禁断CLOSER#1 序章

ダイヤルキー 名前を呼ぶ:1回


 仲のよかった下の兄、有吏(ゆうり)戒斗が家から突然いなくなったのは、一カ月ほどまえ、わたしが十七才の誕生日を迎えた七月の末のことだった。

 排他的で孤高の雰囲気を(まと)い、あまり他人を寄せつける人ではなかったけれど、わたしのことはよく面倒を見てくれた。
 そんな戒斗は高校三年生になった夏の初め、妹であるわたしさえびっくりするほど性格が柔らかくなった。もともと才芸器量に秀でた戒斗は当然のように人望を集めていった。
 そして大学生になってのはじめての夏休み、戒斗は、
「やりたいことを探したい」
とそう云って、父、隼斗(はやと)に逆らうようにして家を出た。
那桜(なお)、独りにしてごめんな」
 出ていくとき、戒斗は気遣うように云った。

 実質的には『独り』ではない。両親は健在で上の兄、拓斗も一緒に住んでいる。
 ただ、この家はどう見ても普通ではない。あくまでも、テレビとか、友だちからの話から得たことが“正しい家族のあり方である”としてのことだけれど。
 有吏家は“家”なんだろうかと思うほど、父と兄たちは不在のことが多く、特殊という言葉が似合っている。
 素直な笑顔が一つもなく、他人の集まりのような気さえする。
 母、詩乃はいつも控えめで、母親として完璧なのになぜか一線があり、それと相反して過保護でもあり、その矛盾にわたしは戸惑っている。
 父、隼斗は娘からしても近寄りがたいほどの威厳があり、わたしにつらく当たることはないけれど、兄たちには厳しい。
 そのせいか、兄たちは早くから周りのどの子よりも大人びていた。
 父はよく兄たちを連れて、道場があるだだっ広いお屋敷、有吏塾へと通っている。
 たまに、親族一同が結集するときがあって、そのときはわたしもそこに連れられて行く。世間から見ると、普通に親戚としてある表分家と他人としてある裏分家とが集うのだ。どうして表裏があるのかわからないし、なんとなく異様な雰囲気が漂い、息が詰まったように感じてあまり好きな場所ではない。
 あまり、ではなくはっきり嫌いだ。
 何をしているのか、わたしには一切、だれも明かさない。わたしに、というよりは男たちだけの秘密のような気がする。

 有吏は親族のなかでも本家という一族の長で、その立場上、余計に兄たちは悠然とした立ち居振る舞いを身につけざるを得なかったのかもしれない。
 感情を捨てた、その状況下で戒斗の変化は家族以下、有吏一族を驚かせた。
 ただ、わたしより五才上の兄、拓斗はそれさえも冷めた瞳で眺めていた。
 拓斗は完膚(かんぷ)なきまでの感情を閉ざした人(CLOSER)


「那桜、正門のところに戒斗さんに負けないくらい、すっごくカッコいい人がいるらしいよ」
 九月の初日、始業式が終わった昼近く、先生の使いで職員室から帰ってきた友だちの飯田果歩(いいだかほ)が戻ってくるなり云った。いつもは落ち着き払った果歩が興味津々の様子だ。

 わたしはそれを聞いた瞬間、拓斗だと確信した。
 それまではいつも戒斗か、どうしても戒斗の都合がつかないときは、戒斗につく和久井という裏親族の一人に送迎された。
 そこまでされる必要性がどこにあるのか、わたしにはまったくわからない。過保護な詩乃のせいなのか。
 それはともかく、戒斗が家を出た結果、今日の朝ははじめて独りで通学した。新鮮で、解放された気分が心地よかった。
 帰りも独りで帰れる、と子供じみた楽しみを抱いていたぶん、がっかりしてわたしはため息をついた。
 しかも迎えが拓斗となると、ふたりでいることの居心地の悪さを知っているだけに、逃げだしたくさえなった。

