禁断CLOSER#12 第1部 解錠code-Dial Key-

4.挑発 -1-


 昨日の頭痛がきれいさっぱりなくなっているのはいいけれど、それとは別に頭が痛い。那桜は玄関に入ると足を止め、肩を落としてため息をついた。
 ただいまを云うまもなく、玄関の引き戸の音を聞きつけたんだろう、リビングからこもった足音がして廊下まで近づいてくる。
「おかえりなさい。どうしたの?」
 顔を見せた詩乃は首をかしげ、肩までの緩く上品にカールした髪をふわりと揺らした。
「ううん。果歩たち、明日は十一時に来るんだって」
「サンドイッチくらい作ろうかと思ってるんだけど」
「あ、ホント? 広末くんいるし、足りないかもって思ってたからよかった。わたしも手伝うよ」
「それくらい大丈夫よ。クリスマスツリー出してるから」
「うん」
「お昼ご飯待ってたの。早く食べましょ。拓斗は?」
「車の中で電話してる」
 那桜が答えると、詩乃はかすかに首を振り、リビングへ引っこんだ。

 十六才と幼くして有吏家に嫁いできた詩乃は、いまの那桜の年にはすでに拓斗を身ごもって子供を持った。自分を考えると想像がつかない。
 今年、三十九才という詩乃は、娘である那桜から見ても母親というよりは女性という感じがする。きれいというには(はかな)すぎて、そのとおり頼りない印象がある。
 対して、詩乃より七才上の隼斗は年齢不詳の存在感があり、そこからくる怖いという印象を排除すれば顔立ちは申し分なく、だれもが(うらや)む父親だ。兄たちは忠実に隼斗の血を引いている。おまけに、娘である立場から云うのもへんだけれど、詩乃の上品さがプラスされていて、いいとこ取りばかりだ。
 隼斗と詩乃のふたり、ということについては、一見すれば、隼斗のほうが優勢な夫婦だと思うだろう。会話はそう弾むことはなく、どこか他人行儀だ。
 その実、隼斗は、詩乃が出かけるときは仕事を空けてまで必ず付き添い、あまりない詩乃の発言には注意深く耳を傾けている様子がありありで、隼斗のほうがなんとなく気を遣っているのがわかる。気を遣うというより気にかけているといったほうがいいのか。
 詩乃の両親は、那桜が四才という記憶にない頃に相次いで亡くなっている。五才年上の姉がいたということだけれど、詩乃が嫁ぐまえに、その夫とともに突如として行方不明になったらしく、失踪宣告のもと死亡とみなされている。よって身寄りがなく、隼斗はそのぶん気にかけているのだ、と那桜は勝手に見当をつけている。詩乃はどこか旧家の出身らしいが、あくまで“らしい”であって、はっきりと聞いたことはない。
 親子という極々親しい距離にいる那桜から見ても、けんかをしないかわりに愛情のまったく見えない不思議な夫婦だ。
 兄たちがその夫婦の位置関係に気づいているのかどうかは知らない。ただ、隼斗はとにかく、那桜たち子供の前では不必要に威厳を保とうとしている嫌いがある。
 そうわかっていても、那桜は厳格な顔つきに怯むことが多い。

 その隼斗の顔を思い浮かべたとたん、那桜は気がふさいで、ペニーローファーを脱ぎながらまたため息をついた。
 LDKのドアを開けると高菜ライスの匂いが漂ってきて、浮かない気分でも那桜の食欲をそそる。いつか一族の集まりのときに、福岡からやって来た従姉が美味しいからと作ってくれて以来、那桜の大好物だ。
「美味しそう」
「でしょう。那桜は高菜ライス大好きだもの。躰が温まるようにコショウをきかせてるから」
 詩乃はにっこりして、リビングのほうを指差した。それを追うと、那桜の背くらいあるツリーがほぼ飾りつけの終わった状態でソファの横に置かれている。ツリーがあるだけで殺風景な部屋の雰囲気がにぎやかだ。
「着替えてきなさい。制服はクリーニング出しておくからまた持ってきてちょうだい」
「うん。このツリー、拓兄が来たら二階まで上げてって云ってくれる?」
「わかったわ。那桜、成績表は?」
「あー、ちょっと待って」
 催促が来ないわけはなく、高菜ライスの即効力はついえて、那桜は沈みながらも努めて平静を装い、鞄を探った。詩乃が対面式のキッチンに引っこんでいることを幸いに、那桜はダイニングテーブルに成績表を置いた。
「ここ置いとくね。着替えてくる」

