禁断CLOSER#6 第1部 解錠code-Dial Key-
2.脱走 -3-
「那桜、昨日は何かあった?」
いざ帰るときになって、果歩が心配そうにして那桜を覗きこんだ。さすがに四年も付き合っていると多少の変化にも気づくらしい。昨日から気分がすぐれないのは間違いない。
「ううん。何もないよ?」
「そう? それならいいけど……」
その声は納得していない響きだったものの、果歩は首をひねって思考転換したようだ。その表情から気遣いが消え、求知心に変わった。
「衛守さんていまフリー?」
「え……知らないよ。どうして?」
「中等のときは高嶺だったけど、高校生だったら相手してくれるかなって思って」
「……何?」
那桜はまさかと思って疑うように果歩を見た。果歩は那桜の早とちりを悟って吹きだすように笑う。
「勘違いしないでよ。訊いてみただけ。だって戒斗さんは最近になってやさしくなってたけど、拓斗さんは近寄れる雰囲気じゃないし。その点、衛守さんは中等のときでも話しやすかったじゃない? 昨日はちょっと怖い雰囲気だったけど、サングラス外してみたい感じ」
勘違いじゃなくて本気じゃないかと思うくらい、果歩の声はうっとり気味だ。
「和惟はだめだよ。外見と中身は違うんだから」
那桜は冗談ぽく忠告したものの、内心では本気そのものだ。それをどう取ったのか、果歩はニタニタした笑みを向けた。
「あー、取られたくないんだ」
「そうじゃない」
那桜がきっぱりと否定すると、果歩は不可解そうに首をかしげた。
「ふーん。衛守さんは那桜以外、眼中にないって感じだったけど……わたしはそのうち、くっついちゃうって思ってたのよね。でもいつのまにか離れちゃって……?」
果歩はそれとなく那桜に答えさせようと促したが、那桜は気づかないふりをして笑った。
「和惟の周りは美人の“お姉さん”がいっぱいいるんだよ。わたしじゃ子供すぎて物足りないと思う」
「んー、たしかにほっとかれるタイプじゃないよね」
果歩は唸ったあと、那桜の云い分に納得してうなずいた。
その実、那桜はあの日以降、和惟の隣に女性を見たことはない。有吏家と衛守家は五軒間を置いた近所で、もともと衛守家には女性を問わず外部からの出入りはあまりない。その状況下ゆえ、見たことがない、というだけであって外でのことは皆目わからず、那桜も和惟に女性がいないとは断言できない。
そんなふうに気配がないこそ、あの夏の日、カノジョが同伴だったことに驚いたのだ。
たしかな存在としてあるたった一人、その和惟のカノジョの姿を思い浮かべ、必然的に那桜の脳裡は逆行した。
ふたりのキスシーンはやっぱりカノジョの目に入ったらしく、猪突猛進に海から出てきて散々罵倒された。和惟ではなく那桜が、だ。
なんて云われただろう。
しょうわる、ばいた、かまとと、めぎつね……エトセトラ。
当時の那桜は意味がまったくわからなくて、和惟の脚の上できょとんとカノジョを見上げた。そんな那桜を見た和惟は、カノジョそっちのけで笑いだした。それから。
帰れ。
その一言で和惟はカノジョを追い払った。今度は和惟に罵詈雑言を浴びせ、ツンケンして立ち去ったカノジョがどうやって帰ったのかは知らない。
ちょっとした修羅場に興じた公衆を面前にして、襲われた五回目のキスは那桜の思考回路を完全に断ち切った。
カノジョが実は大学生じゃなく、二十代後半の駆けだしの女優であることは、帰りの車の中で聞かされた。大学生であろうが二十代後半であろうが、那桜からすれば同じ大人だ。
だからきれいなんだ、と那桜が感心すると、和惟は口を歪めた。はじめて見る皮肉っぽい笑い方だった。
云ってることが芝居がかってただろ。すべてが模造だ。那桜はいまのまんまでいろよ。
和惟はそう云って那桜の自制を解いた。後先を顧みず、自分の欲求のままに動いたことは、知らない間に那桜自身に疚しさを植えつけた。だれにも話せなくて、消化しきれないうちにまた――。
「那桜、どうかした?」
また果歩が心配して問いかけた。那桜は浮かない気分を払拭するように笑った。
「ううん。それより、今日もどこか行かない?」
「え、だって、お兄さんが迎えにくるんでしょ」
「だから。独りでちゃんと帰れるって証明できたら、解放されるかもしれないし」
