Xの記憶〜涙の見る夢〜

終章 止まない心

 コーヒーメーカーが小さくスイッチ音を立てて()れあがったことを知らせる。その目の前に立っているにもかかわらず、コーヒーを注ぐ気配はない。いくら昼食が終わって満腹とはいえ、立ったまま昼寝というのは器用すぎる。

「どうした?」
「え?」
 雄士がキッチンに入って声をかけると、晃実ははっとして顔を上げた。
「コーヒー、できてる」
 コーヒーメーカーを指差すと、それをたどった晃実はまた雄士に視線を戻して困ったような表情になった。
 あれから半年を越え、季節は春へと変わった。最近になって晃実の中で何が起こっているのか、ぼんやりしていることが多い。伴って、ちょっとまえまではこういう場合、笑っているはずが、笑顔は微笑みへとだんだん薄く変わっている。
「……ユー」
「なんだ?」
「“晃実” に会いたい?」
 あの日に晃実が眠りに落ちてから起きたのは三日後だ。目を開けると雄士がいた。
 ユー、と呼びかけたときに見せた雄士のやるせない表情を、晃実は今でも鮮明に覚えている。
 おずおずと云って、晃実は雄士から視線を逸らした。
 それをつぶさに見ていた雄士は晃実のおろした髪をつかんだ。
 こういう晃実の仕草は変わってきた喋り方といい、ただ率直だった幼さから脱していることを雄士に知らせる。
「大丈夫だ。シャイ?」
 雄士の返事は答えになっていないが、促すように呼びかけると、晃実はためらったすえ、躰をぶつけるように腕の中に入ってきた。
「ユー、ずっと思ってたんだけど小さくなったよ?」
 雄士の腕は晃実の不安を払拭するが、同時に鼓動が(たかぶ)って戸惑う。それをごまかすように云った言葉に、雄士が小さく吹きだした。
「おれが小さくなったんじゃなくて、シャイが大きくなったんだろ」
「……そうなんだ」
 今まで本気でそう思っていたのか、晃実は納得したようにつぶやいて、雄士はまた笑った。

「相も変わらず仲のいいことで。コーヒー、美味しいうちに飲みませんか」
 ダイニングテーブルについた粋が口を挟んだ。テーブルに片肘をついてその手のひらに顎を載せている姿は、まるで子供が大人ぶっているようにしか見えない。
「恭平ちゃ……粋もやっぱり抱っこされたい?」
 晃実は云い直して、真面目に粋に訊ねた。
 当初、シャイの意識は粋を認識するに当たって『恭平ちゃん』との区別がつけられず、いまだに晃実は云い間違える。
 しかし晃実の変化はここでも見られる。雄士は聞き逃さなかった。
「やっぱりって?」
「え? まえは手を繋ぎたがってなかった? 粋は違うって云ったけど」
 雄士と粋は顔を見合わせる。その粋の横で恭平が身を乗りだした。
「それはいいから。シャイ、コーヒー。先生もお待ちかねだよ」
「うん。ちょっと待ってて」
 恭平に催促され、雄士に手伝ってもらって晃実はコーヒーを運んだ。
「んー、食後に淹れたてのコーヒーはいいな」
 先生、芥見亨(あくたみとおる)は満足げに香りを()いでコーヒーを口にした。
 食事当番はほとんど粋がやってくれるだけに、晃実はせめてとコーヒーの当番を買って出ている。
 四人は亨と一緒に、まえに使っていた部屋で暮らし始めた。
 ずっとしまっていたコーヒーメーカーを出したのは最近のことだ。
 晃実と雄士は今では定位置となっている恭平たちの向かいに隣合って座った。

「力を使ってコーヒーを淹れると舞子ママは電気代助かるってよく云ってたよね、恭平」
 闘うのはまだずっとさきのことだと思っていた頃、コーヒー好きの舞子は毎日毎食、コーヒーを淹れては美味しそうに飲んでいた。コーヒーの香りは穏やかで屈託のなく笑える場所を思い起こさせる。
 そのコーヒーメーカーは舞子がいなくなってから、晃実が使いたがらなくなって恭平がしまったのだ。
「……そうだな」
 ためらった恭平の返事に晃実は顔を上げた。誰もの視線が奇妙な眼差しで晃実に集中した。
「何? ヘンなこと云った?」
 最近になって晃実は探るように見られることが多い。眉間にしわを寄せて首をかしげた。
「シャイ、コーヒーには慣れたか?」
 雄士はまたもや晃実の問いには答えず、質問で返した。
「うん。最初はよくわからなかったけど、食べるとか飲むとか楽しい。お腹がグウッて鳴って吐きそうになるのは好きじゃないけど」
「このまえは食べすぎて吐いてたみたいですけどね」
 粋が突っこむと晃実はばつの悪そうな顔になった。
「粋だって最初は食べ方がめちゃくちゃだったよ」
 晃実が云い返すと、またもや四人から何か云いたげに見返された。

