せめてそのくちびるに幸せが集うまで

おかえり
祐真 age15 昂月 age11


 きみが笑うたびに思うんだ。
「おかえり」
 それがどんなに救いだったか。
 いつかきみに伝えられるだろうか――。


 温かい日がずいぶんと多くなってきた三月の終わり、昂月はそわそわと落ち着かずに独りで帰りを待っていた。時計との(にら)めっこが続いている。待ち遠しいような、少し怖いような気分が続くなか、いざドアベルが鳴るとびくっと鼓動が跳ねた。
「昂月、帰ったわよ。いる?」
 玄関のドアが開く音がして、閉まったとたん、母の弾んだ声がした。
「祐真兄、おかえり、お母さんも!」
 リビングを出て迎えた昂月の声は、どきどきが消せなくて少し上ずった。

 どう云ったらいいんだろう。
 昂月はそう考えて考えて、一緒に暮らすのなら“おかえり”がいちばんいいんじゃないかと思った。

 どんな反応が返ってくるんだろうと、ちょっとした不安を覚えながら昂月は返事を待った。
 母の斜め後ろから、祐真が顔を出す。
「ただいま」
 当然のように祐真の瞳には暗い悲しみが見えたが、それとは別に、うれしいようなほっとしているような表情も垣間見(かいまみ)えた。とりわけ、声には笑みが滲んでいる。
 祐真のお返しに昂月の笑顔が(はじ)けた。そしてまたお返しに、祐真のくちびるにも笑みがはっきりと浮かぶ。

 今年の一月、祐真の両親が自動車事故で亡くなり、その葬儀で会って以来、二か月ぶりの対面だ。同乗していた祐真は比較的、怪我の程度は軽かったものの、そのときは包帯だらけだった。いまは傷の(あと)も見えない。

 祐真が家族になったのは昂月が春休みに入った日だ。両親が共働きである以上、祐真は昂月とすごす時間がいちばん長い。
 遠慮がちながらも、父親同士が兄弟で、つまり従兄妹という前提が急速にふたりを近づけてくれた。
 昂月のさみしさが紛れた。
 母は昂月が小学校に進級すると、父が勤める病院で働き始め、それから必然的に平日の昼間は学校から帰ると独りですごしてきた。
 祐真がやって来たのは不幸な出来事が発端であり、むやみに喜ぶことはしない。けれど、昂月にとって独りという不安な場所が安心できる家になったことは事実だ。
 昂月はふたりですごすことに戸惑いながらも早く家に慣れてほしくて、祐真にくっついて回った。

「昂月、祐真はこっちに慣れないし、高校の準備とか大変なんだからいいかげんにしなさい」
 祐真に(まと)いつく昂月を見兼ねて母が(とが)めた。
 そういう母も祐真くんから祐真に呼び方を変えて持てはやし気味なのに。
 取られちゃって嫌なんだ。
 昂月はなんとなくそう思った。

「昂月、遊んでやろうか?」
 母に注意され、祐真の部屋に行くのを控えて二日目。祐真のほうが昂月の部屋にやってきた。
「んーっと……いいの。祐真兄は忙しいから――」
「おれが? そんなはずない」
 昂月をさえぎり、祐真はちょっと顔をしかめて続けた。
「春休みってさ、いちばん暇な時期だって思うけどな。宿題もないしさ」
「……ホントに?」
「ああ。明日から学校だろ? そしたら宿題も見てやるよ」
「祐真兄、ホント?!」
「おばさんにもちゃんと云っておく」
「うん!」
 沈んだ表情から打ってかわって張りきった昂月の返事に、祐真が可笑しそうにした。

「何して遊ぶ?」

 その訊き方はまるで小さな子供に云っているみたいに聞こえ、昂月はちょっと不満だ。けれど、今日のところは聞き逃そう。とりあえず、これから祐真の時間の中に昂月の時間は保障されたから。

「遊ぶより、祐真兄のギターが聴きたい」
「オーケー」
 祐真がギター弾きなのはずっとまえから知っている。年に何度か福岡を訪ねるたびに弾いてもらった。
 それがいま、毎日になってうれしい。

 次の日、うれしいことはまた一つ増えた。

「おかえり」
 独りじゃない家に帰ること。

 うれしい。
 正直にそう伝えるにはまだ祐真の傷は深すぎる。
 幼くても気づくことがある。それとも昂月だから気づけるんだろうか。
 時折、祐真はふっとここに存在しないかのような表情になる。
 そんなときはさみしい。

「宿題は?」
「今日は始業式だし、出てないよ?」
「そりゃそうだな。んじゃ、昼は何食べる?」
「えーっと、ラーメン」
 祐真は呆れたように笑った。
「おれが来てから昼はずっとラーメン食ってる。そのうち、おばさんに栄養(かたよ)りすぎって怒られるかもな」
「いい。祐真兄のラーメン美味しいから」
「インスタントだろ。誉め言葉になってない」
 昂月が首をかしげると祐真はぷっと吹いた。
 笑うことが多くなっているのもたしかなこと。

 うれしい。
 いつか――。
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