禁断CLOSER#7 第1部 解錠code-Dial Key-
2.脱走 -4-
拓斗はまっすぐやって来て、那桜のほんの目の前で立ち止まる。那桜の瞳には不信があからさまに表れているはずなのに、見上げた瞳は何も返してこない。
何を云っても通じない。あらためてそう思うと、目が潤みそうになる。那桜は視線を逸らして目を瞬いた。
「どういうことだ」
翔流には見向きもせず、那桜に向けたその声は静かすぎて、携帯電話のダークな音と同じくらい薄気味悪い。
拓斗の仕打ちに抗議するかわりに那桜は口を閉ざした。気詰まりな沈黙はきっと那桜が答えるまで続く。
それでも黙っていると、翔流がかすかに身動ぎをしてふっと息を吐く音がした。翔流を向くと、その口もとは滑稽な様で笑っている。翔流は那桜に目を向け、それからその視線は拓斗に流れた。
「おれが勝手に連れだしたん――」
「広末くん、違うよ!」
那桜は慌てて翔流の腕をつかんだ。
「違わな――」
「那桜」
今度は拓斗が翔流をさえぎり、那桜に迫った。翔流の云い分は更々聞く気はないといわんばかりだ。
那桜は翔流の腕を離して拓斗を見上げ、それから目を伏せた。手に持った苺が目に映る。
「……苺」
那桜は口もとの動きが見られないほど小さくつぶやいた。
「聞こえない」
「苺。……苺を食べたかったの!」
那桜は顔を上げて理由を叫んだ。呆れたとしてもやっぱり表情には表れず、拓斗は那桜からその手もとの苺パックまで視線をおろした。
「それくらいのことでおれの予定を狂わせるのか?」
「拓兄は家と学校の往復ばっかり。戒兄は云えば寄り道してくれたのに――!」
「おれは云われたことない」
拓斗は最後まで那桜に云わせず、端的に指摘した。
那桜はふと考えこむ。たしかに、独りで帰りたいとは云ったけれど、どこかに連れていってほしいとは云ったことがない気がする。
それなら云えば――那桜、と呼んでくれるようになったし、もしかしないでも……。
「電話に出なかった理由はなんだ」
拓斗はさらに問い詰め、那桜の期待を途切れさせた。云い訳を考えたすえ、一個だけ残った苺を拓斗に差しだした。
「……苺食べてて口の中がいっぱいだったから。見て、こんなにおっきいの食べたことある?」
馬鹿なふりをして子供っぽく、あっけらかんと云ってみた。拓斗が反応するかわりに翔流が吹きだして笑い始めた。
「広末くん……」
「有吏、おまえっておもしれぇ」
困ったように眉の間にしわを寄せた那桜を見て、翔流はまた小さく吹いた。
「帰るぞ」
眉一つ動かさず云い渡すと、当然その一言で那桜がついてくるものと思っている拓斗は身を翻した。
目の前の視界が開け、また和惟の姿が那桜の目に入って躰が強張った。ほんのひと時、忘れていた不信が甦る。
拓斗の忠臣であるからには同行してもおかしくない。逆に和惟に依頼することなく、拓斗がいままで那桜の送迎を降りなかったことのほうが不思議なことかもしれない。
離れていても和惟の眼差しは那桜を向いているのがわかる。果たして、和惟のほうへと向かう拓斗が気づいているのか。けっして自意識過剰じゃない。
昨日のことを思いだして本能的に怖がった躰は動かず、やがてついてきていないと気づいた拓斗が立ち止まる。
「那桜」
那桜は無理やり視線を引き剥がして和惟から拓斗へと移した。
「有吏、嫌なら一緒に逃げてやる」
翔流は躰をかがめて那桜に顔を寄せ、ぼそっと耳打ちした。振り向くと、間近に見た翔流はごく真剣な顔だ。
「……ううん。たぶん拓兄たち、いざとなったら見境ないから。武道ずっと習ってるし、一対一で格闘しても広末くんは絶対敵わない。大丈夫、身内だよ?」
最後はおどけたけれど、那桜は脅しじみて警告した。そして、自分を避ける理由を提供したにもかかわらず、翔流はにやりと返した。
「おれはまた付き合っていい」
「うん。苺いる?」
