禁断CLOSER#16 第1部 解錠code-Dial Key-

4.挑発 -5-


 那桜を出ていかせたあと、拓斗はしばらくその場に(たたず)んだ。
 和惟のことを『苦手』だという那桜。
 さっき目にした光景は、一カ月前のケーキ店でのこともそうだが、その言葉を裏切る。
 我慢しても堪えきれないというように、息を継ぐ合間に那桜の口から声が漏れ、その意味を裏付けたのは跳ねる躰とそれに続く痙攣。
 ――やめて。
 合意のセックスにおいてその言葉は意味をなさない。あるいは真逆の意味を持っている。
 そう知っていて、止めた。
 那桜の訴えることがどこまで本心で、那桜のやることがどこまで(たわむ)れなのか。放っておけばいいものを。
 妹、だからか? そこにどんな価値がある?
 拓斗はわずかに首をひねり、部屋を出た。那桜の部屋の前を通りすぎたが物音一つせず、そのまま階段をおりた。

「那桜の勉強のこと、本当に大丈夫なの?」
 リビングへ入るなり、対面式のキッチン側にいる詩乃は、少し顔をしかめながら再び同じことを訊ねた。
「大学はもう卒業までほとんど行く必要ないし、大したことじゃない。那桜がやるかどうかだろ」
「あなたより和惟くんのほうが時間が取りやすいと思うんだけど。和惟くんと仲直りしたんだったらまた和惟くんに頼めばいいのに、那桜ったらどうして拓斗なのかしら」
「また?」
 拓斗が口を挟むと、詩乃はわずかに目を見開いた。
「もしかして知らなかったの? 那桜が中学二年の頃から和惟くんとケンカするまでのことよ。和惟くんは那桜の勉強をよく見てくれてたのよ。ちょうどその頃って、拓斗は大学と会社ばかりで家に帰るのは遅かったから知らなくてもおかしくはないけど……和惟くんから聞かされなかった?」
「ケンカって?」
 眉根をひそめた詩乃の問いには答えず、拓斗はまた訊ねた。
 詩乃の云うとおり、大学に入って二年間はカリキュラムをめいいっぱい組んで、加えて会社のことがあり、ほかのことにかまう間もなかった。
「那桜は何も云わないけど、和惟くんは那桜が()ねてるって」
 詩乃は首をかしげて答えになっていない返事をした。それから拓斗に見えるようにご飯茶わんを掲げた。
「ごはん食べる?」
「ああ」
「温め直すからちょっと待ってちょうだい。和惟くん、帰るの早かったのね。あなたと話があるって云ってたから長くかかると思ってたのに。こんなに早くすむのなら、わざわざ待ってなくても電話でよかったんじゃないかしらね」
「おれと話?」
「え、話さなかったの? 和惟くん、クリスマス会に参加してたのよ。那桜たちが買い出ししてたときにばったり会ったみたい。夕方、果歩ちゃんたちを送っていったんだけど……。あなたが早めに帰ってくるから那桜の部屋で待ってるって……」
「いや。話したのは話した。惟均(ただひと)のことで相談を受けた」

 詩乃は怪訝そうに首を傾けていて、拓斗は当座そう取り(つくろ)った。内心には自分で察知できなかったという苦さが生じた。
 詩乃がそこに触れるまで肝心要(かんじんかなめ)を見逃すとはどうかしている。
 七時に帰る。
 和惟が迎えの確認で電話をしてきたときに確かにそう答えた。拓斗は唯均の車で一緒に帰ると伝えたのだが――。知ったうえで。
 どういうつもりだ?

   *

 夕食を終え、二時間近く卒業論文チェックをしたあと、拓斗は両親を待って入浴をすませた。風呂場を出て、手早く下着とズボン、そしてシャツを身に着けると洗面台の前に立った。
 あれから何度か、那桜の部屋の前を通ったものの、いるのかと疑うほど静かだ。
 どこに落ち度があって、だれに策があるのか。いずれにしろ、思い知るべきだ。そう考えて放っているが。
 到底理解できない残像がちらつく。
 鏡に映った目が自分を睨みつける。
 それに気づいて拓斗は首をかすかに振ると、冷たい水で顔を洗った。

