禁断CLOSER#5 第1部 解錠code-Dial Key-
2.脱走 -2-
和惟は店の入り口に立ったまま動こうとはしない。
それがどういうことかわかっている。
那桜にしろ動きたくはない。
今日、脱走したのは拓斗への反抗に加えて、和惟とふたりになりたくないというのもあった。
拓斗がまったく無表情なのに対して、和惟はいつも温和な表情を宿している。ふたりに共通しているのはそれが仮面だということ。
和惟は衛守家の長男で、次男の惟均とともに拓斗の配下にあり、二十四才という年よりはかなり大人びている。年より上に見えるというのは兄たちがそうであるように、一族に属する男たちの特徴だ。
那桜はそっとため息をつく。その自分の息遣いが意外に大きく聞こえて、店内が静まり返っていることに気づいた。
おそらく、和惟の存在は営業妨害になっている。温和に見える目を黒っぽいサングラスで隠し、服は上から下まで黒ずくめで、足もとはまさに和惟らしく蛇みたいな柄の革靴だ。
「那桜、まさかあの人がお迎え?」
果歩のぽかんとした問いかけで、那桜はサングラス越しの視線から逃れた。
「果歩は知ってるはずだよ。中等部の頃、迎えにきてた和惟。覚えてない?」
「え、そうなんだ? もちろん衛守さんは覚えてるよ」
果歩は驚きに目を丸くしながら、また和惟を振り向いた。翔流は不審そうに目を細めて、ちらりと和惟を見やる。
「大丈夫なのか? 三〇分くらい、おれが交渉してやってもいい――」
「平気だよ。あの人は従兄で警備会社のガードマンやってるだけ。交渉はたぶん無理だと思う」
翔流をさえぎって説明すると、那桜は携帯電話をバッグにしまった。
「果歩、ごめん、帰るね。これ以上いたら、わたし、この店では要注意人物になっちゃいそう」
那桜がおどけると、果歩は小さく吹きだしてうなずいた。
「じゃ、広末くんもまた明日ね」
「ああ」
翔流の返事は不満げに聞こえたけれど、それよりは和惟のほうが気になる。
那桜は憂うつを振り払って席を立つと、和惟の無言の命令に応じた。那桜が観念したと判断したらしく、和惟はそこで待たずに店を出ていく。那桜は小走りであとを追った。和惟はちょっと先にある駐車場へと入っていき、黒光りする車の脇に立って助手席のドアを開けた。
「わたしは後ろでいい」
「おれは前に乗ってほしい」
和惟はすかさず自己主張をした。ここでも那桜の意思は無用とばかりに跳ねつけられる。強引に押しこもうとはしないけれど、抵抗すればもしかしたら封印した出来事が復活するかもしれない。那桜は渋々と従った。
和惟は車の前を回って運転席に乗りこみ、すぐにエンジンをかけた。が、車を出す気配はない。
和惟は躰ごと那桜に向いてゆっくりとサングラスを外し、奥二重で深くかげった瞳を露わにした。
俳優だったら女扱いのうまいプレイボーイ役がぴったりなんじゃないかと思う。拓斗だったら一瞥して追いやるだろうけれど、和惟は瞳に笑みを浮かべて女を留めるタイプだ。よく見ればその瞳の表情が動かないとわかるのに。
和惟の瞳の温かさは作り物だ。
「どういうことなんだろうな?」
声も至って穏やかなのに、これもまたプラスティックで、その裏に怒気を含んでいる。
「わかるよね? 和惟とふたりになりたくないだけ」
那桜が遠慮なく云うと、和惟は口を歪めて含み笑う。
プラスティックじゃない、本物の瞳が表れた。それはまるでしつこい蛇みたいな眼差しで、那桜は怖じ気づく。それを見透かされないように精一杯で平静を装った。
「那桜を本気で守れる奴がおれのほかにどこにいるのかな」
「……何から守るの?」
「さあ」
和惟は意味深に笑みを浮かべる。
「悪いけど、わたしは和惟に守ってほしいよりは、和惟から守ってほしいかも」
虚勢を張って那桜が云うと、和惟は声を出して笑い始めた。笑っているせいで細くなった瞳はそれでも那桜を脅しているように見える。
「何を吹きこんでおれをガードから外したかは知らないけど、過保護な戒斗はいなくなった。復帰できるかって思ってたのに、拓斗があとを引き継いだときはがっかりしたよ。おれは有吏家の不信を買ってるのかって自信を失くした」
その言葉の意味とはまったく違って、見縊ったような声音だ。
「わたしは吹きこんでなんかない。和惟が苦手だって云っただけ」
「苦手だって? 大事にしてやって、那桜は悦んでたはずだよ」
「違――っ」
否定しようとした那桜をさえぎったのは和惟のくちびるだ。云いかけていたせいで開いた那桜のくちびるの間から、易々と舌が侵入してきた。車のシートに押しつけられて、容赦なく懲らしめるように和惟の舌が口の中で暴れる。
息継ぎがうまくいかずに那桜の頭はぼんやりしてくる。キスの経験は和惟としかない。それでも上手だというのはわかる。和惟のキスはいつも那桜の思考力を限りなくゼロに近づける。
始まりはほんの好奇心。中学二年の夏。
