愛魂〜月の寵辱〜

第3章 宴utage−不浄の烙印−
#4

 どうなるんですか――そう訊いて、答えられないと云った吉村の“答えられないこと”とはこういうことだった。このあとにも、これ以上の何かがあるのか。
 くちびるに濡れたタオルが当てられ、驚くという反応もできないまま横に来た吉村を見上げた。乾きかけてこびりついた奴隷のしるしが拭きとられる。そうしながら毬亜を見下ろす眼差しは、残酷さすらも消えていて無表情だ。
 淫らな母を見て、毬亜は漠然と自分の行く末を知った。心の奥底でそれを否定したがっていただけで、現実はわかっていた。吉村から、ここが毬亜の生きる世界だと示されたことがそれを裏づけた。
 ただ、見せ物になっても、今日だけは吉村が抱いてくれるのだと、はじめてが吉村ならいつまでも毬亜は吉村を当てにして守ってもらえるような気がしていた。当てにしていいのはおれだけだ――と、それだからこその言葉だと思った。
 それなのに。
 期待させることを云って、易いと侮蔑を吐いて、可愛いとうそぶく。どれが吉村の真意なのかわからない。
「卑猥だねぇ。毛もない。ぬらぬら光っておまけに真っ赤だ」
 気づけばお尻の向こうに倉田がいた。
「いやっ」
 叫んだとたん、おなかに力が入り、膣口から粘液がとくんと排出された。一度溢れると、次から次にこぼれだす。
 脚を閉じようとしたとたん、男たちの手にさえぎられた。
「うーん、そそられるねぇ」
「いかにも犯されたという感じだ。赤い筋も男の征服欲が煽られますな」
「男根で逝くには時間がかかるかもしれないが、その調教も楽しみだ」
「いや、さっきまでのことを思えばすぐに逝けるようになるんじゃないですか」
「マリちゃんのお尻は調教権まで含めて私がいただきますよ。いくら出しても惜しくない」
「倉田社長、たいへんな入れ込みようですな」
「マリちゃんが来たときからの大ファンでね。恥ずかしながら私にとってはアイドルですよ。アイドルを抱くチャンスなどそうそうない」
「なるほど」
 これほど惨めになることはあるだろうか。違う、たぶんこんな惨めなことばかりが待っているのだ。
「倉田社長」
 吉村が“はい”じゃない言葉をようやく口にした。
「今日のところは、そこはやめていただきたい。痛い目に遭わせるのは、総長の本意ではない」
 倉田は何をしようとしたのか、吉村が止めた。
「もちろんだ。我々も出してるものは出してる。余興といえども味わうことくらいはいいだろう。孔(あな)は避けるよ」
 それに吉村が応えることはない。つまり、了承したということにほかならない。
 開いた脚の間に熱のこもった空気を感じた。目を伏せた直後、そこに顔をうずめる倉田が見えた。
 いやぁ。
 その声に力はなく、突起が舌で舐めあげられた。がたがたと躰がふるえる。
「やっぱりここは敏感だね。マリちゃん、私の顔に潮吹いても一向にかまわないよ」
 顔を上げた倉田は都合よく自己解釈したことをそのまま毬亜に浴びせる。
 京蔵に対するものと同じだった。虫酸(むしず)の走るような嫌悪感でしかない。そこはきっと神経の集まった敏感な場所であって、性的な昂奮などなくても反応だけはある。
「では、私は乳房を」
 そう云った男がふくらみを根もとからつかむ。釣られたように別の男が、「片方は私が」と台をまわり反対側をそうした。
「顔は幼いが、乳房の大きさは立派なものだ」
「若いから張りがあるな。仰向けでも突きでている」
「若いせいじゃなくマリちゃんの体質ですな。丹破社長がおっしゃるとおり、感度も躰つきも夜鷹としての価値は高い」
 この男たちにとって毬亜は“女”という商品だ。それぞれが好き勝手な評価を放ち、それで“商品”がどんなに惨めな思いでいるかということには少しも配慮がない。
 胸もとに片方の男が頭をおろしてきたかと思うと、その口が開いた。
 いや。
 声がつぶやきにしかならないのは、もう叫んでも避けられないとわかっているからだ。
 吉村はきっとそこにいるのだろうが、毬亜は探すどころか視界から除外した。そうしないと、ますます自分の愚かさを見せつけられる。
