愛魂〜月の寵辱〜

第7章 摧頽(さいたい)(みだ)りに淫ら−
#3

 丹破家の二階にあがり、南向きの部屋へと廊下を曲がると、毬亜は足を止めた。
「今日は何もない」
 毬亜に合わせて隣に立ち止まった謙也はため息をついてなだめた。
「今日は、ってやっぱり謙也は知ってたんだ」
「逆らうか従うか。少なくとも逆らうときは見極めて動く。おれはそう若頭から教わってる。だから、一週間まえのことはしょうがなかった。悪かったとは思ってる」
「しょうがないっていう意味がわからない」
「おれは、若頭がおまえに執着する意味がわからない」
 いつも淡々としている謙也は、普段の吉村から迫力を激減させた感じだ。つまり、飼い主に似るという言葉は謙也に当てはまる。
 そんな謙也が謝るとは思わなくて驚いたけれど、その次に出た発言は、毬亜に対する謙也の気持ちそのものが現れていた。毬亜のことを認めていないというよりは認めたくないのだ。
「あたしもわからない」
 反抗的に云い返して、艶子の部屋に向かった。謙也は云い訳も取り繕うこともせず、毬亜のあとをついてきた。
 いざドアのまえに立つと、無自覚に耳をすます。情事を思わせる音を探しているさなか、謙也がドアをノックして無理やり中断させた。
 いいわよ、という返事が早かったのか、謙也が開けるのが早かったのか、毬亜から見える範囲内には艶子しかいない。彼女は服をちゃんと着ていて、毬亜の肩からこわばりがとけた。
「今日はお世話になります」
 毬亜はなかに入って進み、艶子が座るテーブルにトレイを置いた。
「謙也、ちょっとこの子とふたりで話がしたいの」
 艶子は出ていけと云ったわけではない。それなのに。
「わかりました」
 謙也は迷いもなく承知した。
 驚きは呆然とした様にかわり、毬亜がなんの対処もできないうちに、謙也は艶子の部屋を出ていった。
 何を話したいのか毬亜には皆目わからず、今度は肩だけではなく全身がこわばる。不自然に思われない程度に、精いっぱい平静を装って、艶子のまえにコーヒーを据えた。
「座りなさい」
 艶子は正面の椅子を指差す。
「はい……お邪魔します」
 ただの社交辞令で、本当に座っていいのかどうかをつい疑ってしまうほど、艶子もまた何を考えているのかまったく不明だ。
「母親に似て、あなたも一月が好きみたいね」
 どう答えるべきか、見当もつかない。ただ、母が吉村を慕っていたことだけは確信できた。
 艶子は一週間まえと同じ、挑発的な笑みを浮かべた。
「いいわよ、わたしに遠慮しないでも。好きな気持ちは自由。ただね、報われることはない。知ってる? 一月には二十年以上まえから忘れられない女がいるってこと」
 吉村の微笑も、激昂も、躰も知っている。けれど、吉村のことは何一つ知らない、そう思い知らされた瞬間だった。
「念のために云っておくけど、それはわたしのことじゃないわよ」
 それが自分のことだと主張したのなら疑ったかもしれないが、艶子はそうしなかった。