「持っていけよ」
「うん。今日はありがと」
那桜はベンチから立ちあがって拓斗のところへ向かった。
翔流が云った『また』はもうない。たぶんでも冗談でもなく、拓斗も和惟も武道には長けている。格闘を抜きにしても、簡単に切り捨てるほど情けがない。それがどんな形であれ、翔流を被害者にする無茶はできない。
拓斗は微動だにせず、その場で那桜が来るのを待っている。あと三歩というところで拓斗のコートが翻った。
「拓兄、ホントは苺のケーキが食べたいの」
厭わしい不信も帳消しにできるかもしれないと思って、拓斗の背中に向かい、暗に寄り道してほしいと伝えたつもりが、なんの返事も返ってこない。
ただでさえいろんな疑問があって、それが那桜に関することでも本人である自分には伏せられている。いま以上に、不信なんていらない。
だんだんと歩く速度がのろのろになって、拓斗が和惟の前で立ち止まると同時に那桜も止まった。その距離は十歩近く開いている。
「ケーキが食べたいらしい」
「ケーキ?」
とうとつに云った拓斗に和惟が訊き返した。その会話にはっとして那桜は顔を上げた。
怪訝な声と同じで、和惟はしかめた顔をしている。それがこっちを向いて、那桜は後ずさりしたい衝動をぎりぎりのところで抑えた。
和惟は拓斗と同じように那桜の手もとに視線をおろして苺を確認した。しかめ面がおもしろがった表情に変わる。プラスティックとはわかっていても、幾分か那桜の気がらくになる。不信は抜きにして、ともかく拓斗がいる以上、和惟は何もできない。
「持ち帰り、それともコーヒー付き、どっち?」
和惟が昨日のことを思いだしているのはたしかだ。
「……拓兄は?」
「どっちでもいい」
那桜は狂ったという予定を気にして拓斗に振ったのだけれど、その返事は曖昧だ。時間をつぶしていいんだろうか、と那桜が驚いている間に和惟が、オーケー、とどっちを選んだのか先立って歩いていく。少なくとも拓斗の答え方から同行してくれる保証は得たわけで、那桜の淀んだ気持ちも払拭され、ただうれしくなった。
商店街を抜けると、歩道脇に和惟の車が止まっていて、和惟は運転席に回り、拓斗がいつものように後部座席のドアを開けて待つ。那桜が乗りこみ、拓斗はドアを閉めて助手席に乗った。
和惟が車を出すと同時に拓斗が携帯電話を開く。
「ちょっと遅くなる。……その判断はおまえに任せる。……それはあとだ。……ああ、父にも伝えてくれ」
あたりまえだけれど一方通行のやりとりしか聞こえず、相手がだれかさえもわからないうちに電話は終わった。
有吏リミテッドカンパニーの関係者であることだけはたしかだ。拓斗はただの大学生じゃなくて、父親の会社の仕事にも携わっている。覚えている限りでは、中等部の頃はすでに兄たちは会社への出入りをしていた。
会社は世間的に優良企業として名が通っているようだけれど、会社がすべて親族で構成されていることを考えると、なんとなくやっている仕事も怪しい気がする。
「惟均はうまくやってるのか?」
和惟は運転しながら、拓斗をちらりと見やって訊ねた。
さっきの電話は惟均だったんだろうか。
和惟の弟、惟均は二十才で、その父親が経営している衛守セキュリティガードに就いた和惟と違い、拓斗と同じく大学に通いながら隼斗の会社に属している。将来は拓斗の補佐に当たるようだ。和惟はそのまま拓斗の護衛として就くんだろう。もっとも、拓斗は護衛がいらないほど護身術を身につけていて、そうそう和惟の出番はない。
「問題ない」
「あいつは何も云わないからな」
「云うほうがどうかしてる。企業秘密だ」
「おれは信用ないらしいな」
そう云った和惟の視線が上向いて、何気なくルームミラーを見ていた那桜の目を捕えた。何を云いたいのかは明け透けで、那桜はぱっと目を伏せた。
「そういうレベルじゃないはずだ」