「んー。でも那桜の上のお兄さん怖そうだし」
果歩は拓斗の顔を思い浮かべながら答えた。青南高等部の正門まで那桜に同行することがあって、そのときに見た印象ではカッコいいよりも捉えどころのない怖さがある。
「果歩と一緒だってことは云わないし、迷惑かけないから」
「じゃなくて、こういう場合、一緒にいたのはわたしだってバレバレだと思うのよね。昨日のこともあるし」
「やっぱりダメなんだ」
那桜は大げさすぎるほどのため息をついて、それを見ていた果歩は首をひねった。
「那桜のことをずっとうらやましいって思ってたんだけど」
「わたしが?」
今度は那桜が驚くばんだ。
「うん。だってどっちがいちばんて云えないくらいカッコいいお兄さんが二人だよ」
「だって“お兄ちゃん”だし、わたしにはなんのメリットもないんだよ?」
「そう、そこ。もしかしたら那桜がいちばんかわいそうなのかも、って考え直した」
「そうだよ。わたしの世間て狭くて閉鎖的。カレシもつくれなくて、あ、それはでも欲しいってわけじゃないの。それよりは友だちに付き合い悪いって敬遠されることのほうがきつい。いいことなんてまったくないんだから。果歩だけだよ、こうやってずっと付き合ってくれるのは」
その果歩も那桜と出かけることを尻込みする。がっかりと肩を落とした那桜だったが、不意に思い直した。
「どうしたの?」
果歩は急に晴れ晴れとした那桜を怪訝そうに覗きこんだ。
「ううん、いい。無理云ってごめんね」
別に果歩と一緒である必要はない。かえって果歩に迷惑をかけなくてすむ。
独りで出かけちゃえば。
出かけ慣れていないぶん、ちょっと地理的に自信ないものの、電車通学もナビを使ったら大丈夫だったし、適当に時間つぶしができればいいことだ。
「果歩、わたし、先に出るから、果歩はあと十分してから帰ってくれない?」
「どういうこと?」
「ん、ちょっとね」
怪訝そうにしながらも果歩は、わかった、と了解してくれた。那桜は、じゃね、と果歩に手を振って玄関に急いだ。
昨日と同じように正門を覗くと、拓斗の姿は見えない。最初の頃は門柱に背中を預けて待機していた拓斗だったが、最近は那桜が従順なせいか、車のところで待っていることが多い。果歩が門を出て那桜が来なければ、さすがに拓斗も疑うだろう。タイムリミットは十分だ。
那桜は裏門へと向かった。
「有吏」
いきなり背後から名を呼ばれて、那桜は悲鳴をあげそうになった。拓斗がそういう呼び方をするはずはなく、声も違って驚く必要はないのに、やっぱり脱走という危険行為は那桜を臆病にしている。
「ひ、広末くん……驚かさないでよ」
「……って、名前、呼んだだけだろ」
「……あー、そ、そうだよね。とにかくわたし、いまは急いでるから。何か用事あるんだったら明日――」
「迎え、来てんじゃないのか」
「だから、脱走中」
那桜が答えると、翔流はくっと吹きだすように笑った。
「おれも付き合う」
「え、だって――」
「おもしろそうじゃん」
翔流は断りもなく那桜の鞄を取りあげると小脇に抱えた。
「迷惑かけちゃうかも――」
「まさか殺されるわけじゃないだろ」
翔流はおもしろがって云うと、那桜の手を取ってだしぬけに走りだした。那桜は転びそうになって翔流の手をしっかりと握り返しながらついていく。
あまり走ることのない那桜はすぐに息切れしだす。周りの景色は流れるだけで、どこへ行くのかと訊く余裕もない。どれくらい走ったのか、もうだめだ、と思った瞬間、足がもつれた。
あっ。
那桜は小さく悲鳴を漏らした。
気づいた翔流は、立ち止まるのとほぼ同時に那桜を抱きとめた。
「ナイスキャッチ」
「も……だめ……走れ……ない……よ」
多少という程度の荒い息をつく翔流と違って、那桜は呼吸もままならないほど肩が大きく上下する。
「もういいだろ。大通りから逸れたし」
翔流の言葉に安心すると、那桜は息が整うまで躰を支える腕に任せた。がくがくした脚がやっとしっかりしてきて、那桜は躰を起こしながら翔流を見上げて笑った。
「ありがと」
翔流は奇妙な顔つきで、那桜を見下ろした。
「なんか、おまえって……」
翔流は中途半端なまま言葉を途切れさせた。
「何?」