 艶子はカールした髪をふわりと揺らしながら、覗きこむようなしぐさで毬亜を見つめる。毬亜は目を見開き、驚きが隠せていない。
「その彼女はね、丹破一家系列のやくざの娘。如仁会からすれば末端の組。一月は付き合っていたとき、やくざの娘なんて知らなかったみたいだけど。そりゃそうよね。出会ったきっかけは聞いてないけど、堅気だった一月にやくざの娘だなんて云ったら避けられるって思うわ。あなたも堅気だから、当然わからないでしょうけど、やくざの娘って友だちもまともにできない。知らないうちは仲良くやっていけてたのに、ばれたとたん、仲間に入れてもらえなくなる。普通にやりたいだけなのにそれがかなわない。やくざってもともと迫害から生まれたっていうけど、あながちでたらめじゃないかもね。強くならざるを得ない。それがどんな手段でも。もちろん、やくざだってことを利用してめちゃくちゃやる子もいるけど、みんながみんなそうじゃない。この世界はものすごく閉鎖的。特に女にとっては。それはわかるでしょ?」
 毬亜はそんなことを聞かされるとは思ってもみなかった。
「はい」
 どう解釈すればいいのか、戸惑いながら毬亜はうなずいた。
 艶子は、毬亜と同じ歳の頃にはその辺にいる子となんら変わらなかったのかもしれない。いまの傲慢な振る舞いは、強くならざるを得なかったポーズだという見方もできる。
「彼女はやくざの家だってことだけじゃなくて、父親の親分に当たる男に――不破組の組長だけど、その男の妻になる身だったことも隠してた。組長に会っていることがばれて、一月は散々な目に遭った。それを手遅れになるまえに止めたのがわたしの父。父が云うには、一月が殴られているのを見て彼女は笑っていたそうよ」
 吉村が、大学をやめてまでこの世界に入ってしまう何があったのだろうと不思議に思っていた。ガキくさい話だと云ったけれど、吉村は忘れていない。
 それはなぜ? それだけ傷ついているということ?
「それでも……吉村さんはその人のことを忘れられないの?」
「まだ続きはあるわ。そのあと、彼女は不破組長と結婚した。でもね、その二年後、彼女は自殺した」
「……自殺?」
「彼女は、一月のことを本当に好きだったんじゃないかしら。その直前、一月当てに電話があったわ。一月は出なかったけど。当然よね。一月はだれよりも強くプライドを持ってる。じゃなければ、父に助けられたその場で組に入れてほしいなんて云うわけないでしょ。わたしたちが彼女の死を知ったのは、それから一年たってからだった。藤間に来てずっと一月は彼女に関することは避けてたから。そして、一月は真相を探りだした」
 艶子がコーヒーカップに口をつけるのを見つめながら、毬亜は吉村がほんの少し自分の話をしたときのことを思いだす。
 あることを調べるためと、吉村は藤間一家から丹破一家に移った理由を教えた。それは“彼女”に関することだったのだろう。吉村が彼女の死に直面するまで避けていたのは、それだけ意識していたということの裏返しでもある。
「彼女は、結局はわたしと同じ」
 同じ立場だからこそなんだろうか、そう云った艶子は彼女に肩入れしているように見えた。
「同じ?」
「父親のために結婚したのよ。わたしも、彼女も。わたしは一月と結婚する予定だった。でも壊された。利害関係があったら、その弱者側が強者には勝てないでしょ。ここはまっとうな意見なんて無意味だし、女の意思は通らないから」
「それじゃあ、その人はしかたなく結婚をしたの?」
「不破組長はずいぶんと妻にご執心だったようよ。閉じこめられてたみたいだから」
「吉村さんは……わかって何かしたの?」
 毬亜が訊ねると、艶子は肘をつき、テーブルに身をのりだすようにして手のひらに顎をのせた。
「不破組を潰したわ。二年もかけて」
 話しだした艶子の声は潜めたように静かだった。毬亜もまえのめりになって耳を澄ます。
「組織に上納しなければならないカスリを隠していることがわかって、一月はそれを裏づけるために丹破一家に入った。不破組長は丹破一家の幹部だったから。不破組の組員を抱きこんで、不破組長の不正の場に丹破総長を居合わせるように仕向けたのよ。丹破はね、そこに怒鳴りこんでいくような男じゃない。裏切った者は二度として信じない。殺れ、って子分にひと言云ってすませる。それを知ってる一月は自分の手を少しも汚さず、不正に携わった組員の男たちと不破を葬った。堅気だった一月を暴行した男たちよ」
 艶子はにっこりと笑うと躰を起こした。
「完璧な報復だと思わない?」
 毬亜は、上納という会費などのお金を組織に納めることも、カスリという組織として稼ぎがあればその歩合を納めなければならないことも知らなかったが、吉村が怖いほど自分の意志をひたすら貫くことはわかった。
 強くなりたかった。怖がるよりも怖れられる存在に。
 そんな吉村の言葉がいままた傍に聞こえた気がした。
 それは復讐したかったから? だれのために?
 最初は自分のためだったとしても、いつしか、忘れられない彼女のためにと変わったのかもしれない。
「一月はボロボロになりながらも、きっと父の力を見切って加入を頼んだんだわ。三年でその男たちよりも明らかに上に立ってた。頭が使えるのよ、一月は。丹破一家を藤間と並ぶ如仁会の資金源として重鎮にしたのも一月だから。彼女も大鷹だって、一月のことをよく云ったものだわ。狙いを定めたら徹底して追う。一月にぴったりでしょ」
 違う、と、翼を宿した腕で抱きしめてほしいと訴えたとき、吉村はそう云った。それは、艶子ではなくその忘れられない人を標(しる)した翼だからだ。
「吉村さんが結婚しなかったのはその人のせい?」
「間接的にはそうじゃない?」
「間接的に?」
「彼女が隠していたことはもう一つあるの。それは、十七歳だったこと。一月と同い年って嘘をついていたらしいから」
 いまの毬亜と同じ年齢だ。偶然だろうか。艶子の思わせぶりな口調にそう疑ってしまう。
「一月はね、あなたに彼女を重ねてる。期待してしまうような言葉を云われてない?」
 そう問われて真っ先に浮かぶのは、生き延びろ、という言葉だった。
 彼女が自殺したからこそだとしたら。
 毬亜が呆然とするのを艶子は見逃さず、くすっと笑う。
「わたしは忘れられない女とは云ったけど、いまも愛している女だとは云ってないわ。報復したあとは、一月はただ後悔してるだけ。あなたとわたしは一月のカタルシスに必要なのよ」
「カタルシス?」
「浄化。後悔から解放されるってこと。十七歳のあなたを囚われの身から助けられたら、一月は報われる。無理やり結婚させられたわたしを丹破から奪い返せば、一月は報われる。だから、わたしも一月に協力してあなたを確実に丹破から助けてあげる。そうしたら、わたしと一月にも協力してちょうだい」

 艶子に同情する余地はある。けれど、話したことの真意はわからない。
 艶子と一月にも協力してほしいとは、即ち、そのさきでふたりが一緒になるということだ。
 そうしたら、毬亜が助かってもそこには何もなく、そしてだれ一人としていない。
 部屋を出ると謙也がドアの傍にいて、果たして声は聞こえていたのか。
「なんだった」
 謙也は曖昧に問うた。
「わからない」
 つぶやくように答えてうつむくと、毬亜はくちびるを咬んだ。
「行くぞ」
 ぞんざいに云い、謙也はさっさと歩きだした。
 嵐司は同じことを云うとしても、待っているか手を引いてくれる。棚の上に飾られて忘れられたドールはこんな気分でいるのだろうか。独りになるというのは、けっして満たされない、すかすかした気持ちのエンドレスなのだ。
 とぼとぼとついていくと、階段のところで謙也は振り返った。
「一月さんは筋を通すし、めちゃくちゃなことはやらない。それを甘いって一月さんは云う。確かに、はじめて会ったとき、ケンカは強かったけど怖いとは思わなかった。ただ、この人なら間違いないって信頼させるものを持ってる。おれは、最初に会ったときから一月さんについていくと決めた。そこはマリと同じだ、その気持ちがずっと続くんなら、な。わからなければ、わかろうとしたらいい」
 あたりまえのような言葉で締め括り、また謙也はさきに階段をおりた。

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