 どこだかの社長、どこだかのドクターに法律家。彼らには品位もなく、ただ女に群がる、まるで毛むくじゃらの狼だ。
 一匹は狼じゃなくて、豚かもしれない。丸々した顔が脚の間でひたすら飢えを癒やそうとしている。ぴちゃぴちゃと音を響かせ、食事は静かに、というマナーも守れない。
 乳首も生暖かい口のなかに含まれ、片側は、おもしろい玩具を見つけて具合を試すかのように摘まれる。生理的作用で躰がぴくりとした。アレルギーみたいな拒絶反応なのにそれを快感反応と勘違いして――もしかすればそれもわかってわざとそうしているのかもしれないが、男たちが湧く。
 太腿の内側を舐める男、手のひらから舌を這わせ、指先へと移りしゃぶる男。
 穢れが全身を這い、爛(ただ)れていくような気がした。いっそのことそうなって見向きもされなくなるのはどうだろう。自虐的に笑おうとするのにそれとは裏腹にこめかみを涙が伝う。
 目を閉じれば時間が果てしなくスローになりそうで、毬亜は天井を見つめた。
 シーリングライトはすべてが点灯しているわけではなく、適度に間引かれている。
 ふとそれらの一つに目が留まった。その照明は消えていて黒光りしている。仕様が少し違う気がした。
 なんだろう。目を凝らした矢先、男の顔が真上に来てさえぎられた。その顔に焦点が定まらないうちにくちびるも穢れが覆う。
 煙草臭さが吐き気を催す。吉村も煙草を吸っているのに、気持ちが違うだけでこんなふうに感覚まで違ってくるのだろうか。
 重力に従い、もしくはわざと男が垂れ流しているのか、口のなかに唾液がこぼれてくる。呑みこむことなどできない。
 毬亜は舌で押し返したつもりが、顔を上げた男は――
「キスも好きか」
 にやりとして、キスに応じたと誤解した。
 その隙に顔を反対に向けて唾液を口角からこぼした。吐きだせたことにほっとしたのもつかの間、男は毬亜の顔を上向けてまたくちびるをふさいだ。
 生理的な拒絶感がおさまらず、何度も嘔吐いた。呑みこめずに唾液が溜まり、呼吸がしづらくなっていく。
 手も脚も、躰の中心も胸も、くちびるも。すべてが汚らしい。
 自分の躰から抜けだしたい。
 そう願ったとき、ふっと身軽になった。それとも毬亜が願ったとおりに肉体を捨てたのか。
「毬亜」
 懐かしい呼び名だった。
 赤ちゃんに還った夢を見ているのだろう。揺りかごのなかに躰をすくわれた。



 一月(いつき)はガウンを羽織らせただけの毬亜を抱き、宴の地下室から毬亜のために用意されたマンションの一室に連れ帰った。移動する間も風呂に入れて躰を洗う間も、呼吸を確かめたくなるほどかすかも目覚めることなく眠り続けている。
 毬亜が失神する一瞬を見逃したのは、哀(あわ)れみのためか。いや、青二才が抱える感傷となんら変わりない。卑怯にも直視することから逃げた瞬間に、毬亜は窒息しかけて気を失っていた。
 風呂から出ると、濡れた躰のまま寝室に連れていき、広げられたタオルケットの上に毬亜を横たえる。躰をくるんで水滴をぬぐうと、湿ったタオルケットを抜きとった。クーラーのきいた室温からかばい、薄手のふとんでかぼそい躰を覆う。
「どうぞ」
 謙也が焦げ茶色のガウンを差しだし、一月は受けとって無造作に羽織った。
「謙也、今日は帰っていい」
「若頭(かしら)」
 気がかりの覗く声で謙也が呼びかける。
「この娘くらいなら嵐司がいるだけで充分だ」
「……わかりました」
「謙也、嘘を吐く必要もなければ、よけいな事実を口にする必要もない」
「もちろんです」
 二十九歳になった謙也は、若中ながらも状況の?みこみが早く無駄に言葉を並べなくてすむ。拾ったのはちょうど十年まえだ。
 謙也が柄の悪い連中と独り立ちまわっていたところに偶然、一月は通りかかった。結果は明らかだったが、謙也は倒れても立ちあがる。間もなくして、さびれた駐車場のコンクリート上に倒れこんだ。それでもなお、蹴りを入れられながら脚に喰らいつく。もう無理だろうと思い始めたとき、気づけば一月は口を出していた。やめろと云っても従わなかった奴には手も足も出して追い払った。