 那桜はそそくさとリビングを出て部屋へ向かった。とりあえず、詩乃の第一反応は目にしなくてすむ。階段を上がって部屋に入ると、暖房をつけて机に鞄を置いた。
 那桜は鞄の中身を片づけながら、三学期を頑張ればいいんだし、と自分をなぐさめる。
 憂うつなのは二学期の成績が思わしくなかったことに()る。もともと普通の上くらいのレベルまではできているはずが、兄たちのおかげで両親たちの評価は(かんば)しくない。加えて今回の結果だ。

 山積みで与えられた課題を机に重ね終わった頃、暖房がようやくきき始める。那桜はドアの横にあるチェストからセーターとスカートを取りだし、暖房の風が当たるベッドヘッドの脇まで行って服を枕もとに放った。

 テストの点数はいつもと変わらず、ほどほどに取れていたけれど、ほかの考慮事項でプラスマイナスを見れば見事に成績はマイナス評価だ。それがなんのせいかはわかっている。有吏の名を持ってしても成績表の数字までは効力がないらしい。
 だからといって十点も減点する必要があるんだろうか。
 愚痴を零したものの、先生からすればまるで云いがかりだろう。規律正しい振る舞いということに重点を置く青南だからこそ、ということもわかっている。那桜は自業自得の行動を後悔した。
 詩乃はともかくとして、隼斗を思うとそのリアクションが想像できない。いつもの渋面が鬼の形相にならないようにと祈った。もっとも、拓斗の冷ややかな無表情よりはましだろうか。
 とはいっても、最近は冷ややかさがなくなってただのマスクになりつつある。
 拓斗のマスクを剥ぐにはやっぱり突拍子もない行動がいちばんだ。付随して那桜の愚行ぶりがどんどん度を増していくけれど、たぶん拓斗には何をやったところで汚名返上はきかない気がする。
 帰りの車中では成績表のことなんて触れられずにすんだけれど、昼ごはんを一緒に食べるとなると、拓斗も那桜の成績を知ることになる。
 もう今更だ。

 そうつぶやきながら、制服のスカートをベッドに置いて、上半身はキャミソールまで脱いだ。インナーを取ろうとしたところで、それを出し忘れているのに気づいた。素肌にセーターはちょっとスカスカするし、チクチクとした不快さもある。まだ温もりきっていない部屋の中は肌寒く、那桜は肩をすぼめながらチェストに戻った。
 そのとき、不意打ちで壁の左右真ん中にあるドアが開いた。部屋に侵入してきたのはクリスマスツリーだ。といってもツリーが歩いてくるはずはなく、拓斗が断りもせずに入ってきた。
 どうしてあんな重いもの持っているくせに足音立てないんだろう、と拓斗を責めたくなったけれど、那桜が依頼したことで、尚且つ両手がふさがっている以上、ノックなしに入ってこられても文句は云えない。
 那桜は自分の格好を気にしないわけにはいかず、いないふりをした。が、忍者のようにドロンと消えてしまうなんてできない。そして、そうすれば見つからないだろう、と頭が根拠なく考え至って、那桜はチェストに背中をくっつけた。とたん、逆にその動作が拓斗の目を引いた。
 那桜は息を止めた。
 兄妹だし、どうってことない。
 自分に云い聞かせる内心の口ぶりとは裏腹に、躰が赤く染まったかもしれないと思うほど、那桜の体内を流れる血は火照って動転している。
 拓斗の目が那桜の全身に及ぶ。それが一点集中に変わって、那桜の瞳から胸へと下りていく。
 那桜は半ばパニックになりながらも、かろうじて冷静な思考が、どこかで経験した眼差しと同じであることに気づく。無表情なのに何かが潜んでいる瞳。
 どこで、いつ?
「どこだ?」
「え……?」
 躰を伝う視線がつと那桜の顔に戻り、それから訊ねた拓斗の声はいつもと至って変わらない。『どこ』が重なって拓斗が何を云っているのか、瞬時にはわからなかった。
「ツリーだ」
「あ……えっと、窓際でいい」
 那桜は慌てて奥の窓を指差した。拓斗は軽々と運んで引き返してくる。ただの視線の流れなのか、那桜はまたざっと眺められたような気がした。
「頭痛の次は風邪ひくつもりか」
 すれ違いざま、拓斗は云い残して部屋を出ていった。