拓斗が淡々と修正すると、和惟はこもった笑い声を漏らした。
「冗談だ。おれの役目はわかってる」
その声はやけに寂然として聞こえた。
役目とはなんだろう。訊いたところで教えてもらえるとは思えなくて、また那桜の中に疑問が増え、せっかくのわくわく感に拗ねた気分が加わった。
那桜は喋る気にはなれず、車の中は拓斗と和惟がたまに言葉を交わすくらいで静かだ。ふたりはいつもそうなのか、和惟が他愛ない話題を提供し、拓斗が相づちを打つ程度の会話しかない。拓斗は云わずもがな、和惟もあえて那桜を会話に引き入れることなく、よって車中、那桜は一言も口をきかなかった。
二〇分くらいして和惟はパーキングに車を止めた。和惟の案内に任せ、那桜、そして拓斗という順で片側二車線の道沿いを歩いていく。
青南学院の周辺とは雰囲気が変わって、学生にはそぐわないような大人っぽいお洒落な街並みだ。制服が可愛いというよりは子供っぽく見える。加えて、スーツ姿の和惟に、ラフな格好でもけっして上質度を落とさない拓斗というふたりに挟まれてはまさに子供だ。通りざまショーウィンドウに映った自分の姿を見て、場違いに感じさせるところに連れてきた和惟をちょっとだけ恨んだ。
程なく和惟はブティックと雑貨店に挟まれたカフェ店で足を止めた。和惟がドアを開けた瞬間にコーヒーの香りが漂ってくる。
和惟は那桜を向いて、通りに面する窓に付けられた、カウンター席のすぐ後ろの席を指差した。ほかの席と比べて位置的には目立たない場所だ。二つを残して、あとの十個くらいある小ぶりの丸テーブルは全部埋まっている。
その“目立たない場所”をまるで無駄にするくらい、店内の視線が一気に集中したのは気のせいじゃない。視線が那桜一点に集中すると、テレパシストじゃなくてもそれらの思考が手に取るようにわかる。那桜はそっとため息をついた。
三人がテーブルに落ち着くと、すぐに店員がメニュー表を二つ持ってきた。和惟から手渡されたメニューにはケーキのほかに軽食もある。メインはケーキの店らしく、那桜はどれも美味しそうで選ぶのに迷ってしまう。ふたりは何を食べるんだろう、とそう思ってメニュー表から顔を上げると、もう一つのメニュー表はテーブルに置いたままであることに気づいた。
「食べないの?」
「コーヒーでいい」
どちらともなく問いかけた那桜に和惟が答え、同意するように拓斗も首を傾けた。
「……独りで食べたってつまんない。戒兄だって広末くんだってちゃんと食べるのに」
拗ねた気分が格段にふくれあがり、那桜はメニュー表を放りだした。
和惟はいったん拓斗に目をやり、それから放られたメニュー表を取ると那桜に差しだした。
「じゃ、適当に選んで」
「適当って……」
「あんまり食べないのは知ってるだろ? 付き合うだけでも喜んでいいはずだ」
子供っぽい不満に寛容さを示しながらも恩を着せるところは和惟らしい。ちらりと見た拓斗は辞退するふうでもなく、とりあえずはケーキを食べる拓斗が見られそうで、那桜は良しとした。
「じゃあ……」
メニュー表を受け取って、那桜は三種類選びだす。
和惟が注文をして店員がテーブルを離れた直後、拓斗はかすかに首をひねった。
「那桜を甘やかしたのは戒斗だと思ってたけど、和惟、おまえか」
「それがおれの位置だと認識してるんだけどな。違うのか」
「納得してない云い方だ」
「おれの云い分として一つ訂正すれば、那桜がわがままになった根本はおれじゃない。おれは増長させたにすぎない」
ふたりの会話が成立しているのかどうか、今度の拓斗は何も答えない。
那桜としては表面上を聞いた限り、とても受け入れられるものではない。
「わたしはわがままじゃない。わがままなのはわたしから自由を取りあげるみんなのほうだよ」
けっして云い訳ではなく本心を曝したのに、返ってきたのは思ったとおり“聞こえないふり”だった。