は顎をかすかに上げた。
 包装紙から出てきた箱は開け(にく)いほど(いびつ)だ。それでも那桜は慎重にふたを取って、中から携帯ストラップを取りだした。好きな組み合わせを選べるという携帯ストラップは、初デートをした日、あの店で見つけた。
 アンティーク調の銀色をした十字架は鈍く光り、それにもう一つ、濃いピンク色のビーズを一粒埋めこんだ“N”という黒い文字が添うようにぶら下がっている。どこも壊れていなくてほっとした。
 拓斗の携帯電話は至ってシンプルで、目印がないことで逆に誰のかがすぐわかるけれど、それではさみしい気がする。
 那桜は携帯電話につけて、感触を確かめるように揺らした。
「いい感じでしょ。拓兄のイメージなの」
「Nはなんだ?」
「わ・た・し。イニシャルに決まってるよ? このビーズはちょうどわたしの誕生石のスタールビーみたいだし」
「邪――」
「邪魔だとか云って取らないでね」
 予想どおりのことを拓斗が云いかけ、那桜は被せるように口を挟んで釘を刺した。
「お守りなの。あ、拓兄のためじゃなくって、わたしの、ね」
 そう続けた那桜をしばらく見つめたあと、拓斗はとうとつに立ちあがった。
「拓兄!」
 ちょっとふざけた口調が気に障ったんだろうかと思って、那桜は慌てて拓斗の腕をつかんだ。
「風呂だ。上がってくるまでに全部やっておけ。できないなら今日で終わりだ」
 風呂と聞いて気が抜けた那桜は深く考えもせずにうなずいた。

 着替えを用意するのを見守り、そして拓斗が出ていって机に向き直ったとたんに、那桜は自分が無謀な返事をしたことに気づく。
 拓斗のことだから、数学の間違いを訂正することも“やっておけ”のうちに入るんだろう。あと残っている日本史はわりと好きだからいいけれど、問題は英語だ。辞書を引くのが面倒くさいという、まさに英語を勉強するには致命的な負の要素だ。
 了承した手前、拓斗に家庭教師をやってもらいたければやるしかない。英語は後回しにして、数学のやり直しから始めた。
 拓斗が戻ってくるまでというアバウトな時間制限のなか、脇目も振らず参考書を見ながら解答スペースを埋めていく。問題集は分厚くて最初見たときはうんざりしたものの、中身は、数学でいえば計算スペースが充分に取れるほどで、びっしり字が埋まっているというわけでもない。
 ひたすら問題を解いていって英語まで終わると思わず、やったぁ! と独りで叫んだ。
 拓斗はまだ戻っていない。ということは間に合ったのだ。那桜は机の上のほうにある掛け時計を見上げた。もうすぐ十一時だ。拓斗がいるときも一時間で半分くらい終わっていたわけで、集中すればけっこうやれるらしい。
 那桜は満足げに笑みを浮かべる。それから、ふと拓斗はこんなに長風呂だっただろうかと思って、今度は首をかしげた。下へ下りてみようかと立ちあがりかけたとき、ちょうど拓斗の携帯電話の着信音が鳴りだした。
 那桜は拓斗の携帯電話を持って部屋を出ると、階段を駆けおりてまず浴室を覗いた。照明は消えていて、そのままリビングへと向かう。
 那桜がドアを開けると、拓斗がすぐ目の前に迫っていた。着信音はすでに聞こえていたのだろう。那桜が差しだした携帯電話をつかんで拓斗は部屋を出ていった。