「それ、たぶん拓兄(たくにい)
 ため息混じりにわたしが打ち明けると、普段に聞かない名前を聞いた果歩は目を見開いて驚く。
「え! はじめてよね。那桜の家に行ってもいつもいないし。紹介してくれる? 会ってみたい」
「だめだよ。戒兄(かいにい)と違って、拓兄はそういうのに応じる人じゃないの。紹介したところで後悔するよ。わたしでさえ、会話するのが大変なんだから。云ったことあるでしょ? きっと、挨拶も返さないよ」
 果歩は、そうなの? と少し不満を向けた。
「ごめん、果歩。せっかく一緒に帰れるはずだったのに」
「うーん。そのうち、絶対ね」
 果歩には戒斗が出ていったことをその直後に伝えていたから、わたしに負けず、果歩も帰りの寄り道を楽しみにしていたけれど、こうなるとその『絶対』がいつか叶うことがあるのか怪しくなってくる。

 下駄箱へ行って靴と履きかえると、(まば)らな生徒たちの間を縫って正門へと急ぎ足で向かった。
 わたしが拓斗を確認すると同時に、拓斗もわたしを認め、その瞳がまっすぐに注がれる。冷たい眼差しは、一度(ひとたび)(とら)えられると放すのが困難で、あまりに端整すぎる顔立ちが冷たさを強調し、それが怖いと感じることがある。
 記憶にある限り、拓斗の笑顔というものを見たことがない。
 結局は瞳を()らすこともかなわないまま、拓斗の目の前に立った。
 九月に入っても()はまだ夏のままに強く、肩までの髪が少し汗ばんだ首もとに張りつく。その髪をはらうと、拓斗の瞳がつとわたしの瞳から離れ、首もとに動き、そしてまた戻った。

「独りで帰れたのに……」
「今朝は勝手に独りでいなくなるから、母さんをなだめるのに大変だった」
 拓斗はわたしをさえぎって淡々と告げた。
「小学生じゃないんだし、ちゃんと迷わないで通学できるよ? それに拓兄にも迷惑――」
「二度とこんなことはするな。面倒だ」

 再びさえぎると、わたしの意思を拓斗は『面倒』の一言で却下した。
 拓斗はわたしに背を向け、学校の敷地内を囲む壁に寄せていた車に向かう。後部座席のドアを開け、拓斗が目を向けて無言でわたしを待っている。
 これまでのような当然といわんばかりの扱いに、なぜかこのとき、わたしは反抗を覚え、拓斗の黙したままの命令を無視して動かなかった。
「何をやってる?」
 はじめて自分に対するわたしの反抗を悟っていたとしても、その声には苛立(いらだ)ちも何も見えず、表情と同じくまったくの無感情だった。

 拓兄はいつも何を思っているんだろう。

 そう思ったのが始まり。たぶん。

「早く乗れ」
 まだ。

 横を通り過ぎる生徒たちがその都度、(いぶか)しく不自然に立ち止まったわたしの顔を覗いていく。
 青南(せいなん)学院はどこぞのご子息、ご令嬢が多く、送迎はめずらしくない。
 Tシャツにジーンズという、迎えにしては砕けた格好であることを差し引いても拓斗は目を引く。わたしに向けられた視線は拓斗へと流れた。
 もちろん、動じる拓斗ではなく、その瞳はぶれることもなくわたしを射る。

 五分後。

「那桜」

 久しく聞くことのなかった、拓斗の口から出たわたしの名は無色ながらも心地よく届いた。

「はい」

 従順に答えて後部座席に乗ると、拓斗はわたしを車に閉じこめた。
 拓斗は運転席に乗りこみ、車を出す。

 閉じてしまった、感情という扉を開けてくれないのなら、わずかな隙間を探しだし、そこから入りこむだけ。

 待っていたCLOSER(クローザー)解錠(かいじょう)コード一番目、“名前を呼ばせる”、クリア。

NEXTDOOR

* ダイヤルキー … ここでは金庫のダイヤルキーを想定
   ダイヤルを左右に回す回数+目盛りに合わせる番号という幾つかの組み合わせで解錠される鍵