Sugarcoat-シュガーコート- #67

第8話 Get in the way -4-


「叶多、変わったことないか?」
 維哲(いさと)が来てからほぼ一週間たって月曜日の朝、学校へ行こうと鞄を取りあげたとたん、戒斗は訊ねた。叶多は首をかしげて問うように椅子に座った戒斗を見下ろした。
「ないよ?」
「ならいい」
 叶多の返事に安心したふうでもなく、かえって戒斗は考えこむような表情になった。
「どうかした?」
「いや、このまえみたいに問題ごとがあったら些細(ささい)だと思うことでも話せよ。余程のことじゃない限り、口出すつもりはない。ただ知っておきたいだけだ」
「……何かあるの?」
 毎日くだらない話を聞いてくれているのに、あらたまってそう云う理由はなんだろう。そう思って叶多が不安げに訊ねると戒斗は肩をすくめた。

「余計な動きをしたくないだけだ。心臓に悪い。早死させたくないだろ?」
 真剣さは消え、からかうような口調だ。
 戒斗の心臓は早死とは無縁なくらいに強靭(きょうじん)なはずで、ということは、余計な動き、というフォローにすぎない。叶多はくちびるをちょっと尖らせた。
「戒斗が勝手に心配してるんだよ。あたし、そんなにめちゃくちゃなことやってない。だって、戒斗がいなかった間だってちゃんとしてきたし、考えるのに時間がかかってるだけだから……」
「……なるほど。勝手に、か……」
 つぶやいた戒斗の瞳が鋭くなった気がした。その一言が多かったと気づいて叶多は一歩下がる。
「だ、だからって迷惑とかじゃなくて、うれしいの!」
「ふーん」
 鼻であしらうような返事のあと、戒斗は顎を少し突きだした。その眼差しに要求されて叶多は戒斗に近づいた。戒斗の伸びてきた手が頭の後ろをつかんで叶多を引き寄せた。

 合わせるキスではなくて、くちびるを舐め回されるキス。
 もっと。
 最近の戒斗のキスはそう思うくらいに緩くて執拗(しつよう)で、引き返すのが難しい。
「戒斗……学校……行かなくちゃ」
 叶多がつぶやく間も開いたくちびるの内側を舌が撫でる。もう一回りして、戒斗は叶多の頭を持ちあげてくちびるを離した。
 開いた瞳が自分でもぼんやりと潤んでいるのがわかる。叶多を見て戒斗は目を細めた。
「これじゃ……」
 意味のわからないことを中途半端に口にして、戒斗はまた叶多を引き寄せると耳のすぐ下にくちびるをつけた。
「戒斗……ツ――っ」
 叶多は何をされるのかに気づいて呼びかけるも結局は止められず、千切れるような痛みに襲われた。
「戒斗! あたしの首、(あざ)だらけになっちゃうよ」
「襲われたいって目をしてたからそうしたまでだ」
 悪びれもなく戒斗は勝手な解釈を云い訳にした。
「……そんなことない」
 叶多がパッと両手を上げて目を隠すと、戒斗の忍び笑いが聞こえた。
 立ちあがる気配とともに手を取られてもう一度、今度は吸いつくように合わせるキス。
 戒斗のくちびるはすぐに離れた。

「叶多、さっきの続きだ。いまからバンドのほうが時間的に融通きかなくなる。だから、おれが云ったことを覚えててくれ。わかったな?」
「うん。あたしも戒斗の邪魔はあんまりしたくないから――」
「そうじゃない。おれは、邪魔だって思うなって云ってるんだろ?」
 叶多をさえぎった戒斗は、あい橋の上で一緒に暮らそうと云った瞬間のように至って真面目な表情だ。
「うん」
 素直に戻って叶多がうなずくと戒斗の口の端が上がった。叶多の好きな笑い方だ。戒斗の手が耳の下の(しる)しに這うように触れて叶多は首をすくめる。
「じゃ、いってきます」
「ああ。気をつけて行けよ」
 戒斗の手から逃れるように躰を引いて叶多は部屋を出た。玄関前で一つ深呼吸をしてから歩きだした。