初等部までは隼斗がいつも送迎していたけれど、中等部にあがって和惟がつくようになった。和惟は七才上の従兄で、尚且つ小さい頃から知っているから戸惑うこともなく、はじめての日に、よろしく、と云う声はやさしく聞こえた。話すのも聞くのも上手な和惟に不満はない。無愛想な父親の送迎よりはずっと楽しい。
けれど。退屈。那桜にはいつもその言葉がついて回る。
那桜と世間の接点というのは学校内に限られていて、“普通”という情報源は少ない。
初等部の間はまだそれなりについていけたけれど、中等部も二年生になると友だちは“子供”から“女の子”になって、色めいた話題が上ることも多くなった。友だちが云うカッコいい男の子を見ても、好きという感情もピンと来ない。それでも興味は湧いた。
そして、まさに退屈な夏休み。
小学生の頃は友だちの家に行ったりと、もっと自由だった気がするのに、中学生になってまもなく、これまでになく那桜は行動を制限された。
同い年の従姉妹である矢取深智が、中等部にあがってすぐ誘拐事件に遭遇したことを聞かされたのはずっとあと、戒斗に送迎してもらうようになってからだ。
それを知らなかった那桜は、出かけるのも父母同伴でただつまらない。そう不平を繰り返す那桜に、和惟が海まで遠出しようかと誘った。那桜は二つ返事で乗った。
那桜にとって予定外だったのは、和惟のカノジョが一緒だったことだ。
和惟は大学の友だちだと紹介した。
那桜はびっくりしたけれど仲良くなれれば楽しくなるはずだ、とそう思って話しかけてみたのに、返ってくるのは素っ気ない相づちばかりで一向に会話が弾まない。
大学生からすれば、中学生の那桜の話は酷く幼稚だろうし、そのせいだと見当をつけた。そして、そのうち気づいた。カノジョにとって那桜は邪魔者でしかなく、最悪に考えてライバル視されている。車の中では後ろに独り追いやられ、和惟がまるっきり子供扱いしているにもかかわらず。
海に着けば、水着になったカノジョは、海に入ろうと和惟を誘ったけれど、和惟は顎をしゃくって独りで行けと暗に答えた。カノジョの視線が那桜に向いて、一瞬後にはぷいと顎を反らすと独りで海に入っていった。
海で泳ぐとは思わなくて那桜は水着なんて持ってきていない。
「つまんない」
那桜がつぶやくと和惟は、
「有吏のお嬢さまはわがままだな。水着買ってきてやろうか」
と笑った。
癪に障る。幼稚園児に云うような口振りも、那桜そっちのけでふたりがベタベタするのも。
どうやったら仕返しできるんだろう。それこそ子供っぽい嫉妬だけれど、さっき那桜がいない隙に交わされていたキスが好奇心を触発した。
サーフパンツに着替えた和惟は那桜のすぐ横で剥きだしの脚を伸ばし、お尻のちょっと後ろに手をついた格好でいる。服を着ているときは痩せて見えるのに、腕も脚も胸も適度に盛りあがっている。
プールの授業で見る同級の男の子たちの躰つきとは全然違う。
那桜もまた、カノジョに比べれば曲線も精神的にも未熟極まりない。それでもけっして子供じゃない。
那桜は横から和惟の顔を覗きこむように首をかしげた。
「和惟」
名を呼びながら、和惟が察するまえにその脚の上に載った。
「な――?」
驚いた和惟が躰を起こして那桜の腕をつかんだ。その体勢を利用して那桜は顔を近づける。
合わせただけのキスのあと、すぐにくちびるを離すと、和惟のしかめた顔に合った。
「那桜」
「つまんないから」
咎めるような声音に答えて、那桜はくすくすと笑う。
那桜はその瞬間に和惟の本性を引きだしてしまったのかもしれない。
和惟の瞳になんらかの情がよぎる。押し退けるかわりに懲らしめるようなキスが襲ってきても那桜は笑っていた。
和惟が本気を出した三回目のキスは那桜から笑顔を消した。四回目のキスはふたりで溺れるようにのめった。
ふたりで、というのは、あくまで那桜の解釈にすぎない。
ベタベタしていたのはカノジョだけで、和惟が少しもカノジョを重要視していなかったこと、その瞳がずっとプラスティックであったことに那桜が気づいたのはずっとあとだ。
ふたりの行為はぎりぎりのラインを守りながらエスカレートしていった。
そのうち、心のない行為に罪悪感と後悔を覚え、那桜は心と躰のバランスが取れなくなった。そして一年後、逃げた。
親戚という以上、会うことはあっても、那桜はふたりきりという状況を露骨に避け、和惟も無理やり打破しようという気はないようでほっとしていたのに。
「那桜、愛したい」
くちびるをちょっとだけ離して和惟が囁いた。その嘘が那桜を醒ます。
「だめ! もう何も知らない子供じゃない。後悔してる。和惟もわかって――」
「後悔なんて悲しいな。おれはずっと愛したかったのに。あれから那桜がだれにも触れさせてないのは知ってるよ」
「だからそれは後悔してるから――あっ」
いきなり和惟の手が制服のスカートの下に潜る。目の前にある口もとが不気味に歪んだ。キスと同時に和惟の手は那桜の右脚を持ちあげて、自分の脚の上に載せた。那桜が抵抗するまえに開いた脚の間に手が滑りこみ、右のふくらはぎは和惟の脚に挟まれた。
んっ!
