禁断CLOSER#11 第1部 解錠code-Dial Key-

3.触接 -3-


 那桜の訴えに沿って拓斗は場当たりのカフェに入った。三時を過ぎてちょうど休憩したくなる時間帯のせいか、店内は混雑している。
 先立っていく拓斗の腕に引っ張られて、唯一空いている、窓に面したカウンター席に進んだ。
 那桜の背からすればカウンタースツールは座る位置が高すぎた。拓斗が軽々と腰を引っ掛け、しかも足が地についているのに比べ、那桜は座るのさえ手間取った。
 椅子のステップを使うのに、コートとニットのミニワンピースがそれぞれによれてしまって、下りてはまた座り直した。それを三回繰り返すと、拓斗はさすがに見兼ねたのか、那桜の右腕をつかんで躰を引き上げるのを手伝った。
「ありがと」
 ほっと一息ついて今日二回目のお礼を口にしても、拓斗は云われること自体面倒くさいんだろう、那桜をちらりと見ただけであとは興味なさそうに窓の向こうに目をやった。
 程なく女性店員がメニュー表を持ってきた。拓斗に向けた笑顔がオーバーなほど愛想よく見えるのは気のせいじゃなく、立ち去り際に拓斗から那桜に向いた店員の目は仕事を忘れて、あなたじゃもったいないと云わんばかりの対抗意識が見えた。
 拓斗がそういったことに気づいているのかどうか、少なくとも表面上は無関心で、拓斗は受け取ったメニューを見ることもなく那桜に手渡した。

「拓兄、これ食べていい?」
 那桜はすぐに選びだし、デザートの載ったページを拓斗に見せて、苺のワッフルを指差した。
「おれは食べない」
 一カ月前のことを思い起こしたらしく、拓斗はまえもって那桜が余計なことを云いださないように食い止めた。甘い物はどうでもいいというよりはとにかく避けたいようだ。那桜は首をかしげて拓斗を覗きこみ、じゃあわたしだけ、と可笑しさを堪えきれずに笑みを漏らしながらメニュー表を渡した。
 拓斗が注文したあと、那桜はふと思いついてカウンターに置いたバッグから携帯電話を取りだした。保存していた画像を呼びだして、このまえ撮った、和惟が云うところの『間抜け写真』を拓斗に見せた。
 いかにも渋々といった表情でも、ケーキを前にして口を半端に開けた拓斗は間抜けじゃない。
「拓兄って写真写りもいいんだね。ずるくない?」
「何が」
 携帯電話の写真はちらりと見ただけで、拓斗は那桜を向いた。
「拓兄も戒兄もあんまり自覚がないみたいだけど……ていうより、きれいなことがあたりまえになってるから、自分がどう見えるかなんて気にしてないんだよね? わたしは拓兄たちのせいで肩身が狭い。ふたりとも成績優秀だし、いっつも妹だってわかると、“え?!”って顔される。拓兄はまえに恥曝しになるようなことはするなって云ったけど、わたしが妹って知られるだけで恥曝しになってると思わない?」
「解釈が間違っている」
 拓斗はあっさりとたしなめた。否定はしてくれなかったけれど、ちょっとはうれしいかもしれない。

「でもね……」
 那桜は携帯電話をカメラモードに切り替えると、拓斗の腕をつかんで引き寄せると同時に那桜は拓斗の肩に顔を傾けてこめかみを引っかけた。
「那桜」
「初デートの記念! 笑って、拓兄」
「那桜、こういうことがはしたないと云ってる。このまえの和惟とのこともそうだ」
 いきなり和惟のことを持ちだされて、那桜はかざしていた携帯電話を下ろしながら顔を上げた。椅子のせいで那桜の目線がいつもよりずっと高くなり、ほんの間近で拓斗の目と合う。声と同じでその瞳には批難も何も浮かんでいない。けれど何も思っていなければ蒸し返さないはずだ。
「見えないところならいいの?」
屁理屈(へりくつ)は無駄だ」
 にべもなく拓斗が答えると、那桜は何かをごまかすように意味もなく笑った。
「あ、ケータイ!」
 那桜が視線を前に戻して不意に叫ぶのとまた拓斗の肩に顔を預けたこと、そして拓斗がつられて那桜の携帯電話に目を向けたのが同時になった。シャッター音が鳴る。
「那桜」
「こういうこと、だれでもやってることだよ」
 拓斗の肩から顔を上げた那桜は顔を近づけ、隙間が五センチあるかどうかという至近距離で、悪びれることもなくおもしろがって囁いた。
 なんとなく拓斗から不穏な気配が漂ってくる。
「拓兄は近くで見てもきれいだよね」
 那桜は云いながら手を拓斗のくちびるに持っていった。
「わたしは?」
「那桜」
 人差し指と中指の二本の指先の下で拓斗のくちびるが動いた。名を呼ぶだけで警告するも、拓斗は那桜の手をどかすでもない。それもまた不動の感情がなせる(わざ)だろうか。
「どう?」
「生まれたときからずっと見てきてる。そういう感覚はわからない」
「ずっと? 嘘。拓兄はわたしのこと、気にもかけてなかったよ。それに、きれいなものはきれい。汚いものは汚い。だって。わたしは拓兄をずっと見てきたけど、拓兄のこと、きれいだってわかる」