 もっと触って。
 戒斗の勝手な解釈ではなくて指摘されたとおり、そう云いそうになる。
 戒斗が手を出せない状況であれば、ただそう思うのに……。
 そこまで考えると流れで、だんだんと度を増してきた夜のセイ活が思い浮かんだ。
 戒斗のキスは……。

「あら、叶多ちゃん、また顔を赤くして」
 アパートの外に出たところで真理奈とばったり会った。
「真理奈さん! おはようございます」
「おやすみ。気をつけていきなさいね」
 叶多は足を止めないまま口早に挨拶をしてすれ違った。
 焦ったあまりますます火照った頬を空いたほうの手で軽く叩いて、叶多は想像を振り払った。
 戒斗に見送られる朝はいつも家を出るのがぎりぎりで、小走りになるぶん、へんなことを考えていてもごまかしがきく。逆にいえば、見送られる朝はキスで送りだされるわけで、どうしてもそこに考えが行ってしまうのだ。気持ちの切りかえはうまくない。

   *

 戒斗は部屋を出て通路の手摺りに寄りかかり、叶多を見送った。
 そこへ昼夜逆転している真理奈が帰ってきて、戒斗を見るとからかうような眼差しになった。
「あら、今日はストーカー業は休み?」
 戒斗は肩をすくめた。
「バレそうになってるから控えてる」
「バレちゃ、まずいわけ?」
「学校はまずいだろ。それにおまえも知ってるとおり、おかしなファンも一人や二人じゃない」
「確かに。体当たりは何度あったかしら。私はビクともしないけど、叶多ちゃんは飛ばされそうだものね」
 真理奈が冗談ぽく云うと、戒斗は表情を険しくした。いつもならさらりとかわすはずが、思いがけない反応に真理奈は目を見開いた。
「どうしたの? 意外に深刻そうね」
「いろいろ(から)んでる」
「ふーん」
「おまえにも頼んでおきたい。気づいた範囲でいい」
「了解」
 曖昧な云い方でも頼まれている事はわかる。その内容ではなく依頼されたことに、これまでになく真理奈は驚きながら戒斗に約束した。それから小さく笑った。
「なんだ?」
「なんでも。うれしいだけ」
 真理奈は手をひらひらと振ってから部屋へ消えた。
 顔をしかめた戒斗の眉間にますますしわが寄った。



 今日はちょっと肌寒く、お弁当は四人そろって教室で食べた。
 叶多とユナがゆっくり食べている間に、陽と永はガツガツと一気に食べ終わって外へと繰りだした。
「男っていつまでたっても子供みたいだよね。遊ぶことにはいつも必死」
 ユナが永の背中を追いながら云うと、叶多はなるほどと思ったけれど、全面賛同するには自分もまだまだ子供じみている。
「あたしは人のこと云えないし」
「ぷ。そのぶん、戒斗さんが落ち着きすぎかもね」
 吹きだしたユナを叶多は小さく睨んだ。
「でも、戒斗もときどき……」
 “きかん坊”なときあるんだよ。そう云おうとして叶多はやめた。どんな時か訊かれても答えられない『時』だと気づいた。また顔が熱くなる。
 よかった、云わなくて。
「ときどき、何?」
「ううん。やっぱりいい――」
 云っている途中で放送チャイムが鳴り、叶多は言葉を切った。
『三年二組、八掟叶多さん、職員室、金元まで来てください』
 何気なく聞いた校内放送が自分を名指しすると、宙を見ていた叶多は目を見開き、思わず見つめたユナと目が合った。
「あたし、だった?」
「うん、叶多」
「なんだろう……もしかして噂のことかな……」
「噂はもうあんまりないって佐奈は云ってるんだけど」
「うん……とにかく、ちょっと行ってくる」
「一緒に行ってあげるよ」
「うん、ありがと」