 かがんで何やってんだと訊けば、バイクを盗られそうになったと云う。なるほど、バイクを見れば、装飾が施してあって相当の拘りを持っているらしいとわかる。起きあがれそうになく、バイクと心中しそうだった謙也をバイクごと連れて帰れば、普通のサラリーマン家庭に育った堅気(かたぎ)のくせに、いつの間にか丹破一家に住みついた。
 補佐にしたいほど気の置けない、なお且つ信用に値する奴だが、特別問題のない若頭補佐がいる以上、抜擢は不穏な事態を招く可能性もあって、時を待つしかない。
「失礼します」
 謙也は一礼して部屋を出ていった。
 謙也がいたところで何も問題はないが、嘘を吐くよりは最初から知らないでいたほうがいい。
 何を知られるべきではないのか。
 一月はベッドを見下ろし、自らを嗤った。
 ベッドの足もとをまわり、窓際に置かれた二人用のソファに座ると、一月はテーブルに置いた煙草とライターを取りあげる。
「嵐司、座れ」
 煙草を咥えながら向かい側のソファを指差す。
「はい」
 入り口に立って待機していた嵐司はソファの手前で止まり、一礼した。
 一月が煙草に火を灯す間に嵐司は正面に座った。ひと息深く吸い、ソファにもたれながら息を吐きだして紫煙を燻(くゆ)らせる。
「嵐司、マリのことをしばらくおまえに頼みたい」
「おれ、ですか。それはかまいませんが。なぜご自分で面倒を見られないんです?」
「事情がある」
「なるほど。本心としては――」
「おれはよけいな云い訳をしたようだな。こういった世界にいる大方の連中と違って、おまえが頭の切れる奴だってことを忘れていた」
 一月は嵐司をさえぎったものの、即座にそうしたことはかえってご名答だと云っているようなものだった。内心で舌打ちをする。
「頭が切れるかどうかはわかりませんが、陰険で狡猾(こうかつ)な義姉がいれば、常に頭が働くようにもなりますよ」
「相変わらず仲が悪いな。今日も、すれ違っても挨拶もしない」
「おれは所詮、妾(めかけ)の子ですから。義姉は男に生まれたかったんだと思いますよ。年の離れた異母弟に嫉妬こそすれ、愛情は皆無です」
「いずれにしろ、血族で継承はできない。この世界は実力だ。人がついてこなければすぐに廃(すた)る。総裁の息子といえども……」
 一月が言葉尻を濁し肩をそびやかすと、嵐司はうなずいた。
「そのとおりです。総裁に何かあればおれも油断はできないし、損な身分ですよ。一月さんはおれがうらやましいって云われましたけど、堅気だったらいま頃どうしてるだろうと思うこともあります」
「藤間総裁にすでに息子がいれば、おまえも引きとられることはなかったんだろうが」
「いい迷惑です」
「中途半端でいるとやられるぞ」
「いまは一月さんを見て、おれもって気になってます。男から見ても一月さんはカッコいいし惚れますよ。人がついてくるのもわかる」
 カッコいいという言葉は二十三歳という若年だからこそ出る言葉なのか、一月は思わず笑った。
「はっ。おれが何をした?」
「二年まえの大刀(だいとう)組との抗争で、関東進出を阻(はば)んだ陰の立役者だっていう話です。向こうのほうが被害が多かった段階で、丸腰で乗りこんだんでしょう」
「向こうは形勢不利で、手打ちは願ったりだった。そうわかっていなければやらない」
「躰張ったって聞いてます」
「如仁会の最高幹部たちに伴って行けば、おれが出るのは当然だ。医者が要るほどの傷じゃない。想定内だ」
「だから、先回りできるっていうそこがすごいんですよ。それだけじゃない。あいつらが進出してきた時点で縄張りを固めたのは一月さんなんですよね。大刀が入りこめたのは最初だけで、あとは入る隙がなかった」
 一月は口を歪め、煙草を吹かしながら息をついた。
「おれを褒めそやしてもなんにもならないぞ。おまえと話してるとつい口が滑る。人を油断させるおまえのほうがよっぽど強(したた)かだ」
「褒めてもらってるんですか」
 一月は首をひねって見せるだけで肯定も否定もしなかった。
 藤間(とうま)嵐司が修行だと云い、丹破一家を頼ってきたのは先月だ。藤間総裁直々の連絡を受け、一月が預かっている。若かろうが、見た目は堅気と捉えがちだろうが、根っからのボス体質だ。信用はしているが、計算ずくで動く印象も否めない。
