失いたくない

終章 失いたくない  6.溢れるずっと

 

 健朗がドアをノックすると、すぐになかから開いて聖央が出迎えた。奥から城島が現れる。
「亜夜ちゃん、きみの力は偉大だね。きみが来てるからって、今日はおいしいとこ全部持ってかれたよ。この次は絶対譲らないから、そのつもりで」
 亜夜の肩をぽんぽんと叩きながら、城島は部屋をあとにした。
「じゃ、ご・ゆ・っ・く・り」
 出ていきざま城島が振り返って聖央をからかった。
「うるせぇ」
 亜夜と健朗は顔を見合わせて笑った。そして、同時に口を開く。
「おめでとう!」
「サンクス。チンタラした船旅はごめんだからな」
 聖央が応じると、健朗は戸惑い、亜夜は笑いだした。
「なんですか、それ」
 聖央が経緯を話し始め、終わったとたん、健朗は大げさに肩をすくめた。
「はいはい、勝手にしてください」
 拗ねた口調だ。スタジアムを出て以降、健朗からいつものクールさが欠けている。亜夜は不思議そうにして横に立つ健朗を見上げた。
「それはさておき、城島さんの云うとおり、今日はいいカッコしすぎです。あれでは次からマークされること必至ですね」
「そうなったらそうなったときの闘い方がある。それに、そうなるくらいじゃなきゃ、一流とは云えないだろ」
「ということは、目指すのは――」
「もちろん、世界だ」
 聖央は尊大に宣言した。
 自分のためだけではない。
「だれにも文句云わせたくねぇからな。世界に認めさせる」
「それでこそ、聖央、ですね」
 亜夜にはあまりにも大きすぎる話だ。それを聖央と健朗は当然のごとく口にする。ついていけるんだろうか、とやっぱり心細く感じた。
「入れよ」
 聖央が脇に避けて、部屋のなかへ亜夜と健朗を招いた。
「僕はここでお(いとま)しますよ。ふたりの邪魔をするほど、野暮な人間ではないつもりです」
 健朗に背中を押されて亜夜は部屋に入ったが、健朗自身は外に留まった。
「健朗、ひとつ云っとく。亜夜の補償の件は今日で終わりにしてくれ。これからはおれがやる」
 亜夜も健朗も驚く。意味は違えども。
 いまさらながらに、亜夜はすべてに合点がいった。亜夜の足長おじさん≠ヘサッカー協会、延いては健朗にほかならない。
「知ってたんですか?」
「どう考えたって、補償がでかすぎるだろ。辻褄を考え合わせれば見当はつく。といっても、気づいたのは最近だ。いろいろ世話かけたな。助かった」
「礼はいりませんよ。できることをしたまでです」
「健朗くん、ありがとう」
「いいんです。勝手にやったことですよ」
 健朗は微笑みながらそう答えて、ふと何かを思いついたような顔をした。
「……そうですね。これで貸し借りはなし≠ニしましょうか……亜夜ちゃん」
 手招きされるまま亜夜が近づくと、健朗は躰をかがめた。何をされるのか考える間もなく、健朗のくちびるが亜夜の頬に触れた。
 え……っ、え!?
 驚きすぎて声にならないかわりに、亜夜は目を丸くして心のなかで奇声をあげる。
「健朗、てめえっ――」
「亜夜ちゃんのファーストキスはいただきです。おふたりさん、今回の件はこれでチャラにしましょう。じゃ」
 聖央の抗議をさえぎって、健朗はすましてそう云うと、背中越しにひらひらと手を振りながら帰っていった。