 拓斗の容姿を表現するならきれいという言葉では足りない。その言葉に潜む軟弱さは見当たらず、ただ研ぎ澄まされた氷のように美しく魅せる。凍りついた瞳にひとたび瞳を重ねると、尖った氷の先で突き刺したように射抜かれてなかなか逸れることがない。無に冷えた眼差しが怖いと思うこともあった。いまは怖いというよりも、那桜に無謀な衝動を冒させる。
 駆り立てられるままに身を乗りだして、那桜は目を伏せた刹那、拓斗のくちびるに触れた自分の指先に口づけた。
 顔を起こすと同時に拓斗の手が那桜の手首をつかみ、その目は細く狭まった。
 何か云いたそうだと那桜が小言を覚悟したとたん、人が割りこんでその突飛な期待は叶わなかった。

 横を見上げると、さっきの女性店員がトレイを携えて立っている。
「お待たせしました」
 店員はためらいがちに声をかけた。
 拓斗が手首を解放し、那桜は拓斗の太腿についていた手を離して躰を起こした。
 店員は営業スマイルを浮かべているものの、メニューを持ってきたときのうっとりした表情と違い、どこか困惑した様子でふたりの間からケーキ皿をカウンターに据えた。さっきのお返しに那桜が笑殺すると、店員はコーヒー二つと会計伝票を置き、ごゆっくり、と軽く会釈をしてそそくさと(まかな)い場へ消えていった。
「ここでは“有吏”だって名乗ったとしても、だれもなんとも思わないよ」
 那桜、というお咎めが来るかと思って軽い調子で云ったのに、おもしろがった様子がないのはもちろん、拓斗は不愉快さまであっというまに処理したらしい。何事もなかったようにコーヒーカップを手に取った。
 見境のない行為はまったく台無しになって、那桜は内心でがっかりした。
「でもね、やっぱり拓兄たちの妹って立場、わたしは不相応って感じ。縛られてて嫌だけど、いざ自由になっても戒兄みたいにわたしは動けないかも。拓兄もすましてやりたいことやってるし」

 拓斗を覗きこみながら当て(こす)っても、白を切りとおすつもりなのか眉一つ動かすことなく平然としている。
 一時間前に見た拓斗と有沙の雰囲気から、少なくとも拓斗に“好き”があったとは思えない。それなのに那桜みたいな後ろめたさなんて感じていないどころか、ナポレオン・ボナパルトもどきで、そういう言葉は拓斗の辞書にないのかもしれない。
 その点では和惟も同じだ。ふたりとも、“好き”とは別のところで性衝動を処理してもあたりまえのことみたいにしている。和惟に至っては、そのために“愛する”という言葉をいけしゃあしゃあと口にする。
 那桜にしろ、“好き”に関係なく快楽を自分から和惟に求めてしまった。
 今し方、拓斗が和惟のことに触れたときは責め立てられたように感じて、どこかで認めたくない後ろめたさがますます現実化したのだ。
 わたしは、どこで、なぜ、“後ろめたさ”を覚えてしまったんだろう。
 ふと那桜はそんなことを考えた。