「シャイ……気づいてるか?」
「……何を?」
 晃実は雄士の探るように見守る瞳を見上げた。
「シャイと晃実の記憶の区別がつかなくなってきてる」
 そう思う機会はこのところ急速に増えてきた。
「……――……そう?」
 晃実はいったん口を開いてまた閉じると、不安を色濃くさせた声でつぶやいた。
「怖がることじゃない。そうなるべきだ。さっき、シャイは晃実に会いたいかって訊いたけど、こうやってずっと一緒にいる。おまえがここにいるってことはそういうことだ」
 雄士は同意を求めるように首をかすかに捻る。
 晃実は肩の力が抜けて安心したようにうなずいた。雄士の言葉にシャイと晃実の境がすべて壊れていく気がした。いつの間にか混じることから融合に向かっている記憶。二つの心さえもそうなろうとしているのかもしれない。

「あの……ずっと訊きたいと思っていることがあるの」
「どうぞ」
 ためらいがちに晃実が云うと、粋は待ってましたとばかりに促した。
「あのあと、どうなったのか教えてくれる?」
 あの日のことは禁句にしたわけではないが、これまで晃実の前で話すことはなかった。こう訊いてくることはシャイが成長した証なのだろう。
「どこから訊きたい?」
「DAFの異能力者たちは?」
「海堂の家で暮らしている。(つぐな)いだと云って祖母が面倒を見ている」
「償い?」
「伯父のことをどうにもできなかったことを祖母は後悔している。このマンションのことも、晃実たちの援助をしてきたのも祖母だ。大丈夫だ。祖母はそれなりに楽しんでるから」
 晃実が心配そうな表情になると安心させるように雄士は付け加えた。
「DAFは?」
「ドームも崩壊させた。今、あの場所にはなんの跡形もない。世間は当然、騒いだけど原因にたどり着くわけないし、DAFに加担していた代議士の松中に動いてもらった」
「松中?」
「その人も海堂と同じで異能力保持者でした」
 過去形に気づいた晃実は首をかしげた。
「危険因子は必要ないんだ」
 恭平の補足にすでに松中は不在となった人であることに気づいた。
「洸己おじさまは?」
 雄士は首を横に振った。
「気づいたときは母さんが消えていた。父さんが願ったとおり、一緒に連れて行ったんだと思ってる」
「ボクのクローンは(ほうむ)りました。神経がないだけに医療技術がないと生きられませんし、かと云って病院に預けるわけにはいきません。雄士から聞かされた状況では、晃実の再生力がいつ使えるようになるかはわかりませんでしたから。シャイは使えないでしょう?」
 晃実は顔を曇らせてうなずいた。
「今回のことで海堂家は海堂グループの全権から手を引いた。DAF所員の補償も海堂家から尽くした。けど、それは海堂将史の償いだ。死んでいい人間なんていないとか云うきれい事はいらない。彼らにとっては当然の報いだ」
 雄士は冷たくさえ聞こえる声できっぱりと云いきった。
「シャイ、気に病むなとまでは云わないよ。それがシャイ、もしくは晃実だから。けど、それに縛られることはないんだ」
「そうです。ボクたちが()らなかったのは晃実が止めたからです。それがなければためらいなく殺ってます」
「洸己たちの苦しみに比べたら彼らの死のほうが遥かにラクなことだ」
 恭平に続いて粋が云い、亨も口を添えた。
 晃実はうなずいたものの、どっちの気持ちかわからなくなっている罪悪感はやっぱり消えない。
「ユー、あの部屋に連れて行って」
 晃実は意を決したように雄士に頼んだ。
「あの部屋?」
「そう。あたしが生まれた部屋」


