禁断CLOSER#9 第1部 解錠code-Dial Key-

3.触接 -1-


 昼休みになると教室の中は思い思いに移動が始まる。果歩もそうで、お弁当を手にしていちばん前の席から真ん中にいる那桜のところにやってきた。果歩は前の空いた机をくるっと回し、那桜の机にくっつけて向かい合った。
 十二月という寒い時期は、一部の男子を除いて暖房のきいた教室から出たがる子はいない。ほかのクラスに行ったり、ほかのクラスからやってきたりする子もいてうまい具合に入れ替わり、それぞれのグループが定位置を確保している。

「広末くんは?」
 果歩はちらりと教室を見回してから訊ねた。
「パンとジュース買ってくるって云ってた」
「ふーん。なんだかすっかり定着しちゃったよね」
「え?」
「昼休み、広末くんがいること」
「そうだね」
 那桜がちょっと首をかしげて大したことないように相づちを打つと、果歩はため息をつきながら笑った。
「鈍感なのか、それともまるっきりなんともないの?」
「噂のことならちゃんとわかってるよ」
 無神経だと云われた気がして、那桜はむっつりと云い返した。

 一カ月前の脱走を試みた日、翔流と手を繋いで駆けているところをだれかに目撃されたらしい。次の週明け、学校へ行くと、帰る頃には少なくとも同級生の間で、那桜と翔流は付き合っているという噂が出回ってしまった。
 翔流がモテるだけに、那桜は何度も突撃訪問を受けて、そんなんじゃない、とそのたびに否定している。翔流のところにも当然ながら追究があるだろうに、それにどう対処しているのかは教えてくれない。
 いまだ沈静したとはいえず、那桜を前にしても遠慮なく囁きが届く。
 止まない理由は、那桜と果歩のふたりだけだったお弁当の時間に、翔流が合流するようになったことにもよるだろう。そうし始めたのは噂のたった翌日だから、那桜の否定は無駄になっている感がある。もう知らないふりをするしかない。

「だから那桜、噂のことじゃなくって広末くんのことだよ」
「……噂も広末くんも同じことじゃないの?」
「そうなんだけど。やっぱり那桜、肝心なことがわかってな……」
 果歩は中途半端なところで口をつぐんだ。ちょうど翔流が帰ってきて、隣の椅子を引っ張りだすと、那桜たちが合わせた机の側面につけた。
「広末くん、早いね」
 あの競争率の激しい食堂でこんなに素早く買えるとはさすがに男子だ。那桜はいまだかつて残り物しか手に入れたことがない。
 見上げた翔流は可笑しそうに口を歪めた。
「こういうのは待ってるからダメなんだ。ま、有吏の体力じゃ無理だろうな。押し入るどころか押しだされそうだし」
 那桜が文句をぶつけるまもなく、手狭な机にパンと缶コーラを置いた翔流は、いったん自分の席に行って弁当箱を持って戻ってきた。
 その間に那桜は抗議する気が失せた。慢性の運動不足で、体力の無さは自分でもわかっている。
 翔流は弁当を開けると豪快に食べだした。大ぶりの弁当では足らず、パンまでとはどこで消化できているんだろうと思う。翔流は早く食べだしていた那桜たちに簡単に追いつく。
 果歩も思っていることは同じようで、那桜と顔を合わせると呆れた素振りで小さく首をすくめた。

