禁断CLOSER#2 第1部 解錠code-Dial Key-

1.隙間 -1-


 大学は九月の最後の週に入るまで夏期休講中で、いまのところ拓斗の送迎はなんの不都合もなく毎日繰り返されている。
 戒斗がいる頃は、戒斗がやさしかっただけに拓斗とふたりきりというのを居心地悪く感じていた。それが初のお迎えから二週間たったいま、窮屈なのは変わりなくても、さすがに兄妹だからなのか慣れてはきた。
 車の中でどうかといえば、学校での出来事を話しても反応もなければ相づちさえないまま、那桜は独りで喋っている。家から学校までは車で四十分。その間、いくら女子高生といえども話題は尽きる。特に那桜は家と学校の往復だけで、目新しい話題の収穫は無理だ。
 つまり、朝の送りは話すことがない。
 初日以来、拓斗が『那桜』と呼ぶこともない。
 なんとなくムズムズしてくる。俄然やる気、みたいななんらかの気持ちが那桜の中でふくらんでいくのだ。
 そろそろ二回目の『那桜』が聞きたい。

 制服に着替えてしまうと、那桜は姿見でチェックした。パフスリーブの白い半袖ブラウスにクリームとグリーンのタータンチェックのベストスーツは、ちょっとレトロだけれど気に入っている。
 髪型は一見するとおかっぱで、昔っぽいお嬢さまみたいと云われる。那桜は遠回しに世間知らずだと云われているような気がしている。半ば世間から隔離されているような状況下、露骨に云われたとしても否定はできない。
 那桜はかすかに首をかしげ、眉の上限すれすれで重たく切りそろえた髪を指先でつまんだ。前髪を軽く整えて首もとの髪を軽くはらった。毛先に向かって薄くすいた髪は細い首を余計に細く見せている。
 普通に二重の目と、鼻も取りたてて云うほど特徴はなく、ピンクオパール色のくちびるはちょっとぽってりぎみ。肌の色はピンクというよりはただ白っぽい。全体的に色素が薄い印象だ。
 そのことと一五四センチしかない背の低さが相俟(あいま)って、おとなしく見えるらしい。那桜は目立ちたがるタイプではない。かといって、そうおとなしいわけでもなく、自分の意思はあるけれど、細かいことでは波風立てないようにしているだけのことだ。
「うん、ファイト!」
 一通りチェックし終わると、那桜は自分に向かって気合を入れた。自分で云いながら何を闘うのか疑問に思ったものの、もう七時十分を過ぎている。細かいところまで考えている時間はない。鞄を持って自分の部屋から出た。

 一階へおりると一気に昔ながらの純和風の雰囲気が広がる。有吏の家は戦前からあって築百年を優に越えているらしい。手入れがきちんとなされているから、外観も内観も古びた印象は受けない。
 以前、二階は屋根裏の物置部屋だったが、那桜が中等部に上がってすぐ、フローリングの部屋が欲しいと云いだしたことから改装するなら二階をということになって、兄妹ぶん三つの部屋ができたのだ。伴って、家の外観もリフォームされた。
 一階の廊下を挟んで階段の向こう側は、玄関からすぐの客室を除き、八畳の和室が四つ並んでいる。全部の(ふすま)を取り除けば壮観なほどだだっ広い。二階に子供部屋ができるまでは兄二人がそのうちの二部屋を使っていた。いまは一部の表分家が集まるときに使われるくらいだ。
 反対側は玄関先から、居間と台所を改装したLDK、二階への階段を挟んで風呂場、お手洗い、そしてもう一つ和室と並んで、両親の部屋は玄関から真っすぐ伸びる廊下のいちばん奥の一面だ。
 五人ですむには無駄に広すぎる。何度か来たことのある果歩は、普通じゃない、と感嘆するよりは呆れたように云った。
 もともと本家側近の分家、衛守(えもり)家が一緒に住んでいたらしい。いまはたまに護衛につくだけで、生計は有吏家とは別に成りたっている。
 衛守家はいかにも、というべき警備会社を運営している。一方で戒斗につく和久井家も警備会社で、同じ一族なのになぜ合同してやらないのか、那桜からすれば有吏一族の七不思議の一つだ。おそらく“不思議”は七つではすまないだろうが。

「おはよう」
 LDKの部屋に入って、那桜が声をかけると詩乃と隼斗が顔を上げた。
「おはよう。遅かったのね。早く食べなさい」
 隼斗はおはようと返すかわりにうなずき、その横で詩乃は並べたご飯を指差した。拓斗はいつものように見向きもしないで知らんふりだ。
 戒斗が家を出たあと、那桜の席は一つずれて拓斗の隣に変わった。それまでは戒斗の指定席だった場所だ。位置関係からすると、四人という数字から両親対兄妹と向き合ったほうが自然といえば自然だ。
 場所が変わって落ち着かなかった那桜も、退屈ということを除けばもう慣れた。
 退屈というのはだれもがお喋りじゃないからだ。一年前に戒斗が変化を見せ始め、ちょっと賑やかになっていた食事はまたつまらなくなった。