 あ然として健朗の後ろ姿を見送る亜夜を、聖央が部屋のなかへ引きこんだ。
「ったく、あのヤロー……なんだって――」
 途切れた言葉のあと。聖央は何かを察したらしく、独り悦に入ってにやりとした。
「なるほど……な」
「どうしたの?」
 亜夜はベッドの端に腰かけてから訊ねてみた。聖央は笑っただけで何も答えず、つまり教える気はなさそうだ。
 聖央はベッドの足側にあるデスクから椅子を引きだすと、背もたれを抱くようにまたがって、その上で組んだ腕に顎を置いた。
 何も語らずに、ただ亜夜を見つめた。すれ違った時間をそうすることで埋め合わせできれば、と思う。
 一方で亜夜は、突然この空間に緊張を感じてしまう。それは、ふたりの関係が変化したことを告げる。けれど、けっして離れるためのものではない。
「今日の試合……」
 聖央は唐突に口を開いて、自分がつくりあげた沈黙を破った。
「負ける気がしなかったな。何かに守られて、勝つとわかってる試合をやってた……。おまえ、……か?」
 聖央は再認識する。自分の価値をこれほどまでにだれがもたらしたのか。いま一度、頭を整理しようと首を振った。自分に呆れ、聖央はため息まがいで短く笑う。
「あたしが何?」
「こっちの話だ」
 聖央は独りで笑っている。
 聖央の秘密主義に、亜夜は不満をあらわにした。それが、気まずいような緊張を紛らせる。

「あたし……発作、克服できたみたい」
 亜夜はおずおずと大事なことから始めた。
「ん」
 聖央は口の端をちょっと上げてそのさきを促す。
「あたしの発作は弱さだった。聖央を失いたくなかったから……」
「おれのも同じだった」
 認めたくなかった自分の弱さを、いまの聖央はあっさりと受け入れていた。その余裕と覚悟がなければ何も守れない。そう気づいた。
 次に進むための亜夜のためらいは、少しの時間、また沈黙を招いた。亜夜は聖央の様子を窺いつつ切りだす。
「賭けを……したよね。あたしのわがままは……あたしのケガとかいろんなことを忘れて……というより思い出にして、あたしとは別の道を、気兼ねなしに歩いていってほしいってことに決めてた」
「それは聞けない」
 聖央は即座に首を横に振った。
「だって約束したじゃない」
「約束を破るわけじゃない。おれはとっくに答えを出してた。亜夜がおれのサッカーを見たいって云うかぎり続けていくってな。おまえが還ってくるまえから結論は出てたんだ。賭けは亜夜が云いだしたときから、おれの勝ちだって決まってた」
「……ずるい」
 亜夜がつぶやくと、聖央は笑って、そして、真面目な面持ちに変わる。
「おれのわがままも決まってる。亜夜はずっとおれの傍にいるべきだ」
 亜夜の目から涙がこぼれる。ずるいのは亜夜のほうだ。自分がさっき口にしたことは、けっして聖央にしてほしいわけではなかったから。
「あたし……セーオーにとってあたしはずっと妹で……女の子として見てくれることなんて……永久にないと思ってた」
 聖央は躰を起こして椅子から立ちあがり、ゆっくりと亜夜のまえに来てひざまずいた。
「バカ……理論が逆だ。どんな女もおれにとってはただの人で、亜夜だけがおれを活かしてくれる。まえはそんなこと意識したことなかったけど、亜夜がいなくなって気づいた。そういう意味で、亜夜の右足がこんなになったのは……少なくともおれにとっては絶対に無駄じゃない。あの女のおかげだとは思うはずないけど、悪いことばかりじゃなかった」
「……あたしは十六歳の誕生日に、セーオーから最高のプレゼントをもらったんだね」
 亜夜のうれしい気持ちは声に表れているはずなのに、聖央の顔はやりきれないように歪んだ。
 亜夜は岬からの手紙を聖央に渡した。

 聖央はそれに目を通すにつれ、持った手紙にしわが寄るほど手を強く握りしめていった。聖央のなかに処理しきれない感情が入り乱れる。
 どうして――。
 聖央のなかにいまだに残る焦燥感。岬に対して、そして、何よりも自分に対してのその疑問と憤りは消えることがないだろう。