 躰がぷるっと震える。寒さのせいか動揺のせいかはわからない。
 那桜は混乱を払拭できないまま一つ深呼吸をした。少し落ち着いて、チェストからインナーを取りだすと素早く身につける。
 いまみたいな場合くらい、盛大にからかっていってほしい。戒斗ならそうするはずだ。せめて自分がおちゃらければよかった。
 そう思ったところで思考が一瞬中断し、それから考えてみた。さっきのことが戒斗だったらどういう目で那桜を観るのか。戒斗なら、まさに“観察する”だろう。
 けれどさっきの拓斗は違った。兄として観察する目とは違う“何か”。
 昨日の那桜と同じなのかもしれない。
 血の繋がりを逸脱(いつだつ)したキス。那桜の指先越しでも、あれはキスしたのと同じこと。
 意外に拓斗は昨日のキスを引きずっていて、拓斗が兄であるまえに男だと那桜が思ったように、拓斗はさっき、妹という立場を一瞬にしろ那桜から除外したのかもしれない。
 よくよく考えれば、無駄口を叩かない拓斗が出ていく間際、かわすようなセリフを残すなんて普通じゃない。それが拓斗なりの動揺だとしたら。
「なあんだ」
 那桜はつぶやき、独り可笑しくなってそれまでの動揺はすっかり飛んだ。クリスマスツリーを持ったまま、つかの間とはいえ立ち尽くした拓斗は滑稽でもある。憂うつまでも消えて、鼻歌を歌いたくなるような気分で着替えを終わった。

「那桜、まだ?」
「すぐ行く!」
 階下からの詩乃の呼びかけに答え、那桜は制服を持って部屋を出た。
 リビングへ入ると、すでに拓斗は席に着いて食べ始めている。
「拓兄、また出かける?」
 那桜は隣に座って拓斗を覗きこんだ。いつもどおりにちらりと視線が向いて、また目の前の高菜ライスに戻った。
「大学に戻る」
「あ、そっか」
 那桜は自分が早く終わっただけに今日が平日だという意識がなかった。那桜のために時間を割くことを拓斗はどう思っているんだろう。まるっきり無駄な時間になっているのに、脱走のときは別にして、そのことで文句を云うことはない。本音を聞いてみたい気がする。
 いつか解錠が終わったら訊ねてみようか。
 那桜は密かに楽しみを見いだした。

「那桜、食べるまえに」
 お箸を取って早速食べようとした矢先、さっき那桜を呼んだときとはがらりと口調を変えて詩乃が制した。成績のことだと馬鹿でもピンとくる。
「うん」
「どういうこと? テストは悪くなかったはずよね?」
 詩乃はテーブルの隅っこに置いていた成績表を開いて那桜に差し向けた。拓斗の手が止まったのを目の端で捉える。
「えっと……忘れ物が多くて。たぶんそのせいだと思う」
「忘れ物?」
「いまは大丈夫」
「一回や二回じゃなくて、こんなに減点されるくらい忘れ物したってことよね?」
 詩乃はさすがに母親で鋭く突いてきた。
「ごめん」
「わたしに謝ってどうするの。拓斗、あなた知ってたの?」
「知ってようが、おれには関係ない。那桜が挽回することだ」
 冷たい云い様だ。
 たしかに動機は不純極まりないけれど、拓斗に関係ないことではない。拓斗のせいであんなことしたのに。
 那桜は理不尽さを押しやって、内心で拓斗に責任をなすりつけた。
「だからって、母親には云うべきことでしょう。こんなに下がるなんて。お父さんになんて云うの」
「わたし、三学期に頑張るよ。減ったぶん倍返しする! お父さんにもそう約束する」
「ほんとにできるの?」
 詩乃が念を押すのを受けて、那桜は拓斗を見やった。
「拓兄、家庭教師やってくれるよね?」
「忙しい」
「戒兄は叶多(かなた)ちゃんの家庭教師、ちゃんとやってたよ。戒兄にできて拓兄ができないってことはないよね?」

 八掟(はちじょう)叶多は那桜より四つ下の従妹で、今年、中学受験で青南に合格して編入してきたばかりだ。その受験の際、戒斗は叶多の家庭教師をしていた。戒斗が変わったことも、この夏、急に家を出たことも、叶多のせいではないかと那桜は思っている。

 戒斗のことを引き合いに出すと、拓斗は那桜に目を向けた。かわりに那桜が視線を外して詩乃を向いた。
「お母さん、いいよね?」
 詩乃は眉をひそめ、難色を示したかと思えば、
「拓斗がいいなら」
とため息をついて拓斗に返事を任せた。
「じゃ、決まり。拓兄、よろしくね」
 拓斗の無言をいいことに、那桜は勝手に結論づけた。

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