「つまり、わたしは独りじゃなんにもできないかもって不安」
 これはおどけているわけでもなく、那桜の正真正銘の不安なのだ。いつまでも子供の立場でいられるわけはなく、いざご自由にどうぞ、と放されて普通にやっていけるんだろうか。
「おまえはそれでいいようになってる」
 それはけっしてなぐさめではない。むしろ、那桜の意思は認められないとあらためて宣告されたようなものだ。
「どういうこと?」
「いずれわかる」
 ぞっとする言葉だ。自分のことなのに、その那桜だけが何も知らない。拗ねた気持ちが心いっぱいに満ちて、それからは喋るのでさえ億劫になった。
 不機嫌な那桜に気づいているとしても、拓斗は我関せずといったふうだ。那桜に絡まれなくてむしろほっとしているのかもしれない。
 せっかくのワッフルも味気なくなり、突くように食べ終わるとカフェを出た。

「どこ行きたいんだ?」
「どこでもいい」
 カフェに入るまえと同じ返事なのに、気分も声音も逆さまになっている。
 拓斗はそんな那桜を気に留めることもなく勝手に歩きだした。ウィンドウショッピングという疑似デートはたわい無く、わくわくした空間は那桜にとって蟻の巣と変化(へんげ)して、人がうじゃうじゃと蟻の行列みたいにすれ違う。
 頭痛い。
 気分と相俟って頭の奥がずきずきと(うず)いてきた。たぶん人酔いだ。大勢の人がいる場所に慣れていないだけに、出かけるとたまにこうなる。人の間をすいすいと縫っていく拓斗についていけず、一歩足を動かすたびに頭に響いて那桜は遅れがちになった。
「拓……」
 呼び止めようと口を開くと、頭痛がこめかみまで表面化して那桜は顔をしかめた。
「那桜」
 拓斗は立ち止まった那桜に気づいて寄り戻ったらしく、うつむけた頭上で問うような声がした。
「頭痛い」
「空気が悪い。とにかくここは出るぞ」
 拓斗は肩に掛けたバッグを取ると、右手をつかんで那桜のペースをかまうことなく引っ張った。
 急ぎ足のせいで息があがるのと比例して鼓動が速くなり、その脈に合わせて頭痛も酷くなる。一階におりるのにエレベーターに乗ると、頭痛だけが鮮明になって座りこみたくなるほどだ。
 狭い空間の中、那桜は必然的に拓斗の躰に寄りかかる。繋いだ手と反対の手がかばうように那桜の腰に添えられている。なんともなければこの体勢を利用してふざけるところだけれど、こめかみから伝わる拓斗の鼓動も(うっす)らとしか感じられないくらい那桜自身の脈動がうるさい。
 エレベーターを降りると、出口まで一気に通り抜けて建物を脱出した。淀んだざわめきが消えたかわりに、冷たい空気に触れて那桜は肩をすぼめた。その動作一つも頭に響く。
「駐車場まで行けるか」
 那桜はゆっくりとうなずいた。ここまで酷くなれば薬を飲まない限り、歩こうが横になろうが同じでどうしたって治まらない。
 けれど、頭痛に気を取られるなかで、拓斗が気遣っていることを知ると、那桜の不機嫌さも少しは晴れた。力の抜けた手は拓斗がしっかりと握りしめて緩むことがなく、那桜は不思議な心地を覚える。が、いまは思考力が鈍っていて、不思議を解明するには至らず、拓斗に任せてついていった。

 駐車場まで十分強、拓斗が那桜の手を離して定位置である運転席の後ろのドアを開けようと手をかけた。
「前がいい!」
 急いでさえぎって那桜はまた顔をしかめた。拓斗はかすかに首をひねり、助手席に回ると、那桜はそのあとを追う。助手席に納まって那桜がのろのろとシートベルトをしている間に、拓斗は運転席に乗りこんでエンジンをかけた。
「拓兄、寝ていい?」
「らくにしてればいい」
 拓斗は那桜の問いかけをそのまま受け取った。その返事をいいことに、躰の左側にかかるシートベルトから左腕を抜くと那桜はちょっと躰をずらして、拓斗が察するまえに横向きに躰を倒してその太腿に頭を預けた。
「那桜」
「枕。あったほうがラクなの。運転の邪魔にはならないよね」
 目を合わせたら拒否されそうで、那桜はあえて仰向かずに横向きのまま目を軽く閉じてつぶやいた。拓斗の脚は柔らかくはないけれど、ちょっとした悪戯心とは別に、体勢的には実際らくだ。
 拓斗はあきらめたようで、ハンドル横のギアに左手をかけて車を出した。すぐに車内が明るくなって地下の駐車場を出たとわかる。
 那桜は手を上げて拓斗の左手をつかむ。抵抗にあうこともなく、その手のひらを自分の額に当てた。
 やっぱり不思議な感じだ。なんだろう、この感触。
 額の手と肩にかかる腕の重みが心地よくて那桜は目を閉じた。