「岬さんが現れなかったら、あたしも同じ道をたどっていたかもしれないって思った」
 聖央の手をほどいて手紙をしまい、亜夜は自分が感じたことをそのまま伝えた。
「おれたちはおれたちだ。亜夜があの女と同じ道をたどるはずねぇだろ。おれ、ほかの女に興味持ったこともねぇし、これからさきもあり得ない」
「でも……気づかないままだったかもしれない……よね」
 聖央が断言したというのに、亜夜は心もとなく口にした。
 聖央は亜夜の頭の天辺に手をのせ、軽く揺するとその自信のなさを一笑に付す。
「そのまえに、だれかに取られそうになって、無理やり気づかされる」
「……あたし、そんなモテない。セーオーみたいに告白されたこともないし……威張って云えることじゃないけど」
「おまえが知らないだけだろ」
 ついさっきの健朗のこともあるのに気づかないのか。そんなことを思いながら、聖央がぽつりとつぶやいた。
「え?」
「なんでもねぇよ」
 実際のところ、すでに聖央はそういう目に遭わされて苦々しい気分に陥っていた。それが間に合わせの嘘だったと承知しているいまでも不快感は残る。
「ちょっとくらい揺らいだことない? 誘いもいっぱいあるよね」
「ねぇよ。ずっと、おまえがいたから」
 半分探る気持ちで亜夜はからかったけれど、それを疾しく思わせるくらいに聖央はきっぱりと打ち消した。
 亜夜は衝動的に聖央に手をまわして、その肩に顔をうずめた。
「じゃあ、どうしてもっと早く……気づいたときに、あたしをつかまえてくれなかったの?」
「おれから云えると思うか? 亜夜にケガさせたおれが、自分を優先するわけにはいかないだろ。亜夜が許してくれるなら……過ちを犯したおれと、それでも一緒にいたいと云ってくれるなら、そのときに……。あんなひどい事態になって、亜夜を活かす方法が見つからなくて……結局おれはその誓いを破った」
 聖央は自分を戒めるように吐き捨てた。
「セーオー、後悔しないで。あたし……うれしかった、いまでも」
 聖央の腕に力がこもり、亜夜の肩に額がのった。
「……亜夜の右足が曲がらないのはどうしようもないけど、傷痕だけは絶対きれいにしてやろうって思ってた。そのための金を稼いで、いくらでも出すつもりだった。せめて亜夜に傷を背負ってほしくなかったんだ」
 聖央のくぐもった声は切実さを浮き彫りにする。
「あたしの傷は醜い?」
「そんな意味じゃねぇよ」
 聖央は乱暴に云い返した。
「それなら、あたしの傷はなんでもない。云ったでしょ、教訓。セーオーがやさしいのを最大限に利用した結果がこれだから」
「いいよ。わがまま云えよ」
「そんなこと云っていいの? しばらくしたら疎ましくなるよ?」
 そして、亜夜は思いついたことを、深く考えもせずに口にする。
「あ、そうなったらまたケガして、セーオーに再確認してもらおうかな」
 聖央の躰がぴくりとして硬直する。
 亜夜は自分の失言に気づき、ハッとした。
 けれど、張りつめた空気は一瞬で緩み、聖央が笑ったのを肩で感じた。
「じゃ、そうならないように、おれは精々(せいぜい)心の広い奴になるしかねぇな」
 聖央は可笑しそうにした声で頼もしく応えた。亜夜が躰を起こすと聖央もそうした。間近で見る亜夜の瞳はふるえている。

「セーオーはどんどん強くなっていってる。つらかったはずなのに……あたしにはそれを見せなかった。あたし……二回もひどいことを云ったのに……」
 聖央の口もとが笑みを形づくる。その瞳に心の傷みは見えなかった。
「おれは自分のためには傷つかない。自分のことより亜夜のことを優先してきた。おれにとってはそれが当然なんだ。おまえは強くなった。だから、おれはもっと強くなれる。亜夜がいなくなったとき、いつまでかかろうと待つつもりだった。今度のことも、絶対おれの傍に戻らせるつもりだった」
「……あたし、岬さんのことは整理がついたつもりだよ。でも……この足と同じで、どこかで引きずっているかもしれない」
「見ててやる」
「だって……そうなったらまた……あたし、セーオーに……」
 亜夜はまた泣きそうになる。
「心配しなくていい。ちゃんと見ていてやる。もしそうなったとしても、全部受けとめる。そんなことより亜夜を失いたくない」
 聖央は揺らぐことのない決意のもと宣言じみた。
 亜夜のなかに痞えていた、伝えたくてたまらなかった言葉が飛びだす。

