禁断CLOSER#3 第1部 解錠code-Dial Key-
1.隙間 -2-
「今日は三十分くらい遅れる」
いつもの送りの車中で青南に着く間際、拓斗がルームミラー越しに後部座席の那桜へちらりと目を向けた。
「用事があるんなら無理しなくても独りで帰れ――」
「だめだ」
拓斗は即座にさえぎった。
「……拓兄、どうしてわたしには監視がつくの?」
那桜はため息混じりに訊ねてみた。監視というのは大げさかもしれないけれど、行動範囲を制限しているのは否定できないはずだ。戒斗のときは那桜を可愛がってくれたぶん、そう気に留めることもなかったのに、拓斗が情無いだけにいろんなことを考え始めた。
拓斗から答えは返ってこない。端から答えてくれるとは思っていない。こういうことに限らず、那桜が何かを問いかけても返事はめったにない。めったにというよりは片手の指の数より少ないんじゃないだろうか。
こういう状況が続いてもう二カ月になる。十月も終わりで制服はとっくに冬服に衣替えした。基本的にグリーンとクリームのチェックという色は変わらないけれど、ブレザーの赤茶色が加わった。
その間、拓斗は何も変わらず、いいかげん本気で腹が立ってくる。
車が止まって開けてくれたドアから出ると、“いってきます”も云わずに那桜は正門に向かった。拓斗がどう思うかなんてどうでもいい。それより何も思わないだろう。
「那桜、おはよ!」
その声に振り向いたと同時に果歩が横に来て、那桜を覗きこんだ。不機嫌なあまり、習慣を忘れて那桜は待ち合わせた正門を通り過ぎたようだ。
「あ、おはよ」
「どうかした?」
「ごめん。腹立つことあって」
「何があったの?」
そう訊かれても那桜は答えられない。もともと家の事情は表面的なこと以外、外に漏らすなと云われている。
隼斗は有吏リミテッドカンパニーというコンサルタントの会社を経営していて、ちょっと、いや、かなりの金持ちらしい。那桜からすればあくまで『らしい』であり、つまり那桜自身がほとんど表面的なことしか知らない。ただ、“へん”であることは間違いなく、それは自覚している。
「んー、いつものこと」
那桜が煮えきらない返事をすると、果歩は首をちょっと傾けた。長いストレートの髪がさらりと揺れる。果歩の瞳は一重でもけっして小さくはなく、いつも凛とした眼差しをしている。背は那桜より高いけれど、一六一センチと目立つほどではない。それでも眼差しと同じ、すっとした雰囲気が実際よりも果歩を大きく見せている。
「拓斗さん? 相変わらずなんだ」
「頑張ってるんだけど」
那桜が口を尖らせて云うと、果歩はくすっと笑った。その笑顔がふと何か思い当たったような表情になった。
「那桜、今日はちゃんと課題やってきたんだろうね。いいかげんにしないとホントに……」
那桜の顔は見る見るうちにかげり、果歩は途中で言葉を途切れさせた。
「果歩……」
那桜の声は情けない表情と一致している。
「那桜、まさか忘れたの?!」
「だってムカつくって頭いっぱいになってたから……どうしよう」
「家?」
「ううん、拓兄の車の中」
「じゃ、電話すれば? 戻ってきてくれるでしょ」
果歩は当然のように云ったけれど、那桜はますます沈む。それを隠して笑って見せた。
「うん。果歩、先に行ってて」
果歩は迷うように首をひねってからうなずいた。
「わかった。教室で待ってるよ」
那桜は軽く手を振って校舎に向かう果歩を見送り、それからため息をついて、ブレザーのポケットから携帯電話を取りだした。まだ運転中だろう。まずは出てくれるかどうかが問題だ。
呼びだし音は十回を超えて数えるのをやめた。もう無理。そう思って耳から離し、電話を切ろうとしたちょうどそのとき、画面が『通話中』に変わった。携帯電話を耳に当てると、電話の向こうはうんともすんとも云わない。
そういえば拓斗と電話で話すのはこれがはじめてだ。電話は喋らなければ通じても意味がないのに。
「……拓兄?」
「なんだ?」
いちおう返事があって那桜はほっとした。
「サブバッグを車の中に忘れちゃったの。それで――」
「どうせいらないんだろ」
拓斗は軽蔑するでもなく、淡々と那桜をさえぎった。
「違うの――」
「どれだけ無駄におれを使った?」
「使ったんじゃなくて――」
「嘘はいい」
「違う! 最近忘れ物が多くて、それで課題が――」
「自業自得だ」
何度も那桜をさえぎり、拓斗は一言引導を渡して電話は切れた。
どうしよう……。