左手で和惟の腕をつかんでもその力は虚しいほど役に立たず、指先は触覚を剥きだしにした場所にたどり着いた。ちょっと触れられただけで那桜は全身を震わせる。ずっと秘めていた場所は感覚を鋭くして和惟の指を受け止めた。
那桜の躰を知っている和惟は、五分もかからないという瞬く間に、感覚の世界へと追い詰める。躰の奥から熱い雫が漏れだし、和惟の指先がそれをすくいながら那桜の中に浅く沈んだ。
体内から這いだし、襞を這いずり、また体内へと侵入する。そのたびに出る、くぐもった那桜の呻き声を和惟が呑みこんだ。
「那桜」
くちびるが離れ、名を呼ばれて那桜は無意識に伏せていた目を開いた。
潤んだ那桜の瞳を見て、和惟は満足げに嗤う。
「変わらないな」
「いやっ、やめ――」
「那桜の声を聞くまでやめない」
那桜の拒絶をものともせず、和惟はねっとりと這うように指をスライドさせる。何度往復したのか、那桜の躰がプルプルと震えだした。和惟の腕をつかんだ那桜の手に力がこもり、そして一気に緩む。
あ、あ、ぁああっ。
背中を反らして跳ねる躰を和惟は嗤いながら抱きとめた。
封印は簡単に破られた。
ぅくっ。
和惟の肩の上で、那桜の口から堪えきれなかった泣き声が漏れた。
「後悔なんてする必要ないだろう? 戒斗が離れたいま、那桜を守れるのはおれしかいない。今日逃げだしたことだって云うつもりはない。クローザーは当てにならないんだよ。愛することを知らないから」
和惟の声はどこまでも柔らかく、拓斗とは違う怖さを含んでいる。
和惟は腕を緩めた。
「帰るよ」
その言葉にはっとして那桜は躰を離した。五時近い時刻、外は薄暗い。歩道に背を向けて車を止めているとはいえ、人目につかないとは云いきれない公共の駐車場だ。
「こんなとこで……酷い」
「それはおれのセリフだと思うな。那桜が狂わせるから」
和惟は悪びれることもなく、ショックを隠しきれない那桜に責任を転嫁した。
それから帰りつくまで那桜は黙りこんだ。和惟もあえて話そうとはしない。
やがて門の前にあるスペースに車が止まり、那桜は和惟が開けてくれたドアから降りて家に向かった。
「那桜」
その声に振り向いたとき、和惟はすでに身を翻していた。閉まっていく門の隙間から、そのまま車に乗りこんだのがわかる。門が閉じてしまったとたん、那桜は車の走り去っていく音を聞き取った。
自分が引き止めたくせに、那桜を見ることもない和惟。脚の間の濡れた感触が那桜の愚かさを鮮明にした。
その夜、拓斗は隼斗と一緒に十一時を過ぎて帰ってきた。
階段を上ってくる足音を聞きつけると、那桜は部屋から出て拓斗をつかまえた。
「拓兄、話があるの!」
「なんだ?」
「その……わたし、和惟が苦手で、だから拓兄が来れないときは独りで――」
「那桜」
拓斗はさえぎることで拒否を示した。
「だったら拓兄が来るまで何時までだって待ってる!」
拓斗は無言で那桜を見据えたあと、目の前を通り過ぎる。
「拓兄!」
奥に向かった拓斗は答えないどころか、足を止めることさえなく自分の部屋に入っていった。
那桜の意思が伝わる場所はなく、孤独、ということが身に沁みた。