「セーオー、大好き」

 ずっと云いたくても云えなかった言葉。幼い頃はもっと簡単に云えたのに、いつの間にかその意味を知って云えなくなった言葉。
 それが云えるくらい、ふたりはこれまでよりもっと、ずっと近づいた。

 聖央の瞳に満ち足りたような笑みが煌いて見えた。
 聖央の手が頬をくるむと、それがどういうことかわからないわけはなくて、亜夜は戸惑って目を伏せた。あたりまえのように触れ合ってきたのに、亜夜はいまはじめて触れることにためらいを感じている。ためらいというよりは発作に似ている。息苦しさで鼓動が速くなった。
 聖央が顔を少し傾け、触れる直前、亜夜は目を閉じた。
 キスは――聖央の心を形にした。ぎこちなくて、それでもこんな触れ方があると知って、もっと、という気持ちが亜夜のなかに広がった。
 離れると、聖央の指先が亜夜のくちびるに触れる。少しうつむけた顔を覗きこまれる恥ずかしさと、触れていたいという気持ちが相まって亜夜は聖央の首にしがみついた。

「結婚したい」
 聖央がなんの前触れもなく宣言した。
 いま、そんな大事な言葉を聞くとは思いもせず、亜夜は瞬間、その意味が理解できなかった。
「遠征続きの仕事だから離れている時間は長くなるけど、だからこそ、帰ってきたときはずっと一緒にいたい。だれにも咎められることなく、そして、亜夜がおれのもんだと云えるように」
 聖央は亜夜の返事を待った。
「うん……あたしもそうしたい」
「今度、亜夜の誕生日に入籍する」
 即座には、何を云われたかぴんとこない。やがて、亜夜は躰を離すと、目を丸くして聖央を見つめる。
「プロポーズっていうより自己主張みたいだよ。あと半年もないよ? 親がびっくりしちゃう」
「それは抜かりない。さっき電話して、どっちからもオーケーもらった」
「なんて云ってた?」
 聖央らしい強引なやり方に笑いつつも、双方の両親の反応に興味を覚えて、亜夜は訊ねた。
「亜夜が生まれたときからこうなることは決まっていた、だってさ」
「だれが?」
「どっちも」
 聖央は不機嫌な様子だ。
 自分の人生を見透かされていた、もしくは、そうなるように仕向けられたのかもしれない、ということが気に入らないようだ。
「キスしてほしいって云ったら機嫌直してくれる?」
「交渉成立」
 聖央は襲うように亜夜のくちびるをふさいだ。

 これからさき、平坦なままの道なんてあり得ない。見えない障害物はいくつも転がっていて、つまずくこともあるだろう。そんなとき、ふたりで在ることを守りたい。

 この気持ちはたぶん――。

「愛してる」

 顔を少し上げた聖央は、亜夜がいちばん聞きたかった言葉を紡いだ。

 誓いが溢れる。

 追いかけていくからね、ずっと。
 わがままきいてやるよ、ずっと。

 亜夜が生まれた瞬間、その瞬間から育まれたもの。愛情は恋に変わり、いま、愛へと成長していく。

 聖央がつぶやく。



 帰したくねぇな――。

The Conclusion. Many thanks for reading.

BACKDOOR
◎ あとがき ◎
2007.09.15. 【失いたくない】完結/推敲校正済 *2013.05.12.改稿完結
亜夜と聖央の関係は、奏井が思う、幼馴染としての理想。
あたりまえにある関係が大人に近づくにつれ、互いの立場をあやふやにしてすれ違ってしまう。
それでもただ2人は純粋に想いあう。
反対にどこかで関係が狂ったまま、心が歪んでしまった岬。
そして2人を支える友情。
何かちょっとでも心に留まるものがあれば幸です。   奏井れゆな 深謝


Material by Heaven's Garden & LEITA.