拓斗の云うとおり、これは自業自得でしかない。いまの那桜は狼少年そのものだ。いや、それより酷い。
あれから那桜は、忘れたふりをして車の中にどうでもいいものを持ってきては置きっぱなしにするということを繰り返した。
那桜。そう呼んでくれる機会をつくっているうちに、拓斗は取りあわなくなった。狂言だと気づかれたのにやめられず、見境なく続けた。忘れ物はどうでもいいものから必要なものに変わった。
自分でもそこまでしてしまう理由がわからない。
忘れ物常習者と烙印を押された那桜は、先週末、担任から罰として宿題とは別に課題を与えられたのだ。
もうやめた、とそう思っていたのに、肝心の課題を忘れるなんて愚かにも程がある。
「那桜、どうだった?」
教室に入ると果歩が心配顔で寄ってきた。
「拓兄を怒らせちゃったみたい」
「持ってきてくれないの?!」
「いいんだ。全部わたしが悪いってわかってる」
「だって――」
「平気。掃除を独りでやればいいんだし。クラスのみんなは助かるよ」
果歩をさえぎると、那桜は泣くに泣けなくて、かわりに笑って見せた。
万が一課題を忘れたら、独りで掃除をやらされることになっている。放課後にクラスの当番になっている場所を全部だ。
大したことない。……拓兄が来るまでに終わるかな。
「まったく。有吏、どういうことだ」
三組の帰りの連絡時間は掃除をしないでいいぶん早く終わり、放課後の教室は那桜と担任の大野、それに心配した果歩が残っただけだ。
「すみません」
本来の云い訳は馬鹿馬鹿しいほど愚かで、那桜は申し開きもできずに謝るしかない。大野は怒りを通り越し、那桜の目の前で呆れきったため息をついた。四〇代半ばで教師としてベテラン枠に入る大野は、いつもの温和な表情を険しくしている。
「いくら有吏家とはいえ、目に余る。ご両親に報告させてもらう」
宣告されたと同時に那桜が思い浮かべたのは父の厳つい顔だ。怒鳴られたことはないけれど、隼斗から無言で見据えられただけですくみあがりそうだ。
「せ、先生、待ってください! 明日からちゃんとします……じゃなくて明日また忘れたら云ってもらっていいです。だから今日は……すみません」
お願いは尻切れとんぼになってしまい、那桜は細々とした声で謝罪を付け加えながら、頭を深々と下げた。その頭上からため息が落ちてくる。
「本当だな?」
「はい」
「有吏の名に免じてもうしばらく様子をみよう」
「ありがとうございます」
「ただし、明日やったら終わりだぞ」
「はい」
「よし。掃除はちゃんとやれよ」
「はい」
大野は念を押してから教室を出ていった。
那桜と果歩は目を合わせて、ひとまずほっと息を吐きだした。
「有吏の名に免じてって、那桜んち、いったいどれくらい寄付してるの?」
「わたしが知るわけないよ」
明け透けな果歩の質問に那桜は首をかしげた。
青南学院は幼稚園から大学まである私立の学校法人であり、運営上、強制ではないものの寄付金は歓迎されている。そのなかで有吏家が多大な寄付をしていることは那桜も知っているけれど、金額までは知らない。
そのことで、何かと優遇されたり温情を受けたりすることがあって、那桜にはプレッシャーになることもある。
「大野先生も本心では両親に云う勇気ないんじゃない? どっちかっていうと、“忘れ物をする那桜”よりは“那桜が忘れ物をする”ことに頭痛めてる感じ」
「……それって同じことじゃない?」
「微妙に違うんだよね」
果歩は心得顔で独りうなずいた。
「よくわかんないけど……それより果歩、先に帰っていいよ」
「え、ちょっとくらい手伝うよ」
「ううん。ここでちゃんとしなかったら先生の信用まで失くしちゃう。果歩が残ってたら、きっと手伝ってもらったって思われるし、ホントにわたしが悪いからいいの」
「那桜がそう云うんなら帰るけど。もう那桜ってばヘンなこと頑張っちゃうから」
那桜の馬鹿げた行動を知っていた果歩は、首をくいと傾けながら大きくため息をついた。
「もうやらないから大丈夫」
「ホントに独りでいい?」
「うん。パッと終わらせるよ。拓兄が迎えにくるのは間違いないし、だから大丈夫」
「わかった。じゃ、明日ね」
「うん、バイバイ」
両隣のクラスからワイワイした声を聞きながら、那桜は閑散とした三組の掃除を始めた。
ほぼ無心でせっせとやっているうちに、ふと狼少年の話が頭をよぎる。
狼少年は最後、どうなったんだっけ。狼に食べられちゃった? 食べられたのは羊だけだったかな。