 ちょうど浴室から廊下に出たところで、リビングのドアから出てきた詩乃と鉢合わせした。
「拓斗、上に行く?」
「ああ」
「那桜がおりてこないんだけど、ごはん、まだ食べてないのよね。もう九時過ぎてるから、上がったついでに訊いてくれない?」
「適当にするだろ。放っておけばいい」
 拓斗がそう応じると、じんわりと咎めるような視線を感じた。
 控えめかと思えば、こうやって視線一つ、あるいは一言で詩乃は息子たちを動かす。いや、息子に限らず夫もそうなのか。
「わかりました」
 拓斗の答えに満足したようで、詩乃はまたリビングに消えた。

 とりあえず引き受けたものの、拓斗は那桜の部屋を通り過ぎた。静かだった部屋の中から、いまは携帯音が流れている。
 自分の部屋に入って着替えた服をベッドに放り、それから拓斗はデスクに目をやった。那桜が持ってきたクリスマスプレゼントがそのまま置きっ放しになっている。
 それは、ただ落としただけでこうまでなるかというくらいに酷くへこんでいた。
 少し視線を上げ、拓斗は壁を見つめた。一つ空っぽの部屋を置いた向こうから携帯音が鳴り続けている。



 惨めすぎる有り様からどれくらい時間がたったのか、躰の震えはいったん治まったはずが、また始まった。震えを止めるために抱えこんだ腕までもが震えていて役に立っていない。
 思考力は停止していて身動きすることさえ考え及ばない。
 さっきから音楽が聞こえているけれど、厚い膜を通して聴いているみたいにぼやけている。
「那桜」
 だれ?
 音楽はぷつんと途切れ、そのかわり、やけに鮮明に聞こえた声を疑問に思った。同時に既視感を覚えた。そう反応したことは自分の名前が那桜なんだと気づかせる。それほど頭の中はぼんやりとしている。返事をする気力をかき集められないうちにお尻に振動が伝わった。
「何やってる」
 近づいてきた声が今度は頭の上から降ってきた。
「風邪ひくつもりか」
 聞いたことのあるセリフが上からだんだんと下降してくる。腕に手がかかったとたん、那桜はその冷たさに身震いした。腕をつかみかけていた手が止まる。
「那桜」
 呼ばれるのと一緒に腕にあった手が頬を挟んで、膝に伏せた那桜の顔を上げさせた。目を開きかけたとき、額に手が触れたせいで那桜はまた閉じた。冷たい手が離れ、辺りを動き回る気配がする。すぐ傍に戻ってくると、強張(こわば)った那桜の腕を無理やり解き、寄りかかっていたチェストから躰を起こされた。膝の下に腕が潜りこみ、那桜は無造作に抱きあげられる。
 丸くなったまま横向きにベッドに寝ると布団がかけられて、またその冷たさにプルッと躰を震わせた。

「……拓兄」
 目をゆっくり開いてつぶやいた声は躰と一緒で力なく震えている。拓斗だと認識したことで思考力が戻ってきた。
「熱がある」
 その顔をよく見ないうちに拓斗は一言云って部屋を出ていった。
 また放りだされたんだろうか。そう怯えながらも、もしかすれば詩乃を呼びにいったのかもしれないと思い至り、いま自分がするべきことは判断がついた。ベッドから落ちるようにして布団から抜けだした。
 長時間、同じ姿勢だったせいで、節々が音を立てそうなくらい動きがぎくしゃくしている。那桜はベッドの脇に座りこんだ。暖房がきいて床もそれなりに温かいはずが、熱のせいか躰のほうが熱くて、剥きだしのお尻がひんやりする。
 けれどそんなことにかまっていられず、早く片づけなくちゃ、と思ってさっと見渡した床には脱がされた服も下着もなかった。ベッドを振り返るとそこにも見当たらない。部屋を見渡してみても見つからず、那桜はベッドを支えにして立ちあがった。
 ないのであれば隠す必要はない。あとは服を着なくちゃ、と思ってよろけながら歩きかけたとき、ドアが開いた。詩乃かと思って立ちすくんだけれど、それは拓斗で、那桜はほっとしながら腰が抜けたようにベッドに座った。