「那桜、クリスマスはどうする?」
 お弁当を突きながら、果歩は思いついたように訊ねた。
「うん、ウチでやっていいって」
「よかった。プレゼント交換――」
「なんだ、有吏んちでやるって?」
「質素だけど、クリスマス会みたいなもの。毎年、どっちかの家でやってるの」
「んじゃ、おれも参加」
「え?!」
 那桜と果歩が声をそろえ、加えてぎょっとした顔で見ると、翔流は不機嫌に顔をしかめた。シュークルカンディに一緒に行った日と同じリアクションだと三人ともが気づく。
「なんだよ、その反応」
「わたしは普通の反応だと思うけど。普通ね、女の子二人の間に男一人で割りこむかな」
 果歩は客観的に指摘すると、那桜も賛同してうなずく。
「いいだろ、別に」
「ま、広末くんの目的が何かってのは見当つくよね。わたし、広末くんが噂の追及になんて答えてるか興味あるんだけど」
 果歩は急に話題を変えた。どこかおもしろがっている声で、対して翔流はなんでもないことのように肩をそびやかした。
「そういうのにいちいち応じてられるかよ」
「へぇ。否定しないことと、こんなふうにわたしたちの間に入ってくることって結局は噂の裏付けになってるんだよ。わたしってかなり間抜けな邪魔者になってる気がしないでもないけど」
「果歩、何それ?」
 那桜が眉をひそめて口を挟むと、果歩のしたり顔は呆れた様に変わった。
「那桜、考えるまでもなくわかるはずだよ」
「飯田、おまえは何も云うなよ。おれが“男”だってこと、忘れんじゃねぇ」
「はいはい」
 翔流の大げさな云いっぷりに、果歩はおどけて降参するように手を上げた。
「んで、クリスマス会っていつだ?」
「本気で来る気?」
 那桜は半分に切ったミニトマトを食べて、口をもごもごさせながらびっくり眼で翔流を見やった。

 このまえの脱走劇で、その日は何も(ただ)すことはなかったのに、翌日になって拓斗は那桜に翔流のことを訊ねた。あのときは見向きもしなかったくせに、なんのために知りたがったのか、知ってどうするのか、拓斗の意図は皆目わからないけれど、とにかく那桜は翔流のことをかばったつもりだ。本来はかばうも何も、翔流は那桜に付き合ってくれたにすぎない。
 いまの那桜が置かれている意味不明な状況を打破しない限り、係わらせないほうがいいと思った。
 こうやって一緒にいることは、学校内なら拓斗たちの目につくこともなくて心配ないけれど、家に来るとなれば嫌でも拓斗の耳に入る。

「その嫌そうな云い方やめろ。傷つく」
 けほっ。
 ミニトマトの汁が気道に入りかけて那桜は咳きこんだ。正面では果歩が吹きだしている。
「何やってんだ」
 翔流が自分の缶コーラを那桜に差しだした。遠慮なく受け取って喉を潤すと、やっと咳も落ち着く。
「ありがと。広末くんが『傷つく』ってヘンなこと云うから。似合わないよ」
「失礼な奴だな。で、いつやるんだ?」
「わたしが嫌ってわけじゃなくて、来ないほうがいいって忠告してるだけなんだけど」
「那桜、いいんじゃない? もちろん、那桜んちがいいって云えば、の話だけど。広末くんの度胸がどれくらいあるのか見てみたい気がする」
 那桜が渋った顔で答えないでいると、果歩が安易な意見でもって口を挟んだ。
「果歩――」
「度胸ってなんだよ。お化け屋敷じゃあるまいし」
「ぷ。広末くん、那桜んちはけっこうそれっぽいかも」
「そう聞けば尚更引けないだろ。有吏」
 果歩の挑発に乗って、翔流は挑戦する気満々で那桜を向いた。
「……わかった。居心地悪くても知らないからね」
「あー、楽しみが増えた。広末くん、クリスマス会は今週の土曜日、ちょうど二十五日だからその日のお昼だよ」
「おう」

 なんとなく浮かない気分の那桜に比べて、ふたりは楽しそうだ。
 何事もありませんように。
 那桜は内心でつぶやくと、有吏とは縁のないキリストだけれど、クリスマスに関連したことだけに心の中で十字を切った。