 叶多が立ちあがると、注がれていた視線も合わせて上がった。呼ばれた理由がなんであれ、せっかく消えかけていた噂がまたぶり返しそうな気配に、叶多はそっとため息を吐いた。
「先生も気を利かせてこっそり呼んでくれればいいのに。先生が若いと頭が固くないぶんだけ話が通じていいけど、こういうデリケートなとこに気が回らないって難点なんだよね」
「……でも、逆に噂を知らないからってこともあるかな」
 叶多は期待をこめたけれど、ユナは首をかしげた。
「その可能性、ほとんどないかも。初等部のうちはともかく高等部ってなると、先生って意外と知ってるくせに大事になるまで知らないふりしてることって多くない? 先生だって、細かいことにいちいち首を突っこんじゃったら面倒じゃない」
 ユナの云うことはもっともで、叶多はほかに思い当たることがないだけに不安になった。資料室に資料を取りにいってくれ、くらいの用事ならいいけれど、金元担当の歴史の授業は午前中に終わっている。
 廊下を進みながら、叶多はユナがついて来てくれてよかったと思った。昼休みは休み時間が長いだけに生徒たちも散らばって、すれ違う子は少ないなか、それでも視線を感じた。
 あたしって有名人? と勘違いしそうだけれど、普通に誰だって自分の前を人が通るときはつい顔を見てしまいがちだ。単純にそうあってほしいと思いながら叶多は職員室へ向かった。
 ドアをノックすると、真四角の覗き窓から金元がやって来るのが見え、叶多は一歩下がって待った。
 職員室のドアを閉め、金元は近くに誰もいないことを確認するように廊下を見渡した。
 ユナは職員室前の廊下から曲がった角に隠れていて、金元からは見えないはずだ。

「八掟」
「はい?」
「んー、訊き(にく)いんだが……」
 金元は困り果てたようにそこまで云って途切れさせた。それだけで叶多は用件が噂のことだと確信した。
「先生、どうぞ」
「八掟、その……男と不謹慎な付き合いをしてるという話を聞いたんだ。それは本当か?」
「え……っと……あたし、そんなことするように見えますか。全然お子様でモテないし……」
 不謹慎というのが金元の中でどの程度のものだろうかと思いつつ、陽の助言に従って叶多は努めてしらばくれた。躰中に冷や汗が滲む。嘘を吐くのは苦手だ。
「そうだよな……」
 ……って……納得してもらわないと困るけど。でもここで納得されるって……。
 叶多は複雑な気分で金元の結論を待った。
「そう思ってたんだが写真がなぁ――」
「写真?」
「八掟とその男ふたりで写っている写真が送られてきたんだ」
「……送られてきたってどこからですか?」
 叶多はかすかに蒼ざめて訊ねた。
「宛名不明だ。けど、写ってるのが八掟だというのははっきりしてる」
「……あたし……」
「八掟の場合、事情が事情だし……けどこのまま放っておいても、写真の出所が不明なだけにヘンな使い方をされたらまずいだろう」
 事情が事情とはつまり、戒斗が有名人であることを云っているのだろう。
 ヘンな使い方って……どうしよう、テレビとか週刊誌とか報道されたら……戒斗に迷惑かけちゃう。あたしが無理やり同棲を前倒ししたから……。
「両親は知ってるのか?」
「……はい」
 叶多が答えると金元は手に負えないとばかりに首を振って大きく息を吐いた。
「明日の放課後、ご両親そろって、もしくはどちらかに来てもらうことになる。僕から連絡しておくよ」
 金元が職員室の中に消えても叶多はしばらく呆然としていた。

「叶多、大丈夫?」
 ユナに声をかけられてはっと我に返った。
「……あんまり大丈夫じゃないかも……」
 叶多が泣きそうな顔で笑うと、ユナが励ましに背中を軽く二回叩いた。
「よく聞こえなかったけど、写真て?」
「わかんない。ただ戒斗とふたりのとこを撮られてるみたい」
「あちゃ」
 ユナは気難しい顔になって嘆息(たんそく)し、叶多の腕を引いて教室に戻ろうと促した。
「それで呼びだし?」
「うん、明日……」
 力なくため息を吐いたあと、ふと上げた視線の先に姿を捉えた。叶多と目が合ったとたん、さっと身を(ひるがえ)してすぐ横の階段を上っていった。
「ユナ、ちょっと先に帰ってて!」
「えっ、叶多?!」
 驚いたユナを尻目に上へと逃げた姿を追った。