 大抵の人間は一月のまえではへつらう。だが、嵐司はおだてつつ、一方で物怖じはしない。
「あの件で丹破一家の地位は一気に上がりました。如仁会内だけじゃない、外に対しても」
「丹破総長が喜んでいるのなら何よりだ」
「喜んでいない、というような云い方ですね」
「気のまわしすぎだろう」
「それならいいんですが」
「なんだ?」
「いえ」
「まあいいが、丹破で生きていこうと思うんなら、おれよりは丹破総長についておけ」
「そこはおれの意思に任せてもらいたいですね」
 云い返してきた言葉がふざけているのか本心なのかを図りかね、一月は呆れて首を振った。
「ところで、この子はどうなるんですか? まだ十七ですよ。こういう目に遭うほどの落ち度が彼女にあるとは思えませんが。父親の借金でしょう?」
「正統派の意見だな」
「一般人には手を出さない。それがこの世界での暗黙の掟(おきて)だと認識していましたが」
「一般人に手を出したわけじゃない。色恋沙汰になった相手が一般人だったというだけの話だ」
「だれがだれを愛着してると?」
「総長が女の処女に拘るほど執着していることはなかった」
「そのかわりに娘を犯すなんて趣味が悪い。もともと母親は一月さんの愛人だったと聞いていますが」
 一月は口角をいびつに持ちあげた。
「よけいなことを垂れ流す奴がいるようだ」
「知っておかないと、それこそよけいなことを云う破目に陥りやすいんですよ」
「なるほど。一理ある」
「世間からすれば好き勝手にやってるように見えるんでしょうが、内情は面子(めんつ)を重んじて上下関係のやたら厳しい、ここは窮屈な世界ですから」
 それが皮肉ではないとしたら、皮肉と受けとる一月に後ろめたさがあることになる。一月は首をひと振りして苛立ちを払う。
「どういうことだ?」
「一月さんにも逆らえない人がいるってことです」
「意気地がないと?」
「いえ。つらいだろうなと思ったんです」
「なんの話だ」
「だれがだれに愛着しているのか。逸らされた質問に戻って自分で答えを出してみました。僕は、一月さんは任侠を地でいく人だと見てます。この子はせめて救いたいって思っていたはずです」
 一月は鼻先で笑い、あしらった。
「一月さんを尊敬する下っ端の独り言です。お気になさらず。事実であろうと、よけいなことを口外してまわることはしませんから」
「戯れ言にいちいち目くじら立てるつもりはない。おまえはもう休んでいい」
「はい」



 煙草の香りが鼻腔で戯れ、深く息を吸うと全身に纏わりついたような感覚がした。二つの声が飛び交い、耳に届くまえに薄らと散っていく。ふっと意識をなくしては煙草の香りに目覚める。その繰り返しのなか、短い笑い声が立つ。
 笑った顔を見せて。
 そんな欲求はくちびるにさえのぼらず、意識は沈んでいく。
 ――この子はどうなるんですか。
 そんな言葉が毬亜を目覚めさせた。
 この子? だれ?
 意識が浮遊するような感覚はあっても今度は沈んでしまうことはなく、毬亜は扉を隔てた向こうで話しているような会話を耳に留めていた。
 やがて足音が聞こえ、戸が閉まるとしんと静まる。それがかえって毬亜の思考を鮮明にしていった。逆行して、夢うつつで聞いていたことは本当になされていた会話なのか、うやむやになっていく。
 動くのは億劫で、目を閉じたまま様子を窺っていると、自分のものじゃない、深い呼吸音が聞こえた。香りに温度など関係ないはずが、煙草の香りは温かく躰に付き纏う。独りではなかったのだ。
 踏切の遮断音や車の走る音、隣の部屋で流れるレゲエ。耳をすましてもそれらの日常音が少しも届かない。
 そもそも、いま何時なのか。
 ふとんのなかにいるけれど、ふわりとくるまれるような感触は毬亜がいつも使っているものとは感触が違った。
 ここはどこ? 知らないふとんのなかでなぜ眠っているの?
 ――と、思い巡ったとたん、何が起きたのかが脳裡の表面まで浮かびあがってきた。
 違う、あまりに突飛すぎて夢だったかもしれない。
 毬亜は否定した。
 だとしたら、いつから夢見てるの? 見知らぬふとんのなかにいるいまも夢?