 それからすぐ、恭平と粋も一緒に環の部屋へと転移した。
 模様替えされることもなく惨劇の時と変わらない部屋は、一見きれいに見えるが、気にかけてみると落としきれていない薄茶色い染みが点々としている。

「相変わらず、あなたの登場にはびっくりするわ。いつまでたっても慣れないものね」
 そう云いながら、雄士に付き添われて貴婦人然とした市絵が入ってきた。部屋を見渡したその目が晃実を見て止まる。
「晃実ちゃん?」
 晃実は困惑して雄士に目をやった。雄士が小さくうなずくのを確認して市絵に向き直った。
「はい」
「大きくなったわね」
「え?」
 初対面のはずが市絵は晃実を知っていたかのように云った。
「洸己さんのお見舞いに行ったときに一度見かけたのよ。その時も思ったんだけど、今はもっと……環に似てるわ。雄士も環似だと思ってたのに、大きくなるにつれて洸己さんに似てきて……」
 それから市絵は自責の念に駆られてため息を吐いた。
「晃実ちゃんにはいろんなことを謝らなくちゃ」
 すべてを承知している市絵は()びるように云いだした。
 晃実は首を振ってそれ以上を制した。
「違います。環おばさまはあたしたちのためにいろんなことをしてくれました。謝っても足りないけどあたしのほうが……」
「いいの。大丈夫よ」
 そう云って晃実を抱いた市絵の腕はなぐさめるようで、環と同じ温かさがあった。
 市絵は長く晃実を放そうとせず、それが晃実の後悔と罪悪感をだんだんと和らげていく。市絵の気がすむまで任せているうちに、開け放った窓からいくつかの歓声が聞こえてきた。
「来て」
 市絵に連れられてベランダに近づくと、二階の部屋からは海堂家の広い庭が見渡せる。DAFにいた能力者たちが幼い子供のように戯れている。ずっと寝かされていたせいか、半年たった今も彼らの足もとはまだ覚束(おぼつか)ない。
「ずいぶんと感情が出てきたのよ。成長段階で云えば幼稚園児くらいかしら。大変には違いないけど、また張り合いができたわ――あら! ちょっと行ってくるわね」
 一人の子が転んで泣きだしたのを目にした市絵は早速飛んでいった。

 それを見送ると晃実は雄士を見上げた。
「定期的に能力が使えないように略をやってる。あとは “晃実” が遺伝子操作をやれば彼らは人に戻れる」
 雄士が無言の質問に気づいて答えると、晃実は不安そうに首をかしげた。
「でも、あたし、恭平に血の契約できてなかったし、組み換えた子はちゃんと人になれてる?」
「僕への血の契約は、BOMが埋めこまれた時点で晃実と同じシャイの血が無効にしたんだ。失敗じゃない」
「そう? ……恭平のBOMも外さなくちゃ……」
 晃実は部屋の中に戻って再びぐるっと見回した。
「シャイ、大丈夫か?」
「……ここは悲しい。あたし……どうしてこんな力を持ってるの?」
 雄士の気遣う声に、感情を抑えた晃実が問い返した。
「こう考えてはどうです。もしシャイが、晃実が存在しなかったら」
「父さんたちも僕たちも、守りたいものがあったからこれですんでる。それがなかったら欲得のままに間違いなく世界は荒廃していた」
「断罪を畏れる必要はない。神なんて不在だ。強いて云うなら、神とは自分の良心のことだろ? 人がいちばんに求めるものは同じで、その大事にしたいものが何かわかるなら良心は簡単に手に入ると祖母は云っていた」
 いちばん求めているものも大事にしたいものも、訊かれれば迷いなく晃実は答えられる。
「ボクたちの異能力の違いはすべて願いからきているんです。ボクはやっぱり自由になりたかった」
「僕は見えない未来を知ろうとした」
「おれは……力を無くしてやりたいと思った」
「あたしはただ……あたしの病気を……力のことだけど……心配してた母さまと父さまに大丈夫だよって示したかっただけ。病気なんかじゃなくて逆に、怪我をしても自分で治せる力なんだって……」
「晃実のその想いが力になったとするなら、必要のない力なんてないんです。ボクはいつか晃実が云った三つの事故の被害数字の相似。あれは畏れからくるミームがもたらしたんじゃないかと思っています」
 粋の結論は晃実にとっては怖いものだ。
「粋」
 雄士が慄いた晃実に気づいて粋を咎めた。
「すみません。責めているつもりではなくて、晃実が笑っていれば起きてほしくないことは起きない。つまり、力については何も畏れることはないと云いたかっただけです」
 それでも晃実の瞳が潤んだ。
 それを見た雄士たちの表情が一瞬止まった。
「恭平、粋」
 雄士の呼びかけにその意味を察した二人は部屋から出ていった。