「美咲ちゃん、待って!」
 踊り場を折り返して叶多はその名を叫んだ。二階まで勢いで駆けあがったあまり、呼び止めた美咲が応じて止まったことに気づかず、上りきると同時にぶつかりそうになった。
 一つ年下の美咲は背が高めで、叶多は見上げる立場にあり、そのうえ切れ長の目は大人っぽい印象を与えて、有吏館に集まるときはいつも叶多のほうが下に見られる。
 美咲は有吏リミテッドカンパニーの専務、矢取(やとり)主宰の次女で、年が近いこともあって仲良くしていた。それはつもりにすぎなかったのか、いま叶多に向けられる眼差しには、夏に会ったときにはなかった嫌悪に似た感情が見えている。

「どうして?」
「何が?」
 叶多の問いかけに美咲は(とぼ)けて、もしくはわざとそう思わせるような云い方で問い返した。
 さっき美咲を目にしたとたん、金元が云った写真の出所ははっきりした。けれど、なぜ、がわからない。
「このまえ、あたしにぶつかって行ったのは美咲ちゃんだよね?」
「だから何?」
「あたしの靴箱に……紙屑とか入れてるのも?」

 戒斗が叶多に話してくれと云った些細なことは、転んだ日からずっと続いていた。理由はわからなくてもそれくらいのことなら耐えられる。それよりずっとつらいことを知っているから。けれど、それが戒斗に及ぶというのなら状況は違ってくる。

「だから何?」
 美咲は同じ言葉を繰り返した。けれど、最初の(さげす)むような響きは消えて、二回目の声は震えていた。
「美咲ちゃん……」
「どうして叶多ちゃんなのか全然わからない」
 とうとつな言葉は意味がわからず、叶多はかすかに首をかしげて美咲を見つめた。
「え?」
「お姉ちゃんならしょうがないってあきらめてたのにどうして叶多ちゃんなの? 叶多ちゃんとあたしのどこが違うの?」
「……戒斗のこと?」
 そう気づいて、ためらいながら訊ねると、美咲は叶多をきっ(・・)と睨みつけた。
「あたしだって戒斗のことが大好き。叶多ちゃんよりずっと、ずっと、ずっとまえから! でもお姉ちゃんがいたから……。それなのに叶多ちゃんが勝手に割りこんできて邪魔して、お姉ちゃんからもあたしからも取りあげちゃったんだよ。自分だけうれしそうでいいよね?!」
 いきなり受けた告白に叶多は混乱した。

 こうなるずっとまえ、叶多と戒斗が会うのは、年に三回ある定例の親睦会と突然にある集まりのときだけという、一年のうちでは片手に足りるくらいだ。
 有吏リミテッドカンパニーという場所で繋がりのある矢取家の美咲が、叶多とは比べものにならないほど戒斗との時間があったことは知っている。
 叶多が戒斗を好きになったように、そこに好意が生まれてもおかしくない。戒斗であるからこそ、生まれないほうがおかしいのかもしれない。
 いまになって、美咲が戒斗のことを話すときにうれしそうにしていたことを思いだした。それは叶多と戒斗が近づくまえから。
 維哲は叶多で戒斗は変わったと云ったけれど、戒斗は変わってなんかいない。もともと戒斗の中にあった人格にすぎない。美咲がそれを証明している。
 戒斗には怖いというイメージしかなかった叶多は、いつも美咲の中のイメージとのギャップを不思議に思っていた。いまはわかりすぎるくらいわかる。
 でも……お姉ちゃんがいたから――って何?
 美咲は二回も似たことを云った。

「美咲ちゃん、お姉ちゃんって……どういうこと……?」
「それくらい自分で考えてよ。このまえのテストだって戒斗を頼ったんでしょ? ついでに戒斗に訊いたら? 自分でできるより、家庭教師してもらわなきゃいけないくらい頭悪いほうが得するってヘンだよね。叶多ちゃんみたいなの、泥棒猫って云うんだって」

 美咲はそう吐き捨て、くるりと後ろを向いて立ち去った。酷い言葉とは裏腹に美咲自身も傷ついたような声だった。

 あたし……犬じゃなくて猫だったんだ。
 叶多は馬鹿みたいにつぶやいて立ち尽くした。

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