「何やってるんだ」
「服……着なくちゃって……」
「そのまえにやることがある。寝ろ」
 那桜に命令しながら、拓斗は手に持っていたバスボウルを床に置いた。
 水の揺れる音がして何をするんだろうと思っていると、タオルを絞る音に続いて、せっかく羽織った布団を剥がされた。
「拓兄?」
 その問いかけには答えることなく拓斗はかがんで、温かいタオルを那桜の胸に当てた。汚れたところを痛いくらいに強く擦られて、こびり付いた痕跡と匂いが落とされていく。伴って躰がポカポカと温かくなっていった。感じていた戸惑いもなくなって、洗ったタオルが今度はおなかに移る。
「拓兄、くすぐったい!」
 那桜は悲鳴じみて笑いながら逃れるように背中を向けると、腰をつかまれて仰向けに戻された。手加減なくおなかを擦られて痛いのに、くすぐったさもあって那桜は躰を(よじ)らせて笑う。まるで何も考えていない子供だけれど我慢できない。
 拓斗はといえば、黙々となんの情も見えなくて、ますます那桜の浅はかさが目立った。

 よくよく考えなくてもいまの状況は異常だ。立場的にもやっていることも。
 兄妹とはいえ、もうふたりとも幼い子供じゃない。庭先に置けるようなビニールのファミリープールで、裸のまま恥ずかしげもなく戯れる時代はとっくに過ぎた。もとい、そうした記憶はない。
 とにかく普通じゃないことはわかるのに、いまの那桜には恥ずかしさもなければ異常という意識があるのかということすら疑わしい。
 数時間前、どうしようもない醜態を曝して、取り返しがつかないと思った。
 出ていけと云ってる。
 そう云われたときは全部を失ったような気がした。
 拓斗はいま、どうしてここにいるんだろう。
 熱に浮かされた頭で考えても、加えて躰に刺激を受けている状態では答えもその糸口も思いつかない。
 ただ、さっき部屋に入ってきたのが詩乃ではなく拓斗だとわかって安堵した瞬間、拓斗が那桜を見棄てなかったことだけははっきりした。
 拓斗に偽善は似合わない。話さないことはあっても、拓斗は嘘を吐かない。
 そう信じているからこそ、いまの那桜は常識という制限が緩んでしまっている。

 拓斗はきれいにし終わると、タオルをバスボウルに放って立ちあがった。
「パジャマと下着は?」
「いちばん上」
 指差すより早く拓斗はチェストに向かい、(あさ)ることもなく適当に取って那桜に放り投げた。無言で、着替えろ、と迫っている。那桜はベッドから脚を下ろして起きあがった。
 見下ろした胸から下はちょっとだけ赤くなっている。さっきの行為は乾布摩擦(かんぷまさつ)みたいなもので上半身は温まった。ただ、指先はまだかじかんでいてパジャマのボタンには手間取った。手伝うことなく、辛抱強く待っていた拓斗は、那桜が着てしまうとまた額に手を置いた。
「母さんを呼んでくる」
 すぐに手は離れ、一言云うと、拓斗は脱いだソックスを取りあげてバスボウルを持った。
「拓兄、また来て」
 部屋を出ていく寸前、そう声をかけたのに、振り向くこともなければ返事もないままドアは閉まった。

 拓斗はどう思って、それから、もう何か結論づけたんだろうか。
 詩乃を呼ぶまえに那桜の体面を守ってくれたことは、結論から繋がっている行動なんだろうか。
 しばらくドアを見つめて那桜は考えた。けれど、答えを出すのはすぐにあきらめた。いまはそこよりも、あんなみっともないところを見られたのに、それでも那桜のことを考えてくれていることがわかっただけでいい。