「……いや。まあいい。どこ行く?」
「え、えーっと……」
そう訊かれても那桜はまったく思いつかない。周辺を見回してみたら、どうやら商店街に入ったようだ。戒斗がずっとまえにお祭りに連れてきた場所に似ている。
「あ、苺だ。お返ししてやる」
那桜が考えているうちに、翔流が昨日のことを持ちだした。返事も待たずに翔流は歩きだして、那桜はそのあとを追った。
ケーキ店かと思いきや、翔流は近くにあった八百屋さんに入っていく。
「おばちゃん、苺、すぐ食べたいんだけどさ、洗ってくれる?」
「いいよ。ちょっと待っててね」
八百屋のおばさんは翔流のいきなりの頼みに快く応じると、不用心にも店を空けて奥へと消えた。
その間に鞄を探っていた那桜は財布を忘れてきたことに気づく。それくらい昨日の出来事から滅入っていたのかもしれない。
「広末くん、わたし、今日はお金持ってないんだけど……」
「昨日のお返しって云っただろ。てかさ、金持ってなくて脱走して、どうやって帰るんだ?」
そう云われると身も蓋もない。行き当たりばったりなのは自分でも承知している。
「ケータイあるし。最悪、タクシーで帰ってお母さんに払ってもらう……かな」
しばらく考えて答えると、お嬢さまだな、と翔流は呆れた口調ながらも可笑しそうにした。
「そう云う広末くんだって建設会社のお坊ちゃまだよ?」
「おれは有吏と違って自立してるから」
「ひど――」
「はい、お待たせ。形は歪だけど甘いの選んどいたからね」
那桜をさえぎるように八百屋のおばさんが出てきた。翔流は五百円玉と引き換えに苺のパックをもらい、あっちだ、と云って那桜を促した。
少し先に行くと、店と店の間にこじんまりとした公園がある。ふたりは奥へと歩いて古びたベンチに座った。
翔流が目の前に苺を差しだす。パックには一口で入りきれない特大の苺が四つしか入っていない。那桜は目を丸くしながらそれを受け取って早速一つ摘んだ。酸っぱさはなくてほんのりとした甘さがじわっと口の中に広がっていく。
「美味しい。きっと昨日のケーキの苺よりずっと甘いかも」
「ケーキの苺は酸っぱいのが主流だろ。ケーキの甘さには当然苺が負けるからな」
「あ、そっか。バカみたいな味になっちゃうんだ」
「おれも一個――」
翔流は苺を取りかけた手を止めた。那桜のバッグの中から気味の悪い携帯音が鳴り響いた。
「……出ないのか?」
「拓兄ってわかってるから」
コールはしつこく続いたけれど、ふたりともなんとなく黙りこんで放っているとやがて電話は切れた。音が止むと不気味な雰囲気が残る。
「すっげぇ音」
「でしょ。探したんだよ。もう一個探さないと」
「なんで?」
「もう一人増えたから」
「昨日の奴?」
「そ」
「つかめないよなぁ。おまえの上の兄貴。昨日の奴もおかしな感じだし」
翔流は何度か見かけた拓斗の姿を思い起こしながら顔をしかめた。感情があるのかと疑うほど拓斗はまったく表情を読ませない。昨日の男は従兄なわりに自ら連れにくるわけでもなく、へんに那桜を従わせている。
「ウチはおかしいことだらけだから。苺、食べていいよ。おっきすぎて、おなかいっぱいになりそう」
「なら、遠慮なく」
「広末くん、明日は休みだし、今日は遅くなってもいい?」
「云っただろ。おれはその点では自立してる」
その返事は、那桜の気のすむまで今日は付き合うという了承なんだろう。那桜はうれしくなって笑みを零した。翔流がにやりと返す。
「たぶん、来週からは余計に厳しくなっちゃうだろうし――」
那桜の言葉が途絶えた。
翔流は驚いた表情で固まった那桜から異常を察して、その視線の先に目を移した。
公園の入り口に拓斗が立っていた。ジーンズに膝丈の黒いコートと、そこら辺でよく目にする格好にもかかわらず、冷めた独特の雰囲気がその姿を一際目立たせる。
「有吏、逃げるか」
「ううん……脱走もここまでみたい」
那桜は近づいてくる拓斗から目を離さないまま翔流に答えた。
そして、那桜の視界にもう一人の姿が現れた。
和惟だ。
公園には入ってくることなく、さっき拓斗が足を止めていた場所で備えている。
那桜は訴えたはずだ。
それなのに、昨日の今日で……。
那桜は信じられない気持ちで拓斗に目を戻した。