 知らず、毬亜はむせぶように喘いだ。
 すると、部屋の空気が静から動へと転じ、毬亜のほうへと流れてくる。その気配におどおどした様で目を瞬(またた)きながらゆっくりと開いた。
 かわらず、笑顔が想像できない表情で吉村が毬亜を見下ろしている。吉村がいるということが悪夢などではなかったと示した。込みあげてきたものを吐きださないよう、口もとを両手で覆った。嗚咽はのどに痞え、火傷しそうな熱に変わる。
「すぐ戻る」
 吉村は背中を向けた。目で追い、吉村が視界から消えると、寝たまま首を巡らして部屋を見渡した。
 毬亜は驚くほど広いベッドに寝ていて、あとの家具といえばベッドサイドのテーブルとソファセットだけだった。閑散として人が住んでいる雰囲気ではなく、かといってホテルみたいな宿泊施設のように効率よくこぢんまりもしていない。
 吉村は云ったとおり、まもなく戻ってきた。
 テーブルにコップと玉粒の入ったプラシートを置くと、吉村は毬亜を抱き起こす。ベッドに腰かけ、プラシートから二つの粒を出すと残りをテーブルに放って、かわりにコップを取る。
「飲め」
 毬亜は吉村の手のひらにのった錠剤を見つめて、首を横に振った。
「避妊薬だ。処女だろうがそうじゃなかろうが妊娠の可能性は一緒だ」
 吉村が云い終わるか否かの刹那、肌を弾く音が耳を打つ。
 とっさに毬亜が取ったその行動は、空気がぴんと張った静寂を生んだ。静かなあまり、錠剤が部屋のどこかにぶつかり、跳ね返って転がる音が妙にうるさい。うつむいた毬亜は吉村の視線を頬に感じた。熱線を浴びているようにぴりぴりと疼く。
 吉村がテーブルにコップを戻すと、毬亜は背中を丸めて首をすくめた。殴られるということも覚悟したのに、そうはならず、また錠剤を取りだす音がした。
「口を開けろ」
 錠剤を摘んだ指が口もとにくる。
「咬みついて指を喰いちぎるならそうしろ。ただし、これは飲め」
 毬亜が口を開くまで、どれくらい時間がたったのか、吉村は痺れを切らすこともなく待っていた。
 根負けしたのは毬亜だった。二つとも呑んでしまうと、吉村は立ちあがって焦げ茶色のガウンを脱いだ。その下には何も身に着けていない。垂れた男根が見えると、嫌な記憶を揺さぶられて毬亜はぱっと目を逸らした。
 さっき抱き起こされたとき、躰の中心に鈍い違和感はあったが、明らかな痛みはなくなっている。それがよけいに悲痛に感じた。躰は心を置き去りにして、このまま苦痛を忘れていくのだ。
 吉村はベッドに上がってくると、大きな枕を二つ毬亜の背後で重ねて、そこに背をもたらせた。そうして吉村は毬亜を引き寄せる。膝の裏がすくわれて、吉村の脚の間にお尻がおさまり横向きで抱かれた。
 毬亜も真っ裸で、肌と肌が触れ合う感覚は浴室でのことを思いださせる。
「何もしない。このまま眠れ」
 身ぶるいしたのが伝わったのだろう、吉村はそうなだめ、毬亜の頭を抱きかかえるようにして自分に寄りかからせた。
「……何時?」
 やっと口を開いてみると、舌が上あごに貼りついたように痞(つか)えた。笑ったのか、いや、ため息だろう、頭上に吐息を感じる。
「夜中の一時だ」
「ここはどこ?」
「おまえの新しい住み処だ」
 その意味はなんとなくわかった。ここはきれいでも、ぼろぼろの家から出られることが少しもうれしくない。今日の――正確には昨日の夜のようなことがこれから何度もあるのだ。
「汚い、の……」
「髪の毛から脚の爪先まで躰は洗ってる」
「違うっ」
 叫んだつもりがかぼそい声しか出ない。
「おまえがどうあろうと、ためらうことはないと云った」
「お母さんのこと好きなの?」
「おまえと母親は違う」
 どうとでも受けとれる、答えになっていない答えが返ってきた。
「いまは眠れ」
 手のひらが濡れていく頬を覆った。
「寒くないか?」
「ううん……ちょうどいい」
 吉村の呼吸に合わせ、頬の下で胸が上下する。それが鼓動と連動して、ふとんがわりに吉村の躰にくるまれているのが心地よくなっていく。毬亜は愚かさを忘れて眠りについた。

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