 でも今日は試しに。
 那桜は椅子に座るなり拓斗の顔を覗きこんだ。
「拓兄、おはよ」
 驚くこともなく、冷めた目が那桜に向く。返事もなければ、隼斗のようにうなずいて答えることもない。拓斗はまた食事に戻った。
 これが他人にされたことなら傷つくかもしれないけれど、兄となれば向かっ腹が立つ。とはいえ予測していたことで、ちょっとした怒りもすぐに治まって、やっぱりわくわくしてくる。
 ずっと無視するだけだった、ただの挨拶言葉に反応して、一瞬でも那桜が拓斗の視界の中心に入ったということは事実だ。
 朝食を食べ終わると、拓斗はさっさと立って部屋を出ていった。まもなく那桜がついてくるものと思っているはずだ。那桜はあえてゆっくりご飯を食べて時間をつぶした。
「那桜、拓斗が待ってるわよ」
 しばらくして、怪訝(けげん)そうにしながら詩乃が那桜を()かした。
「うん」
 そう返事しつつも那桜がぐずぐずしているうちにダイニングの引き戸が開いた。少し時間を置いて戸を向くと、柱に寄りかかった拓斗と目が合った。イライラしている様子もなく、ただ那桜をじっと見ている。九月の初日、車で待っていたときと同じだ。
 まだ。
 那桜は心の中でそうつぶやくと、拓斗から手に持ったお茶碗に目を戻した。最後の一箸を口に運ぶ。
「行くぞ」
 拓斗が声をかけると同時に、詩乃が物云いたげに那桜を見る。那桜はまだ食べきっていないと主張するように口をもごもごと動かした。
 まだ。
「那桜」
 名を呼ばれて那桜はがっかりした。
 もう少しだったのに。
 隼斗は名を呼んだだけで那桜に命令を下した。

「はい」
 那桜はため息を(こら)え、お茶を一口飲んでから席を立った。
 それを見届けた拓斗は先立って玄関に行く。
 あとを追っているうちに、那桜はまた別のことを試したくなった。
「拓兄」
 那桜は玄関を出たとたん、拓斗を呼び止めた。返事はなかったものの、拓斗は振り向いた。
「体操服忘れた」
「取ってくればいい」
 無表情の声が返ってくると、那桜は黙って鞄を差しだした。
「なんだ」
「持ってて。取ってくるから」
 二メートルくらい先に立った拓斗は動かず、信じられないことに背中を向けて車庫に向かった。
 安易に思いついた甘えは素っ気なく無視された。
「戒兄は持っててくれるのに」
 つぶやいただけのつもりが、その声が届いたようにタイミングよく拓斗が立ち止まる。
「早く取ってこい」
 その云い方からは本当に聞こえたのかどうかはわからない。那桜は小さくため息をついた。

 やっぱりうまくいかない。
 本当は体操服なんて必要ないのに、云った手前、今後狼少年の二の舞になるわけにもいかず、家の中に引き返した。
 那桜は息を切らしながらすぐに戻り、拓斗が開けて待つ後部座席に乗った。
 黙りこんだまま車は進んでいく。
 見慣れた風景は味気なくて、那桜はルームミラーに映る拓斗を見つめた。
 見えるのは額から左目にかけての一部分だ。ちょうどいい広さの額に前髪がちょっとおりていて、全体的に短めにカットされた髪はいつも無造作に撫でつけられている。
 目は二重なのに鋭すぎるくらいスマートで、妹にすぎない那桜でさえ見惚れる。
 眼差しが冷めていなければ満点なのに。その瞳が温かくなったらどんな感じなんだろう。
 那桜が想像しかけたその時、ちょうど車が止まって思いがけず拓斗の視線が上を向く。ルームミラー越しに瞳と瞳が重なった。
 普通に目を合わせるのと違い、覗き見していたところを見つかったみたいに那桜はどぎまぎした。ミラー越しでも射抜く力は同じだ。
 那桜は視線を外せないままどうしようと焦っているうちに、信号が青に変わり拓斗は運転に集中した。肩の強張(こわば)りが解け、那桜はこっそりと息をつく。

 なんとなくルームミラーは見られなくなって、外の景色を眺めていると青南通りに入って、やがて学校に着いた。
 那桜は拓斗が車のドアを開けてくれるまで待った。車の乗り降りに関しては、なぜか暗黙の了解で拓斗の奉仕タイムになっている。那桜にとっては理由などどうでもよくて、このときだけは拓斗に尽くしてもらっている感じがしてちょっと気分がいい。
 那桜は鞄を持つと、今日は出番いらずの体操服のバッグが目に入った。どうしようかと迷った挙げ句、必要ないし、と置いていくことにした。後部座席だから拓斗も気づかないだろう。
「いってきます」
 返事はないとわかっている。歩道脇に送りの車がずらりと並ぶなか、那桜はほかの生徒たちに(まぎ)れるようにちょっと先の正門へと向かう。いつも門柱の内側で待ち合わせしている果歩が目に入った。

「果――」
「那桜」
 走りかけたのをさえぎったのは拓斗の声だ。
 那桜はびっくり眼で振り向いた。
「忘れてる」
 拓斗が差しだしたのは体操服だ。呼び止めたところで、こっちまで持ってくる気はないらしい。
 その不親切さは気にしないで、とりあえずはよしとしよう。予定外で『那桜』と呼んでくれたから。
「ありがとう、拓兄」
 駆け戻って拓斗の目の前にすとんと立ち止まり、那桜が笑顔全開になると、拓斗の目が那桜の瞳からくちびるにおりた。
 そんなに何がうれしいんだ? と呆れているのかもしれない。
 体操服を押しつけるように那桜に手渡したあと、拓斗は無言で運転席に回った。ドアに手をかけた拓斗がまた那桜に目を向け、早く行けと云わんばかりに顎をかすかに動かす。
「いってきます」
 さっきより張りきった声になった。

 那桜はくるりと身を(ひるがえ)し、引きしめなくちゃと思うくらい頬は緩みっぱなしで果歩のところへ急いだ。
 正門まで来たところで拓斗の車が横を通り過ぎる。
 一瞬しか見えなかった無表情の横顔。
 知らないふりじゃなく、“那桜”。
 CLOSERの解錠コードは確実に存在した。

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