「翔流、バスケ行くぞ」
 翔流が食べ終わった頃、タイミングよくほかの席にいた子が大声で呼びかけた。ほぼ同時に翔流は立ちあがる。
「ああ」
「広末くん、コーラ!」
 那桜が声をかけると、翔流は一口飲んでから、やるよ、とまもなく友だちと教室を出ていった。
「つまり、片づけてくれってことなんだよね。残り物とか食べかけやるのって、広末くんの癖?」
 那桜はうんざりして不平を漏らした。果歩が何やら含んだような笑い方をする。
「何?」
「って云いながら、那桜っていつもそれもらっちゃうんだよね」
「だってもったいなくない? 出されたものは全部いただきなさいって云われて育ったし。果歩も飲む?」
 那桜が差しだすと果歩はいらないと云うかわりに手で制した。コーラはそう残っているわけでもなく、すぐ空っぽになった。
「ねぇ、那桜」
「うん」
「那桜は全然平気みたいだけど、普通ね、女友だちでは抵抗ないことでも、男だったら、それはちょっと、ってことがあるじゃない? いくら“友だち”でも」
 果歩の云っていることが遠回しなのはわかるけれど、具体的に何をさしているのか、那桜にはさっぱりわからない。果歩はあからさまにため息をついた。
「だからね、いま那桜がやったのは間接キス」
「え、ジュースもらっただけなんだけど。間接キスって大げさっぽい」
「じゃなくて、そういうのが “間接キス”って云うの! ホント、那桜って浮世離れしてるよ。公然と見せびらかすから噂が絶えないんだよね。広末くんがヘンに誤解してなきゃいいけど。那桜の様子じゃ脈ありって感じじゃないし」
 果歩はまた訳のわからないことを云って締め括り、那桜はふと考えこんだ。

 これまで翔流とのように男の子と仲良くなったことはなく、和惟とあたりまえのようにやっていたことは所せん兄妹みたいなことで、今更に那桜の “普通” が(くつがえ)った。
 そもそも和惟とのことは異常すぎて、那桜の常識はその頃からおかしくなっているのかもしれない。ふたりのやってきたことが逸脱(いつだつ)した行為であると、自分で気づけたことは奇跡に近い。ただ、解決ではなく逃げただけで、いまだに引きずっている。
 だれにも云えなくて、だれにも相談できず、もしかしたらもっと酷い状態に置いてしまった。

「わかった。気をつける」
「まあ、そこが那桜らしさでもあるんだけどね。そういうお(とぼ)けぶり、けっこう見てておもしろいんだ」
 果歩は気落ちした那桜を見て、励ますどころかからかった。



 帰りの連絡会が終わって校舎を出ると、いつものように果歩とは正門で別れた。
 那桜は習慣的に果歩が向かった方向と反対側へ歩いた。が、定位置に和惟の車は見当たらない。疑問に思ったとたん、同じ場所にある拓斗のダークブルーの車が目についた。同時に拓斗が運転席から降りた。

 この一カ月で、和惟の車に拓斗が同乗してお迎えというのが慣例化している。ただ、拓斗が那桜を和惟とふたりにすることはなく、和惟とへんなことにもならない。三人車中となれば会話の主導権を握るのは(もっぱ)ら和惟で、那桜をそっちのけにするわけでもなく先導は上手だ。それでも温かい瞳は苦手で気づまりがする。あの行為――和惟は愛の行為だと云うけれど、那桜にすればただの性愛だ――がないこと、それが唯一の救いだ。あの日云ったように、拓斗は様子を見ているんだろうか。

 那桜が駆けだすと、拓斗は助手席の後ろのドアを開けた。

 解錠コードの二番目が声なら、三番目はなんだろう。

「拓兄、ただいま! 今日は拓兄だけ?」
 露骨にうれしそうな那桜を見下ろし、拓斗は、ああ、と短く答えた。那桜が声に出してちょっと笑うと、拓斗からため息をつきそうな雰囲気を感じ取る。

 “無言”が返事だった頃を考えると、『ああ』だけで貴重であり、重ねてたまにでもいいから声に色がつけば感謝さえしたくなる。さらに拓斗を取り巻く空気のほんのわずかな揺るぎ。それは那桜の衝動を駆りたてる。

「拓兄、今度の木曜日、二十三日は大学も休みだよね? 買い物に連れてってほしいんだけど」
 那桜が首をかしげて返事を待っていると、拓斗は無言に戻ってうんともすんとも云わない。
「用事あるんだったら、わたし独りで行って――」
「午後からだ」
 思ったとおり、那桜が『独りで』という言葉を出したとたん拓斗は譲歩した。

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