「那桜、これ、拓斗に持っていってちょうだい」
 詩乃はコーヒーカップを持って立ちあがると、キッチンのテーブルまで来て飲みかけのカップにコーヒーを注ぎ足した。それを見ていて那桜は気づく。コーヒーを載せたトレイを受け取りながら、問うように首をかしげた。
「拓兄、ずっとここにいた?」
「そうよ。何?」
「お風呂入るって云って戻ってこないし、長風呂なのかなって思ってたから」
「拓斗は“カラスの行水”よ」
「そうなんだぁ」
 那桜の口もとは堪えきれずに(ほころ)んで、それを見た詩乃は、笑うことなのかと呆れたように軽く肩をすくめた。
「勉強してたの?」
「うん。拓兄のとこで。やっと云われたぶんが終わったの。疲れちゃったけどけっこう頑張れたかも。じゃ、コーヒー持ってくね」
「那桜」
 出ていきかけると、隼斗の太い声が那桜を引き止めた。振り返れば、拓斗と大して変わらない感情を殺した顔が那桜を向いている。
「はい」
「熱は大丈夫か?」
「うん。今日はずっと平熱だから」
「無理はするな」
「……うん。ありがとう、お父さん」
 返事をするのに少し戸惑った理由は、隼斗からこういう気遣いを見せられることに慣れていないからだ。詩乃を見ると奇妙な表情をしている。意味はわからないけれど、こういう隼斗はめずらしいということを裏付けている。
 那桜はめったに病気をしないから隼斗としても気遣う機会がないだけ、という説も考えられる。病気もたまにはいいかもしれないと那桜は思った。
「おやすみなさい」
「ああ」
「おやすみ」

 拓斗にコーヒーを持っていったときはまだ電話中で、那桜はその間に歯磨きしたりと寝る支度を整えた。また拓斗の部屋に戻ると、電話は終わっていて問題集に目を通している。
 答え合わせが終わるまで、那桜は拓斗のベッドに腰かけて待った。それからなんとなく寝そべってみると香りを感じる。自分のベッドは慣れてしまっていて何も感じないから、これは拓斗の香りなんだろう。
 布団に潜るとふわふわの感触が心地いい。が、さすがにずうずうしかったようで、気配を感じたらしい拓斗は那桜を振り向いた。
「病みあがりだし、布団の中は暖かいから」
 部屋は暖房がきいていて、とても口実になりそうにない補足をした。拓斗は何も云わず、また手もとに目を落とす。
 那桜から見えるのは背中が大半だけれど、拓斗はちょっと斜め向いていて、わずかに横顔が覗く。どこから見ても拓斗のラインは隙がない。
 那桜は果歩と話したことを思いだす。
 ケチをつけようがない兄を持つというのは、妹にとってはどの角度から(かんが)みてもまったくもってメリットにならない。
 やっぱり拓斗はずるくて、那桜は損だ。
 ため息をつきそうになったとき、拓斗が問題集を閉じた。
「どうだった?」
 那桜は布団を被ったまま起きあがって訊ねた。拓斗はかすかに首をひねる。
「抜けてない」
「参考書見たから」
「明日も十ページだ」
「うん!」
 拓斗がベッドの脇に立つと同時に、那桜は張りきった返事をしながら笑顔で見上げた。積み重ねた問題集と参考書を一度に手渡される。

「拓兄、ありがと」
 拓斗はまたわずかに首を動かして机に戻る。
「拓兄、クリスマスのことも……ありがと」
 振り向いた拓斗は机に腰を引っかけて腕を組んだ。ちらりとではなく、相手に目を逸らさせない、射抜くような瞳が向く。
「何が」
「いろんなこと」
 拓斗はそっぽ向くこともなく、考えている様子でもなく、ただ黙っていて、那桜はその眼差しに付き合った。
「そう思うなら下らないことはするな。妹じゃなかったら……」
「妹じゃなかったら放っておく?」
 しばらくして忠告を口にした拓斗はめずらしく尻切れに終わり、那桜があとを継いだ。
「無意味な仮定だ。早く寝ろ」
 自分が最初に仮定を云ったくせに、拓斗はあっさりと那桜の質問を切り捨てた。それでも、那桜は怒る気になれない。
「うん。おやすみなさい」
 那桜は素直にベッドを下りて拓斗の部屋を出た。返事はなくても、一昨日、同じように部屋を出たときの気分とは全然違う。

 妹なんてなんのメリットもない。戒斗は那桜を簡単に明け渡して放浪中というのが証拠だ。けれど、さっき拓斗が云いかけたことからすれば、妹、という立場は特権でもあるらしい。
 偏見のない保証。
 なんとなく幸せな気分だ。クリスマスの拓斗も、ちょっとまえの隼斗も、そして今日の拓斗もちゃんと那桜のことを考える余地を持っている。

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