 那桜は独りそっと笑って、布団の中に潜りこんだ。まもなく足音が近づいてきた。足音がするということは拓斗じゃないということだ。
「那桜、熱があるの?」
 ドアが開き、詩乃が声をかけながら寄ってきてベッドの横に立った。那桜を心配そうに見下ろしつつ、やっぱり手がおりてきて那桜の額に触れる。
「わからないけど、寒気するから……」
「熱いわ。測ってみて」
 詩乃から体温計を受け取って腋に挟んだ。
「風邪かしら。めずらしいわね、那桜が病気だなんて。小さい頃はよく熱出してたけど、いつのまにか病気の心配なんてしなくてよくなったのよね」
 計測している間、ベッドに腰かけた詩乃は思いだすように宙を見つめている。
「そう云われれば、あんまり学校休んだ覚えないかも」
「あ、中学のとき、一度インフルエンザ(かか)ったわよね。それくらい?」
「最近はそれくらいかな」
 那桜は自分に目を戻した詩乃にうなずいて見せたけれど、思い返しているうちに薄らとした記憶が表面に浮上した。
「でも……それよりずっとまえ、病院にいた記憶あるんだよ」
「覚えてるの?」
 那桜がぼそっとつぶやいたことは何気ない事のはずが、詩乃の問い返した声は硬く、表情もわずかに強張って見えた。
「あんまり。点滴? それだけ残ってるかな……」
「肺炎だったのよ」
「酷かった?」
「入院するくらいだから」
 詩乃はこれでおしまいと云わんばかりだの口調だ。
「いつ?」
 那桜が訊ねると同時に体温計の電子音が鳴った。
「八度六分もあるわ。頭痛い?」
「ううん。だるいだけ」
「病院、どうしようかしら」
 詩乃は那桜を見つめ、考えこんで首をかしげている。
「これくらい平気。酷くなったらまた呼ぶよ」
「そうね。熱は無理に下げないほうがいいし。何か食べたいものある?」
「いらない。あ、でも、あったかいお茶が飲みたい」
「わかったわ」
 詩乃は体温計をケースにしまって立ちあがった。

 詩乃が出ていったあとで、那桜は入院のことについて中途半端なまま聞きそびれてしまったことに気づいた。
 そのときがどうだったにしろ、いまは気遣う必要がないほど躰はなんともなく、つまり重要なことではないし、記憶を探ってもそれ以上のことは取りだせない。入院するくらい酷かったわけで、肺炎とくれば高熱だろうから、そのぶん明確には記憶に残っていないのだ。
 もう思いだせない、と(さじ)を投げてため息をついたとき、またドアが開いた。
 今度はトレイを手にした拓斗だ。

「拓兄、ありがと」
 起きあがるのと同時にトレイが差しだされ、那桜はマグカップを取った。恐る恐る口をつけると、ちょうど飲めるくらいの熱さに抑えられている。那桜が飲む間、拓斗は机に腰を引っかけて待っていた。
 出ていってほしくはない。それよりもしてもらいたいことがある。
「なんだ?」
「……え?」
 拓斗の質問はタイミングがよくて、一瞬、心の中を読まれたのかと思ったけれど、すぐにそんなことはないと思い直して首をかしげた。
「来てって云うから来た。話があるなら聞く」

 那桜の要求を拓斗は勘違いしているようだ。もしくは拓斗自らが那桜に打ち明けてほしいと思っているのか。
 何を。それは和惟とのことに違いない。けれど、自分でもよくわかっていないことであり、うまく伝えられる自信もなく、ましてや那桜の躰が和惟に応えていたところを拓斗が見ていたのかどうかもわからない状況下、いま話すにはいろんな誤解を招きかねない。その怖れを今更と云われても、出ていけとは云われたくない。

「もういいよ」
 那桜は憂うつな気分がぶり返して、マグカップを拓斗に差しだした。拓斗が受け取ると、那桜はまた布団の中に戻った。答えなかったことで出ていくかと思いきや、目の端に映る拓斗は机にトレイを置くと、また同じ体勢に戻って立ち去る気配がない。
 天井を向いていた目を拓斗へと移す。
「拓兄」
 那桜が呼びかけると、拓斗は口にするかわりにわずかに首を動かした。
「手を貸してほしいの。こっち来て」
 拓斗は反応せず、ただ那桜を見ている。那桜もまた拓斗を見つめていると、そのうち拓斗は躰を起こした。ベッドの傍に来て差しだされた手を取ると、那桜は自分の額に当てた。伴って拓斗が不自然にかがむ。
「眠るまでこうやってて」
 座って、と云うかわりに空いた手でベッドの端を叩いた。拒絶を示されるまえに、那桜は目を閉じる。
 しばらくしてベッドが揺れた。

 額の手は母の感触とは違う。デートのときもそうだったけれど、不思議な感触だ。
 ふわふわした気分になる。熱のせいでただの勘違いかもしれない。
 それでも、那桜はやっぱり懐かしいと思った。

BACKNEXTDOOR