中国にもいたよね、狼少年。周の幽王。笑わないお姫さまが絹を裂く音でちょっと笑ったからって国中の絹を取りあげたって……これは実話? 挙句の果てに敵襲を知らせる狼煙が間違って上がって、勇んだ軍隊が透かされたのを見て笑ってしまったお姫さま。それで調子に乗った王さま。本当に敵が来たときには狼煙は役に立たなくて、ふたりとも殺されちゃってる。
そこまで考えると、那桜はつと背を起こして手を止めた。
笑わないお姫さまと笑わそうとした王さま。
那桜の場合は逆だ。
感情を無にした拓斗と、感情を引っ張りだそうとする那桜。
食べられることも殺されることもないだろうけれど、ちょっと可笑しくなって那桜は独り笑った。
教室の掃除を終わって今度は中庭に移った。寒くなっていくなか落ち葉が多く、見ただけで嫌にならなくもないけれど、いったん取りかかってしまうと那桜は時間を忘れた。みんなと一緒にやっていると早く終わらせたいと思ってしまうのに、独りきりの掃除はとことんきれいにしたくなってくる。
これまでになく真面目に掃除をしていた那桜は、見られていることに気づいていなかった。
「もういいだろ」
その声は大野の声ではない。
やっぱり感情の無い声には反抗心が沸々と湧いてくる。そう、反抗心だ。忘れ物をやめられなかった理由はそこにある。
那桜は声を無視して落ち葉を掃き集めた。
ここにいるということは大野から聞いたんだろうか。けれど、そんなことはどうでもいい。帰りたければ置いて帰ればいい。那桜の望むところだ。
果たし状を渡した気分になりながら、集めた落ち葉をちり取りに入れた。
「那桜」
また久しぶりになった、拓斗の口から出た名前。今日は一回では足りない。あと二回くらいその口から引きだせたら、二番目の解錠コードはクリアできるかもしれない。
「課題は提出してきた。罰は終わりだ」
拓斗が抗議すれば、課題なんて提出しなくても罰は帳消しになるだろう。それは那桜が有吏の名をいらないと思う理由の一つだ。
「那桜、帰るぞ」
二回目は比較的簡単に出てきた。
那桜は聞こえないふりをしてちり取りを持ちあげた。
「那桜」
クリア条件は拍子抜けするくらい簡単に成立して、那桜の反抗心は一気に解けた。
声のしたほうを振り向くと、すぐ傍の木に拓斗が腕を組んで寄りかかっている。
何も映さない拓斗の瞳は、いまのように無視している間もずっと那桜に注がれていたんだろうか。まっすぐすぎて怖い気がした。
そう感じてからふと、いつから拓斗がそこにいたのか、那桜は疑問に思った。足音には気づかなかった。もとより、拓斗は足音を立てないことが多い。拓斗に限らず、隼斗も戒斗もそうだ。
「ゴミ捨てて、バッグ取ってくる」
拓斗がもたれていた背を起こすのを見届けてから、那桜は校舎の裏側に向かった。
職員室に行って大野に終わったことを報告すると、気色悪いくらい労ってくれた。
ちょっとうんざりしながら校舎を出たとたん、拓斗が下駄箱の入り口にいることに気づいて那桜はびっくりした。てっきり車で待機していると思いこんでいた。
「……拓兄、先生に酷いこと何か云った?」
「若年性の健忘症だと主張しただけだ」
「健忘症?」
「この一カ月、急に物忘れが酷くなった。ということは脳の病気だとしか考えられない」
拓斗がからかうはずもなく、おもしろみのない声だ。
「酷い。違うよ」
「じゃあなんだ」
すかさず拓斗は訊き返した。
まず、那桜は驚いた。これまで那桜の質問に答えることもなければ、質問することもなかった。拓斗はいまはじめて那桜を那桜として扱っている。那桜の中にそんな期待が生まれた。それから気づいた。拓斗が冗談じみたことを口にしたのは、那桜から理由を聞きだそうと、『違う』という言葉を云わせるためだったのだ。
そこまで考え至るくらい、自分の脳は間違いなく健全に働いている。那桜は自分をなぐさめた。
しばらく迷ったすえ、那桜は馬鹿馬鹿しい理由を云ったときの拓斗の反応が見てみたいという気になった。
「拓兄に……那桜、って呼んでもらおうと思って」
下から覗きこむようにしながら云ってみた。
見上げた表情は片鱗も動かず、拓斗は何も云わないままとうとつに踵を返した。
呆れた感情さえ見えない。那桜はため息をついた。
「那桜、帰るぞ」
ついてこない那桜に気づいて拓斗が振り向いた。呼び止めたわけでもないのに振り向いて、加えて名前付きだ。
那桜は目を丸くした刹那、笑顔に変わった。
「うん!」
那桜は小走りで拓斗の横に並んだ。
「有吏の恥曝しになるようなことはするな」
「はい」
那桜は素直にうなずいて二つ返事をした。