「シャイ?」
「ユー……」
「泣いていいんだ。泣いても笑っても怒っても、全部おれが付き合ってやる」
 雄士が云うと、晃実がシャイとして過ごしてきてはじめてその瞳から涙を零した。
 晃実の頬を挟むと雄士の手を涙が伝う。
 雄士は顔を近づけてくちづけた。すぐに離れたが、いったん触れてしまうと抑制が難しい。未練がましくもう一度くちびるを合わせて顔を上げた。晃実が伏せていた目を開け、不思議そうに雄士を見返す。
「なんだ?」
「はじめてだから……」
 夜の間、雄士はいつも抱きしめて一緒に眠ってくれる。それでもこんなふうに触れてくれることはこれまでなかった。それは晃実がシャイとして在るからだと思っていた。
 戸惑った晃実を見て雄士は小さく笑った。
「子供相手にできないだろ。犯罪だ」
 これまでの発言から、雄士が犯罪を気にするのは明らかに矛盾している。ということは云い訳にすぎなくて、ずっと本気で子供扱いされていたと知った晃実は口を少し尖らせて拗ねた。

「ユー!」
 その批難の声には頓着せず、雄士は目を細めて晃実を見下ろす。
「シャイ、大好きだ」
 グレイと同じ言葉を呻くように雄士は口にした。
 晃実の(のど)が焼けつくように熱くなり、嗚咽がこみ上げる。雄士のくちびるが降りて晃実の泣き声を呑みこんだ。
 不安と悲劇に満ちたこの部屋が柔らかく気配を変えていく。

「役得ですよね」
「粋、僕とおまえってなんか損な役回りなんだよな」
 不意打ちでベランダからからかわれた。
 雄士はかまわず、ゆっくりとくちびるを離した。
「必然だ」
「余裕ですね。悪あがきしていた人が」
「僕がどれだけ奔走(ほんそう)してきたと思ってるんだ?」
「恭平」
 責めるよりはおもしろがった口調だったが、晃実の表情がかげり、雄士は鋭い口調で恭平をさえぎった。
「ああ、悪かったよ――」
「雄士、いいよ! 本当のことだから。わたしじゃなくて、恭平がいちばんつらかったってわかってる」
 そう云ったとたん、長い間耳にすることのなかった響きを逃さず、三人の視線が晃実に集まった。

「晃実、猫を飼いましょう!」
「庭にあったバラの木の下で見つけたんだ」
 勢いこんで云った粋と恭平を見て晃実のくちびるに笑みが浮かぶ。

 人が共通して最終的に求めるのは手放したくない誰か。その誰かを大事にしたい気持ち。そこに間違いなんてきっとない。

「晃実?」
 雄士の声は抑制されていて、その期待を裏付けるように晃実のくちびるが震えた。
「どっちも。一緒になれたみたい」

 雄士の口が堪えきれずに歪んだ。

 愛して止まない心はここにもある。

 ただ一緒に。

 ともに成長してここに立ったように、夢もまた、約束から誓いへと成長したのかもしれない。

 痛いほどに抱きしめる腕が心の永遠を晃実に伝えた。

The Conclusion. Many thanks for reading.

BACKDOOR

【あとがき】
2009.05.04.【Xの記憶〜涙の見る夢〜】完結/推敲校正済


完結まで足掛け3年。ずっと前に書いたものを大幅に改稿して更新。
禁忌・残酷描写も能力者ものだからこそとご理解いただけたらと思います。
想像力に乏しく、後にも先にもSFとしてはこれが精一杯。
そういうことから超長編になり、知識のすべてを詰め込みました。
サイエンスフィクションということに拘って、超能力の所以はありがちかもしれませんが、
理論はこれまでにないものだと自負しています。

これから先、晃実たちがどう生きていくのか。そこまで想像していただけるでしょうか。
物足りない点・未熟な点は否めませんが、何か感じていただけることがあったらうれしいです。
奏井れゆな 深謝

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Photo by Sweety & おやじの魅力.
レッドメイティランド(バラの木)