 *

「那桜、着いたぞ」
 その言葉と同時にエンジン音が消えて静かになった。“枕”がわずかに動き、目が覚めていくにつれ那桜の頭痛もまたぶり返した。
「……和惟、頭――」
「那桜」
 声に潜む叱責に那桜ははっと躰を起こした。急に動いたせいで痛みはいきなり鮮明になり、追い打ちをかけるように拓斗の冷ややかな眼差しが那桜に注がれる。
 まただ。知らないうちに眠っていて状況を間違った。
「あ……」
 取り(つくろ)う言葉が探せないまま、那桜は苦痛に顔を歪めた。
「まだ痛いのか?」
「……うん。薬飲まないと無理」
 拓斗はそれ以上に咎めることも追求することもなく、ひとまず那桜はほっとする。無関心ぶりもこのときばかりは助けになった。
 車を降りて拓斗が助手席のドアを閉めると、那桜は眉間にしわを寄せて頭痛を主張しながら首をかしげた。
「なんだ」
「おんぶ」
「歩けるはずだ」
 那桜は気まずさをごまかすのにふざけてみたけれど、拓斗は軽くあしらうと背中を向けた。拓斗の気遣いもさっきの失言でさっぱりと消えたようだ。
 敷地内の駐車場から家の玄関まで二〇メートルはある。寒かろうが、そこ、と思うと余計にかったるく、動く気になれない。那桜は座りこんで車に寄りかかった。

 このまえ和惟が送ったときと同じで、那桜の時間は、環境が閉鎖的であるがゆえに簡単に逆行する。
 戒斗が那桜のお守りをしていた間はこういう失態なんてなかった。それだけ戒斗は那桜の扱いが上手だったといえる。戒斗に対しては何も不満を抱いたことがなく、逆に那桜が要求するまえに先回りされていた感がある。あまり考えなくてすんだ。和惟とのことも。
 だから、那桜は解決できたと自分自身に勘違いさせたのかもしれない。
 やっぱり和惟とのことは逃げたにすぎなくて、戒斗がいなくなったことで逃げた時間もなくなった。
 拓斗と和惟は切り離せない。また、拓斗がいる限り、和惟は何もできない。何よりも、いまは和惟も隠したがっている、もしくは打ち明ける気はないようだからまだいい。けれど、和惟はわからない。
 どうしよう、拓兄に知れたら……。
 ううん。知られたってなんともない。だって、わたしよりすごい子はたくさんいるんだから。有沙さんのことを考えると、きっと拓兄自身だってわたしを批難できるほど品行方正じゃない。
 那桜はそう自分をなぐさめてみたけれど不安は(ぬぐ)えない。拓斗に知られたからといって何が怖いのか、それ自体がわからないのだ。

「那桜」
 頭上から呼ばれて、那桜は膝に埋めている顔を上げた。とっくに家に入ったはずが、足音もなく拓斗が戻ってきている。拓斗は那桜の腕を取って立ちあがらせると背中を支えるように押した。
 和惟を苦手だと避けたがるくせに和惟との(ちか)しさが漏れる。一貫していない那桜の言動は、軽蔑とまではいかないまでも呆れさせているはずだ。それでも拓斗は連れに戻った。
 安堵した気持ちが那桜に笑みを返らせた。背中に置いた手を逃れて、那桜はその浮いた手をつかむ。拓斗の手の中で力を抜くと、デートの名残なのか動物的本能なのか、(ほど)けないように握り返された。

 あったかい。

 その不思議な心地はたぶん懐かしさだ。記憶にはないけれど、ずっと幼い頃はこういうこともめずらしくなかったのかもしれない。
 那桜は独擅場(どくせんじょう)で想像をつけた。

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